601 :ナイ神父MK-2:2016/03/11(金) 23:36:33
日蘭世界 44年ゲート編 その10
重慶の州化と国共の疲弊
1950年、大戦終結から5年経った現在でも国民党の共産党の内戦は続き、農民の強い支持を受ける
共産党に反して国民党は徐々に疲弊を始めていた。しかし、
アメリカから入る支援と物資によって
何とか戦えている状態が続いていた。そんな中で国民党はアメリカからの支援の代価を土地や資源
鉄道の利権で払い続け、50年代に入る頃には利権の殆どを失って行く事になる。
そして、そんな利権が売却された後方の土地ではアメリカが都市を作り企業や工場を建設して
利益を上げており、アメリカの購入した土地では既にドルと英語が日常に組み込まれ、道を見れば
白人警官が町を巡回し、建てられた家からは黒人やメキシコ系と思われる人間が家から出てきて
仕事先へと通勤する。という光景が見られ始め、既に都市内部はアメリカ本土と大差の無い様相を
呈していた。
こうなると驚くのはアメリカの支援を受けていた国民政府である。本来国民党は中国本土統一後
核開発に成功したらアメリカからの借金を踏み倒して何食わぬ顔で、アメリカに売った利権を
改修する積りであった。しかし、蓋を開けてみれば販売した土地は既にアメリカによって開発されて
アメリカ本土同然となり、中国人は土地に入ることすら苦労している有様なのである。こうした光景は
既に首都であるはずの重慶各所で見られ、駐重アメリカ軍の存在もあって戦力的に見てもアメリカが優位であり
国民党の居場所は僅かに残った土地と前線となっている地域だけであった。
この後国民革命軍の敗北とアメリカ軍の更なる駐留によって事実上の信託統治の状態となり、アメリカは中華民国の
領土を本格的に開拓していく。国民党が壊滅した後はアメリカ軍が中国共産党や満州、南京政府軍と睨み合う事となり
BTO諸国やISA諸国からはアメリカ51番目の州として実質認識されていくこととなる。
ISA介入とインド内戦
中国がアメリカからの蚕食を受けている頃、インドでも東西諸国を巻き込んだ内戦が加速していた。沿岸部の都市や
中国との国共周辺を占領した共産党軍はソ連からの武器供給や脱走や寝返りに寄って合流した元植民地兵達を取り込んで
更に勢力を拡大している。しかし、それでもアメリカの爆撃や投入される陸軍は脅威であり徐々に共産党軍を押し込んでいった
順調に戦況が西側有利に傾くかと思われていた矢先、東西両国に衝撃を与える事態が起きる。
それは、国民党政府の要請を受けた日本帝国軍の参戦である。当初こそ、既存のカーストなどの制度を大きく破壊されるとして
共産党と対立し西側諸国に消極的な協力を行ってた国民政府であったが、アメリカの中華民国に於ける蚕食や内戦中に行われた
無差別爆撃等によってインド国民が元々持っていた反西側感情を加速させることなった為である。
本来は介入の口実が無く静観している予定であった日本であったが、インド側からの介入の要請と当時両国に与える影響を考えて
此れを承諾し、信濃を中核とした機動艦隊と陸軍の派遣を開始した。今まで中華での内戦やインド内の内戦も静観していた日本の参戦は
各国を驚かせると同時にインド内戦の構図を大きく変えること事となる。西側ではインド軍からの離反者が増加し沿岸部が離反インド軍に
よって占領され、其処に日本陸軍が合流してインド東沿岸部が日本の手に落ちインド各地でゲリラ活動が発生各地で西側陣営を泥沼の
ゲリラ戦へと引き込んでいく。
そして、OCUからはオランダ製のコンカラーや戦闘機、物資等の支援が送られインド軍を強化が行われ、後のインド国軍の礎になる
勢力が構築されている。一方、ISAと東西勢力との戦闘は西側不利で戦況が動いていた、日本が投入したT-55及びIS-4はアメリカの
配備を始めたM46やソ連からインド共産党へと提供されたT-44に対して優位に戦い、更に日本が新たにオランダから購入した
Jagerが投入されたことによって各地で苦戦を強いられて行く事となる。
602 :ナイ神父MK-2:2016/03/11(金) 23:37:31
朝鮮の現状と溜まる不満
大戦終結後に、ベルン条約によって朝鮮は日米の協議により大韓民国として独立を果たしていたのだが、その領土全体を
日本と親日勢力に包囲されているという実質は日本に従わざるを得ない状況からは抜け出せず、国内は大統領を中心とする親米派
と元日本軍所属の軍との間で真っ向から対立していた。
「米国の力を借り、日帝からの完全なる独立を!」
「日帝は愚かにも我が国を支配し、住民の粘り強い抵抗と連合国の力に屈した」
「アメリカや中華民国と協力して日帝の排除を!」
「満州や南京の住民を悪しき日帝の支配から開放する為に進軍を!」
こうした議会の威勢の良い発言に対して満州にてソ連との戦いぶりや大陸日本から譲渡された強力な
兵器を目にしていた元日本兵からは
「日本とアメリカから払い下げられて此れ(ハ号、M3、M2等)で日本の大型戦車と戦えと?」
「日本の大艦隊が相手では駆逐艦すらまともに無い我々では港湾を破壊されるのが落ちだ」
「そもそも日本から補給路を経たれれば我々はあっという間に干上がるんだぞ!」
「例えアメリカが協力して来ても弾除けにされるに決まっている!」
と言う悲観的とも取れる発言が聞かれているが、実際に韓国軍は日本の方針で強力な兵器が置かれず、アメリカも
日本の勢力圏に堂々と支援は出来ないとしていた。その為、韓国軍の主力は戦後に払い下げられた僅かな軽戦車と日本軍の旧式陸上攻撃機、
そして史実側の戦時急造の松型が数隻の艦隊という非常に脆弱な陣容であった。
一応は日本が残した生産施設や工作機械等を使用し国産戦車や国産戦闘機の開発が進められては居たが、大本の基礎技術や工業力の低い
韓国では上手く筈も無く、さらに戦後日本からインフラの買取の請求が成された為、韓国の財政は更に厳しい物となっていく。そして、
こうした負担の多くは韓国の市民にしわ寄せが行き、反日の土壌が経緯精されてデモや反日運動に繋がっていく。
「日本人は我々を経済的に支配している!」
「大陸から日本を追い出せ!」
「半島は我々の土地だ!」
「日本に奪われた半島の奪還を!」
「日本は半島を支配した35年の支配に対する謝罪と賠償を!」
50年代を過ぎる頃には一部の若い世代や市民からはこうした脱日本支配を掲げる運動が増加し、親日派や日本人と親交のあった
人間が襲撃されることも見られるようになる。そうした中でアメリカが民国政府の土地を自国化して秘密裏に韓国政権と接触を
始めると運動は更に過熱して拡大、遂には韓国全土に広がることとなる。
また、軍内部でも年代が進むことに世代交代が進み反日思想を掲げる派閥が増加し、一部の古株の将校が必死に抑えているという自体が
生まれて行くが、一方で日本も何もしなかった訳ではなく、親日派の将校への支援やインフラ買取の大幅な緩和等宥和政策を行っていた
物の、韓国では受け入れられることは無く恫喝や威圧で抑えようとするも運動の過熱を招く結果となってしまう。
こうした韓国の運動は80年代まで加熱を続け、朝鮮危機と日朝戦争を持って一応の沈静化が行われることと成る。
最終更新:2016年03月12日 17:43