110 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:08:30
※日蘭蜜月世界支援ネタSS ・ ハワイ事変
布哇事変(ハワイじへん、英:Hawaii Incident)とは、
1903年6月から7月に掛け、相次いで発生した大日本帝国宮城県布哇諸島支倉市における
クーデター未遂事件と、その後に発生した布哇諸島沖での日米艦隊による軍事衝突の総称。
双方共に明確な戦線布告は無かったものの、新興の立憲君主制国家である大日本帝国と
同じく新興の共和制国家であるアメリカ合衆国の艦隊が戦闘を行い、
日本側の勝利を以って同国が改めて北太平洋における覇権を確立したとされる。
ただし、この事件が後々まで続く日米対立の要因とする見方も大きい。
布哇諸島に日本人が到達したのは、1613年にまで遡る。
当時、幕府の認可を得て、欧州渡航を計画していた伊達政宗率いる仙台藩は
藩内に逗留していたスペイン人らの協力の下、
日本初となる西洋式帆船、サン=ファン=バウティスタ号を建造。
外交使節として同藩藩士の支倉常長を任命し、
使節団やスペイン人協力者などを含む乗員180名と共に
1613年10月に陸奥国牡鹿郡月浦を出航。一路、欧州を目指した。
しかし航海の途上、日本人船員の未熟な航海術が祟り、
予定航路を逸れてしまった彼らは怪我の功名とも言うべき形で布哇諸島を発見することになる。
当初、支倉を含む大半の日本人達は布哇諸島の発見にはそこまで大きな興味を示さず、
一週間程度の投錨を行って船の補修を行うと、足早に現地を去った。
しかし随伴していたスペイン人らは例外であり、表面上は日本人達と共に淡白を装っていたが、
内心は如何に日本人達を騙し抜き、新諸島発見の功を得て、その領有を行うかを計画していたとされる。
だが日本人達の中にも布哇諸島発見を重要な事実だと認識する一団が存在しており、
スペイン人らが彼らとは別に日本人達が独自に綴っていた航海情報などを得ようとした際、
虚偽の情報を伝えた旨を記す日誌が、乗り合わせていた仙台藩航海士の子孫らによって蔵より発見されている。
仙台藩が行った欧州渡航は一定の成功を収め、
支倉常長以下、使節団は目的であったスペイン帝国に到着した。
しかし時の徳川幕府が発布した禁教令の情報は既にスペインにも伝わっており、
伊達政宗が目的としていたスペインとの貿易協定や各種外交関係の樹立は失敗に終わる。
そのため1620年、使節団は失意のうちに帰国。支倉常長も帰国の2年後に逝去することとなった。
だが、彼らの試み全てが無駄に終わった訳では無かった。
それは布哇諸島の存在である。
帰国した使節団から布哇諸島の情報を入手した仙台藩、特に伊達政宗は狂喜したとされ、
その領有に向けた動きを開始した。
当時の幕府は徐々に鎖国、所謂海禁への動きが進んでおり、
仙台藩の行動は半ば滑り込みを狙う形で進められた。
仙台藩は使節団が帰国の途上、当時スペイン領であったフィリピンで同国に売却を余儀なくされた
サン=ファン=バウティスタ号を模範とした新たな西洋式帆船の建造を開始。
同船を逝去した支倉常長の功績を称えるために支倉丸と名付け、
1625年には布哇諸島再発見に向けて出航を行った。
この航海は、完全に日本人だけによるものであり、大きな困難が伴うものであったが、
支倉使節団の航海に関わっていた船員達とその航海で綴られた情報を基に
1626年に目的であった布哇諸島の再発見を成し遂げた。
またその途中、彼らは中道諸島(ミッドウェー諸島)という新たな島々の発見も成し遂げている。
そして使節団に同行していたスペイン人らの発言を根拠に
布哇諸島が諸外国のものではなく、仙台藩が領有する新領土であり、
つまりは内地であるという仙台藩の主張を幕府が渋々受け入れる形で布哇諸島と中道諸島は日本へ編入。
ここの至り、仙台藩領布哇諸島及び中道諸島が誕生することとなった。
111 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:09:51
しかし、仙台藩が得たこの新領土の安定には大きな困難が伴った。
確かに布哇諸島は諸外国の領土では無かったが、原住民は存在しており、
彼らによる首長国とも言うべきものが島ごとに存在していたからだ。
これに対し、仙台藩は地道な交流を足掛かりとした領土化を実行。
また同時に布哇諸島で不足していた教育を日本のそれに準えた形で行う傍ら、
交易によって利を得るために目新しい布哇諸島独自文化の保全という相反した課題をこなしていった。
これらは成功と失敗の繰り返しであったが、半世紀が経過する1680年代には成果を見せ、
布哇諸島の安定化と仙台藩領としての確立に成功することとなる。
なおこの際、海禁令下でも交流が持たれていた
ネーデルラント連邦共和国(後のネーデルラント連合帝国、以下オランダと呼称)の
アウストラリスなどにおけるオランダ式統治方法が大いに参考になったとされ、
