88 :弥次郎:2016/04/16(土) 19:41:10
大陸日本世界 覚醒フランスルート(仮)
アンリ4世の統治を迎えたフランスの感情を言ってみれば、漸くの平穏を得てほっと一息というべきだろう。
アンリ3世の暗殺によって王位につき、カトリックとユグノーの泥沼ともいえる争いを潜り抜け、政争と宗教の争いに
巻き込まれるなど、決して平穏とはいいがたい彼だったが、それでも平和をもたらしたのは大きな功績だろう。
フランスの常とはいえ、誰もかれもが戦いに飽いていたころだった。彼の異名が在位中から大アンリ(Henri le Grand)
もしくは良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれていたことから言っても、かなりの人気を誇っていたのは間違いない。
内戦で疲弊した国内を再興すべく、経済の復興・農業の促進・開墾地の拡大・公共事業の活発化を進めた。
さらに、首都パリの大規模な再開発計画を進めて芸術方面へも投資し、教育にも力を注ぐなど後の時代にまで残る繁栄の
礎を構築したと言えるだろう。彼の後の時代には太陽全r……もとい太陽王の時代が待ち受けており、ナポレオンの時代に匹敵する
絶頂期を迎えたのがこの頃であった。権力体制を揺るがしかねない宗教問題にしてもナントの勅令によって自由を保障し、
国内の安定に努めていた。命を長らえさせるために改宗を重ねた経験を持つ彼にとって、宗教とはあてにならないものと
考えていたのかもしれない。ともかく、彼の政権が確立されてようやくフランスは安堵を得たのだ。
89 :名無しさん:2016/04/16(土) 19:41:45
他方、
日本大陸においては16世紀末にその大陸の群雄割拠の時代がようやく終結を迎えた。
最終的な勝者は、尾張の大名であった織田家。その当主に納まっていた織田信長は、史実とは異なり本能寺において
明智光秀に討たれることもなく、そのまま
日本大陸の統一を果たしたのだ。
そして彼のもとには一つの集団がいた。その集団は織田家に代々仕え、各地から人材を集めながら規模を拡大し、
内政・政治・産業に幅広い知識を持つ技術者達。彼らは別な世界の別な歴史をたどった日本に生きた記憶を持つ転生者や
逆行者の集まり、夢幻衆であった。
さて、時は17世紀末。織田信長が初代将軍を務めた織田安土幕府は、既に次代の織田 信忠へと将軍職が移っており、
信長自身は1590年代には隠居していた。この時代、人間五十年と言われるように平均寿命は現代と比較して短い傾向にあった。
寿命が先天的に短いというわけではなく、むしろ病気にかかって命を落とすケースが多かったためである。
今のようにCTやレントゲンがあるわけでもなく、開腹手術など常識外。ましてや、そういった医療技術の蓄積が
艦砲などに限定されていたがためにガンなどに掛かるリスクは高かったし、食生活もよいとは言えない。
だからこそ、武将もそうそう長生きできないようである。そもそもが人殺しを生業とする武士なのだ、流れ矢が飛んで来れば
ごく当たり前のように死んでしまう。長生きできたのはごく一部の例外を除けば60歳を迎える前に大体死去している。
しかし、この世界において信長は67歳まで生きた。
後年の分析によれば死因は出血性梗塞であるとも、ガンであるともされる。一部には複合していただとか、結核であるとか、
様々な説がある。これは信長が晩年に倒れた際、気を失い、血を吐いたことから推測される死因である。残念ながら
司法解剖はなされておらず、外部からの触診や健康診断記録をつなぎ合わせることでしか推測できていない。
ともかく重要なのは、彼が後継者の教育に十分な時間をかけることが出来、織田幕府の次代、そのまた次代を見越した
プランと基盤を作り上げることに成功したことにある。そして彼の残したプランは
夢幻会や後継者たちによって着々と実行され、
国土を開発し、国力増進に努めた。
この世界において、日本の首都となったのは京都であった。
一方で行政の中心は信長の居城 安土城のある近江。そして経済の中心は史実における大阪と江戸に。
さらに織田家が天下取りに向けて拠点とした岐阜と大阪は日本の東西の軍事の中心地となり、幕府本拠地を脅かす存在を
