729 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:25:21
【ネタ】瑞州大陸転移世界徒然点描5 比州開拓、繋がる国々
比州と名を与えられたフィリピン。
朱印船によって日本人が進出しつつあった東南アジアの中でも、明確に日本人の領土となったここは、
比州探題という役職を設けて、移民を希望した住人から比州藩が成立した。特に長崎以上に東南アジアとの貿易の拠点となり、
スペインとの交易も行われる重要な都市だった。ここは、日本人を編成する大和系日本人(本土)、瑞州系日本人
(アボリジニやハワイ人との混血)、比州系(フィリピンを中心とした東南アジア系)のうち、特に比州系の日本人が
生活する地域であった。
この比州系日本人のルーツと言えるのは、現地の多様な住人たちと、フィリピンを買い叩いてスペインの後釜に納まった
日本人の移民集団にある。一部には現地に残留したスペイン人もいたのだが、概ね日本人の人口がマニラ約款の成立後は
急速に増えていったのでほぼ除外して考えてもいいだろう。
1620年代から瑞州へと向かえない西国大名、特に九州四国の大名は幕府公認の元で比州開拓に乗り出していた。
特に特産と言えたのがゴムと香辛料・さらに本土で育ちにくいバナナなどだった。また、瑞州ほどでは
ないにせよ鉱物資源もあり、気候的にも稲作の導入が容易でさらには木材も得られるという資源地帯だった。
この比州の文化もこれが影響してなのか、自ずと西日本や九州の影響が多く見られるようになっていった。
現地土着の文化とスペイン風のそれをベースとして、日本なりの解釈をしたものといえば正確だろう。洋風のドアの採用や
柱や天井などの装飾、クローゼット、テーブル、絨毯、暖炉といった洋風の装飾や家具は本土へも輸入されていった。
特に絨毯やソファー、暖炉は蝦夷州(北海道)開拓や北部瑞州の開拓時に大きな効力を発揮した。
日本の家屋は基本的に夏を前提に構築される。湿気や厚さを逃がす構造なのはそういった理由も絡んでいる。
そこで、ヨーロッパ方式の導入だ。煉瓦などは普及していたが、比州を通じて日本に入国してくる技術者たちの協力も
得ながら、西洋建築は日本国内に徐々に広まりつつあった。
また、西洋風家具が市井にも広まったことで日本は欧州からの輸入品として家具・芸術品という分野が開かれた。
たしかに
夢幻会の知識を以てすれば日本国内で製造は簡単だ。しかしそれはあくまでも模倣品に過ぎない。本家にしか
持ちえない美的センスや技術の積み重ねというものがあるし、どうやっても日本では再現不可能なものだってある。
それに、夢幻会でも本家である西洋の物品を集めたいという願望は強くあった。
730 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:26:01
これをきっかけとして、比州を経由した欧州各国との交易には家具・芸術品という品目が新たに加わった。
江戸期に日本へと入ってきた洋画は、多くが比州を経由していた。当時のヨーロッパで流行したロココ様式・バロック様式が
輸入されてきた。製紙技術の発達もあって、西洋風の技法が徐々に導入されてより写実的な画風が生まれつつあった。
当時の日本の絵画というのは、よくイメージされるように人をどことなく抽象化して書いたような印象を受ける。
まあ、あまりにもそっくりに描いた場合色々と迷信がささやかれることもあってそういった方向へと日本絵画は進化したのだろう。
ともかく、日本の芸術界に新しい風が吹いてきたのは間違いない。
芸術的な観点から言えば、この世界において所謂ジャポニズム(日本趣味)が史実よりも200年以上も前倒しで発生した(※1)。
当時の画家たち、例えばエル=グレコ ベラスケス フラゴナール ワトーなどの著名な画家たちはこぞって日本から
得られた浮世絵の模写に取り組んだり、水墨画の技法を取り入れたりするなど変化が見られた。
音楽においても、木魚、琴、八尺、太鼓、笛、三味線が海外へと輸出されていき、珍しい品として高値で取引された。
