229 :弥次郎:2016/03/13(日) 12:55:12
【ネタ】瑞州転移世界徒然点描1 江戸の制度
この世界において三河譜代の技術者・知識者集団である
夢幻会は、当然のように江戸の町を作る際に史実知識を生かした
介入を行っていた。その開始は一大名である松平の頃から始まっており、小田原攻めの後に江戸への移封が決まる前から
予め事前の調査を行っていた。まだ豊臣政権は続くし、悪目立ちし過ぎれば豊臣家に目を付けられるとの懸念もあり、
細々と道具の開発・生産を行い、松平家とつながりの深い商人として徐々に座を形成していた。松平家が直接戦いに参加するのは
小牧長久手・小田原征伐・明侵攻を除けば数えるほどしかない。曲がりなりにも惣無事令というのは、戦争を抑止する手段としては
かなり効力を持っていたし、北条征伐後の奥州仕置きが済んだ後は実質的に内戦というものは目立ったものはなくなっていて、
政策を打ち出すにはちょうど良い時期だった。
そこで具体的に何をしていたかは、あまりにも多くの分野にわたるためにここでは割愛する。
これ以前からも、松平家がそれこそ吹けば飛ぶような小大名であったころから夢幻会のメンバーは家臣への憑依や史実では
存在しないはずの人間として生まれており、所謂「武家の商い」という当時としては良しとされてこなかったものへの
意識改革を行い、積極的な行動を行っていた。
当時の価値観としては、何も生み出さずに利益だけをむさぼる商人は低い地位とみなされた。
よく言う『士農工商』という言葉は、当時の社会的な階級を端的に表している。
即ち支配階級たる武士がトップに立ち、生産階級たる農民がおり、必要な物を作る職人がその下につき、商人がもっとも低い。
生産に寄与するか否か、というのが重要な視点だったのだ。とはいえ、史実においては幕府の財政が非常に傾いた後には
借金を重ねて、ついには徳政令まで打ち出す羽目になるほどだった。織田信長を筆頭とした大名たちも産業や経済方面に
政策を次々と打ち出して国力の増強を図ったというのは周知の事実だ。とはいえ、政策面ではともかく、経済・産業への
理解と知識が低かったことは言うまでもない。甘く見たといえばそれまでだが、要するにそこに足を掬われた。
さらに、それまでは基本的に「納税」という概念が理解されてはいても、その方法が確立されていなかったのだ。
よく賄賂が広まったとされる田沼時代であるが、彼が導入したのは要するに法人税で、少なくとも江戸時代においては
新しい考え方だった。米の価格が大量生産が可能となったことで下がり、領地と石高の相対的な価値が下がったことも
そういった安定した現金収入を得る制度導入を後押ししたのだろう。残念ながら、完全な普及には至らなかった。
だが、夢幻会は江戸幕府の威信と政治的権力を以てこれに介入した。
宗門改によって戸籍の管理を開始し、それまで曖昧だった地名町名などの登録と地図の作製を行い明確に年を区画化。
一年に一度の戸籍更新の度に所謂住人税をとり、住民票(戸籍)の管理の際には手数料を取り、所謂行政サービスを
提供する場として奉行所が活用され始めた。早い話が市役所などだろう。人口の把握と経済動向の調査に役立つほか、
犯罪者の操作にも一役買っている。さらに、こうした行政サービスの場は役職がない武士に仕事の場を与えていたし、
幕府の情報伝達にも大いに役立っていて、参勤交代で江戸を訪れた藩士たちによって各藩へと伝わっていった。
特にこの考えが普及したのは徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)を中心とした諸藩であり、財政の健全性が長く保たれたのも
徳川に近しい藩が多かったというのが、後の時代における検証結果であった。
230 :弥次郎:2016/03/13(日) 12:56:54
特に貨幣経済の浸透した1700年代直前には、史実よりも早く現金収入を増やす取り組みが始まっていた。
これはある意味夢幻会の努力が裏目に出て、生産技術の更新により農作物の価格が下がったことに起因していた。
つまり、只生産して米を税として取り立てるだけでなく、販売し、流通させ、収入を得る必要に迫られたのだ。
この事実に夢幻会すらも一時深刻に悩んだのだが、ひとまず諸藩に産業を奨励し、瑞州という巨大な市場へと算入させた。
この時代には、すでに産業や経済の中心は京や大阪から江戸に傾いていた。なにせ、瑞州という一大開拓地が東に現れて、
江戸がそれの窓口となっていたのだから至極当然であった。西日本で流通していた銀も徐々に金にとってかわられ、
単位なども江戸にいた夢幻会の考案した両・朱・文から円・銭・厘へと移行され、10進法が採用されて、よりシンプルな
