399 :弥次郎:2015/09/27(日) 18:36:26
ネタ】日本大陸の鎧事情


日本の鎧の変遷は、大きく鉄砲の伝来前と以後に分けることができる。
伝来以前の日本大陸において戦場を支配するのはやはり歩兵であり、それに混じる剣虎兵と象兵などであった。
ここに騎馬兵と野伏りなどが加わることでおおむね戦場の兵は占められていた。そしてこの前線に出る歩兵は軽装が基本だった。
これは戦場において相対するのは基本的に歩兵であり、下手な鎧を身に着けても蝦夷像や剣虎兵の餌食になることが多かったことによる。
象の突進や足蹴を避けるには速やかな退避が必要であり、剣牙虎を避けるには身軽に動き、柄の長い槍などで近づかせないことが基本的な対処法なのだ。
加えて、日本大陸においては長距離の行軍が当たり前で、重装備による移動速度の低下は忌むべきものと判断されたことも遠因である。
実際に紙を十数枚重ねるだけでも刃を凌ぐには十分であるし、態々鉄を鍛えるよりも安価で十分な効果が得られた。
その気になれば獣を狩って材料を現地調達することも可能であるし、紙も手に入らないわけではなかった。
よって、足軽などは胴丸などの軽装が普及した。

他方、比較的重装化が進んだのが指揮を執る立場にある兵、即ち大将や馬廻りなどの指揮官であった。
流れ矢や流れ弾は言うに及ばず、思わぬ伏兵や騙し討ちを受ける可能性もあるため、鉄や青銅などで胴体や頭を守るものが多かった。
当然重くなるのだが、そこはそれ。躱せないことを見越しての重装である。大型であれば見栄えは良くなるし、飾りなどを付けることもできた。
鉄砲普及後も少なくない武将たちが暗殺や狙撃などから身を護れたのも、これによるところが大きかった。

400 :弥次郎:2015/09/27(日) 18:37:03
しかし、鉄砲と火薬の伝来からしばらくして、日本の鎧は方向転換を余儀なくされた。
竹や木を切りだして束ねるなどすれば鉄砲玉を防げることはすぐに明らかになったが、戦場ではそういった盾に四六時中隠れているわけにもいかないのである。
こうした盾は火矢に弱いし、現地調達できるとはいえ作る手間もかかる。
さらにいえば、普及した鉄砲はすぐさま日本人の手に拠って改良がなされて、火力のインフレが始まったのも要因でもある。
大型化した大筒(大砲)が生まれ、簡易とは言え火中車というロケット兵器が生まれた。
さらには放物線を描いて砲撃する迫撃砲もどきを投入され、トーチカもどきが砦や城には作られるようになった。
そうなると戦場では銃撃と砲撃が歩兵を蹴散らし、火力を持たぬ兵は塹壕や盾の後ろに身を隠すしかなくなった。
いくつかの例外を除けば(※2)、大名などもこれらを積極導入していよいよ戦場は火力と硝煙の臭いに満ち始めた(※3)。

このようなことから戦国時代半ばに既に騎馬兵が的にしかならないことは火を見るよりも明らかであった。
長篠の戦以降(※4)、特にそれは顕著となった。そして、重要なのは兵士を守る頑丈さと動きやすさと判明した。(※5)
特に普及したのが鉄兜と胸当てである。銃撃戦において真っ先にかばうべき部位は戦いの中で自然と割り出された結果、有り余る資源を利用して鋳造された。

さらに、皮などの従来の鎧が衝撃吸収材を兼ねた簡易な防弾チョッキとして進化し、鉄の鎧と並んで普及した。
当時の戦の様子を描いた絵図には兜を被り、あるいは塹壕に隠れて戦う様子がよく描かれている。
こうした中で当世具足は徐々に変化を遂げて、戦国具足あるいは鉄砲具足などと呼ばれることになった。