当初取り入れられる予定であったスペイン式のそれを取り止めた仙台藩の判断は英断だったとされている。
こうして完全な仙台藩領となった布哇諸島は1800年代に入り、
フランス革命戦争におけるオランダへの援軍派兵とその対価という形で締結された
日本としては初めてとなる平等条約の日蘭修好通商条約によって
大幅な方針転換を行わざるを得なかった幕府の思惑も相成り、
それまでの仙台藩単独によるものではなく、日本という国家全体で開発が行われていった。
これはフランス革命戦争への参戦という形で欧州の空気に触れた人間が増え、
そして人種差別という大きな壁に直面した彼らが友好関係にあるオランダ以外の
西欧諸国の太平洋への進出を警戒していたためであった。
言わば、布哇諸島は西太平洋における西欧諸国警戒のための砦と位置付けられたのだ。
オランダとの交渉の結果、南洋諸島なども新たに領有した日本は、
オランダとの交流、そして明治維新や産業革命などを経て、急速に近代国家への道を突き進み、
それに合わせて布哇諸島も大きく発展していくこととなる。
1903年6月、一つの転機が布哇諸島に訪れる。
当時、既に開国を行い、大日本帝国へと国号を改めていた日本の領土である布哇諸島は、
仙台藩の流れを汲む宮城県の施政下にあった。
そしてこの頃、布哇諸島には日本や帝政オランダの船舶の他、
大日本帝国と太平洋を挟んで興隆しつつあったアメリカ合衆国や南米諸国の船舶が寄港するようになっていた。
太平洋に拠点を持たないアメリカ合衆国は太平洋の横断に際しては、
大日本帝国か帝政オランダの港を利用せざるを得ず、布哇諸島はそうした港の一つであった。
特に布哇諸島行政の中心地である央府(オアフ)島支倉市には、
日本人の他に寄港する
アメリカ船関係の仕事に携わる合衆国や南米諸国の船員や労働者が多数存在しており、
彼らが外国人労働者に対する待遇の改善を訴えたのが全ての始まりであった。
初めはありがちな待遇改善の主張であったその動きは、
いつしか立憲君主制の否定、布哇の共和独立へ向けた動きに変質。過激化していくことになる。
ただし、この動きに迎合したのはほとんど彼らのような外国人労働者であり、
大半の日本人達は声を荒げる彼らを抑止しようとしたが、それを排斥と受け取った共和独立派が爆発。
共和独立派を称する外国人労働者による支倉市庁舎の占拠未遂事件が起こり、
多くの外国人労働者が警察や憲兵によって捕縛される事態に発展する。
これは当時、機運が高まっていた日露開戦に備えて大日本帝国海軍布哇警備府から
主力艦の本土回航が進められ、一時的に布哇諸島全体の防備が手薄となっていたことに
目を付けたアメリカが布哇諸島を太平洋進出の足掛かりとすべく、
秘密裏に自国の労働者を煽り、その保護を名目に布哇諸島への出兵と併合を目論んでいたことが関係していた。
112 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:10:33
しかし本来、この陰謀は確実視されていた日露開戦を待って行われるはずであった。
だが想定より早い外国人労働者らの爆発により、大きく歯車が狂ってしまう。
やむなくアメリカ合衆国は演習名目で進出させていた
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊を急遽、共和義勇艦隊として布哇諸島へと向かわせる。
名目は共和主義者への不当な弾圧に対し、艦隊全体が義勇軍として馳せ参じたことにされていた。
この時、平時よりも大幅に増強されていたアメリカ合衆国太平洋艦隊は、
キアサージ級戦艦の《キアサージ》及び《ケンタッキー》、イリノイ級戦艦の《イリノイ》及び《ウィスコンシン》。
そして、当時最新鋭であったメイン級戦艦の一番艦である《メイン》を中心に構成されていた。
戦艦隻数、実に5隻。当時、アメリカ合衆国が保有していた戦艦のおよそ半分に匹敵していた。
これだけで、どれほどアメリカ合衆国が布哇諸島の奪取に心を傾けていたかが解るだろう。
対し、当時大日本帝国海軍が布哇諸島に展開させていた戦艦は、旧式である富士型戦艦の《芙蓉》と《瑞穂》。
そして本土回航第二陣として準備が進められていた敷島型戦艦の《三笠》であった。
海上を警戒中の哨戒飛行船より、共和義勇艦隊の来襲を察知した日本側は、
布哇警備府隷下の第七艦隊に属する全艦に全力出撃を命じた。
折り悪く、本来の第七艦隊司令官は主力艦の本土回航第一陣の指揮を取るために布哇を離れており、
急遽警備府長官であった東郷平八郎海軍少将自らが《三笠》に乗艦することとなった。
戦艦隻数は3隻であり、5隻を擁する共和義勇艦隊に対して劣勢であった日本側だったが
本土回航第二陣として留め置かれていた装甲巡洋艦が複数存在しており、
これらを含めれば艦隊の隻数は来襲した共和義勇艦隊と互角であった。