貨幣体制へと移行していった。ここに大きく寄与したのが瑞州の金山の存在であり、常に幕府が一定量以上の金を保有することで、
安定した金本位制を布くことに成功。金を保有し、その価値を担保できるようになったことで夢幻会は一部に金との
兌換が可能な紙幣を一部で導入されていた。夢幻会としてはより広めていきたかったのだが、やはり急速すぎる変化は
混乱を生むし、未だに西日本の商人も影響力を残していた。介入し過ぎるよりも、自然な理解を得ることを企図した。
因みにだが、10進法の導入や全国統一の貨幣の鋳造においても知識の活用が行われたが、ここでは省略する。
こうした動きの中で、民間の間では所謂生活協同組合に似た組織が散見されるようになった。
生産物を共同で商人などを介して販売し、集団で必要なものを購入することでより生産性を挙げ、収益を確保しようという
取り組みが始まっていた(※1)。この動きは徐々に拡大し、幕府も諸藩でも生産高の正確な把握が可能となり、農民が
単なる生産階級ではなく、一種の企業や組織としての活動が活発化していた。これらは順次届け出制となり、所謂法人税の
ようなものが幕府などに収められることになった。これ以降、こうした税の導入は一般へも理解が進んだのか、各所に似た税の
導入が行われた(※2)。
後の時代では、商人が自前の畑を持ち嗜好品や商品作物(紅花やアブラナなど)の生産に励んだり、農民が自ら組織を立ち上げて
販売を行い収益を上げるなど、『士』を除く階級の境目がかなり曖昧になったようである。特に武士も『屯田兵』として
派遣が進んだ瑞州・蝦夷においてはそれらの階級の差別化があまりなく、精々が名字帯刀くらいしかなかったという。
これが、明治期における速やかな政治体制の移行に貢献したと言われるが、明確な証拠はない。
231 :弥次郎:2016/03/13(日) 12:58:32
さて、江戸につきものといえば火事と喧嘩である。
特に火事というのは、江戸という時代において切っても切れない関係にある、極めて厄介な存在だった。
史実ではぶっちゃけて言えば江戸初期は行き当たりばったりであった。より正確に言えば特に区分けなどなされておらず、
組織的というよりは火事が起きた場所で区別されていた。武家は町人の火事に関われないし、その逆もまたしかりであった。
実際に火事が起きた際も中老や大老などの幕閣が人を呼んで対処したというのだから、甘く見ていたとしか言えない。
まあ、警察制度でも武家とそれ以外、寺社で区別されていたのは兵農分離などを勧めたある種の弊害というべきあろう。
身分・階級という概念はとかく差別だとか自由を制限するとかこきおろされることもあるが、統治政策においては
意外と必要になるものなのだ。ましてや、当時の認識では区別という概念は当たり前だった。それを取り払うというのは
それこそ当時の風習も分化も何もかもを破壊して0へと還す必要がある。だが、それでは幕府そのものが崩壊する。
と、いうわけで幕府の中枢にいた夢幻会はさっそく消防制度に取り掛かる……前に、防火対策に乗りだした。
史実においては火を使う時間を制限したり、道幅をとったり、消火槽を設けたりとしていたが、やはり根本的に間に合わない。
なにしろ、紙と木と竹で作られているのが当時の住宅。一度火が付けば瞬く間に広がるし、乾燥すればよく燃える。
ここで物を言ったのは、徳川政権下から始めていた道幅の統一と主要道路の普請だった。
松平元信の江戸入りが確実となったころから、夢幻会は先に江戸に入り測量や干拓計画の下準備を進めていたのだ。
主要な道路を先んじて作っておけば、あとはそこから拡張するだけですむし、その後の開発計画でも主導的な立場を握れる。
地面にはこの時代でも制作可能だった三和土や石灰、一部においてはコンクリートやレンガを敷くなど、三河などで試験を
終えていた舗装技術を次々と導入。その際には側溝や水はけを意識した工事を進めた。水路を巡らせて水運を維持できる
ようにしたし、一部では蹄鉄の導入も推し進めた。
主要な道路を一気につなげてしまえば、それを既成事実として町の区画割も夢幻会の意見を通しやすくなる。
例として、コンクリートや煉瓦を用いた避難蔵、一定間隔で設置される延焼しにくい大型建造物。そして拠点となる奉行所
なども同じように燃えにくい素材を使用した。点在するこれらは延焼を防ぐとともに、避難場所としても活用された。
ここには風向きなども考慮しており、史実における大火の火元となったか所においては特に厳しく実施された。(※3)
さらに道幅を規定し、空き地を設けて避難場所を作っていった。平時には市を開く場所として管理し、災害時には逃げ込める
ようにしたのだ。消防団にしても届け出制にしてその数や状況の把握に努めるなどして、常に災害への備えを行っていた。
