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日蘭世界 44年ゲート編 その12
重慶事変と民国政府の敗北
1960年10月
アメリカ市場によって徐々に国内を蚕食され、民衆からも居は成され始めた中華民国は半ば最後の賭けとして
中国共産党に対して一大攻勢を開始した。アメリカに土地を奪われ、行き場をなくした国民も徴兵して150万人近い大軍勢を投入した
この攻勢に対応した中国共産党が応戦するも予想を超えた物量に押されて徐々に戦線を後退させていた。しかし、同年11月に入るとソ連が
共産党側で参戦、更に国民党軍の一部が誤って警戒中の満州軍を攻撃し、其の侭現場の独断で侵攻を開始※1した事から日本と満州・南京が
済し崩し的に戦闘へと突入した。
中国共産党だけではなく、満州帝国とも偶発的にとは言え戦争を開始した事から三つ巴に成るかと思われたこの戦いであるが、満州の
宣戦布告後直ぐにソ連と共和国から日・満・南に対して一時的な不可侵条約※2が締結され国民党政府は1国で4国分の戦力を相手取ることとなる。
一方で民国政府を支援していたアメリカは中華の利権を手に入れる為に本格的な民国切りを始めていた、その前段階として民国政府が後ろを
気にしなくなる様に此れまでは租界中心だった駐留軍を民国の主要な都市や港湾部に派遣して防備を調え、更にインドから撤退していた分の
部隊を含めて戦力を増強していた。
しかし、前線への支援や参戦等による積極的な支援は行われず最終的に中華民国は投入した戦力の大多数を失って、進軍した地域から撤退し
敗北している。その後の講和会議では日本は前大戦での失敗と南京、満州の拡大を警戒して賠償金の請求のみに留めているが、中国共産党
及びソ連は一部領土割譲を求めて交渉を続け最終的に内陸部の四川省等の土地を一部割譲させることに成功している。
そんな中、重慶では租界から追い出された重慶市民や敗戦色が濃厚になり脱走した兵士が暴徒化してアメリカの租界へと流れ込んで
アメリカ国民が多数殺害されている。この事が原因でアメリカ国民の間では民国や中国移民に対して不信感が募り、一部の過激な国民は
報復として中国系や区別が付かす日系、朝鮮系の移民に対してのリンチや発砲事件を起こしている。更にアメリカ政府からは今回の
事変での民国政府の不手際を糾弾して民国内での更なる租界の租借や警備の厳重化が行われ、65年には居る頃には完全な信託統治
となり、70年代に民国政府からの申し入れと言う形で正式にアメリカに併合されている。
民間交流と広がる汚染
終戦後、民間や企業単位での交流も正式に開始された大陸日本と史実日本との交流であったが、技術や人員だけでなくとある思想も
夢幻会の愉快な仲間達と皇軍の人間達によって行われていた。そして、その報告を自室にて報告を聞いていた辻は一人黒い笑みを浮かべて
笑っており、報告に来たMMJメンバーも喜びを隠せていない様子であった。
「いやあ、少しづつMMJメンバーを送り続けていた甲斐がありましたね。」
「そうですね苦節15年、長い道のりでした」
「とは言えまだまだこれからですよ、この調子で向こうにも萌えと女学校に対する素晴らしさをもっと普及させるのです」
「はい、既に向こうの同士に連絡を取り確認していますが準備は出来ているとの事です。」
「大変宜しい、向こうでもいよいよ始りますね」
「ええ、史実に匹敵するコミケが遂に始ります。」
「では、その事は会合メンバーにも伝えます。あなたも退室していいですよ」
「解かりました。では失礼します。」
そうして辻と報告者が退室した部屋には一枚の紙が机に置いたままに成っており、その内容は史実側での大規模なコミックマーケットの
開催を告げるチラシであった。
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史実側でのコミックマーケット開催の切欠は戦時中に徴兵されていた若者達からであった、提供兵器の教導来た教官達同士での日本側の
