632 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:00:24

その物質は常に人々をひきつけてやまなかった。
原子番号79、原子記号Au。英雄も泣く物質と覚えることが通例…なのかもしれない(ソースは1名)。
安定性は非常に高く、さびることなく、延性・展性に優れており加工しやすく、そして何より美しい。
古来は紀元前からその価値は不変であり、いかなることがあろうとも色あせない美しさは、いつの世であろうとも
その価値を常に保ち続け、人類という種が歴史を刻む中で常にその中心近くに居続けた。
エルドラド、ジパング、賢者の石といった空想の存在はその物質に関連しており、その色は繁栄を意味し、
日本では山吹色とも例えられて、もてはやされていた。
そう、それこそが金という物質であった。



【ネタ】瑞州転移世界 3




幕府が瑞州開拓を長い期間続けることが出来たのは、3つの原動力があったとされる。
一つは着々と磨かれていった国内産業による利潤。
一つはフィリピンにおけるスペインとの貿易による利潤。
そして、ほぼ一定年度ごとに発生した瑞州における金の大量発見、ゴールドラッシュである。

金銀の流出に常に気を配っていた夢幻会と幕府の必死の努力もあり、国内からの流出は史実よりもかなりマシに
抑えられていた。それに、スペインからも銀乃至金という形で回収できていたのもかなり大きい。
だが、最も大きいのは史実同様に人力による採掘が限界に近付いていた佐渡金山や石見銀山に依存することなく
金を採掘できたことだろう。ここでは、開拓を陰から支えたゴールドラッシュや鉱山開発を中心に、瑞州開拓を振り返っていく。

まず、瑞州開拓開始から20年余りで発見された、瑞島町近くを流れる瑞島川(史実ガスコイン川)上流の鉱山。
ここが最初のゴールドラッシュの地となった。川の流れを利用して金を含む鉱石が運搬され、そのまま本土に運ばれていく。
そこから得られる利益は大きく、必然的に人が集まり、経済地帯が生まれ、消費地であり生産地となる。
如何に夢幻会の持つ知識と経験と技術があったとしても、その世界における通貨や元手が無ければ立ち行かないだろう。
そういう意味では、夢幻会と江戸幕府に対して注がれた、最上グレードの燃料が瑞州において得られる金であった。
最初に金が見つかったのが1623年。丁度、三代目の将軍である徳川家光が将軍職に就いた時であった。
本格的に採掘がはじまり、やがて鉱脈に突き当たったのが1625年の事。
この報告を受けた家光そして大御所になっていた秀忠は満天下に将軍職が移ったことをアピールするために利用すると決定。
家光は寛永3年7月に後水尾天皇の二条城行幸に合わせて上洛。瑞州にて得られた金を持参して、瑞州における新たな資源の
発見を報告し、このサンプルを献上した。曲がりなりにも金である。朝廷の心を動かすには十分すぎた。
朝廷はこの事実に驚きながらも、地道な探索を続けた幕府を称賛。瑞州の鉱山を天領とし幕府に開拓を
任せるという勅令を与えた。

この勅令は幕府に開拓を進める新たな根拠となり、また、この金が初期の開拓熱がひと段落しつつあった瑞州に新たな投資と
熱意をもたらすには十分な刺激であった。この頃には採掘技術の更新が進み、金の回収率の向上や効率化が進んでいた。
つまり、同じ量の鉱石から得られる金の量が増えたのだ。
あわせて、瑞州北西部の小津路(史実オンズロー)周辺において鉄鉱石の採掘が開始。河川を通じて鉄鉱石を運び出し、
同地域において製鉄が行われた。鉄を確保できるようになったことは無資源に近い日本にとってありがたいニュースだった。
これをきっかけに沿岸部沿いが中心だった開拓も、鉱山などを目当てに内陸へと向かう動きが加速。これまで敬遠されていた
内陸への開拓もさらに熱が入り始めた。

633 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:01:35

ここに関連して、瑞州の農業について少々補足する。
内陸は肥沃とは言えない大地が広がっていたのだが、放牧の実施や豆類の植え付けによって徐々に地力が出来上がり、
瑞州が日本に近い温暖湿潤気候となったことも影響していた。これは黒潮が本来よりも北上して北に抜けていくように
なったことが原因と推測される。他の地域も概ねイギリスのような西岸海洋性気候や温帯夏雨気候、所によっては地中海
性気候となったことが、開拓の難易度を大きく下げたと言えるだろう。