防ぐ構えだった。このような設計や設置がなされたのも、首都機能の一極集中による危険を回避すべく、
夢幻会が動いたためだ。
史実の日本列島であるならばこうした配置でも対して分散しているとは言えないだろう。だが、この世界は
日本大陸として
日本が存在する世界である。単純な距離は3倍以上に伸びており、地形も大きく変わっている。だから、十分に首都機能を
分散させていると言えるだろう。実際、安土城を中心として行政要塞都市の様相を見せており、近江の南北には
幕府直轄の水軍がいくつもの軍港を設置して海の防備を固め、琵琶湖の対岸の山々も幕府の要塞が並ぶ地帯として
抑えられていた。
まあ、ここら辺の地理については追々語ることとしよう。重要なのは史実と都市の価値が大きく違うということだ。
90 :名無しさん:2016/04/16(土) 19:42:55
そして1599年、12月31日。
新たな100年を迎えんとしたとき、岐阜にそれが突如として表れた。
幅20m、高さは30mの巨大な『門』であった。金属のような何かによって縁どられ、薄く発光していた。
その門の出現に一時岐阜は騒然となったのだが、直ちに調査が行われ、こういった怪異に詳しいと判断された夢幻衆も
織田信長によって招集された。ここで一つ補足すると、岐阜という土地の役目は軍事の中心であり、同時に隠居した
将軍が生活する場でもあった。つまり、この門を放置することは信長にとっても危険要素となる可能性があった。
一応将軍職は譲ってはいたが大御所としての影響力は大きかった。もし万が一のことがあれば、安定期を迎えていた
織田幕府とてダメージを受けかねない。それこそ、政権を傾かせるような大打撃を。
それ故に幕府は軍を集め、その門の向こうへの調査を開始した。
そして、第一陣が門の向こうへと踏み込んだ。西暦1600年2月1日の事だった。
門を抜けた先。そこはフランスだった。現在の場所で言えばパリ盆地のオルレアン。
門を抜けた夢幻衆の前には、日本側と同じように武装した兵で門を囲うフランス軍の姿があった。
当時、1599年といえばナントの勅令によって宗教の自由が一部の制限を設けられながらも認められ、安定し始めたころ。
しかし、まだ完全に平和とは言えない。ましてや、このような『門』は妖しいとかそういうレベルではなかった。
一応、キリスト教の司祭なども招かれていたのだが、それがいったいどういうものであるかは全く分からなかった。
後の調査によれば、神の国につながる門であるとか、悪魔が作り上げたもので直ちに破壊すべきだとか、いろいろ意見が
あったようだった。しかし、そのどれもが解決するものではなく、フランス側でも持て余していたようだった。
そして、現れたのが武装した織田幕府の兵士たちだ。
あわや両軍の激突となりかけたのだが、ゲートを一番にくぐった
夢幻会メンバーが咄嗟にそれを制し、ぎりぎりで衝突を
回避することに成功した。当然のように彼は連行されたのだが、即座に幕府から通訳が連れていかれた。
フランス側はそうとはわからなかったのだが、夢幻衆の一部が民衆がしゃべってた言葉を聞き取り、即座に呼ばれたのだ。
また、この世界において日本人には黒髪黒目だけでなく欧州系の名残である外見を持った人間も多数おり、フランス人の目に
完全な外国人ではないと錯覚させた(ある意味間違ってはいない)ことで、フランス兵の攻撃を踏みとどめた効果もあった。
ゲートがつながって10日後。漸く両国は落ち着いて話し合いを持った。一部ではいざこざも起きたのだが、概ねすぐに
鎮静化させることに成功しており、決定的な戦争には発展しなかった。この10日の間に日本とフランスは互いを警戒しつつも
交流を図り、欧州と
日本大陸がつながったというとんでもない事実を認めざるを得なかった。
神の軍勢であるとか悪魔だとか、そういった観点で語ろうとする教会関係者も騒いだのだが、建設的でないうえに
その教会関係者が日本側からやって来たキリスト教関連の人間によって黙らされていた。一応カトリックが優勢の
フランスだが、プロテスタントもいた。そして彼らへの対応として呼ばれたのが
日本大陸のキリスト教関係者だった。
『キリスト教徒がいるならば悪魔の国につながっているのではない』。そう発せられたことで、混乱は収まったのだ。