ここには、史実で災害時にグダグダになりがちで苦い経験をしていた夢幻会の意思も働いていた。
232 :弥次郎:2016/03/13(日) 12:59:28
そして、肝心の消防制度。
余り当時の風習を無視することは反発を招きかねないとして、まず町ごとに史実におけるいろは組の導入を開始。
また武家にも江戸火消しの役職を設けて、武家屋敷周辺を担当させた。江戸城にも常駐の組織を置き、常日頃から訓練を積ませた。また、銭湯など火を使う店などは届け出制にし、建築基準も細かく定めるなどした。
因みに、既に江戸初期から市井の銭湯において男女の風呂を分ける取り組みが幕閣や有力商人などが推進しており、
史実で言うところの『女学』が早くに取りまとめられて普及したほか、何やら非公式組織が働いていたようであるが詳細は
不明。ただ、女性向けの寺子屋や学習機関がかなり早くに成立しているという事実だけが残されている。(※4)
閑話休題。
史実同様に半鐘や物見台も儲けられたほか、消火槽や消火槽の位置を知らせる看板の設置が行われた。また、史実において
酷評された竜吐水は採用されず、代わりに近くの井戸などから継続して水を組み上げる手押しポンプやスクリューポンプを
積んだ大八車が採用された。これは初期こそ木・竹・皮で作られたが、比州から持ち込まれたゴムが採用されたことで
効率が向上した。また、この時代に消防車をという発案から消防車ならぬ消防馬車が作られ、比州から輸入されたゴムを
贅沢に使ったリヤカーのような消防車両が開発された。これらは道路の舗装がすすめられたことで可能となったもので、
むしろ火事の度に迅速な行動がとれたことを理由に工事を積極的に推し進めた。この工事は1700年代に起こった地震などの
あとにも積極的に進められている。
ちなみに、この仕組みが成立したのは江戸初期であるが、江戸時代に行われた幕府体制の改革時にあわせて指揮権問題や
人材・財源などがコロコロ変わっており、名誉な役職であると同時に得られる収入や利権を目当てに奪い合いが密かに
発生していた。宝暦の大火後の後始末で組織内の問題が表面化。談合や責任の押し付け合いが発展し、刃傷沙汰になったのだ。
これには将軍自らが調停に乗り出し、独立した『厄災取締奉行』が新たなポストとして設立されて決着を見た。(※5)
こうして処々にトラブルや組織的な犯罪などが起こったり、程よく組織として発酵と腐敗を繰り返しながらも江戸幕府は
制度改革を続け、近代的な税収システムと災害対策制度を構築しながら、平和の時代を謳歌していた。
233 :弥次郎:2016/03/13(日) 13:00:38
【ざっくりとした瑞州大陸転移世界の火消】
1.火事発生からのプロセス
↓
- 初期消火(天水桶・貯水槽からの放水) 各地の火消し奉行所(消防署)常駐の消防団が出動
半鐘の音などを頼りに急行
↓
- 延焼阻止(隣接する家屋の解体・家屋に水をかけて湿らせて延焼を遅らせる)
↓
↓
2.利用された車両
消防馬車
江戸初期から導入された消防車両。馬2,3頭に貯水タンクを積んだ荷台を引かせて急行する。
後述のようにメリットに対してデメリットが大きくあまり普及しなかった。
しかしながら、花形と言えるのはこちらである。
とにかく水の搭載量が多い
必要な道具も多く載せていける
重傷者を運ぶのにも向く
長距離移動にも耐えうる
出動までに時間がかかる(水の搭載に時間がかかる)
舗装されているか、道路がある程度すいていない場合到着が遅れる
火を恐れない馬の調教などが必要
コストがかかる
一部の橋に弱い(重量や馬を利用することの弊害)
消防リヤカー
消防馬車と同時期に導入された消防車両。消防に必須となる道具とタンクを積んで現場に急行する。
左右の車輪が独立しているため、カーブにも強い。高い即応性とコストの安さから火消の必需品となった。
ゴムタイヤの導入もあり、全国に普及した。
細い路地にも入れる
即応性が高い
搭載量が少なく、効率が良いとは言えない
馬車ほどでないにしてもタイヤなどでコストがかかる
通報陸舟奔車
所謂自転車。人員の移動や火事の通報に使われる。鐘を後部に乗せており、鳴らしながら注意を促した。
江戸中期にゴムが一般化するまではご禁制で、所有できるのは武士に限られた。
馬よりも維持費が安いためかなり重宝された。
人間以上の移動速度が得られる。
コストは最終的には馬よりも安くなる
民間普及が遅かった
初期費用が高く、許可制だった
234 :弥次郎:2016/03/13(日) 13:01:13
※1
今でいえば生活協同組合や農業協同組合である。それなりにトラブルもあったのだが、1800年代に入るころにはほぼ
日本の領土の殆どに普及していた。特に一部必要物資の値のつり上げなどでトラブルが相次いだ瑞州には多く設置されて