『瑞州墾田税労書引換諸法』というのもこれを後押しした。これは、開墾した畑や田が稲作などが安定して行えるように
なるまで税を免除ないし減税し、代わりに幕府指定の労働作業に従事するか、農産物や特産品の生産を行って税として
納めることを認める物であった。労書とは、瑞州開拓者に発行された証明書のことを指し労書引換法とも呼ばれた。
最長で10年余りの免税(※1)というのは定住の土地がなくあぶれていた農民などに(※2)とっても魅力的であり、
一時期は瑞州への移住を制限せざるを得ない事態に襲われるほどであった。移民者を減らすため緊急に免税や減税などを
せざるをえず、当時の幕閣や夢幻会のメンバーがかなり骨を折ったことが記録に残されている。

このような制度を設けられた理由としては、オーストラリアという乾燥し、栄養が乏しい大地に主食となる水稲をいきなり
植えてもなかなか育ちにくく、最低でも3年長ければ5年は自力が出来上がるまで辛抱強く待たねばならないという、厄介な
事情が存在した。それでも開拓が進んだのは、夢幻会がプランターによる食物植物の栽培や土に依存しない農法を広めていて
日本本土から木や土を焼いて作った巨大な容器で育てていたことが、飢饉の発生を抑える大きな原動力となっていた。
また、効力を発揮するのはかなり後のことになるのだが、米や麦などの品種改良が進められて、やせた土地でも味はともかく
量が取れる品種が生まれ始めていた。

他方で、大名らへの経済対策や恩賞としての権限などとしてはこれ以上にないカードとなり、幕府にとってもなかなかに
便利な手段となったのは言うまでもない。瑞州の産物の多くが幕府や幕府出資の企業を日本本土全体に通じていくため、
中間マージンだけでも幕府の収入はどんどん増える。そのおこぼれは諸藩にも及んでおり、夢幻会が推し進める国内開発も
手伝って、かなりの利益を生んでいた。

幕府は瑞州への移住者は必ず指定の港から出発し、初島湾で下船、瑞島町で処々の手続きをとることを命じて、違反者には
厳しい処罰を以て対処した。密航者も少なからずいたのだが、労書がもらえるのは瑞島町のみであり、土地を開いても
容赦なく税を搾られるという事態に陥るため、密航はかなり少ないままであった。
特にゴールドラッシュの続いた1700年代には西日本からも増えたのだが、幕府がイイ笑顔で労書による免除がないことを
理由として労書のある人間よりも比較的重い税を搾り取っていき、相応にひどい目に遭ったようである。
まあ、自業自得であろう。

634 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:02:16

さて、北西部から南西部へと目を向けてみよう。
瑞鳥ヶ浜町(みずどりがはまちょう、史実パース)周辺では、牧畜などから始まった土地の改良がようやく終了を迎えつつあり、
植林や耕作が積極的に行われ始めていた。燃料ともなる栗・松・ブナなどが中心となり、同時に隔離家屋内でのキノコ
栽培なども本土に比べて土地があることからより大規模に建造され、いくつもの企業が成立していった。
初島湾に次ぐ拠点の一つとして発展が続いており、沿岸部沿いに進む開拓は陸路を通じて史実のボールド岬のあたりに
まで進行。また、スペインから得られた大型船舶が寄港しやすいようにと海岸線の整備も進められ、埋め立てによって
港の増設も始まっていた。

ここで、南千里浜と瑞鳥浜町の立地を振り返ろう。南千里浜町は初島湾から沿岸沿いに下ったところにあり、当時の航海
技術的に言えば丁度休む地点となりうる場所だった。またその気になれば小笠原諸島を経由して本土に戻ったり、黒潮の
流れに乗って初島湾周辺へと戻ることも可能な極めて便利な地点だった。
また、植生があり船の材料となる木が植えられて、木材の一大生産地にして造船の基地としても有料である。
当時瑞州において船舶は漁船レベルであれ大型船舶であれ貴重であり、初島湾や瑞島町周辺にしか大型船の建造可能な
土地はなかったのだ。幕府にとっては統治政策を制定するには何かと都合がよかったし、犯罪者が瑞州に逃れようとしても、
あるいは瑞州から逃れようとしても、出入り口を制限しているため見つけやすかった。

