738 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:10:53
ネタSS「憂鬱日本欧州大戦 ー赤熊たちの憂鬱ー」


 1942年の冬季攻勢は失敗に終わり、1943年2月以降はバクー油田に断続的な大規模な戦略爆撃が行われた事により、ソ連の継戦能力は低下していた。当初こそ、連合軍の戦略爆撃を撃退できていたソ連だったが、膨大な工業力に物をいわせるアメリカが参戦するようになるとそうも行かなくなった。ソ連の想像を絶する規模の1000機を超える爆撃機による戦略爆撃は確実にソ連の国力を削っていた。
 無論、ソ連軍も多数の迎撃戦闘機を投入して少なく無い数の連合軍(主にアメリカ軍)の爆撃機を撃墜していたが、アメリカの回復力は凄まじかった。最初こそソ連軍との戦闘による損害と衝撃から立ち直るのに4ヶ月を要したが、次は2ヶ月後、その次は1ヶ月後と段々と間隔が短くなっていた。ソ連はそんなアメリカの回復力に着いていく事は不可能だった。
 何故ならば、アメリカから輸入した工作機械は既に磨耗が進んでおり、これまで生産現場を支えていた熟練工員が戦況悪化に伴う前線への引き抜き等によって工員の質の低下などが起きていた為だった。その為、ソ連の航空機生産能力は既に頭打ちとなり、それどころか低下しつつあった。それは、航空機のみならず装甲車両や武器弾薬についても同様だった。
 また、工作機械に関しては自国製の工作機械や部品で代用したりもしたが、工作精度が低下する事になっていた。少なくともカフカス地方では、空は既にソ連の領域では無くなりつつあったのだ。


 一方で、昨年末から広がった欧州のペスト禍で一時期は盛り返せるかもしれないとソ連首脳部は希望を持ったが、その希望の光はあえなく消え去っていた。10万以上もの死者を出した欧州でのペスト禍だったが、その流行は徐々に下火になりつつあったのだ。
 これは、欧州各国がペストの情報を共有し、一致団結して対処するための枠組みが作られた事が大きかった。連合国では、ドイツや日本も含めて暗号や技術の共有がある程度進んでいた。指揮権に関しても、それまで不定期に行われていた連絡会議を発展させて、42年に連合国軍全体の戦争指導を行う為に、ロンドンに欧州連合国司令部を設けていた。
 なぜこの時期になって統一司令部が設けられたのかと言うと、42年までは防衛戦が主体だった為に統一した司令部はそれ程必要とされていなかったが、42年の大規模反抗作戦開始以降は、各国軍の連携が重要視された結果だった。

739 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:11:53
 話を戻し、ペストに関係する情報は各国国民にも一部公表され、「共産主義との戦い」にペスト対策を組み込む事で、国民の協力を取り付けペストの流行の阻止に成功したのだ。皮肉にも、今回のペスト流行によって、以前よりも更に国民の戦争協力がスムーズに進むようになっていた。
 なお、更なるペストの流行を防ぐに当たって、ボーイスカウトやガールスカウトが衛生環境の向上を訴えたり、ペストを媒介するネズミ等の駆除に参加するなど重要な役割を果たした事は、後に語り継がれる事になる。

 一方で、第一次世界大戦のように、国民の士気を維持する為に情報統制を行うべきとの意見もあったが、各国首脳達はペストの流行の阻止が何よりも重要だと認識していた。

 また、日本が開発したストレプトマイシンがペスト治療に有効であると、当の日本人である魔王辻正信が証明して見せたのも大きかった。ペストは治せる病気であると言う認識が各国に広がった事で情報公開による士気低下はそれ程見られなかった。
 むしろ、ソ連がペストをばら撒いたと言う話が広まると、厭戦感が漂い始めていた国(主にF国)でもソ連討つべしの声を国民が再び高らかに叫ぶようになっていた。
 かつて、欧州ではペストの流行によって人口が3分の2まで激減した恐ろしい過去があった。その為、欧州の人々にとってペストはトラウマになっており、それを戦争に利用したソ連は悪魔のような連中だと誰もが憤りを感じていた。
 その為、欧州各国ではこれまで以上に国民が戦争に協力する光景が見られるようになった。