残念ながら、通常の楽器よりも高値なためか一般化は進まなかった。とはいえ、欧州の王族・貴族においてはステータス
シンボルの一つとして持っているだけでもかなり価値はあったようだ。同時期における音楽家たちも、西洋楽器にはない
音色を生かせないかと、かなり試行錯誤を重ねたようだった。また1851年にロンドンで開催された万国博覧会にも
当然のように出品されていた。
他方、日本において西洋建築が普及したのは、江戸を筆頭とした大都市が中心だ。他には長崎・神戸・横須賀・大阪といった
交易都市にも徐々に増えていく。そこにはやはり海外との交易をおこなう上で西洋人をもてなす際に必要となる傾向にあった。
どちらかといえば和洋折衷なところもあるが、概ね西洋のそれと遜色ないものが仕上がっていて、むしろ西洋から見れば
日本風にアレンジされた自国の建築として好評だった。日本の美的センスを西洋風に表現することは中々に難しい。
だが、それ故に西洋の考え方では考えつけないセンスにあふれているということだ。逆に西洋へと輸出されるくらいであった。
他にもガラスの加工技術において先取り知識がある分、日本は欧州といい勝負を繰り広げていた。ガラスは日本本土では
あまり普及しなかったのだが、瑞州北部や蝦夷州では窓に使われたし、本土においてもランプや装飾品・家具に使われる傾向にあった。
他にも望遠鏡や簡易の顕微鏡なども生まれており、主に学者の間で重宝されていた(※2)。
この硝子技術の発達は、後述の医療分野の発達にも大きく貢献していた。
731 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:27:01
とはいえ、現地に付き物のマラリアなどの感染症が猛威を振るったことは言うまでもない。
人の行き来があるということはその病気を持ち込む可能性があることと同義である。そのため、幕府は八重山諸島に
一時的に船員達をとどめ置かせる施設を設け、本土への流入を可能な限り阻止する取り組みを始めた(※3)。
根本的な治療の方法が開発されるまでそれなりに時間を要したのだが、蚊帳や蚊取り線香を使用し、蚊に刺されないように
するなど徐々に対策は進んだ。現代ではあまり重視されていないそれらだが、現代インフラの整っていない時代においては
かなり大きな効果を持つ。患者を蚊帳の中に入れておけば、それ以上の蚊を介した感染拡大を大幅に抑えることが出来る(※4)。
所謂除虫菊の探索も進められていたが、この頃では代用となるガマの穂を使った蚊取り線香が急速に普及した。
なぜか。これは日本全土にガマの穂が既に存在したためだ。日本神話において因幡の兎の説話にも出てくることからも
その伝来というのはかなり古く、おまけに日本人に近いものなのだろう。勿論、これは除虫菊のようにはいかない。
だがその生育可能地域はとてつもなく広い。それが普及を強烈に後押しした。樽の製造時にも活用できるし、薬にもなる。
決して無駄になるところはない。
比州で流行した他の病気としてははコレラ・ジアジルジア症・腸チフス・パラチフス・食中毒・結核・テング熱・ペストなどがあり、
入植した日本人の多くが感染してしまったようである。幸いにして経口補水液(生理食塩水)の補給の方法や技術などは
普及していたために、重症になっても命を簡単に起こす事態は徐々に減っていった。また、戦略物資でもあるゴムを得るために
幕府だけでなく諸藩や商人たちも積極的に投資や教育を続けており、国家を揺るがすほどの
パンデミックは殆ど起こらず、
沈静化させることに成功していたようである。
ここには海外への進出に先駆けて教育を一律に行い、疫病対策を民間レベルでも推し進めたことが功を奏していた。
多くの感染症は虫を媒介して人から人へと移る。逆に言えば衛生状態を良いものに保ち、虫を物理的に弾き続ければ
相当減らすことができる。とはいえ、相応に権力を使って強引に対策せざるを得ない所もあったが、概ね比州の本国化は
成功したといってよいだろう。現在においても、感染症患者向けの隔離室を持つ病院や施設が多いのも、比州ならではと言える(※5)