同人際の話や兵器のマニュアルに載っていた萌え絵から興味を抱いた兵士たちが少しづつ大陸側に汚染される形で影響が広がり、終戦後に
故郷に帰った事から地元の人間へも2次汚染が広がり、55年を迎える頃には既に若年層へ向けての3次汚染が始っていると言う状況であった。
そして55年夏史実側では初めてと言えるコミケが陸海合同及び2次汚染を受けた若年層を中心を主催にして開幕した。
それから時代は飛んで65年夏、戦後史実側が始めた内需拡大とオリンピック為の列島改造計画※3によって誕生した鉄道網によって参加人数は
莫大に増大し遂に一大イベントと言っても良いだけの規模の物を開催させる事に成功している。このコミケによる副次効果として夏と冬に於ける
定期的な収入や税収アップ、陸海の過剰な対立の阻止に効果が出てくることに成るのは時代が下った後である。
なお、このコミケ開催までの裏には陸軍MMJメンバートップである大陸側の石原 莞爾の暗躍があったとされているが真実は定かではない
南北アメリカの動きと戦力増強
インドでの敗戦意向何かと後手に回ることが多かったアメリカであるが、ホームであるアメリカ大陸では既に次の策として、ブラジルやアルゼンチンなどの
親日、親独の南米諸国に対しての圧力が強まり始めていた。具体的な侵攻こそ無かったが、反政府勢力の活発化やチリなどを初めとして親西側の国家からの
挑発行為が散見される様になり、反発を招いていた。
この状況に危機感を覚えたISA側はブラジルやアルゼンチンへと支援を開始し、日本からは大陸オランダから購入したセイラー級駆逐艦を初めとした海上戦力や
アルゼンチンへと提供され、ドイツからはルーデルを初めとしたベテランパイロット達による航空機に対する訓練や行われ更に防衛戦力としてドイツが新型戦車である
パンターⅡ※4がブラジルへ一部供与されるなどISAが日独間の連携を断ち切られないよう動いていたかを感じさせる戦力が提供されている。
この動きに逆に慌てたのがアメリカ陸軍である。アメリカとしてはまだ若干の圧力で済ませるはずであったこの行動でドイツやに日本が過剰に反応して
南米に戦力的提供を行うとは予想しておらず、特に史実より機体の開発が遅れていたアメリカ陸軍から見れば日本の旧式攻撃ヘリやドイツのパンターⅡにしても
大きな脅威と言える者であり焦りは大きくなっていった。
何とか、議会に新型戦車開発※5や戦闘ヘリの開発を通そうとするも、航空機関連は此方の管轄だとしてヘリや航空機に関する予算は空軍から横槍が入り議会からも
現状は先に起きた重慶事件で不安定化した中国の市場を安定させることが最優先として、既存戦力の増産のみでお茶を濁されていた。実際、中華方面は日本が
拡張を控えていることから必然的にぶつかる戦力はソ連の物のみと成ってい為、現状の戦車での対抗で十分であったが日本が離島防衛の為に量産していた
21式(戦後憂鬱61式)に対しては十分とは言えない現状があり政府の方針から離れる新型戦車開発は難航することとなる。
※1:当初は満州事変再来かと満州及び南京の駐留日本軍に本部から何度も問い合わせが行き確認されている
※2:不可侵条約が締結されたが、条約破りをソ連が一度行っている事から、警戒レベルは下げられず戦力が維持されていた。
※3:上記の理由の他に年々大型化していく戦車や航空機に対応するべくインフラの強化や港湾の整備、工業化の推進等が
この先必須であるとして戦後の高度経済成長に近い現象が発生した。その際に災害時の避難所やオリンピック等の
大規模イベント行える会場施設が整備されコミケの大型化に繋がる一因となっている。
※4:ドイツが日蘭から取り寄せた機体を解析してパンターをベースに製作した第一世代戦車であったが、既に第二次戦車への開発の
目処が付き始めていた為、完成後間もなく旧式化したとして知られている。
※5:史実道理であれば完成していたM60が急な中華への拡大による陸・空軍の増加に合わせて製作が見送られ
M48口径の大型化など改良型が製作されるのに留められた。
最終更新:2016年03月29日 20:08