そして、夢幻会が必死に探していたそれもまた1629年に発見された。
赤灰色のやや柔らかい鉱石。厳密に言えば鉱石ではなく、ギブス石・ベーム石・ダイアスポアなどの水酸化アルミニウムの
混合体。即ちボーキサイトである。しかし、その粉塵の危険性や精製までには電気の力が必須であることから、幕府は
『砕くと危険な石』として一か所に集めることを命じた。『危険であるから』と持って来た人間にはそれなりに報奨を与えて、
うまく人を釣ることも忘れていない。幕府の命令ということもあり、このボーキサイトは大量に集められて、幕府の
直轄地へと集められた。将来、航空機などに重宝される物質であり、アルミニウムの原料となり工業製品には欠かせない
貴重な金属であるとは、当時は夢幻会と幕府上層しか知らないことだった。
言わば、300年以上先を見越した贈り物というわけだった。
勿論、少量の精製には実験室レベルでは成功していた。が、あまりにも効率が悪く装飾品の一部に使われる程度でしかなかった。
これ以外にも史実ドンガラ南部で得られたチタンもボーキサイト同様に回収されていった。

また、幕府が90%以上の株を保有する企業は西部で得られる原油・天然ガスの一括管理を行っていた。
たしかに原油というのは重要な資源であるが、まだ江戸時代においては一般化しているものではなかった。
精製設備は徐々に増えているし、その技術蓄積も始まっているが、一般的には火をつけるにはマッチや火打石であるし、
ガソリン車やガス調理器などまだ存在しない。ありえいて言えば無用の長物である。
まだそれらは軍事的な目的、つまりナパームだとか焼夷弾だとかダイナマイトであるとか、はたまた鉱山における発破や
建物の爆破解体・工事などに使われる程度であった。もちろん夢幻会も知識と資源を動員していたのだが、やはり関連技術の
蓄積を待たなければならず、また開拓がいまだに続行中で、産業革命に必須となる蒸気機関の方へと注力していた。

635 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:03:09

そして1640年代に、新たな金鉱脈の発見が世間をにぎわせた。
内陸へと進出し、めぼしい資源がないかと探していた探索団が史実におけるクルガーディ周辺において金鉱脈を発見。
連鎖的に南都星町(史実サザンクロス)などでも鉄鉱石の鉱脈が見つかり、さらにニッケル・コバルト・金といった
資源が発見された。後の、南千里浜ゴールドラッシュの始まりであった。この鉱山開発においてはついでに大きな石炭の
鉱脈が発見され、その価値を知る夢幻会を歓喜させた。これまで九州や東北・北海道(当時は蝦夷地域)の炭田に頼って
いたのだが、それをはるかに上回る量が眠っている。しかも誰も手を付けていないので、幕府のものとするのも容易かった。

これを機に夢幻会は蒸気機関開発を加速させるとともに、石炭の輸送路の構築を急いだ。
記録によればこの頃すでに実験室レベルでの蒸気機関は完成しており、簡易ながら蒸気機関を搭載した実験車両が
時の将軍家光の前で実演された。機能を分かりやすく伝えるためか、蒸気によるピストン運動を車輪の回転へと変化させる
蒸気機関車両であった。残念ながら現存するのは一部分のみであるが、極めて精密な設計図が保管されており、再現された
ものは数馬力程度でワットの作り上げた物同様に事故の危険性が高かったが、それでも間違いなく蒸気機関を利用した
もので間違いはなかった。派手なことが好きな家光はこれに大いに喜び、江戸の街へこれに乗り込んで繰り出そうと
する始末であった。この発明は朝廷にも報告されて実演され、日ノ本を支える蒸気の力への関心がにわかに高まった。
しかしながら、これの完成と技術の完熟は夢幻会の知識を以てもなかなかに難しく、完成し実用化したのは1730年に
までかかった。だが、それはある意味幸運であった。それは18世紀前半においてさらなる鉄鉱山の発見が相次いで、蒸気
機関車の開発に必須となる鉄や銅などの金属が十分に賄えるようになるためだった。

また、この頃には長距離航海に適した竜骨を持つ大型船舶が普及していた。外洋航海技術は一般化しつつあり、
安宅丸のような和洋折衷の船が増えつつあり、幕府は正式に幕府水軍を編成。ガレオン船から発展させた戦列艦を主力に、
スループやコルベットといった船が整備された他にも、瑞州・本土・比州・蝦夷を結ぶ通報艦の整備を推し進めた。
いずれ起こりうる海外との接触を見越した戦力の編制。特に瑞州・比州、そして蝦夷(北海道)のさらに北、樺太への
資源獲得のための進出を目論む夢幻会としても、海上戦力は必須であった。
並行して水軍の下部組織としての海上取締方(通称海守方)が成立し、海上の治安維持の体制が編成されていった。(※3)