 それとは逆の状況に陥っていたのがソ連だった。ソ連でも捕虜や密売商人などを介してペストが流行し始めていたが、ソ連政府は情報統制を行ってその事実が国民に知られないようにしていた。
 戦況はソ連にとって不利であったのだが、政府はそれをひたすら隠していた。とは言え、全てを隠す事は出来ずに国民達は薄々とだが祖国の置かれた状況に気が付き始めていた。なにせ、食料を初めとする各種物資の配給量が減り続けていたのだ。
 そんな中でペストの流行が知れ渡れば、継戦能力が著しく低下するとスターリン以下は考えており、それを防ごうと情報統制を行っていた。
 この情報統制は、ペストの流行を広げる事になり、偉大なロシアの大地の一部となる人間を多数出す事に繋がることになる。

740 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:13:00
 欧州でペストが流行している間も、連合国とソ連との戦争は続いていた。昨年から始まった連合軍の大反抗作戦でウクライナやポーランドなど東欧の殆どを失ったソ連軍は何とか防衛線を作ろうと各地で奮闘していた。
 冬将軍の到来で一息つけたのもつかの間、筆髭の命令で無理な反抗作戦を強いられたソ連軍だったが、主にフランス軍が防衛を担当するレニングラード奪還に向けて動いた。連合国の中で、フランス軍は最も装備が貧弱であり、士気も低いだろうと考えられていた事もあるが、レニングラードを奪い返さなければならない理由があったのだ。


 ソ連の主な輸送手段である河川交通は、最早以前ほど安全ではなくなっていた。。既にドニエプル川やドン川はほぼ連合国軍の手中に落ち、各地で防戦していたソ連軍は物資不足で撤退するか降伏するか、そして全滅するまで抗戦するかのどれかを選ばされた。多くの場合、督戦隊によって全滅するまで戦わされた。後退は敗北主義者のすることであり、敗北主義者はソビエト連邦には必要とされていなかった。

 そのような状況下で、更にレニングラードが陥落した。レニングラードはマリインスク運河の始点であり、中心部を流れるネヴァ川はラドガ湖へと繋がっており、更にスヴィリ川を通じてオネガ湖へと繋がり、そこから更にノヴォマリインスキー運河を通じてベロエ湖に繋がっていた。
 そして、ベロエ湖からはヴォルガ川の支流のひとつであるシェクスナ川へと通じていた。シェクスナ川に出れば、ヴォルガ川を通じてゴーリキ(ニジニ・ノヴゴロド)やモスクワ、更にはスターリングラードへも進出する事が出来た。

 つまり、レニングラードを奪い返さなければ、連合軍はソ連奥地へと自由に進軍出来るようになるのだ。それを阻止する為に行われたレニングラード奪還作戦だったが、あえなくソ連軍の失敗に終わった。
 フィンランド軍や日本軍が奮闘したからとか、ソ連軍の準備不足だったからだとかと言われているが、最大の理由はフランス軍が装備と士気両面において素晴らしく高い水準にあったからであった。
 これまで幾度として他国の脚を引っ張ってきたフランス軍だったが、42年末にもなるとようやく連合軍でも平均的な水準の装備を持つ事ができていた。更にはそれを支える兵站にしても、アメリカからの各種自動車の購入や自国生産によって十分な量のトラックを確保できていた。
 更には、仏国面の真骨頂ともいうべきシトロエンTPV(後の2CV)の大量生産が始まっており、簡素ながらも頑丈なこの自動車は、アメリカのジープと並んで連合国を勝利に導いた偉大な兵器の一つとして数えられる事になる。

 なお、2CVには自走ブリキ缶やら自動乳母車などと言う不名誉なあだ名が付けられたりしたが、当のフランス人達は「米英独は俺達の自動車に嫉妬している!」などとして意に返さなかったという。(実はこれらのあだ名を付けたのは当のフランス人達であった。)



