113 :ナイ神父MK-2:2016/01/23(土) 00:52:35
日蘭世界 冷戦ゲート

日本と大日本帝国

中華動乱終結以降、アジア周辺では各国の動きが加速していた、ソ連では勢力的に半ば空白地と化した中国への
進行を企てる動きがあり、中国の臨時政府では戦力の不足とソ連進行を警戒してアメリカの駐留を求めた。
親中姿勢こそ改めたアメリカ政府であったが、ソ連の動きが活発な以上兵力は派遣せざるを得ず、結果的に
日本の駐留戦力が薄くなる結果となった。

この事に対する対応として日蘭側の日本とオランダ帝国に対して史実日本を交えて交渉を行い、日本との
国交を条件にこの件を受諾した。日蘭が駐留を開始すると日本では左翼系や共産党系の人間を中心にして
反対運動が行われデモなどが相次いだが、流石に中国での容赦の無さを見た大多数の人間は過激な行動に
移ることは無かったが、一部の過激化した勢力は基地に直接乗り込もうとして手前で警察に拘束されている。

軍事が駐留後は進入騒ぎ以外大きな変化が起っていないなか、経済や商業面では大きな変化が起きていた、
それは夢幻会主導によるメディア攻勢とでも言うべき物だった。軍駐留後ひそかに派遣した帝国情報局の工作員や
諜報員、表では三菱や倉崎を初めとした親夢幻会側の財閥が活動して史実側のメディア関係の企業の買収や、妨害
さらには日蘭側の番組を放映可能なTV局の作成などを積極的に進め、史実側のメディアにマイナス方面の
情報を流させない事を方針として経済的な大攻勢を掛けていた。

結果として1980年代前半中に一部メディアの株式の大多数の取得や、日蘭系の資本が入った新聞社が多数
設立されることとなる。また、その副産物として早くアニメブームや所謂クールジャパンに近い影響が出たが
それは大々的に成るのは時代が下ってからのことである。

一方で帝国陸軍と陸上自衛隊の間では困惑が広がっていた、自衛隊はあくまで日本軍を旧陸軍の延長線上で考えていたのだが、
蓋を開けてみればソ連もびっくりな火力信奉者達の巣窟であり、現役の戦車もソ連系の戦車に非常に近いものであった為である。
慌てて情報交換で行い、その際に資料として提出された旧陸軍の資料は今度は帝国を混乱させた。

「何でこんな旧式(史実チハ)なんか使ってたんだ?家の方だととっくに機種交代が終わってたんだが・・・」

「火砲が少なくないか?コレじゃ相手の野戦陣地を吹き飛ばせないし要塞にも苦戦するだろ」

「と言うか列車砲は如何した、一門も無いとか可笑しいだろ」

旧軍の資料を見た複数の軍人達からは大凡上記のような事が聞かれ、それに対して自衛隊は

「日露戦争でドーラレベルの列車砲4門とか馬鹿じゃねーの」

「WW2当時の主力がT-55クラスなんですがそれは」

「弾道弾とか早過ぎませんかねえ」

「要塞と打ち合いして要塞を上回る火力とかうらやましいなあ」

と言う日蘭の潤沢な物量と火力を羨むこととなる。

そして更に驚いたのは日蘭側との技術差であった、日蘭側では現在米ソが配備を始めた兵器に匹敵する兵器を既に量産
配備を完了させており、それも自衛隊員らの表情に影を落とすこととなるが、これは史実アメリカでも同じことであった
アメリカでも既に正式配備されたばかりのイージスシステムが既に習熟した技術であることや、コンピューター技術
航空機技術で大幅な遅れを取っておりその事がアメリカの軍人達を悩ませていくこととなる。

また、財界でも日蘭との技術問題は大きな問題となっていた、1960年代で既に環境問題に取り組み始めていた日蘭世界では
1970年代までに連盟内で環境基準などが設けられCO2削減や郊外の撲滅、フロンガス・排気ガスの削減が一部地域を除いて始っていた
その為、史実側の多くの自動車はOCUの環境基準を満たすことが出来ずに販売は難航し、さらに性能面やサービス面でも苦戦を
強いられた、逆に日蘭側の商品はアメリカ国内の市場に確実に食い込み始め政府が慌てて規制を開始するも、それまでに相当な
損失が発生していた。

その頃、アメリカでは中国のへの駐留で苦労していた、住民の中には先の敗戦はアメリカが参戦しなかったせいだとする声もあり
各地で反米運動が激化し、一部がテロリスト化して在中米軍に対してテロ攻撃を仕掛けていたこの攻撃に対して当然アメリカ
攻撃を行うも、現地住民の協力が得られない上、終わること無い対ゲリラ戦はアメリカ軍を消耗させていく。この中国の動きから、
その後のアメリカの基地はより大型化し、内部で完全に完結できる形に変化していくこととなる。

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最終更新:2018年01月09日 01:16