とにかく、10日が過ぎて折衝を始めた両国は徐々に打ち解け始めた。しかし、初期に安定をもたらした宗教はやがて
アンリ4世によってひっこめさせられた。というのも、宗教によって相互理解できたとはいえ、このまま任せきりでは
落ち着いたフランス国内で宗教関連の争いが再燃しかねないと危惧したためだ。最悪欧州各国が介入してきかねないと、
宗教から政治へと舞台を移したのだ。
ここで物を言ったのが、日仏双方の最高権力者、即ちアンリ4世と織田信長が双方の国に興味を抱いたことだ。
もとより織田信長は老いてもなお意気軒昂で、天下統一後も南蛮渡来の品を集めたり、
夢幻会に無茶な要求をしたりと、
結構元気なご隠居だった。また、信長が宗教に対しては寛容な政策をとっていたことで幕府に協力的なキリスト教の
組織がいたことも、円滑な交流に一役買った。まあ、ネストリウス派だとかマニ教だとかがフランスのガリカンと、
フランス国内に潜り込んでいた各国の諜報員のSAN値を下げたのは言うまでもないが。
91 :名無しさん:2016/04/16(土) 19:44:25
こうして双方の指導者の指揮の元で空間を超越した交流が始まった。
フランスはやや警戒しながら、日本の方は興味津々に、ややぎこちなく始まった。だが、フランスは徐々に色々と
衝撃を受けていった。極東の果てにある大陸国家。蛮族が暮らすと考えられたそこは、当時のフランス人の常識が
通用しない全く未知の世界があったのだ。なにが衝撃的だったのかは、他の大陸世界を観測した際の、
日本大陸の文化などを
欧州視点で見てもらえば理解できるだろう。一部には過激な行動で双方を排除しようとする動きもあったのだが、
概ね物理的に解決がなされていった。
夢幻会にしても、このゲートの向こう側にあるフランスとの関係を維持しておけば、
欧州が束になって日本へと侵攻してくるという最悪のパターンを回避できると考えていた。少なくとも、フランスと
敵対しなければ安全なのは間違いない。また日本にとっても外貨獲得のチャンスが広がり利益があった。
〇
幸いゲートは大きかったため、当時の乗り物なら大体通過可能だった。乗り物に乗っていても徒歩であっても問題なく
通過できたし、通過する物体の重量や大きさに左右されなかったようである。なので、象や馬、牛に引かせた輸送車両は
大量の輸出品を運ぶことが出来た。
しかし、フランスと日本との、日本と日本にあるゲートを介した貿易は当時各地に植民地を構築しつつあった
イギリスやオランダ、スペインといった列強にとっては恐怖の対象であった。
当時、欧州から
アジアは遠くだった。それこそ、世界の果てである。この時代では喜望峰を回って、飢え・病気・
海賊・天候の急変・船員の反乱などを警戒し、数か月、下手をすれば1年以上をかけて到達するのだ。それゆえに、
香辛料などは陸路での輸送に比べればはるかにましであるが、高コスト化を招いていた。船の運用コストというのも
存外馬鹿にならない。当時、船員の一部が特赦を求める囚人で構成されることで船内の風紀が乱れやすくなり、場合に
よっては乗っ取られるリスクも存在した。つまり、決して快適とは言い難い。
しかし、フランスはそれの心配がないのである。
ゲートを超えて日本に赴き、必要な物を買い、また戻ってくればいいのである。時差は存在するが、ほぼ1秒とかからずに
行き来できるという点は便利の一言に尽きる。その気になれば日本で船舶を買い取り、イギリスなどよりもはるかに短い
日数で東南アジア各地と交易もできた。船員にしても信頼のおける日本人の船乗りがおり、また日本が東南アジアや
沖縄において香辛料栽培を奨励していたこともあり、イギリスやオランダなどよりもはるかに安い値段で仕入れる
ことが出来たのだ。それこそ、香辛料貿易で儲けていたオランダのシェアを奪うくらいには。
さらに、フランスは交易の開始によって食料不足というのが一気に解決された。何しろ
日本大陸の耕作可能面積だけでも
フランス国土くらいは余裕で確保できる。元々とてつもない人口を養うために食料生産能力は高かったし、織田幕府成立後には
戦乱の終結と開拓・開墾の奨励もあって生産量はかなり増えていた。戦争による大量消費が減っていたためむしろ放出先を
日本は求めていたほどだった。さらに