636 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:03:53

1700年代初頭、丁度開拓開始から100年が過ぎるころには、北は北瑞州湾(史実カーペンタリア湾)へ到達。
南の開拓は南瑞州平原(史実ナラボー平原)と南瑞州湾(史実グレートビクトリア湾)を通り抜けて、史実でいうところの
スペンサー湾についに到達していた。どちらも天然の良港でしかも東京湾(当時は江戸湾)に負けるとも劣らない巨大な港は、
航路開拓の大きな起点となる場所であり、同時に物資の輸送にも欠かせない地域となった。また、スペンサー湾周辺は
これまで瑞州の多くを占めていた水が多くありながらも荒廃した土地ではなく、かなりの植物がみられる地域だった。
即ち、態々植物の持ち込みや土地の地力づくりをせずとも開拓と農耕に取り組めるということであり、周辺にある巨大な湖を
水源として活用できるという非常に得難い気候と立地であったのだ。
また鉄鉱石のある鉱山があり、採掘に最適な街の開発や船舶による輸送経路もすさまじい勢いで構築された。
既にこの頃には開拓のスピードもかなり向上しており、また必要な物資の補給体制も組織的な完熟度が向上していた。
とはいえ、幕府が100年も続けば制度的な疲弊が目立つ頃であり、夢幻会も幕府の疲弊を癒す何かを欲していた。
瑞州から得られる利益は安定しているが、悪く言えばマンネリ化する。惰性の開拓と投資が淀んでいくことでより多くが
失われると警戒していたのだ。

そして、その祈りが通じたのか、現地の夢幻会メンバーの努力が実ったのか、1710年。
ついに南部方面を担当する開拓団は史実においてビクトリアと呼称されていた地域へと足を踏み入れた。
恵吉町(めよしちょう 史実におけるメルボルン)に上陸した開拓団はさっそく町の設営を開始。植生があり、尚且つ
水源にも恵まれた地域であることを喜びながらも、開拓団は資源の探索も開始した。
実はこの時、夢幻会のメンバーが開拓団に同行しており、本命である金鉱脈の探索を開始していた。
周辺地域を水稲の栽培地として開拓しつつも、念を入れて探し始める事6年余り。史実におけるゴールドラッシュの地
バララット、そしてベンディゴ、ルイス・ポンズ・クリーク、クルーンズなどで次々に鉱脈や砂金が発見。これが幕府へと
知らされて、再びのゴールドラッシュとなった。

当時のスペインの、そしてイギリス・オランダなどの記録によれば、すでに瑞州が日本の心臓にも等しい巨大な
大陸であると認識が広まっていた。当時インド支配を進めていたイギリス及びオランダは、瑞州における渡瑞学などに
驚きつつも、灌漑技術・気候に合わせたプランテーション・日本で普及している生活用品・大型の工作機械などを
フィリピン経由で少しずつ取り寄せはじめていた。黄色人種ということで何らかの諍いはあったようであるが、記録に
よれば日英はビジネスライクな繋がりがメインであり、比州自治政府(フィリピンの日本名および統治機関)との間で
フィリピンが日本領に属することや交易における規定などを定めた覚書を交わす程度で、目立った国交はなかったようである。
ここには東南アジア権益をめぐる日英蘭の思惑も絡んでいたのだが、ここでは若干話題が外れるために省略する。

637 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:04:27

1730年代。いよいよ瑞州大陸を制覇するのが目前となっていた。南回りのルートでは新江戸(史実シドニー)と
新霞町(しんかすみちょう 史実ニューカスール)にまで到達。プリズベンまでもう一足というところにまで迫っていた。
北回りルートは、少しつっかえていた。というのも、北部は夏と冬において沖合を流れる海流の勢力が若干異なり、
冬には親潮の影響もあって冷え込みが激しかったのだ。瑞州西部に近づくほど雪は多くなり、東部では雪などが少ない
代わりに降雨がないため酷く乾燥しながら冷えるという非常に厄介な気候であった。
これによってかなり開拓時に足かせとなっただめだった。河川をたどりながらの細々とした開拓は、やはり気象観測などが
終了し、開拓する準備が整うまでは延期というのが、当事者たちの意見だった。
だが、緩やかな開拓は北部に点在する鉱山の発見や南部に比べて豊富な天然の良港の開発につながり、スペインの
ガレオン貿易のように北太平洋海流に乗って一気に東部へと進出する航路の開拓にも成功した。
ついでに言えばだが、瑞州北部から北東部にかけて点在する鉱山から多くの金属、特に金が採掘されて長期間にわたる
息の長いゴールドラッシュが起こり、北回りルートの開拓や移民を決して途絶えさせなかったことをここに記しておく。