この頃には、シャーレ フラスコ 試験管 ビーカー メスシリンダー ピペットといったガラス製の器具は医学界に
おいてかなり広まっていた。これらの道具は一部代用品を含みながらも概ね未来において使われるそれと同じであり、
薬品の調合・分析・保管にはかなり使われていた。そしてそれらの道具を活用して感染症対策のためにワクチンの
開発が始まった。天然痘などと同じような手段であったり、前世においてそういった医薬品開発に携わっていた
人物が中心となって推進されたこれは、すぐには効力を現さなかったが少なくはない改善を生んでいた。
732 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:28:31
さて、マニラ約款の成立後、日本の入植はスペインの行っていた入植地域を新たに再開発していく形で進んだ。
北部のルソン島やスペインから購入したセブ島を中心に、日本人と日本人とフィリピン人の混血が全土に広まり、
概ねフィリピン全島が日本の領土となった。ただし、フィリピンの全てといっても、日本人は現地の勢力との敵対を避けるべく
マギンダナオ王国の存在したミンダナオ島やスールー王国の置かれていたスールー諸島などには手を出すことなく、
友好関係の構築に全力を挙げていた。
こんな言い方は失礼なのかもしれないが、やはりイスラム教には戦いをいとわない面がある。
史実現代において欧米との軋轢があるのも、数百年以上続いた歴史と伝統を堅守しようという動き故だ。世界的に見れば、
日本のように短期間で西洋文化と自国文化の融合を果たしたほうがレアなのであって、
ある意味、日本の武士の考え方「侮辱されたら、何らかの方法で雪辱を果たす」と似ているといえば似ている。
ともかく、迂闊に動かない方がよいというわけだ。
後に友好条約の締結や民間レベルでの婚姻の成立も起こるなどしており、日本人との緩やかな
同化が進みながらも、イスラム教を広める国としてその後も存続していた。パラワン島に関してであるが、現地住人を日本人が
ほぼ吸収したことでほぼ全島が日本の領土となった。一部は先んじて史実のスプラトリー諸島へと入植し、領有を宣言。
遠い将来における資源地帯をあらかじめ抑えるべく動いた。資源が欲しいというのもあるが、南シナ海の制海権を
日本が主導的に握るにはスプラトリー諸島であっても重要なのだ。史実において中国が艦隊や戦力を置けるように
しているのも制海権や海上における通商路を維持するのに重要だと考えているためだ。そういう意味でも、ここを抑えておきたかった。
また蒸気機関の発達した1750年代以降には比州を経由してグアム、マリアナ、カロリン諸島、ギルバート諸島へと次々と入植し、
領土へと編入していく。これはやがて南瑞州海(南太平洋)を勢力圏に組み込むことにつながって、戦略物資の生産や
将来的な海上通商路に影響を与えることから、比州同様に本国化が推し進められていった。それらでは鉄道の普及こそ
遅れていたが、それでも道の舗装乃至整備などインフラの構築が進んだ。特に馬車鉄道は線路さえ設置出来ればそれほど
大きなインフラは必要とはならない。貴重な労働力として馬は重要視されるようになった。他にも、衛生環境を改善
するための医療施設や今でいえば保健所のような衛生管理奉行所が設置され、土着の病気や日本から持ち込まれた病気に
対して対策を打っていった。また、この奉行所や医療施設は入浴設備や食中毒を防止する知識の普及に努め、病気に
かかりやすい風土に合わせた対策を進め、日本本土と同程度には改善を進めた。
733 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:29:11
マギンダナオ王国とスールー王国のその後について語ろう。
どちらの国もイスラムの国であり、
アジア進出の足掛かりを必死に探していた
アメリカが、派遣労働者に紛れ込ませた海兵隊に
よってクーデターを目論むも、あっけなく阻止された。そもそも日本にしてみればアメリカが日本の東南アジア領に存在する
ほころび(に見える)二国にちょっかいをかけてくることは明らかであり、予め警戒していたのだ。