 それは兎も角、ソ連軍による冬季反抗作戦を跳ね除けた連合軍は、フィンランド湾やラドガ湖等の氷が解けた4月に入ると次々と艦艇をマリインスク運河へと送り込んだ。
 各国の保有する河川砲艦や舟艇に加えて、ドイツからはSボートやT22型水雷艇が、イギリスからはMTBや改造砲艇、イーグレット級を初めとするスループに加えB級駆逐艦が、フランスからはラ・メルポメーヌ級水雷艇などが続々とネヴァ川を航行していった。
 日本海軍の第3次遣欧艦隊は既に撤収しており、残念ながら参加する事は叶わなかった。遣欧艦隊司令長官を務めた山本五十六は、黒海艦隊とムルマンスクに本拠地を置く北方艦隊を潰滅させた功績により大将へと昇進していた。
 海軍の主流派から外れたにも関わらず腐らずに努力を重ね、残敵処理に近いとはいえ第3次遣欧艦隊司令を勤め上げた上に、前述の業績を残した事で、山本が何らかの役職につくのではないかという噂が立っていた。

 それは兎も角として、ネヴァ川を通る船舶の中には戦闘艦艇のみならず輸送船も少なからず存在していた。これらの船には各種物資や将兵が乗り込んでいた。彼らはこれからマリインスク運河とヴォルガ川を通り、重要拠点であるモスクワとノヴゴロドへ侵攻する為の地ならしとして、各地の関門や拠点を確保する任務に着く事になっていた。
 南方ではスターリングラードが連合軍の包囲下にあり、バクー油田は爆撃によりその生産能力を低下させていた。アメリカ風邪は着々とソ連国内に広がり初めており、最早ソ連が勝利する可能性は一欠けらとも存在してはいなかった。

741 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:14:02
 1943年5月、レニングラードを後にした小型艦艇からなる艦隊は、ネヴァ川を順調に進んでいた。連合軍の支配地域はラドガ湖の西側湖岸までだった。
 ラドガ湖自体の支配権は連合軍が握っているものの、ラドガ湖を抜ければソ連軍が未だ支配する地域だった。その為、ラドガ湖からオネガ湖へと続くスヴィリ川周辺の支配権をどう奪うかが、連合軍の進撃を進める上で重要な鍵となっていた。

「これまでの所は順調だな。」

 イギリス駆逐艦コドリントンの艦橋で、艦長兼駆逐群(フローティラ)司令の大佐は緊張した面持ちで呟いた。
 現在、彼が指揮下に収める9隻の駆逐艦からなる駆逐群は、スヴィリ川へと侵入を開始したところだった。両側の川岸には戦車や兵士が乗ったトラックが川と平行して移動しており、上空には戦闘機や爆撃機が警戒に当たっていた。
 また、魚雷艇や砲艇砲艦が前方を偵察しており、後方のラドガ湖にはバルト海から持ち込んだモニター艦ロバーツとアバークロンビーが15インチ連装砲で支援していた。今の所は敵の姿は見えなかった。
 3日前ににラドガ湖の東側湖岸に上陸した連合軍だったが、ソ連軍の抵抗も空しく僅か6時間程度で東側湖岸は陥落した。と言うのも、ロバーツの15インチ砲による艦砲射撃によって、およそ10万程度のラドガ湖東側湖岸を防衛していたソ連軍が構築していた陣地ごとが破壊されたためだった。
 ソ連軍も重砲を用いて反撃を行ったが、湖岸から20kmの距離を置いて砲撃して来るロバーツとアバークロンビーの手前にソ連軍の撃った砲弾は空しく落下するだけだった。砲兵陣地が沈黙すると、今度は駆逐艦や河川砲艦も加り3時間に及ぶ艦砲射撃が行われ、防衛していたソ連軍のほとんどははロシアの大地の栄養となってしまった。生き残った将兵も、圧倒的な火力の前になすすべもなく蹂躙され、降伏することになった。

 そして、東側湖岸に上陸したフランス軍とイギリス軍、少数だったがフィンランド軍や日本軍はスヴィリ川に沿って進撃した。ソ連兵の生き残りによる襲撃も行われたが、スヴィリ川に進出した河川砲艦や砲艇による砲撃や、上陸した戦車などの装甲車両によって叩き潰された。何よりも、スヴィリ川の制河権をほぼ手中に収めた事が大きかった。兵数でも兵站でも部隊の機動性に関しても連合軍の方が上だった。