日本大陸由来の鉱物資源の輸出はフランスの工業化の大きな原動力となった。
本来であれば国外へと探しに行って運んでこなければならないのだが、その手間が大きく省かれたのだ。
これにより欧州という市場はフランスが大いに影響力を得ることが出来るようになった。当時香辛料貿易を進めていた
オランダはもちろん、後の産業革命において先行されて『世界の工場』の地位を奪われたイギリスは欧州のプレイヤーから
欧州の一地方へと落ちかけた。一応、産業革命自体はフランスと日本に次いで成功したのだが、それでも先行する
二か国には大きく後れを取っていた。また、産業革命に伴う煤煙や住環境の悪化、労働者の労働環境の悪化が起こり、
テムズ川は汚染されつくした。確かに繁栄を極めていたことは間違いないのだが、それをフランスと比較すれば相対的に
劣る。オランダに至っては香辛料の貿易でかなり痛い目に遭ってしまい、東南アジア植民地の一部をフランスへと売却
せざるを得ないほど大損害を受けてしまった。
92 :名無しさん:2016/04/16(土) 19:45:26
さらにフランスは、欧州で小競り合いを続けながらもアフリカなどの植民地の本国化を急速に推進した。
植民地には現地文化と本国の文化が混じったものが生まれ始め、またオランダから買い叩いた東南アジアの植民地も
続々とフランスの統治に支持が集まるようになっており、東南アジアに同じく進出していた日本のサポートもあって
極めて順調に進んでいた。日本人という『例外』を見たフランスは、その例外を求めてより積極に動いていた。
もはやフランスにとって欧州の人々は心底信頼できるとは言い難かった。表面上の付き合いは出来ても、日本のように
腹を割って忌憚なく相談できる国はいないと理解したためだ。
だが、他の欧州各国は虎視眈々と復讐のチャンスを狙っていた。
そしてその機会は18世紀末に訪れた。というか、噴出した。
丁度日本では幕末を迎え、長年にわたる幕府体制を時代に合わせて刷新しようという動きが武(幕府)と公(朝廷)の
双方で始まっていたころ、フランスもまた制度改革を行おうとしていたころだった。当時のフランス国王ルイ16世は
絶対王制を敷きながらも、同時に啓蒙専制君主として民間への知識伝達に努めていた。日本の制度を見習い格安で学問を
教える国立学問所の設置や王直属の衛生局、市民向けの医療院、農業指導を行う組織、さらに戸籍の管理などかなり
先取りした制度を着々と導入した。これに伴い民間での出生率と乳児の死亡率が改善し、さらには識字率も大きく向上した。
そうして学問が特権階級から低い階級へと広まるにつれて、政治への参加を望む声が大きくなっていた。
元々、織田家当主として天下をまとめ上げた織田信長は、帝という最高権威者(建前的には最高権力者)に承認を受けて
織田幕府を開いている。これは日本という国家のアイデンティティーを担う存在が古来より帝と朝廷にあり、時の覇権者が
帝から命じられるという手続きを経ていたことに由来するだろう。必然的に政府・幕府のスタンスは『大きな政府』
となり、各地の開発や技術指導などに積極的に取り組んでいた。
しかし、フランスには、そして欧州にはそういった最高権威者が存在しない。いや厳密に言えば、権威者候補は
星の数だけ存在する。しかし、あまりにそれの数が多いことで優先順位がつけられず、専らそれで争いが続いていたくらいだ。
史実においてはこれを国民に委ねるべきと動いたのだが、この世界においてはそれをブルボン朝をその擁護者としようという
動きが初期から極めて活発だった。フランスに空前の繁栄をもたらし、外地を獲得し、日本との友好関係を築いたブルボン朝こそ
権威者としてふさわしいと意見が集まったのだ。そうして、全てを支配していたブルボン朝が徐々に権力を国民へと
委譲していき、最終的には権威者兼任命者となることを選んだのだ。
しかし、ルイ16世だけでなく貴族たちも理解していたのだが、いきなり一般人に対して政治への参加権を与えたところで
解決とはならないと判断していた。確かに識字率などは高まっていたのだが、政治はそれだけでは解決しない。
王族や貴族のみが持つ海外とのつながりを理解させ、国際常識を破壊し過ぎることなく政権の運用の能力を持たせるしかない。
