720 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:45:16
※日蘭蜜月世界支援ネタSS ・ ネーデルラント親衛部隊

 ネーデルラント親衛部隊(ネーデルラントしんえいぶたい、蘭:Nederland Bewakers)とは、
 ネーデルラント連合帝国(以下、帝政オランダ)陸軍における名誉部隊、精鋭部隊の通称である。
 主な編成単位は師団及び連隊。21世紀現在、27個の親衛部隊が存在する。


  • 親衛部隊の興り

 ネーデルラント親衛部隊の始まりは、18世紀末に起こったフランス革命戦争に遡る。
 当時、英国の工作によって対仏大同盟諸国との連携を断たれ、
 ほぼ単独でフランス大陸軍の攻撃に晒されていた帝政オランダの前身ことネーデルラント連邦共和国は、
 国土防衛のために植民地軍の招集、さらに友好関係にあった日本からの傭軍を決定。
 この際、総督による各地での宗教的自由の保障、本国人に準じた扱いなどが確約されたことで
 移民したオランダ人のみならず、多数の現地住民が植民地軍に馳せ参じた。

 そんな中、異彩を放っていたのがアウストラリス原住民で構成されたアボリジナル連隊と
 宗教的自由を求め、ケープ植民地での参集に応じたオランダ人以外の欧州人によるアフリカーナー連隊である。
 前者のアボリジナル連隊はアウストラリス兵団の一員として、
 傭軍された日本軍部隊と共に救援第一陣としてオランダ本国に来援。
 便宜上は連隊と称されていたが、実際は小集団ごとにアウストラリス兵団の各部隊に組み込まれており、
 アボリジナル特有の高い視力と身体能力を活かした野戦偵察部隊として活躍した。
 そして後者のアフリカーナー連隊は、救援第二陣の一員としてオランダ本国に来援。
 敵対していたフランス系であるユグノーなども含まれていたが、宗教的自由を求めていた彼らの奮戦は凄まじく、
 かつての故国であるフランスの大陸軍相手に幾つもの伝説的な戦果を残した。


  • 近衛と親衛

 フランス革命戦争後、独立を守り切ったネーデルラント連邦共和国であったが、
 欧州の地へ有色人種を多数引き入れたことを理由に孤立を深めていた。
 戦後間もなく、ネーデルラント連邦共和国は総督であったオラニエ=ナッサウ家を君主とする
 帝政オランダへの移行を果たすのだが、孤立しつつあった情勢下におけるその評価は芳しくなく、
 皇帝家となったオラニエ=ナッサウ家が行った宗教的自由の保障宣言が
 教皇庁による破門一歩手前の事態(※1)を引き起こし、ローマ=カトリック保守派による
 ルクセンブルク独立革命(※2)が起こるに至り、孤立は決定的なものとなった。

 そのため、初期の帝政オランダは領域の再編と国防の強化に追われた。
 これによって、常設が決定されたのが近衛部隊と親衛部隊である。
 一見すると、似通った部隊を並立しているように思えるが、その性格は微妙に異なっている。
 帝政オランダの君主であるオラニエ=ナッサウ家に忠誠を誓う皇室近衛部隊。
 そして、帝政オランダという国家そのものに忠誠を誓う国家親衛部隊、と分けられていたのだ。

 これは帝政オランダ初代皇帝のウィレム一世の悲壮な覚悟と関連していた。
 彼ら親衛部隊は今後、自身やその子孫が臣民の宗教的自由を侵害し、
 帝政オランダの在り方を崩そうとした場合、親衛部隊は国家の在り方の護持を優先し、
 オラニエ=ナッサウ家を討つべし、というウィレム一世が定めた条件付革命の肯定は、
 ルクセンブルク独立革命を経てなお、彼が本気で宗教的自由の保障を
 為そうとしていた事実を示すことに他ならなかった。
 ただしこれ以外を理由とした革命については基本的に認めておらず、
 それを防ぐ皇帝側の自衛権として、近衛部隊が並立されるに至っていた。

 なお21世紀現在、帝政オランダにおける宗教的自由の保障は、
 帝政オランダ憲法と憲法内で規定されたオラニエ=ナッサウ家が保持する皇帝権限の二重保障状態(※3)であり、
 皇帝家と帝政オランダの在り方がほぼ一蓮托生となったことで
 近衛部隊と親衛部隊が相打つ事態は一度も起こっていない。