「オネガ湖までは敵はいないようです。いても少数でしょう。警戒は必要ですが、そこまで気負う事はありません。
 問題はオネガ湖より先です。航空偵察によれば、閘門の一部が破壊されているようです。これを復旧するには少なくとも1週間はかかるでしょうから、ソ連軍の襲撃もありえます。オネガ湖までは何とかモニター艦も行けますが、それ以上は砲艦艇と駆逐艦などしか進めません。
 火力が必然的に下がりますから、こちらも相応の被害を受ける事になるでしょう。」

 通信長の言葉に艦橋に詰めている将兵達は深く頷いた。マリインスク運河の途中には幾つもの閘門がある。これを破壊されれば、船はそこから先には進めなくなる。修復工事をする為に工兵部隊や工作船も用意しなくはならないし、それを護衛する部隊も必要になる。艦も当然火力支援を行うが、下手に攻撃を受けて沈没されたら大変な事になってしまう。

「そうなると艦隊はオネガ湖に暫くいる事になるな。」

「フィンランド軍やフランス軍がオネガ湖北部を、我が軍とフランス軍が南部に進出し防衛に当たる予定です。」

「魚雷艇を持ち込まれたり、陸上から砲撃されてはたまらんからな。」

 オネガ湖は琵琶湖の約15倍ほどの大きさの巨大な湖であったが、所詮は湖であり攻撃を受けた際にまともな回避行動をとる事など不可能だった。
 その為、関門の修理する間、オネガ湖周辺へ各国陸軍が展開し安全を確保する予定だった。無論、各種艦艇もそれを支援する事になる。

「しかし、このままでは年内にモスクワに到達するのは難しそうだな。」

 10月になれば、この付近の湖や川は軒並み凍りつく事になる。それまでに、どれほど進めるかが重要になるのだが、今の状況を鑑みるとモスクワへの道のりはまだ遠いようだった。

742 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:17:18
 1943年6月、東京にあるこじんまりとした焼肉屋で夢幻会の会合が行われていた。今回の会合に出席している者立ちの顔は、皆総じて明るかった。

「スターリングラードが陥落、これでカスピ海への道は開けたか。」

 田中情報局局長の報告を聞き終わった東条は、ひとつため息をつくとにこやかな顔で戦争の終わりが近づいてきたことを実感した。
 連合軍はスターリングラードを包囲したのち、ドン川の50km上流で砲艇を分解して陸路ヴォルガ川へと運び込んだ。これにより、ヴォルガ川の河川交通を脅かされたソ連軍は、物資や食料弾薬などに不足をきたすようになっていた。
 勿論ソ連軍も航空機や舟艇を使ってヴォルガ川から連合軍を追い出そうとしたが、連合軍も同様に航空機を繰り出し、砲艇や魚雷艇改造の舟艇を更に運び込んで対抗した。
 そうこうしている内に、連合軍は物資不足から弱体化していたソ連軍を撃破し、スターリングラードを攻略せしめたのだった。

 スターリングラードが陥落し、戦争終結への道筋が見えてきた為、日本がシベリア横断1000km以上という難事業をしなくても良くなると思ったため、東条はついつい安堵のため息が出てしまった。ソ連極東軍は相変わらずバイカル湖周辺に引きこもっており、陸軍は航空攻撃を主体としながら地上部隊を(インフラ整備をしながら)ゆっくりと前進させていた。
 兵站上鉄道は必要不可欠な存在だったが、戦後にシベリア鉄道の経営権を一部でも獲得する為の布石でもあった。シベリアが天然資源の宝庫である事を知っている夢幻会としては、是非ともシベリア方面に影響力を残しておきたかったのだ。(とは言え、シベリアを割譲などされてはたまらなかった。)
 しかし、ソ連軍は小部隊を用いて鉄道修理に当たる工兵隊や輜重に対してしばしば襲撃をかけてきていた。それらを守る為に、部隊の増強や偵察の強化、航空機による援護等を行っていた為、兵站にかなり無理がかかってきていた。
 また、それが原因で鉄道の修復に遅れが目立ってきており、このままのペースだとバイカル湖周辺に到達出来るようになるのはかなり先になる可能性が濃厚だった。
 また、補給難や劣悪な環境化での戦闘や鉄道の復旧工事は、前線の将兵の士気低下や軍規頽廃を引き起こしつつあった。
 その為に、夢幻会内部では「史実のシベリア出兵の再現ではないか!」とする声も続出しており、一度撤退すべきだという意見すら出ていた。