それには、高々革命を起こすだけでは解決しないのだ。そこで、有識者とダントンなどの穏健な改革派(革命派)の
政治家と王家・貴族との意見を調整する会議が設置されて議論が重ねられた。
そして同時に、史実におけるジャコバン派も同様に活動を始めた。過激すぎる手段を用いてでも国民へと主権を
委ねるべきだという、ある種の反動勢力だった。
93 :弥次郎:2016/04/16(土) 19:46:13
そして同時期にとある災害が起こった。ラキ火山の噴火である。火山爆発指数で8段階中の6と評価されているこの噴火は、
空気中に1億2000万トンもの二酸化硫黄と灰と石と、さらに細かいチリなどを空気中へと局地的にばら撒いた。屋外労働者の多くが二酸化硫黄ガスを吸い込んだことによる呼吸困難に悩まされ、多くが死亡。
さらに当時のヨーロッパに生息していた動物も多くがこの噴火による異常気象などが原因で倒れていった。
急速なガスの発生は天候にも影響し、太陽が遮られたことによる寒波の発生と、労働者不足と合わさっての不作。
これはフランスのみならず欧州各国に致命的ともいえる被害をもたらした。
しかし、只一国だけそれらの影響が少なかった国が存在した。フランスである。
ゲートを介して
日本大陸から莫大な量の食料が運び込まれ、同時に冬を越すための防寒着や医薬品が持ち込まれた。
特に症状が重い患者や子供や老人はゲートを介して日本に避難することもできたのだ。一応この頃に日本においても
浅間山の噴火による被害を受けていたのだが、それでもフランスへと手を差し伸べる程度の余裕はあった。
国内食糧の不足も、日本で生産されたものが格安で提供され、フランス全体へといきわたっていく。
しかし、日本の支援が届くのもゲートのあるオルレアンが中心となった地帯に限られていた。
当時のフランスは産業革命を日本と共に成し遂げており、フランス領内には鉄道が敷かれ、迅速な移動が可能だったし、
非常事態故にブルボン家は王室の財産から鉄道の運用費用を捻出して人々の移動が金銭によって制限されるのを
防ごうと働いた。それでも支援の手が間に合わないことも多い。少なくはない反感を、恨みを、フランスという
国家を担うブルボン家は買ってしまった。弁護するならば、ブルボン家も日本も、全知全能の神ではなかったために
対応が間に合わなかったのはしょうがないことだった。
そして、ついにフランスの首都パリにおいて暴動が起こった。これは他国の焚きつけたものであるとも推測される。
あるいは国外へと追放された亡命貴族や日本との交流に否定的だった人物からなる反動勢力が暗躍していたとも伝えられる。
とにかく、集まったデモ隊は王宮を目指して行進を開始した。これに対して、フランス国軍は暴徒とならないように
警戒を強めていた。あくまで力によって鎮圧せずに、収まるのを待ったのだ。
そして、運命の引き金が引かれた。
デモ隊とその支援者たちの発表によれば、フランス国軍の発砲。
当時のフランス国軍の多くの兵士や市民の証言によれば、市民のデモ隊からの発砲。
双方の主張が大人しくぶつかり合うはずもなく、暴徒と首都を守ろうとする国軍の戦闘へと発展した。
デモ隊を後援していた反改革派は各地で行動を開始。バスティーユを襲撃して武器を確保すると、各地で反王政を
訴える活動を始めた。その動きはあまりにも計画性があった。即席とは言えないほど、組織立って動いた。
その反改革派には、マクシミリアン・ロベスピエールなどの過激な改革派が参加していたとも言われるがそれは定かではない。
勢いに任せた軍事行動は市民へと武器を向けることに抵抗を覚えて動きが鈍い国軍を力づくで押し返し、一時パリと各都市の制圧。
94 :弥次郎:2016/04/16(土) 19:47:30
そして、フランス国軍がようやく準備を整えたころ、国境を警備する軍から連絡がった。それは国境線に各国の軍が
集いつつあると。国外の反改革派の侵攻の兆しがあると報告を受けたルイ16世は、急きょ国軍を再編。市民や貴族
からの義勇兵を編入し、万が一に備えてゲート越しに日本へと救援を要請した。もはや欧州に頼れる国は存在せず、
ゲートの向こうにしかいないのだとフランス政府と王家は腹をくくったのだ。さらに、東南アジアやアフリカに史実よりも