というか、史実を知る夢幻会からすればその方法はハワイを奪う際にやった方法であるし、二番煎じもいいところで即座に潰せた。
そもそも、アメリカはイスラム教の国家を甘く見ていた。マキャベリが述べた国家の体制の内、イスラム教を基礎とする
国家は内部での結束が固く、寝返りや内通などが期待できる国ではないのだ。あくまで交渉には応じるが、敵と分かれば
容赦はしない。中東という過酷な環境で誕生した宗教故に、そういったところは苛烈なのだ。
両国も日本からの警告もあって兵士をあらかじめ用意しており、クーデター発生後にすぐさま海兵隊が制圧され、
臨時政府代表の商人の船や家屋を制圧。身柄も確保した。この際に日本は両国へと義勇兵を派遣。また、アメリカからの
増援を阻止するべく海軍によって周辺海域を封鎖した。交易船の護衛目的で突いてきていた艦隊と一次にらみ合いとなるも、
不利を悟ったのか米艦隊は撤退。1899年に起こったこの事件は『ミンダナオ・スールー事変』として記録された。
この事件をきっかけにアメリカの西方へのフロンティアを求める動きは大きな躓きをしてしまった。後に発生した
ハワイ事変の後にはもはやアジア方面へと関われないとあきらめがついたのか、アフリカへとその勢力を伸ばさんとしていった。
この事変を通じて日本からの技術獲得を進めていた両国は自国単独での近代化と近代軍の整備に限界があると痛感。
日本と連携を強めるべく新たに日真須(日本・マギンダナオ・スールー)相互貿易協定と友好通商条約を新たに締結。
両国が日本の支援の下で近代的な陸海軍の整備を始めた。この両国は史実とは異なり21世紀を迎えてもなお存続。
日本の同盟国の筆頭として存続していくことになった。
734 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:31:39
※1:
単純に音楽・絵画だけでなく、思想・政治。学問にも大きな影響が及んでいた。
日本の政治体系を研究したロックは、日本が自然権を伝統的に最高主権者(天皇)へと預け、その時代における
最有力者(将軍)に最高主権者がその国民や国家の自然権をゆだねる体制をとっていると分析した。欧米において
その最高主権者は存在しているとは言い難く、それ故に国民自体が最高主権者となり支配者であると同時に被支配者に
なるべきだと論じた。それ故に国民というのは革命を起こして国家を変えることを是とすべきだ、と主張した。
また、アダム=スミスは諸国民の富において所謂「神の見えざる手」を論じたが、日本においては一般化していた、
「経済主体は時として政治の思惑を超えて行動するため、権力者はこれを強い権限を以て正さねばならない」という
統制型(父権型修正)資本主義論に反論できなくなり、宙ぶらりんな扱いをせざるを得なくなった。
日本では開拓の管理を行い、夢幻会の後押しのもと技術発展を行うためには市民や経済に対して政府が大きな権力を持つ
所謂『大きな政府』として振る舞うことが一般的だった。日本の経済学者の一般見解は、爆発的な技術発達と
生産高の拡大によって生じるずれを修正する役目を幕府が追っていたことが安定成長につながったと分析。
その役目を行う人間が明確に定義されていない『自由放任主義』は結果的に社会全体に大きな不利益を与える
と結論していた。
他にも多数影響を受けた人間はいるのだが、ここでは省略する。
※2:
開発に成功した後には、順次細胞や細胞器官の発見が相次いだ。
1630年代にはすでに生物学という分野が成立していたようである。
夢幻会がほぼ主導するこれの発展はすさまじく、本土だけでなく比州や瑞州、蝦夷州といった遠隔地に存在した多くの
生物についての生態研究がなされていった。
※3:
琉球・八重山諸島・台湾などには隔離施設が多数設けられた。
特に欧州方面からもたらされるペストの流行を日本は恐れていた。そのため、毛皮や絨毯などの輸入時にはかなり気を使い、
最悪の場合殺虫剤を溶かした水やアルコール消毒液の中に沈めるなど、過剰ともいえる対策をとった。
アメリカに入植した欧州人がやったことを、夢幻会は忘れてはいなかった。