「西と北、更には南からもモスクワへ圧力をかける事が出来るようになった。ついては、バイカル湖周辺への進出は一時中断したいと思うのだが。」

 東条の提案は全員賛成で、これ以上の進出は行わない事となった。勿論、ソ連軍の誘引のためにバイカル湖後方の鉄道への爆撃や小部隊を用いての襲撃は継続する予定だった。


「スターリングラードを連合軍が攻略したことにより、ソ連はより深刻な石油不足に陥る事になります。」

 東条の言葉に出席者達はうんうんと頷いていた。史実太平洋戦争後半で日本が石油の確保に苦労したことを考えると、スターリングラードの攻略とバクー油田への爆撃は非常に大きな意味を持っていることを皆理解していた。

「それに加えて、ヴォルガ川に続々と連合軍は河川砲艇を送り込んでいます。北方から進出している艦艇も多く、最早勝利は揺るぎありません。」

 ヴォルガ川には続々と連合国各国海軍の小艦艇が進出しており、ヴォルガ川は今や河川砲艦艇と小型艦艇の万国博覧会状態だった。ソ連軍も河川砲艦やカスピ海の小型艦艇を引っ張り出してきて迎撃しようとしていたが、石油不足に陥るソ連にそれに対抗する力は無くなっていくだろうと考えられた。

「機雷や沿岸からの砲撃、空爆などで被害も相応に出ていますが、最早ソ連軍に往時の戦力はありません。
 最も、カスピ海ではかなり苦戦する事になるでしょうが。」

 ヴォルガ川は幾ら大きいといっても所詮は川である。移動できるルートは決まっている為に、そこに機雷を仕掛けられたら迂回することも出来ないので掃海しながら進むしか方法は無かった。
 幸いスターリングラードを攻略したことで、現地の造船所も一部確保する事が出来ていた。ドン川から分解して運び込める艦艇の大きさや数は一気に増えるだろうと考えられていた。
 また、カスピ小艦隊に対しては各国の海軍航空隊が投入されれば、そこまで苦戦することもないだろうと予想されていた。

743 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:18:30
「欧州方面の事は終わりとして、次はインドの情勢について報告します。
 ・・・はっきり言って、アメリカは完全にインドと言う泥沼にすっかり嵌ってしまっています。」

 アメリカは昨年末以降、インドへと上陸をしていた。イギリスからの引継ぎは未だ続いていたが、最早アメリカはインドの新たな主だった。
 そして、アメリカはフィリピンや中国同様、早々にやらかしてしまっていた。

「まさかガンジーを死なせてしまうなんて・・・。」

 そう、アメリカは何とインドへ上陸して早々ガンジーを獄中死させてしまったのだ。在印米軍司令官に就任したダグラス・マッカーサーとしては、独立派の主犯であるガンジーを押さえ込み統治を出来るだけ容易にする目的があったのだが、ガンジーはそれに対してハンガーストライキで対抗した。マッカーサーはその内根を上げて協力的になるだろうと楽観視してそれを放置していた。それが間違いだった。
 ガンジーは瀕死になるまでハンガーストライキを続け、それを知ったインド人達が暴動を起こした過去を余りにも甘く見ていたのである。ガンジーはハンガーストライキを1ヶ月にも渡って続けた末に、衰弱死してしまったのだ。
 そして、それを知ったインド人達は怒り狂ってアメリカ排斥運動を始めた。同時に、それまでガンジーの元纏まっていた独立派は分裂した。分離独立派と統一独立の対立は徐々にエスカレートしており、インド西部での赤軍との戦闘や宗教対立、更には昨年末から続く食糧不足も相まって、これまで比較的秩序が保たれていたインド東部も混乱の兆しが見え始めていた。

