836 :ひゅうが:2014/09/05(金) 22:39:57



――九州飛行機・空技 48年式高高度局地戦闘機 / 練習機(T-0)「震電 21型(震電改)」

全長:10.11メートル
全幅:11.58メートル
全高:3.55メートル
空虚重量:3580kg
エンジン:アリソンJ33‐A‐30遠心式ターボジェットエンジン1基
出力:24.0kN

最大速度:984km/h(高度9000m)
航続距離:1800km

武装:5式30ミリ機関砲4門
   ロケット弾12発(最大16発)


【解説】――国防空軍の黎明期に開発されたジェット戦闘機。
日本再軍備の一環として国産練習機の開発がGHQにより許可されたことを受け、元海軍空技廠や九州飛行機の設計者たちが再集結し、図面が残存しており治具も放置状態であった18試局地戦闘機をもとにして開発が行われた。
設計者は大戦後半の名機紫電改を世に送り出した元川西飛行機の倉崎重蔵と空技廠の鶴野正敬。
当時実用化されたばかりであったアメリカ陸軍のP‐80シューティングスター用に持ち込まれていたJ-33ジェットエンジンの採用を当初から前提として機体設計が進行。
1948年に国防軍の設立が許可された段階で図面がGHQに持ち込まれることになった。
あとはエンジンを取り付けるだけという段階まで完成したところで知らされた当局者は驚倒したものの、あくまで「練習機」との主張が上層部に通ったことによって国防軍初期の貴重なジェット戦闘機として朝鮮戦争期までを過ごすことになる。
本機の完成により、当初はレシプロ戦闘機の供与にとどまっていた国防空軍の戦闘機装備計画は本格的なジェット戦闘機の導入計画に発展。
初期の主力を担うF-86‐J「セイバー」の大量供与へと至るのである。

朝鮮戦争中には首都周辺において細々と生産された30機あまりが配備されているのみであったが、1951年初頭の北海道核攻撃のショックから日本海沿岸や北海道にそれまで生産されていた57機全機が配備され、米軍のF-86と日の丸のついたジェット機がならんで飛ぶという珍しい光景が出現した。
朝鮮戦争後には、F-86導入計画にしたがって戦闘機型の生産は中止。
それまで生産されていた機体とあわせ、高等練習機としての使用が行われることとなる。
機体完成が中等練習機として採用されたばかりのT-1「初鷹」の前であるために、T-0の番号が振られ、「レイ」の愛称で長きにわたって空軍の屋台骨を支えた。


14 :ひゅうが:2014/09/06(土) 22:06:32
【補足】

前スレで震電ネタを投下したときに書き忘れていましたが、アレは史実のT-33の代替機のひとつであります。
日本の再軍備が早まっているため、T-33は当時できたてホヤホヤの新型機。
まだ米本土でも数が揃っておらずに供与可能かどうかは微妙なところでした。
当初は供与予定のP-80シューティングスター用の高等練習機として計画が始動したのですが、主に元倉崎閥の皆さんのおかげでごらんのありあさまに。
20年以上早いT-2とF-1の関係といった方が分かりやすいかもしれませんね。
そのため、日本の再軍備に関して積極的であった米国防省の方針もあって日米共同開発という名目での旧日本軍機設計陣の集結が実施できたというわけで。

しかしできあがった機体は、エンジンという日本機のボトルネックが解消されたうえに洗練された設計のためP-80よりも微妙に性能がいいものが出来上がってしまいました。
あわてた米軍は、F-86などの新型機の供与の検討に入り、朝鮮戦争後に本格的な機体供与へと至ります。
まぁ日本の戦闘機産業が米国の武器市場の脅威になる前に真似できない高性能機を送り込んでやろうという目論見ですが、戦後夢幻会的にはそれで十分だったということで。

15 :名無しさん:2014/09/06(土) 22:33:58
高性能機を送り込んだら、日米共同開発という名目での魔改造されて

在日米軍「なんで、日本向けモデルが俺らに配備されないんだよ」

と、在日米軍から本国へクレームが……
まで、読めましたが

16 :名無しさん:2014/09/06(土) 22:37:33
》15
ち、地域に合わせたカスタムだから(目を揺らしながら
19 :ひゅうが:2014/09/06(土) 22:43:05
15
だから生産は当初は「米軍の域外調達」なのです。
厚木基地などでは星のマークをつけた震電が飛んでいるなんてことも。
その後は20世紀末まで、各地の基地で飛んでいる姿が見られることでしょう。

20 :ひゅうが:2014/09/06(土) 22:54:50
》18
ジェット機とレシプロ機の特性は大きく違いますので、それ相応の練習機が必要となります。
史実空自ではこれをP-80シューティングスターを改設計したT-33でまかなっていました。
しかし、1948年から再軍備を開始した時期にあってジェット練習機というべきものは、少なくとも日本へ供与可能なものは存在していません。
さらには当時予想されるべき朝鮮戦争から1960年代にかけて、日本本土における邀撃を実施するには主としてF-86が用いられますが供与機数が現状に比して少数という問題があります。
ですので、いざというときには邀撃戦闘任務にも投入可能な練習機をなるべく少ない労力で整備したいというのが当時の空軍当局の本音であったと考えてみました。
史実に於いてはT-33のライセンス生産により高等練習機の需要がT-4の登場まで満たされていましたが、今回はエンジンのみノックダウン――のちにはライセンス生産という形をとらせていただいています。

T-2とF-1の関係というのは練習機と戦闘機という関係の例であります。
説明になっていれば幸いです。
最終更新:2016年02月25日 19:29