※4:
産業革命によって、蚊帳の生産もかなり効率化して量産が可能となった。
史実においても、マラリアなどを抑止するために蚊帳は重宝されている。
※5:
多くが窓ガラスを使い、煉瓦などを用いて虫が入りにくい構造を持っていたほか、灯りに寄ってくる虫を避けるために灯火管制がされ、
蚊帳が張り巡らされた部屋が儲けられていた。そこでは動物の毛を使ったり持ち込んだりことが禁止され、出入りする人間には
許可証が必要なほど厳重な物もあった。少々やりすぎかと思われるかもしれないが、現代以上に特効薬などが
存在しないために、そういった物理的な面で感染拡大を阻止しなければならなかった。
735 :弥次郎:2016/04/02(土) 00:33:28
以上となります。wiki転載はご自由に。
史実においてフィリピンをはじめとした東南アジアは病気があふれる場所でもありました。
史実で東南アジアに勢力圏を拡大した日本陸軍及び海軍が病気に悩まされたのはご存知かと思います。
何しろ病気を媒介する蚊などが気候ゆえに多くいるのが特徴ですからね。
パンデミックなどを防ぐには隔離や消毒が必要ですし、インフラの整備なども必須となっていますので、幕府もかなり
資金と力を入れてます。原因がわかっていれば、対策もしやすいですからねぇ。
今回、日本の経済についての描写がありましたが、この世界においてはいわゆる『大きな政府』の状態を
江戸初期から開拓がひと段落するまでほぼ一貫して貫いています。開拓の拡大で生産量がすさまじく増えたことによる
価格の変動は、専売制の導入や幕府が主体となった一定量の買い上げが無ければすさまじいものとなっていたでしょう。
『開拓』がほぼ終了し、民間レベルでの『開発』へとシフトした際にはこれを緩めてますけどね。
自由競争は行き過ぎれば破滅を招きますが、それでも発展を行うにはこれ以上にない体制ですし。
そこら辺の調整役はやはり幕府ですし、後の政府となるでしょう。
ただ、その仕組みは江戸初期に作られたものですので幾度かの改変を経ても長く持つとは限らないでしょうから、
それに合わせて明治維新と考えています。多分ですが、史実と時期はそう変わりそうにありませんねぇ……
これらの考え方は当時の欧州の考え方とはちょっと違うものです。
マギンダナオ王国とスールー王国についてですが、フィリピンについて調べた中で発見した国です。
この国々は史実においてもスペインと結構争っていたようで、日本がマニラ約款でフィリピンを手に入れたときには
まだ存続していました。正直、ここにこんな国があったということは初めて知りましたね。
この両国はスルタンを頂点とするいわゆるイスラム教国家のようです。史実においては結局スペインとスペインの
あとにやって来たアメリカとの争いの中で衰退していったようです。この世界では日本とつながりを持てたので
恐らく残り続けるだろうと推測しました。
フィリピン近くに存在したためにアメリカによって目がつけられましたが、正直相手が悪かったですね。
ハワイ事変についてはまた別な機会に。正直、調べれば調べるほど書くべき内容があふれてきて、キャパオーバー気味です(汗
武力衝突の流れはほぼ日蘭世界の流れと一緒かもしれませんね。でもそうなると東郷提督の役目を負う人がもう一人
必要に。具体的にはハワイ沖とフィリピン沖で連合艦隊の伝説を打ち立てる役目の人が欲しいですな。
適当に生やしますかね…東郷提督も体が一つでは物理的に間に合いませんし。
というか、この調子で行くとアメリカが経済圏を拡大できそうにない(汗
最悪赤化しかねませんなぁ…アフリカにどこまで進出できるかも不明ですし。
誰かが味方になってやる必要がありますが……あー、ソ連か中国共産党くらいしか味方がいそうにない(汗
拙作だと外部に敵を作る流れが加速ですよ、どうしましょうかね……
では、次は日本の北、蝦夷州(北海道)開拓について少々書こうと思います。
そしたら朝鮮への対処の話を書いて、漸くグレートゲームの開幕です。
ビドルさんがくるあたりまで歴史を進めることになるかもしれません。
最終更新:2016年04月02日 14:50