早くに構築していた植民地や保護国からも、ゲートや船を使ってフランスへと援軍が派遣された。特に日本からは、
一説によればだが正面戦力と軍事拠点敷設、兵站管理、医療担当などをあわせて数万人規模の義勇兵が送られていった。
そして、フランスの四方で勃発した戦闘において、フランスは一丸となり国外の脅威に立ち向かった。
ここで大きな影響をもたらしたのが、日本からゲート越しに持ち込まれた大量の銃火器と剣牙虎、そして象兵などだった。
言うまでもないことだが、
日本大陸においては海外から持ち込まれた鉄砲の改良がすさまじい速度で進み、特に織田信長は
ロケット兵器や鉄砲の集中運用を行っており、さらには配下の
夢幻会に命じ迫撃砲や長距離射撃が可能なカノン砲などの
開発を推し進めていた。なまじ国土に大量の資源と農地があり、必然的に野戦となるケースが多かった
日本大陸では
そういった経験が室町幕府の権威失墜以降ずっと続けられていただけあって、その蓄積は欧州をはるかにしのいでいた。
そして、磨き抜かれたそれらはゲートを超えたフランスで一気にその力を発揮した。
まだ中世の戦い方が残っていた反革命軍にとっては、まさしく洗礼の嵐となった。血と硝煙と鉄が戦場を支配し、
それまでの騎馬突撃が入念な準備の相手には無意味だと思い知らされた。日本軍はフランスにとっては何物にも勝る援軍だった。
幕府も良かれと思ってSIMADU兵やAIDU兵を送り込んでおり、彼らも久しぶりの戦争に大いに奮起した。
もとより、日本からの文化・風習の輸入によってフランスの生活の質がかなり向上しており、おまけに欧州での地位を
大幅に向上させるパートナーであった日本に対しては、フランスの強硬派でさえも一目置いていた。その彼らがフランスという
国家を守ってくれたのだから、彼らの評価は向上し、対等な付き合いを求める動きはさらに向上した。
95 :弥次郎:2016/04/16(土) 19:48:06
もう一つ影響を与えたものが、日本からフランスへと伝えられ、フランスへとちょっかいを欧州各国がかける中で
着々と建設がすすめられた、フランスの国境要塞群だった。大陸日本において磨かれたその要塞は、そのレベルは
もはや19世紀においてはイレギュラー的な範囲にまで進化していた。いうなれば、日露戦争や第一次世界大戦にも
通用するレベル。それを使って戦いなれた日本軍は各地で介入軍を撃退。フランス国土を維持することに成功した。
この後にフランスは国外からの外患を誘致した貴族の処断と過激な改革派革命派の根切りを開始した。
フランス人のためのフランスを。市民は確かに改革を求めたが、自分たちの自由を他国に任せてよいと考えるほど
熱狂的ではなかったのだ。そこが、ジャコバン派の見逃していた事実だった。確かに貴族はあくどい税の取り立てを
していたのだが、それをまとめるフランス王家がとった税をきちんと市民へと還元していて、それが受け入れられていたのだ。
市民は自らを搾取する貴族を嫌ったのであり、貴族そのものを廃止しようとは考えなかった。
何より、フランスを危機に陥れたという事実が逆に彼らの命運を決めた。
革命の象徴であるはずのギロチンは、過激な革命派の命を奪い去る象徴として生まれたのだ。
しかし、日本もフランスも見逃してしまったことがあった。
ゲートや船を通じて欧州に非白人を招き入れ、おまけに味方として白人勢力には向かうという行為が、一体どういうことを
意味するのか。ゲートというキリスト教によって説明が付かない存在を利用し、象兵や剣虎兵といった獰猛な動物を従え、
圧倒的な軍事力と、理解しがたいペースで進歩していくフランスに欧州各国は恐怖を抱いた。
もはやそれは恐慌レベルだった。理解しえないものを見たときに人間がとるごく当たり前の行動だった。
それはフランスという国家が、史実とは異なる道を歩み始めた代償。
この世界におけるフランスの末路はおろか、世界情勢さえも捻じ曲げた日仏の二人三脚は、こうして始まった。
96 :弥次郎:2016/04/16(土) 19:49:08
以上です。wiki転載はご自由に。
途中コテ外れたりsageが消えたりとトラブル続きでした。すいません…
日仏の繋がりが少ない (物理) → ゲートでつなげればいいじゃない!