721 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:46:11
  • 新領問題と親衛部隊の拡充

 帝政移行後、帝政オランダは対外拡張をほぼ取り止め、既にある帝国の領域の開発に終始している。
 しかし例外はあり、内紛によって国家崩壊するなどした隣接地域に対する
 保障占領の実施などによって、20世紀に入るまでじわじわと領域は拡大していった。
 特に19世紀中は、新領と呼ばれる地域が相次いで帝政オランダへと組み込まれている。
 それは1817年、第五次英蘭戦争(※4)を経て、蘭領セイロンへ編入された旧キャンディ王国領域。
 そして1828年、胡椒戦争(※5)への介入で、蘭領東インドへと編入された旧アチェ王国領域。
 1878年に第六次英蘭戦争(※6)を経て、蘭領ケープに編入された旧ズールー王国領域の三領域であった。

 これらの地域は歴史が浅く、帝政オランダの団結を高める切っ掛けとなった
 諸戦争を経験していなかったことで他の地域と少なからない温度差が生じていた。
 無論、帝政オランダ政府はこれら新領も例外なく平等な開発を実施していたのだが、
 そうした粛々とした動きが、新領住民の居た堪れなさを逆に煽っていたとされている。
 これが俗に言われる、新領問題である。
 このような空気を感じ取った三地域の関係者が何らかの形で忠誠と団結を示す必要がある、と判断。
 白羽の矢が立ったのが、現地へのネーデルラント親衛部隊の新設であった。

 この頃、親衛部隊はその役割と人口的問題からそれまでは特に拡張されることなく、
 本土の二個連隊を含め、蘭領アウストラリスのアボリジナル=ネーデルラント親衛連隊、
 蘭領東インドのバンテン=ネーデルラント親衛連隊及びマタラム=ネーデルラント親衛連隊、
 そして蘭領ケープのアフリカーナー=ネーデルラント親衛連隊(当時)の六個連隊のみが存在していた。
 しかし人口的問題が大きく改善した19世紀末、親衛部隊の拡充は問題が無いと判断されていた。
 だがしかし、帝政オランダ陸軍が親衛部隊の新設に向けて動き始めると、予期せぬ事態が起こった。
 驚くべきことにセイロンと旧ズールー、旧アチェで親衛連隊新設が行われることを耳にした
 他地域でも親衛連隊の新設を願う声が続々と上がったのだ。



722 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:49:14
  • 鉄血の帝国

 19世紀末、帝政オランダは本国政府が認識していた以上に、国家への帰属意識の浸透が進んでいた。
 これは有色人種差別が罷り通っていた当時の世界情勢を思えば、致し方の無い部分もある。
 帝政移行後の長きに渡り、植民地に投じてきた巨万の開発と教育費用が実を結び、
 知的階級に有色人種が多数含まれるようにまで至っていた帝政オランダであったが、
 そんな有色人種たちの多くは海外との交流で絶対的な壁を感じ取っていた。
 帝政オランダの中では広く認められ、大手を振って歩けた彼らであるが、
 一歩海外に出ればその大半が好奇の視線、あるいは明確な人種差別に晒された。

 彼らが好奇の視線に晒されなかったのは、既に数百年以上の交流があった友邦の大日本帝国を除けば、
 オスマン=トルコ帝国やペルシャ帝国といった有色人種の国家程度であり、
 特に西洋列強と呼ばれた諸国では帝政オランダ臣民という肩書きが無ければ、歩くことすら危ういことが多々あった。
 そこへ宗教的な問題が加われば、最早語るまでも無い。

 こうした情勢が、彼らの帝政オランダへの帰属意識を高めていたのだ。
 この国がある限り、自分たちは大手を振って歩ける。
 そんな強迫観念が帝政オランダ臣民の胸中にあり、帝政オランダという国家を護持する。
 そのためならば、血を流すことを彼らは厭わなくなっていた。
 親衛連隊の新設を願う声もその一つであり、
 彼らが帝政オランダへ帰属することを示す旗印、あるいは精神的支柱とされたのだ。

 そして、帝政オランダはこうした声を聞き入れた。
 20世紀初頭、帝政オランダは陸軍の改編に着手。大規模な近代化を含む軍拡を敢行。
 この中で親衛部隊は大きく拡充され、25個連隊までにその数を増やす。
 当時、起こっていた日露戦争の存在も大きく関係し、
 場合によっては援軍として馳せ参じる覚悟を決めていた帝政オランダ陸軍の先鋒が、
 これら改編された親衛部隊となる公算が高かった。

 そうした帝政オランダの動きを指して、英国のある新聞は
 鉄の結束を血で示そうとする国家、という意味で鉄血の帝国と称した。
 これは血を流すことでしか結束を図れない帝政オランダを暗に野蛮だと皮肉ったものであったが、
 意外にもこの表現は帝政オランダでは好意的に受け止められ、
 現在まで続く、デ=インペリウム(蘭:De Imperium)と並ぶ
 帝政オランダの異名、鉄血の帝国を意味するアイザライク(蘭:Ijzerijk)の語源となっている。



