651 :名無しさん:2015/09/18(金) 22:45:11
※日蘭蜜月世界支援ネタSS ・ ソ連崩壊

 ソ連崩壊(ソれんほうかい、露:Распад СССР)とは、
 1961年のスターリン批判直後に発生したソ連九月クーデター未遂と
 その後のソヴィエト内戦の発生によって、ソヴィエト連邦が実質的に崩壊した出来事である。


  • 前史

 ロシア革命の後、発生した内戦や諸外国の干渉戦争を耐え抜き、
 旧ロシア帝国領のうち、レナ川以西をもって発足したソヴィエト連邦であったが、
 レナ川以東に存続したロシア帝国が領域内に存在した資産の多くを脱出させていたため、
 その国家運営は慢性的な財源不足との戦いとなった。

 そんな中、指導者の立場となったヨシフ=スターリンは苦肉の策として、
 アメリカ合衆国資本のソヴィエト連邦内への投下を容認。
 その資本投下を受けることで、ソヴィエト連邦は国家崩壊の危機を脱することになる。
 このスターリンの決定は、共産主義と相成れないはずの自由資本主義の支援を受けるという事実から
 当時から批判に晒されていたものの、スターリンの断固たる決意により履行された背景があった。
 少なくともこの決定により、ソヴィエト連邦の国内事情は大きく改善され、
 未曾有の餓死者が発生する事態を防げたという資料が残っている。
 なお、この共産主義を第一に掲げながらも発生した問題を現実主義的側面から補強するという統治方法は、
 スターリンに準えてスターニズムとも呼ばれ、1943年にスターリンが急死して以降も、
 ソヴィエト連邦を存続させる上で必要な体制として選択され続けた。


  • フルシチョフの台頭

 第二次世界大戦勃発より二年後の1943年、最高指導者であったヨシフ=スターリンが急死する。
 執務中に身体の不調を訴え、直後に失神。そのまま病死(※1)するという急転直下の出来事であった。
 これにより、ソヴィエト連邦上層部は一時的に混乱を来たしたものの、
 直ちに側近であったゲオルギー=マレンコフを最高指導者とするマレンコフ体制に移行。
 そのまま戦争を続行することとなった。

 しかし、その直後からロシア帝国及びドイツ帝国、そしてオスマン=トルコ帝国とペルシャ帝国などの
 大洋連合(以下、OCUと呼称)諸国との三正面戦争を強いられたソヴィエト連邦は、
 各戦線で敗北に次ぐ敗北を重ねていった。
 特に白軍の至宝と称されたミハイル=トハチェフスキー率いるロシア帝国軍の進撃は破竹の勢いであり、
 1944年7月の時点でソヴィエト連邦はウラル以東の領域を完全に失陥していた。

 こうした情勢に業を煮やしたニキータ=フルシチョフ率いるフルシチョフ派がマレンコフを弾劾を実行。
 マレンコフを失脚させると共に、彼がスターリンから引き継いでいた選抜徴兵体制にも手を加え、
 絶対国防圏の形成を主張して、老若男女を問わない根こそぎ動員を敢行した。
 これにより、ソヴィエト連邦は各戦線でOCU諸国の軍を押し留めることに成功し、
 ついには単独講和を漕ぎ着けるに至った。
 以降、ソヴィエト連邦は根こそぎ動員による弊害と混乱に苛まれながらも、
 亡きスターリンが築いたスターニズム路線を維持することで辛うじて存続していくことになる。

652 :名無しさん:2015/09/18(金) 22:46:25
  • スターリン批判

 しかし、そうしたスターニズム路線の維持に不満を募らせる人間が存在した。
 それは時のソヴィエト連邦最高指導者であったニキータ=フルシチョフ、その人であった。
 共産主義思想に忠実であった彼は、やむを得ぬ事情とはいえ、
 忌むべき自由資本主義の支援の下に成り立っていたスターニズム路線に懐疑的だったのだ。
 加えて、スターニズム路線の維持により、スターリンが神格化されつつあったことも問題視していた。