農民の自発的な努力が行われた。組織運営の知識は100文学や農業指導に赴いた夢幻会メンバーの指導の結果、自然形成
されたというのが夢幻会の見解である。後に、地域ごとの取りまとめ組織が形成されて連携が強化されていった。
※2
当時の人口比的に農民はかなりのウェイトを占めており、農協・生協が農民だけでなく町人にも広まったことで
そういった税に触れる機会は多くなっていた。その為、比較的理解を得やすかったようである。
行政側も、貨幣経済の浸透とともに税を現金(若しくは現金にレートがあまり変化せず兌換できるもの)で集めることを
重視するようになっていた。
※3
定期的な査察や建物の各所に発火を知らせる呼子・半鐘・貯水槽の設置、さらに火元周辺にはレンガなどを用いて
延焼しにくい構造を持たせることを義務づけるなどした。
※4
縁切り寺(離婚相談所のようなもの)も全国に広まり、女学校があちこちに設けられた。
郵便制度を利用した通信教育さえも行っていたようである。スペインから伝来したローマ字3文字で表記される組織が
関連していたようだが、残念ながら解明には至っていない。
※5
大工の手配や使用する木材の調達先などで談合と贈収賄が発生、江戸などの大都市の住宅地整備という仕事を巡り、
一時期は武力のぶつかり合いにまで発展した。組織化が進み、重商業的な政策が普及したことの弊害と言える。
また、火消は勤務が厳しい一方で報酬も割高に設定されており、重責ではあるがかなり競争倍率が高かった。
かなり事態は錯綜し、何処の誰かがというわけではなく多くの部署が少しずつかかわっていたことで厄介さが増していたため、
最終的に将軍が強権を振るい収束させた。最終的に火消は独立権を与えられ、権限と同時に厳しい査察を受けるようになった。
関連して何人かが罷免されたり詰め腹を切らされたりした。この事件は後の時代のドラマや小説にも題材として取り上げられた。
新たに編成された厄災取締奉行は
火消奉行(火事を担当)
地揺奉行(地震・噴火などを担当)
水守奉行(河川・沿岸の災害担当)
の3奉行を配下におき、全国にネットワークを持ち、関連する役職を統合する形で再編された。
大都市を中心に支部が置かれ、ある程度の裁量権が認められていた。
235 :弥次郎:2016/03/13(日) 13:02:07
以上となります。wiki転載はご自由に。
はい、というわけで江戸の制度と火消しについて少々。あとは経済と処々の話となりました。
夢幻会が介入したことにより、リヤカーが採用されたり、道が舗装されて馬車が部分的に運用できるなどかなり改善しています。
江戸時代、かなり武士は金に困ったようです。徳政令を出されて十数年分の借金をなかったことにされても余裕だったという
くらい札差に借金を重ねていたとかなんとか……『武士の家計簿』にみられるように、かなり出費を強いられたようですし。
とは言え、彼らに仕事を作ってやらなければなりませんので、今でいえば公務員のようなものをやってもらうことにしました。
所謂お役所仕事ですね。一部では町人などをオブザーバーとしてますし、権現様と将軍公認のマニュアルも配布してますので
彼らとてむげには出来ません。おまけに年金も支給されます。代わりに死ぬほど働いてね?というわけですな。
商売ではなく『御奉公』ですので断る理由もありませんしね。
よって、この世界での武士の収入は
石高(米ないし換金したもので支給)+ 役職分の給与 + 年金+(内職)+(付け届け)- 幕府管轄の保険の料金
となっています。一部では夢幻会メンバーの発案の元ボーナスや有休という制度も導入されていますね。
あとは保険ですね。ちょっとずつ出し合い、誰かが資金難に陥ったら融通しあうような組織が組まれています。
また、史実以上に貨幣制度が普及した分、米による納税が必ずしも有用とは言い難くなってしまいました。
根幹をなすことは変わりありませんが、時価に左右されるのは御免なので、現金による納税も徐々に普及し始めるわけです。
米がメインではありますが、完全にそれには依存せず、多少の不作で致命傷を負うことが無くなったかんじですよ。
まあ、瑞州での稲作がありますから、よほどでないと飢饉にはならないと思いますけどね。
かなり作為的なところもありますが米を根幹とする社会システム運用のリスクを分散乃至回避するには、やはりこうした
米以外の分野が重要ですからね。
今後ですが、描写しきれない部分は短い話にまとめてちょっとずつ上げていこうと思います。
一つの世界間を描くのはこんなにも大変なんですねぇ……と思ったりしながらも、あれこれ調べてる最中であります。
制度の中身についてもいろいろ相談した方がいいと思いますのでその時はよろしくお願いします。
最終更新:2016年03月14日 21:42