また、史実メルボルンを発した探索隊はすでにタスマニア諸島やニュージーランドの南島に到達し手既に入植を開始していた。
タスマニア諸島は南須賀諸島、ニュージーランドは新水島と命名されてさっそく入植がはじまっていた。
とくに南須賀諸島には有袋類が多く生息しており、史実においては乱獲で全滅した生物も多くいた。
動物愛好の夢幻会メンバーらが幕府や朝廷に働きかけて直轄地として渡航や狩猟の制限を設けると、さっそく
生態調査に乗り出していった。

1740年代に新水島からかなりの金が発見され、金が豊富な島という意味合いから「新金州(にいがねしゅう)」と
呼称され、他の島々とは一線を画した扱いを受けることになった。特に新江戸と新霞町を中心に、史実におけるグレート
デバイディング山脈、日本名として大東瑞山脈(だいとうずいさんみゃく)の鉱山開発が始まって、それまで西部の鉱山が
メインだったものが大きく東へと採掘の場を広げたころで、同時に瑞州において日本人の人口がかなり増えていたこともあって
労働力にはほとんど困らなかった。さらに南瑞州平原や葉月湾町(史実ポートオーガスタ)、鮮華町(せんかちょう、
史実で言えばアデレート)といった地帯で安定して生育する水稲・麦・豆類の品種改良が進んで、本土から遠いところでも
自前で食料を確保できる事が容易となっていたことで、西側に依存することなく開発が進んでいたことも後押ししていた。

638 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:05:31

そして最大の後押しは、1732年に建造された蒸気船『開闢丸』がついに就役したことだった。
1719年から海洋船舶に搭載されて実験が繰り返されていた蒸気機関を搭載した蒸気外輪フリゲートであったこれは、
船員の数こそ少なめながらも、安定した速力を有していた。1740年代には順調にその数を増やし、通報艦のほかにも輸送船
にも蒸気船が増え始めていた。これは輸送の時間の短縮と転向などをある程度無視できるスムーズな航路の維持を可能とした。
ロバート・フルトンがクラーモント号によってハドソン川を航行する60年以上も前倒しした偉業であった。
ほどなくスクリューによる推進を行う船舶の建造も開始され、
当時の江戸幕府将軍 徳川家重もこの船舶に大いに驚きながらも、新たな時代が迫っていることを確信し、より一層の
研究と開発を命じた。ほどなく幕府の将軍御座船として『扶桑丸』『瑞州丸』が建造され、本土と瑞州に配備。
将軍の諸国遊説や開拓地の見学時に活用された。
夢幻会はこれに決して満足することなく、蒸気機関の改良と蒸気タービン開発に向けて研究を加速させていった。

こうして新金州の開拓と、それに伴うゴールドラッシュの発生を以て日本は瑞州大陸の全てを踏破した。
細々とした開拓や内陸への進出、さらに南洋諸島への進出などはこの後も続いたのだが、一般には1748年の新鱒町
(史実におけるニュープリマス)到達が1607年に始まった『瑞州大開拓時代』の一つの区切りと認識されている。
そう、1750年代には日本は新たな転換期を迎えるのであった。
瑞州と新金州の転移により、本来ははるか遠くの島でしかなかった一つの島が、日本の領土の目と鼻の先の存在になったのだから。
とはいえ、その事実は夢幻会のメンバーの間でさえも『憶測』の段階に過ぎなかった。
夢幻会が開拓用の地図の作成において、日本列島の横にオーストラリアを置き、さらにニュージーランドを置いたものを
作った際に、あまりにもその存在を知っていることが不自然すぎるため書き加えずにいた太平洋の小島。
ハワイ島であった。

※1
仕事量やその難しさなどを考えれば、穀物などを税として納めるのとほぼ同じか、それ以上の労力がかかった。
ただし、日当はある程度支払われ、治療なども格安で受けられることから常に一定の労働者が見込めた。