「まあ、インドの面倒ごとはアメリカに片付けてもらいましょう。イギリスも高みの見物を決め込んでいるようですし。
 イギリス軍はイランにかかりきりですし、アメリカは存分にインドの泥沼に嵌れるでしょう。」

 嶋田の苦笑交じりの言葉に、幾人かの出席者が笑い声を上げた。アメリカがインドでも泥沼に嵌ってくれると言うのなら、日本にとってはそれはこれ以上ないほどの吉報だった。中国ではアメリカ(+国民党)は共産党を追いかけているうちに、他の軍閥とも衝突してしまい内戦が続いていた。
 アメリカの持つ異常な国力を中国やインドへ向けてくれた分だけ、日本はアメリカとの対立を避ける事が出来るので、インドや中国にアメリカが深入りすると言うのは手放しで喜べるニュースだったのだ。

744 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:20:02
「そのイギリスですが、どうやら色々と置き土産をおいて言ったみたいです。各地で起きているテロや米軍への襲撃では見たこともない銃や武器が使われていると言う情報が・・・。」

 そう言って田中が出席者達に差し出したのは数枚の写真だった。何故だか若干顔が引きつっているようにも見える。
 イギリスはインドを去る際に、保有していた兵器武器の類を多数廃棄していた。ほとんどは旧式兵器だったが、それらを廃棄と偽って現地人に譲渡していたのだ。
 それらの武器を用いて敵対派閥やアメリカ軍と戦闘している様子が写っている写真を、代わる代わる見ていった出席者達だったが、ある写真を見るや否や突然噴き出して絶叫を上げた。
 何だと思って嶋田もその写真を覗き込むと、そこに写っていた銃を見て目を疑った。

「す、ステンガン・・・だと?」

 そう、この世界では日の目を見る事はないと思われていたステンガンがそこには写っていたのだ!イギリスは急激な軍拡の為に、小火器不足からドイツのMP38/40をライセンス生産していた。その為に、ステンガンは開発はされた物の量産される事は無く、歴史に名を残す事は無いと思われていた。
 だが、インドでステンガンが出回っているというのだ。

「こっちはバズーカ・・・いや、この形状はもしかしてPIAT?」

「これは・・・何だ?木箱が付けられた荷車に乗せられた竹槍?」

「こいつは!?対空噴進爆槍、対空噴進爆槍じゃないか!」

 ステンガンの他にも目を疑うような珍兵器が写真に収められており、出席者達は暫くの間混乱する事になる。

 これらの珍兵器は、インドの貧弱な生産設備でも生産可能な物ばかりであり、水道管のお化けである”ステンガン”(黒色火薬使用)、筒とバネで簡単に作れる簡易迫撃砲もどき”PIAT”、竹槍と黒色火薬で作られたロケット竹槍”対空噴進爆槍”等などの、一部のオタク達からすれば喜色を上げるような代物が揃っていたのだ。
 そして、以外にもこれらの変t・・・変わり者の兵器は、武器を持たないインド人達にとって貴重な物だった。また、きちんとした銃火器類もイギリスはうっかりとインドに置き忘れており、それをたまたま手に入れたあるインド人は歓声を上げたという。
 こうして、インドの混乱はイギリスも予期せぬスピードで拡大しており、イギリス人達はそれを観ながら今日もイギリス料理を美味しく食べていた。

 のちに、この時代のインドを指して”英国面の実験場”と呼ばれる事になるのだが、それはまた別の話である。



おわり

745 :Monolith兵:2015/09/30(水) 22:20:57
 こちらではお久しぶりです。およそ1年ぶりの更新です。これからは何とか更新を続けていきたいと思っています。
 後数話で完結の予定ですので、気長にお待ちください。
戦後夢幻会の話ばかりの中に投稿するのは少し勇気がいりました。)

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最終更新:2016年03月30日 22:04