 そして、1961年8月末日。
 戦後長らく続いていた国内の混乱がある程度収まったと判断したフルシチョフは、
 共産主義の原点に立ち返るべく、スターニズム路線の放棄を決定。
 自由資本主義に魂を売り渡し、共産主義思想を歪めたとスターリンを批判する演説を行うことで
 共産主義本来の理想を取り戻そうと試みた。
 だが、これが激烈な反応をソヴィエト連邦国内に齎すことになってしまう。


  • ソ連九月クーデター未遂

 フルシチョフのスターリン批判とスターニズム路線の放棄に対し、
 真っ先に激発したのはソヴィエト労農赤軍、それも親衛部隊たる第98親衛空挺師団であった。
 モスクワ軍管区はムーロムに所在した彼らは、9月2日未明に完全武装にてモスクワへ進発。
 空挺降下によって、モスクワに存在する政府関係施設の過半を制圧した。
 彼らの要求は、わずかに二つ。スターリン批判の撤回とスターニズム路線の継承であった。

 こうした第98親衛空挺師団の動きに、モスクワ周辺の親衛部隊が相次いで同調し、合流。
 翌9月3日にはモスクワは完全な戒厳令下に置かれた。
 しかしながら親衛部隊が同調した一方、一般部隊の同調はほとんど見られず、
 彼らは辛くもモスクワを脱出できていたソヴィエト政府要人の指揮の下、モスクワを逆包囲を試みた。
 親衛部隊と一般部隊の睨み合いは一週間ほど続き、あわや市街戦かと思われたところで
 モスクワ市民を巻き込むことを厭った親衛部隊側の司令官が降伏を決定。
 クーデターは未遂のまま、潰えることになる。

 本来、政府に最も忠実でなければならないはずの親衛部隊であるが、
 彼らの大半は第二次世界大戦緒戦から戦い抜いてきた歴戦の部隊であり、
 特にスターリンと苦楽を共にしていたものが多かった。
 またスターリン体制、それを引き継いだマレンコフ体制下における労農赤軍は
 工業力の崩壊を嫌って、頑なに選抜徴兵制の維持が成されていたことから
 練度と規律が一定に保たれており、アメリカ合衆国による支援もあったことから装備も一応は充足していた。
 しかし、フルシチョフ体制に切り替わって以降は根こそぎ動員によって、頼みの綱であった練度と規律が崩壊。
 熟練工も軒並み徴兵されたことで、懸念されていた工業力の崩壊までもが起こっていた。
 そして、それによって引き起こされた大戦末期の労農赤軍の大小様々な失態は、
 戦後にフルシチョフの手によって軍縮の理由付けとされ、
 労農赤軍、中でも負担の皺寄せが向かった親衛部隊の不満として蓄積されていたのだ。

 それでもスターリンの薫陶を受けていた彼らは、
 現実主義的なスターニズムの堅守さえ行われていれば
 やがてかつての精鋭たる労農赤軍の姿を取り戻せるであろう、と我慢を続けていた。
 そこへ精神的支えであったスターリンに対する批判が繰り出され、
 挙句にスターニズム路線の放棄が決められたことでついに暴発した、という見方が現在の主流である。

654 :名無しさん:2015/09/18(金) 22:47:02
  • スターリン手記の漏洩とソヴィエト内戦勃発

 第98親衛空挺師団を中心とした九月クーデターは未遂に終わり、
 フルシチョフ体制は再び万全なものになると誰もが考えていた。
 しかし、そこで最後の爆弾が炸裂することになる。
 それは隠匿されていたスターリン手記の漏洩であった。

 このスターリン手記は原本がその後の内戦で行方不明となったため、
 現在でもどういったものであったかは完全に明らかとなっていない。
 されど、九月クーデター未遂直後のソヴィエト連邦で流布された手記の情報のうち、
 問題となったであろう部分の情報を統合すると、
 1943年の時点でスターリンはソヴィエト連邦と共産主義の敗北を認め、
 OCU側に降伏することでソヴィエト人民の保全を計ろうとしていた。
 スターニズムを打ち出したスターリン自身、理想と現実のギャップに苦しんでおり、
 これ以上悪戯にソヴィエト人民を叶わぬ理想と終わらぬ戦争に
 殉じさせることを厭った心境を記していた、とされている。