しかし火力面で劣ることは否めず、場合によっては一方的に撃滅される可能性もあった。
そこで東郷は火力の劣勢を艦隊運動によって覆そうと試みる。
第七艦隊は迫る共和義勇艦隊に対し、反航戦を行うと見せ掛けて鮮やかに一斉回頭。
共和義勇艦隊の頭を抑える丁字戦へと移行し、火力を集中させての撃滅を目指したのだ。
後に伝説となる敵前一斉回頭、トーゴーターンである。
この予期せぬ動きに共和義勇艦隊は混乱。
艦隊先頭の《イリノイ》が集中砲火によって一瞬のうちに炎上し行き足が止まると、
なんと後続の《ウィスコンシン》と《キサアージ》が《イリノイ》を避けるために左右異なる方向に回頭。
その後続艦もどちらに続いて良いか判らず、これまた左右に別れた結果、
艦隊を二つに割る失態を演じてしまう。
これは練度に勝る大西洋艦隊から編入されたばかりの《ウィスコンシン》が同航戦に持ち込もうとした一方、
錬度に劣る太平洋艦隊所属だった《キサアージ》が一度距離を取っての仕切り直しを企図したためという
見方が現在では最も有力とされている。
急遽、増強された艦隊が故に統制された動きができなかった弊害であった。
これに対し、第七艦隊は《ウィスコンシン》を次なる獲物として集中砲火。これを撃沈。
《ウィスコンシン》に続いた装甲巡洋艦をも順次撃破すると、
返す刀で狼狽する《キサアージ》と《ケンタッキー》を相次いで撃沈破する。
ここに至り、戦力が逆転してしまった共和義勇艦隊最後の戦艦、《メイン》が撃沈を恐れて白旗を掲げて停船、降伏。
残っていた艦も一部の快速艦艇を除き、第七艦隊から逃れきれず、降伏するか撃滅されるかの道を辿った。
対し、第七艦隊の被害は《瑞穂》の中破のみ。
布哇沖海戦は近代海戦史上、稀に見る快勝となった。
114 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:11:23
共和義勇艦隊の壊滅による太平洋艦隊の消滅は、アメリカ合衆国に大きな衝撃を齎した。
これにより、アメリカ合衆国は太平洋に艦隊が存在しなくなり、西海岸が柔らかな横腹を晒す形となったからだ。
もしも大日本帝国が報復に西海岸への砲撃を行っていたら、西海岸諸都市は蹂躙されていたであろう。
されど、日露戦争が間近に迫っていた日本にその意図は無かった。
帝政オランダの仲介によって行われた大日本帝国とアメリカ合衆国の交渉は、
アメリカによる日本への謝罪と降伏によって鹵獲された艦の日本への譲渡、
そして問題となったアメリカ籍労働者の布哇諸島からの退去という形で手打ちとなる。
アメリカ合衆国にとっては屈辱的な内容であったが、太平洋の海軍備消滅の手前、これを飲まざるを得なかった。
かくして布哇事変は終結を迎え、立役者となった東郷平八郎海軍少将は
急遽本土へと召還され、中将へ昇格の上、日露戦争では連合艦隊司令長官として戦うことになる。
そして、この戦争においても東郷はロシア帝国海軍太平洋艦隊の戦艦を多数撃沈し、
数年の間に10隻以上の戦艦を沈めた提督として世界海軍史にその名を刻んだのだった。
なお余談であるが、鹵獲された共和義勇艦隊残存艦のうち、戦艦《メイン》は《三笠》と共に本土へ回航された。
そしてロシアが保有する戦艦《レトヴィザン》の研究のために解析された後、
突貫工事で日本形式の兵装へと換装されると、戦艦《肥前》として大日本海軍に編入。
海防艦や特務艦、特設工作艦への艦種変更を経て、1940年代に廃艦となるまで籍を置いていた。
アメリカ合衆国海軍に在籍していた期間よりも
仇敵たる大日本帝国海軍へ在籍していた期間の方がはるかに長かったのは、ある意味皮肉と言える。
(終)
116 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:12:28
以上です
日本領布哇の説明、東郷平八郎の伝説化、全て達成できたと思いたい
ハワイが宮城県なのは突っ込み入るかもしれませんが、字面のインパクトで選びました(などと供述)
120 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:20:46
》116
大陸世界の日本は確か総監府⇒道⇒州⇒県じゃないかっていう話もあったからより広義だと例えば陸前州とかやなあ。
121 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:22:16
ついでに、一番纏めておられるのがひゅうが氏の三帝同盟のは無しの中で投稿した物で。
これttp://www18.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/2762.html
122 :名無しさん:2015/08/26(水) 19:26:06
》120-121
なるほど、見逃しておりました
では陸前州仙台県布哇諸島という方向で脳内変換をお願いします
最終更新:2016年02月28日 23:10