そんなノリで作ってみた日仏ゲート世界でした。
フランスは陸軍国家ですが、この世界線においてはシーパワー要素がマシマシとなっています。
陸軍国家(海軍が貧弱とは一言も言っていない)。
コンセプトは「史実フランス憤死間違いなしのフランス」「母性にほだされて駄目夫になったフランス」
「フランスもやればできる子」「流血のフランス革命なんてなかった」「日蘭世界に匹敵する友好国フランス」と
なっております。何時接触させようかと悩んで、このような次第となりました。
フランスの抱える植民地は、
- 本国
- アフリカ植民地(アフリカ・フランセーズ):コンゴや北アフリカを中心に開発。アフリカの大半を占める。
- フランス領インドシナ連邦:史実仏印を中心としたフランスの保護国 オランダから買い取った地域も含む
- 史実同様の南洋諸島
- ギニア
となっています。成立が史実より成立が速くなったりしていますし、フランスが本国化を進めています。
よって領土は大英帝国並、人口は
アメリカに追従、国力は
アメリカ並という大国となっています。
アメリカの植民地をどうするかは未定ですが、正直
アメリカに手を突っ込まなくても構わないので
文中でも述べましたが、フランス大改革への干渉で欧州への信用を置けなくなったことで、外に自分たちと同じくらいの
友好国を設置して対抗しようという意思が働いており、ある意味蘭帝に近い形でしょうねぇ。
何しろ日本人だけとはいえ国内に黄色人種を入れてますし、他国から見れば意味不な制度や技術を導入していて、
当時の風習ぶち壊していましたからね。日蘭世界のオランダほど孤立はしていませんでしたが、革命時に史実以上に
干渉されて、日本からの増援で何とか乗り切ったという経緯ゆえに孤立を深めていきました。
ま、欧州で色々起こってもゲートを通じて日本に支援が求められますし、ゲートを介さない世界線よりもはるかに
交流がものすごい深いレベルで行われています。飢餓が起きようが疫病が起きようが不作が起ころうが、フランス
には日本という後背地があるために超安定してます。
軍事に関しても規格などは概ね日仏で共通しています。
海軍の軍艦の搭載砲はもちろん陸軍の装備品、航空機、鉄道、その他諸々が日仏間で同じです。
一部例外もありますけどねー。日蘭世界以上に両国がつながっているので、そこらへんも
ちなみに、フランスにおいてキリスト教の権威というのは他国よりも落ちています。
アンリ4世のもとでのナント勅令は信仰の自由を認めながらも秩序を乱すなと釘を刺しており、宗教の取りまとめ
組織としてローマ教皇が認めてはいませんがガリカンが他の宗教との折衝を担当しています。
また、どの宗教もゲートの存在を説明できなかったのがそれに拍車をかけています。
ここで重要なのが、ブルボン朝の扱いです。史実においては断頭台の露と消えましたが、この世界においては権威のみの
存在として存続しています。君臨すれども統治せずに近い形ですな。政治に関してはあまり権限を持たず、「国民の平等を司り、
国家の統一の象徴であり、宗教の自由を保障する存在である」と憲法で述べられています。
ですが、黄色人種の日本人をはじめ、アフリカやゲートと日本を介して入植した東南アジア諸国の人間を欧州に入れて
いますので、黄禍論が吹き荒れてしまいました。孤立を避けるために日本もまたフランスと手を組むことになり、
固い絆で結ばれた同盟国となりました。そりゃあもう、日蘭世界ばりに硬い関係です。一時期ブルボン朝と日本の天皇の
婚姻も考えられたのですが、そこは一旦保留となっています。下手をしますと、大和ブルボン王朝として合併しますな(汗
ともあれ、拙作の日仏世界こと日仏ゲート世界の骨子はこのようになっております。
ベースになったのは日蘭世界ですね。宗教へのスタンスなどは概ね同じです。
議論の題材となれば、幸いです。
最終更新:2018年01月20日 00:40