401 :弥次郎:2015/09/27(日) 18:38:01
一方で、華麗な装飾の鎧が廃れたかといえば、そうではなかった。
やはり戦場の花となるのは鎧であるし、戦場において目立つ装いは狙われやすいことを考慮しても効果があった。
また、ぶつかり合いの乱戦になれば比較的重たい鉄の防具は役に立ちにくく、やはり軽い鎧が好まれたことは言うまでもなかった。
平野部はともかく山岳地域では遮蔽物が多いし、雨になれば鉄砲などが扱えなくなるのはまだ当時では常識だったのだ。
鉄砲が普及したと言ってもやはり戦場においての一騎打ちは途絶えなかったし、鉄砲普及後の組み伏せによって首をとることははさらに名誉化した。(※6)
そういった経緯から鎧の文化は廃れず、戦国時代末期には鎧をはじめとした防御的な兵をどのように利用するかという新たな命題を生み出した。
その命題への回答として東軍の徳川家康は兵種ごとに適切な鎧を支給し、これを統率する手法をとった。
つまり、兵科を綿密に分けて適切な装備を揃えて万全な体制を整えたのだ。
西軍の石田三成と比較して人望などを評価されていた徳川家康だが、こうした見えぬ努力があったと言える。

だが、日本の戦場というものが当時の欧州にとっては如何に異端に見えたかは推して測るべしである。
中世の戦い方がまだ残っていた欧州に対して、疑似的とはいえ日本だけ世界大戦レベルにまで進歩していたのだから、当然であろう。
こうした内部での戦術的なインフレによる経験こそが、第一次および第二次大戦において日本軍の精強さにつながったとされる。
ほぼ海外への資料の散逸などが認められなかった日本大陸にはこうした記録が多数残され、明治以降には海外の戦史研究科や軍人の注目を集めることになった。

402 :弥次郎:2015/09/27(日) 18:39:02


※1:厳密に言えば領内でのゲリラ戦や夜襲による効果を含めての勝利であり、勝因の一つとなったにすぎないという学説もある他にも、
この戦闘では攻撃側が地形の関係から大型の蝦夷象が投入できていなかったことが敗因とも言われている。
しかし、いずれの学説でも鉄砲が寡兵を補うのに十分な兵器であると知らしめたと認められている。
※2:筆頭と言えるのが島津兵。理由は言うまでもない。
※3:織田家を筆頭に、国崩しを象に乗せて運搬させて攻城兵器としてぶっ放した大友家、大筒抱えて無茶行軍した豊臣秀吉。
リアル戦国自衛隊と化した雑賀・根来。さらに小型船に大砲を積んで暴れた村上水軍と、それに対抗した九鬼義隆率いる織田水軍。
少数精鋭の鉄砲使いを難攻不落の要塞に配置し、徳川家を最後まで苦しめ続けた真田家などなど。
※4:一般に鉄砲大量投入のみが取り沙汰されるが、織田家は武田の鉄砲隊を綿密な計算の元、作られたキルゾーンへと誘い込み仕留めたことによる勝利であった。
実際に、武田の鉄砲騎馬隊は機動力がありながらも、有効な反撃を行えないままに敗北し、騎馬兵の時代の終焉を告げた。
※5:鎧の方向性を決定的にしたのが、鉄砲に目を付けて大量運用を本格実施した織田家台頭前後と言われる。
その頃には既に大筒なども普及し、その運用方法が確立しつつあったことで武器の改良も始まっていた。
このことを鑑みて、この頃から普及した鎧を戦国具足あるいは安土具足と呼称した。
※6:騎馬兵が鉄砲兵にとって的にしかならなくなったと同様に、わざわざ刀を振るう機会も戦国末期には減りつつあった。
とくに有名なのは生涯を戦に生きた太田三楽斎や、鉄砲普及後も蜻蛉切を持って戦場を駆け抜け首級をあげた本多忠勝などである。

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最終更新:2016年02月29日 00:09