723 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:50:03
  • 親衛部隊と第一次シベリア戦争

 第一次世界大戦には直接参戦しなかった帝政オランダであるが、
 大日本帝国と共に両陣営に対する観戦武官の派遣を行い、戦訓の収集と蓄積には余念が無かった。
 また元々、技術的には他国に大きく先駆けていたため、銃や戦車、航空機、軍艦といった軍の装備は、
 第一次世界大戦を戦う両陣営諸国のものと比べても遜色が無いどころか秀でてすらあった。
 欠けているのは唯一、実戦経験だけであったと言っても差し支えは無いだろう。

 そんな帝政オランダが思わぬ形で実戦を経験することになったのが、
 1917年のロシア革命に端を発するシベリア戦争である。
 当時、巻き起こった共産主義革命の影響が自国に波及することを帝政オランダは恐れていた。
 中でも臨時政府によってニコライ皇帝一家が幽閉され、
 ロシア正教会などの諸宗教が弾圧に晒されているという情報が齎されると、その恐れは一般臣民にまで広がった。
 ここに至り、帝政オランダ、そして大日本帝国はロシア革命への介入を決定。

 1917年6月、白衛派コサックの協力の下、当時中立国であったオスマン=トルコ帝国領より
 親衛コマンド部隊を含む冬季戦対応部隊を長駆させ、
 エカテリンブルクのニコライ皇帝一家救出に成功した日蘭両国は、
 以降ロシア帝国存続に向けて、シベリア地域への反共義勇軍派遣を発表。
 ロシア帝国を支援する反共義勇軍(※7)とロシア臨時政府との間で第一次シベリア戦争が勃発することとなった。
 この戦争は1922年まで続き、兵力で勝るロシア臨時政府軍を
 レナ川以東の固守に的を絞った反共義勇軍が火力と機動力をもって封殺。
 パルチザンの浸透も現地住民への食糧配給などの慰撫により、そのほとんどが防がれた。
 こうした戦闘や慰撫で活躍したのが、宗教的な理解の進んだ親衛部隊であった。

 戦闘は言わずともがなであるが、オスマン=トルコ帝国やペルシア帝国に逃れた皇帝派難民(※8)が
 海路でシベリアへと移送されるようになるとロシア正教徒やムスリム、コサックが混在することとなり、
 衝突などの大きな混乱が起こると予想された。
 そのため、この間を宗教的な理解の進んだネーデルラント親衛部隊が緩衝材として動き回ることで
 衝突を未然に防ぎ、また豊富な物資をもって不満の蓄積を和らげたのである。
 この介入戦争によって日蘭はかなりの戦費を消費し、
 戦後に一部をロシア帝国より補填されたものの、その全てを回収することは叶わなかった。
 しかしながら、存続したロシア帝国は国土を維持するために日蘭の経済支援を受けざるを得ず、
 ロシア帝国という巨大な市場が日蘭が有する経済圏へと組み込まれることとなった。



724 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:51:36
  • 第二次世界大戦と親衛部隊

 こうした親衛部隊の活躍は、日蘭を含む大洋連合と四国同盟との大戦争となった
 第二次世界大戦においても確認することができる。

 代表的なものは幾つかあり、一つはアフリカ戦役の中でも蘭領ケープを巡って発生した南アフリカ戦線である。
 英領である南西アフリカ(ナミビア)、コンゴ、ベチュアナランド、ローデシアなどから
 蘭領ケープへの侵攻を図った連合軍に対し、ケープ駐留軍が防衛戦闘を展開。激しい戦闘となった。
 この際、ローデシアから侵攻した英軍の一団を迎撃を行ったのが
 ズールー系オランダ人を主体に構成されるズールー=ネーデルラント親衛連隊であり、
 かつてのズールー戦争で近代装備を有する英軍を苦戦させた彼らが、今度は英軍を上回る近代装備をもって応戦。
 その死を厭わない奮戦から英軍に多大な心的外傷を残し、真っ先に壊走させたとされる。

 また南アジア戦役では、ビルマ戦線にアチェ=ネーデルラント親衛連隊が投入された。
 熱帯雨林での戦闘に精通した彼らは同地帯での英印軍の補給路破壊で活躍し、
 山岳地帯を転戦したビルマ王国軍のカレン人コマンド部隊と共に
 英印軍の占領下に置かれていたビルマ王国マニプル州インパール奪還の下地を作り出し、
 その名誉を称えて、アチェ=ネーデルラント親衛連隊は戦後、親衛コマンド連隊へと改編された。