※2
1603年以降、夢幻会は全国各地に農業技術の指導員を派遣し、本来ならばまだ登場していない備中鍬・唐箕・千歯こき・
クロスボウ・フォーク農法・二毛作・キノコ栽培・郵便制度の導入などなど、耕作や狩猟の効率化を推し進めた。
反面、少ない人数でも多くの農作物が管理できるようになったため人が余り始めた。また戦争による人口減が無くなったために、
そこへ投じられていた労働力や生産力を振り向ける先を用意する必要もあった。

※3
後の海上保安庁である。
漁船なども大型船が増えつつあり、救命胴衣や木製の浮き輪、所属や現在の状況を表す信号旗の導入・普及にも努めており、
密漁船や密輸船などの摘発に力を入れていた。

639 :弥次郎@帰省中:2016/02/22(月) 13:06:45

以上となります、wiki転載はご自由にどうぞ。

はい、というわけで駆け足でハワイ発見まで進めました。
簡潔にまとめるべく調べれば調べるほど、書くべき内容が増えていってまとまらなくなるという悪循環。
この後端折った部分を補完していくだけの簡単なお仕事が始まります(白目)

アボリジニ関連は、本土の状況と合わせることにしました。
まあ、本土の状況に関しても書くこと多いので分離しないと長くなりすぎそうですけど……
フィリピンこと比州を中心とした東南アジアの情勢についても考えないといけませんし、史実との違いもはっきりさせて
整合性が取れるようにしないといけませんから、なかなか大変です。

瑞州転移ネタでもっとも苦労するのは地名を漢字に当てはめることです。
史実の名前をそのまま漢字っぽくするか、開拓時のエピソードを考えながら、あるいは史実の地名からダジャレ気味に
名づけたりと、四苦八苦しております。あとはアボリジニの言葉を参考にしているんですが、何分複数ある上に
参考になるサイトを一つ一つ調べるだけでも骨が折れます……
史実におけるオーストラリアの地名って、何となく日本語っぽい地名が多いんですよね。
オーストラリア北部にナカラって地名がありますが、まんま長良では?と疑ってみたり。
重要な都市は史実の名前からあんまり名称を変えないか、あるいは連想しやすいように命名されています。
これは夢幻会がスムーズに史実の情報を思い出せるようにとの配慮です。

『瑞州墾田税労書引換諸法』についてですが、これも夢幻会の発案です。
ちゃんと役所なり代官所に開拓した土地を届け出て、視察を受けて測量して、認定してもらえば税を暫く免除という法令ですね。
開拓された畑の面積と予測される石高や生産高を記録、税収に反映させます。
あと、農業経験者の方に質問しまして、水稲はその良し悪しが地力でほぼ決まるため、いきなり田を作ってもダメと
アドバイスをもらいました。豆とか芋類などを植えて、肥料をまいて漉き込んで、最低でも3年、長ければ5年以上かけて
土地を肥えさせる必要があるとか。で、そのためにも江戸時代に日本に入って来たウマゴヤシなどが使えそうです。
そのほかにもカブ、燕麦、ハト麦、ライ麦、大豆、クローバーなどが有効だそうです。稗や粟も検討リスト入りですな。
何が言いたいかと言いますと、かなり息の長い開拓が必須なわけですね。だから、最初は税を免除。
免除してやっている分、人を雇っても賃金は安くしても文句は出ない。安い労働力でインフラ整備が進む。
労働がいやなら、若干税率は高いけれども畑を耕して払う。幕府にとっても開拓者にとってもいいことづくめなわけです。
ここで急いでは開拓が躓きますし、初期投資と割り切るしかありませんな。

あとは軍備、特に火器の改良などもしないといけませんねぇ…
資源があるとはいえ自力でライフリングを刻んだライフルなどを作れるかどうかとか、雷管などを作れるかですね。
瑞州は日本ほど湿潤ではない地域があるのでフリントロックが普及できそうですし、自転車の開発もいけるかもしれませんな。
チタンが取れるので、ドリルとかの作成も進むのではと期待してます。工業品のマザーマシン作りにこういった金属は
必須ですからねぇ。瑞州転移世界の瑞州でゴムが生産できるかは不明なんですが、比州(フィリピン)方面からゴムが
輸入できますので、馬や牛で牽引可能なゴムタイヤ付きの野戦砲の開発が可能となりますし、リヤカーなども作れる
可能性があります。瑞州は陸軍も海軍も必須となりそうですしねー……
うわぁ、また検討&執筆する内容が増えましたよ(白目)

では、またあとがき長くなりましたがこれにて終わりです。では次話をお楽しみに。

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最終更新:2016年02月23日 05:14