 だが、これはフルシチョフのような理想に忠実な共産主義者からすれば、到底許容できるものでは無かった。
 それでもこの手記が隠滅されずに内容の隠匿に留められていたのは、
 スターニズムを継承する上で、この手記が一種の聖書とも言える立ち位置にあり、
 依然として根強いスターリン派を御すための紋所として、フルシチョフ派が用いていたためであった。
 とはいえ、それも繰り出されたスターリン批判とスターニズムの放棄によって終焉を向かえ、
 後は隠滅を待つばかりだったのだ。
 そこへ九月クーデター未遂が起こり、隠滅準備が進められていた手記が親衛部隊によって奪取された。
 これによって、不特定多数に対して手記の内容が漏洩。
 さらにクーデターに失敗した親衛部隊が最後の抵抗とばかりにその内容を公開したことで、
 スターリン派とフルシチョフ派の潜在的対立が一気に表面化。
 中にはスターリンがフルシチョフ派によって暗殺された、という話まで飛び出し、
 ついには大規模な内戦、所謂ソヴィエト内戦に発展することとなる。

655 :名無しさん:2015/09/18(金) 22:47:38
  • 崩壊

 1961年9月7日、スターリン暗殺の嫌疑を巡ってスターリン派とフルシチョフ派が衝突。
 同日、スターリンの生まれ故郷であるグルジアを含むザカフカーズ軍管区の部隊が
 スターリン派への帰属を宣言したことを皮切りに、軍部隊が相次いでスターリン派とフルシチョフ派に分裂していった。
 軍事的には親衛部隊の多くが帰属したスターリン派が優勢であり、
 根こそぎ動員によって発生した弊害による不満が蓄積していた関係で民衆もスターリン派が大勢であった。
 一転して不利となったフルシチョフ派だったものの、まだ帰属を決めていない地域などで結集を図り、
 その地域を済し崩し的にフルシチョフ派に引き入れるなどして、多数を占めるスターリン派への抵抗を行った。
 モスクワを脱出したフルシチョフ自身、ウファで臨時政府を発足させて抵抗の先頭に立った。

 両者の衝突は1966年まで続き、ニキータ=フルシチョフの暗殺をもって終焉を迎える。
 しかし残ったのは、内戦の過程でソヴィエト連邦から独立や離脱を行った大小の国家群。
 そして、同じく内戦の過程でソヴィエト連邦の領域を追われ、
 世界へと拡散した共産主義の理想に何処までも忠実なフルシチョフ派の存在であった。

 この拡散には皮肉にも、スターリン体制によって関係が持たされたアメリカ合衆国が中継地点となった。
 アメリカ合衆国へと逃れたフルシチョフ派は同国で北米共産動乱(※2)を引き起こし、中米や南米にも拡散。
 ブラジル内戦(※3)なども誘発させ、各地で21世紀に至るまでの大きな爪痕を残すこととなる。

(終)

 ※1 : 公式には病死となっているが、暗殺説も未だ根強い。
     また病死は病死でも無理を重ねたことによる過労死という見方も存在する。

 ※2 : 1970年代、アメリカ合衆国で共産党が第一党となったことで発生した動乱。
     共産党候補を当選させた州とテキサス州を中心とした反共候補を当選させた州が対立。
     合衆国軍が介入するも、介入で一層反発を強めた反共諸州が合衆国からの離脱を宣言し、
     合衆国軍と、反共諸州の州兵連合及び合衆国軍より離脱した反共義勇軍の戦闘に発展。
     最終的に反共諸州側にフランス連邦共和国が肩入れを行い、テキサス共和国として独立することになる。

 ※3 : 1970年代末、ブラジル合衆共和国で発生した、同国の共産主義革命に端を発する内戦。
     発生した難民が蘭領ギアナ(含む旧仏領ギアナ)や独領ギアナ(旧英領ギアナ)に詰め掛け、
     事態を重く見たOCUが介入を行い、共産主義勢力の駆逐を持って終結した。

656 :名無しさん:2015/09/18(金) 22:51:56
以上です。
スターリンは犠牲になったのだ……。
なおこの世界、赤軍大粛清(やる余裕)ないです、ということで
大事にされた赤軍親衛部隊を中心にスターリン派が多く、
一方で大戦末期に根こそぎ動員されたまま、
実戦経験を経て軍務を続行している一般部隊にはスターリン派が少ない感じです。

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最終更新:2016年02月28日 23:07