 1940年に隣接する英仏領からの侵攻軍を退けるも来援した米軍によって
 1941年末から1943年までの一年半に渡って連合軍の占領下に置かれた蘭領ギアナでは、
 有事を見越して各地に設置、集積された反攻拠点と軍需物資を利用した旧ギアナ駐留軍によるゲリラ戦が展開。
 その基幹となったギアナ=ネーデルラント親衛連隊は、
 米英仏占領軍に出血を強い続け、後のヴォールリヒター作戦によってギアナ逆上陸が実行されるまでの間、
 占領軍を大きく疲弊させることに成功している。


  • 親衛部隊の現在

 第二次世界大戦後、帝政オランダ陸軍のほとんどに再編や改編が行われたが、
 親衛部隊に限っては新たに二個連隊が新編され、以降その規模はほとんど変化していない。
 この際、新編されたのが英領より割譲された旧英領南西アフリカ地域に設置された
 ノーデンケープ=ネーデルラント親衛連隊。
 そして蘭領ギアナでは第二次世界大戦中のゲリラ戦が評価され、
 親衛コマンド連隊に改編された旧ギアナ=ネーデルラント親衛連隊に代わり、
 新たに設置された新ギアナ=ネーデルラント親衛連隊となる。



725 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:52:37
  • 親衛部隊の一覧
 ・ 蘭欧州本土
  ・ ネーデルラント第一親衛師団
   ・ ネーデルラント親衛戦車連隊
   ・ ネーデルラント第一親衛連隊
   ・ ネーデルラント第二親衛連隊

   ・ ネーデルラント第二親衛師団
   ・ ベルギカ=ネーデルラント親衛戦車連隊
   ・ ベルギカ=ネーデルラント第一親衛連隊
   ・ ベルギカ=ネーデルラント第二親衛連隊

   ・ ネーデルラント親衛コマンド連隊


 ・ 蘭領ケープ
  ・ ケープ=ネーデルラント親衛師団
   ・ ケープ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ノーデンケープ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ズールー=ネーデルラント親衛連隊

   ・ アフリカーナー=ネーデルラント親衛コマンド連隊


 ・ 蘭領セイロン
   ・ セイロン=ネーデルラント親衛連隊


 ・ 蘭領東インド
  ・ オーストインディエ=ネーデルラント第一親衛師団
   ・ バンテン=ネーデルラント親衛連隊
   ・ マタラム=ネーデルラント親衛連隊
   ・ シアク=ネーデルラント親衛連隊

 ・ オーストインディエ=ネーデルラント第二親衛師団
   ・ ムラカ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ブルネイ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ランファン=ネーデルラント親衛連隊

 ・ オーストインディエ=ネーデルラント第三親衛師団
   ・ アンボイナ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ゴワ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ パプア=ネーデルラント親衛連隊

   ・ アチェ=ネーデルラント親衛コマンド連隊


 ・ 蘭領アウストラリス
  ・ アウストラリス=ネーデルラント親衛師団
   ・ アウストラリス=ネーデルラント第一親衛連隊
   ・ アウストラリス=ネーデルラント第二親衛連隊
   ・ アボリジナル=ネーデルラント親衛連隊

   ・ ニウゼラント=ネーデルラント親衛連隊


 ・ 蘭領フィリピン
  ・ フィリピン=ネーデルラント親衛連隊
   ・ フィリピン=ネーデルラント第一親衛連隊
   ・ フィリピン=ネーデルラント第二親衛連隊
   ・ スールー=ネーデルラント親衛連隊


 ・ 蘭領ギアナ
   ・ ギアナ=ネーデルラント親衛連隊
   ・ ギアナ=ネーデルラント親衛コマンド連隊



726 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:53:09
 ※1 : ナポレオンによる国事へのローマ=カトリック教会の権威利用と
     それを理由としたナポレオンの破門、その報復である教皇領の併合や教皇の拘禁などでうやむやとなり、
     戦後、国内のローマ=カトリック教徒に配慮するという形で
     教皇庁に帝政オランダから寄進が齎されたことでとりあえず和解がなされ、皇帝の破門は回避された。

 ※2 : 開明的な宗教政策に反対するベルギカ地域のローマ=カトリック保守派が
     ルクセンブルク地域に移動し、現地の保守派と共に引き起こした独立革命。
     宗教的自由の保障に抵触する恐れから帝政オランダは大規模に動けず、
     ルクセンブルクに駐留していたプロイセン軍が鎮定を試みるも
     帝政オランダの国力を少しでも削ぎたい英仏からの干渉が起こり、独立と永世中立国化が決定した。
     ただし帝政オランダはこれを奇貨として、宗教的自由の保障に関する定義付けを加速させた他、
     宗教関連政策を許容できないとするローマ=カトリック保守派のルクセンブルク移住を奨励し、
     ベルギカ地域などを安定させることに成功している。
     なお後年、第一次世界大戦と第二次世界大戦で二度の戦果に晒されたルクセンブルクでは、
     オランダ帰還運動が起こっているが帝政オランダ側の反応は芳しくないとされている。

 ※3 : ルクセンブルク独立革命後、宗教連絡会議などによって宗教的自由の保障の定義付けが進んだことで
     ネーデルラント連合帝国憲法内にもそれに関する条項が含まれることとなった。
     憲法において宗教に関する条項は最も細かく記載が行われており、
     基督教のみならずムスリム、仏教、ヒンドゥー教などの諸宗教に対応したこの細かい条文は、
     帝政オランダという国家の宗教的特異性を語る上で欠かせないものとなっている。

 ※4 : セイロン島東部の旧キャンディ王国を巡って発生した英国と帝政オランダの戦争。
       王国内で英国が支援した親英派インド=タミル人が反乱を起こし、
       時のキャンディ王が帝政オランダによる支援を求めたことで英国と帝政オランダの直接衝突に発展した。
       最終的にセイロン島近海から英海軍が駆逐され、反乱を起こしたインド=タミル人は処刑または追放。
       帝政オランダは戦乱で荒れ果てた王国領域の復興を引き換えに、旧キャンディ王国を蘭領セイロンに併合した。



727 :名無しさん:2015/10/04(日) 17:54:10
 ※5 : 当時、スマトラ島西部に存在したアチェ王国で、王国の権威回復を図ろうと改革に乗り出した王国政府と
     英仏と多大な取引があった胡椒の王侯達と呼ばれる家臣の一団が衝突し、発生した戦争。
     当初は内戦であったが英仏が介入し、泥沼化。
     さらにスマトラ島中部の国境付近で被害が生じたことで、帝政オランダが王国政府側での介入に踏み切った。
     戦争は1858年に正式終了するも国土に多大な被害が生じ、さらに家臣団を失ったアチェ王国政府に
     その復興を行う能力は無く、やむを得ず帝政オランダに組み込まれることでその支援を取り付けることとなった。

 ※6 : 旧ズールー王国領域を巡って発生した英国と帝政オランダの戦争。
     1856年、ズールー王位継承問題に端を発する内戦へ介入し、
     旧ズールー王国を英領ズールーとすることに成功した英国だったが、
     これを英領南西アフリカと合わせて、蘭領ケープを包囲する動きと考えた帝政オランダが反応。
     じわじわと対立を深め、1875年に国境問題を理由とする戦争へと発展した。
     当初は陸上における駐留軍同士の戦争が展開されるも、やがて英アフリカ艦隊と蘭ケープ艦隊との間に
     第一次ケープ沖海戦と呼ばれる装甲艦同士の海戦が勃発し、英アフリカ艦隊が壊滅するなど、
     一時は英蘭本土での飛び火も予想されたが、1878年に第二次アフガン戦争が勃発。
     そちらへの対応を余儀なくされた英国が引く形で終戦し、条約で英領ズールーは蘭領ケープに編入された。

 ※7 : 当時、第一次世界大戦を戦っていた諸国に参加の余裕は無く、
     当事者のロシア帝国以外に大規模な出兵を行ったのは、
     ネーデルラント連合帝国と大日本帝国の二カ国のみであった。
     しかしながら、義勇兵単位ではオスマン=トルコ帝国やペルシャ帝国、タイ王国、
     ルアンパバン王国、ベトナム王国、ビルマ王国、ジョホール王国などからも兵員が派遣されており、
     後の大洋連合(OCU)の基礎を築いた多国籍連合軍とされている。

 ※8 : ロシア帝国と国境を接し、かつ第一次世界大戦では中立を保っていた
     オスマン=トルコ帝国やペルシャ帝国に逃れた親皇帝派市民が一時難民と化した。
     貴族やロシア正教関係者、一般市民のみならず、赤衛軍との戦闘で敗走したコサックなども含まれていたが
     武装解除された上でオランダ船や日本船によって、レナ川以西に存続したロシア帝国へと移送された。
     このうち、コサックは脱出したバルト海艦隊や黒海艦隊が新生ロシア帝国海軍の基幹となったように
     新生ロシア帝国陸軍の基幹となり、後に第二次シベリア戦争、第二次世界大戦で活躍することとなる。

(終)

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最終更新:2016年02月29日 00:31