63 :ooi:2016/04/13(水) 17:33:25
豪州+新西蘭転移ネタ5
フランス共和国及びフランス連邦共和国について1
フランスは後述の出来事が有った事で英国に対する対抗意識が高くなっている。
しかしながら、英国が大英帝国たる理由である植民地政策には一定の関心を示して、マイルドな植民地政策を行った。
現地住民はフランス人と平等であり、初等、高等教育や技術指導を受けた事で多くの知識と技能を身に着けた。
これも、“英国への対抗意識がフランス国内における白人至上主義意識を上回った”からである。
これによって、現地の経済力が増加してより多くのフランス製品を販売し、且つ買える有力な購買層なった。
また、彼等の住む地域はフランスの先行投資(英国に倣った)でフランス本土以上の工業地帯として発展するのである。
特に、広大なアフリカに住む膨大な購買層と工業地帯、そして豊富な資源の存在はフランスの財政を支えていたので、アフリカはフランスの心臓と称されたのである。
仏領インドシナも自前の石油、天然ゴム等の生産地だった事から最重要拠点として梃入れを進め、精鋭部隊が駐留していた。
また、米西戦争時にはスペインに物資や軍資金を融通する代わりにスペイン領西サハラ、同ギニアをフランス植民地に編入した事でアフリカ北部大西洋沿岸の殆どをフランスが掌握するに至った。

なお、英国に対抗して様々な近代化改革をやった事で第一次世界大戦の被害は史実より軽く、最小被害でドイツ帝国陸軍に打撃を与えていた。
植民地からも多くの部隊が派兵されており、フランスの勝利に大きく貢献した。
また、植民地から送られた支援物資のお陰で被災した本土の復興も順調に進んでいく。
これは、ヴェルサイユ条約で本土の被害が軽いという理由でドイツから多額の賠償金を取る事が出来なかったフランスにとっては非常に助かるものであった。
特に、本世界のフランス領アフリカは史実の現代を確実に上回る経済力をこの時点で持っており、本土における被害の軽さも相まって少し物価が上がる程度で済んでいた。

この植民地地域の活躍と支援は本土の人々を感謝の気持ちで一杯にさせた。
この結果、フランスでは植民地をフランス共和国アフリカ本土に格上げして真の意味で平等になろうと云う機運が高まった。
1922年、フランスは植民地と本土の両方で国民投票を行い、両地域で賛成が8割を超えた地域をフランス共和国アフリカ本土として編入する事となった。
編入された地域は史実におけるモロッコ、アルジェリア、西サハラ、モーリタニア、マリの領域となった。
また、同年にチュニジアを保護国から再度独立させる事も決定した。
植民地の統治に関しても多くの知識や経験を積んだ現地住民が十分に増えた事から、現地住民による自治で或る程度の運営がされ始めた。
アフリカ本土も現地住民による自治が行われている地域も多かった。

この政情変化によって「フランス共和国」は国名を「フランス連邦共和国」に変更する事となる。
同時に、チュニジア王国はフランス連邦共和国の連邦構成国家として加盟した。

なお、第一次世界大戦前にはアフリカの工業化に触発されて本土の工業化も急速に進行した。
加えて、第一次世界大戦ではドイツ帝国がタンネンベルクの戦いで大敗した事で多くのドイツ陸軍のエースパイロットが東部戦線に移動した。
これによって、フランスの国民的人気が高かったエースパイロットのジョルジュ・ギヌメールが戦死せずに活躍し続けて、最終的に第一次世界大戦では唯一の三桁撃墜である撃墜数112機(他に未公認が10機)を記録してリヒトホーフェンの記録を上回った。
また、ルネ・フォンクが80機(他に未公認が22機)、シャルル・ナンジェッセが57機(他に未公認が15機)、ジャン・ナヴァルが42機(他に未公認が3機)、アドルフ・ペグーが35機、ローラン・ギャロスが33機を記録しており、この6人はフランスの六大エースとして喧伝された。
六大エース以外にも多くのエースパイロットが生まれており、航空隊の地位は急上昇する。
ナヴァル、ペグー、ギャロスの3人も撃墜されなかった事で第一次世界大戦を生き残っていた。
ナンジェッセもパイロット人気の影響で教官になったので史実の大西洋横断を企図した事による死亡は回避された。
この活躍によってフランスでは一躍航空機のパイロットが夢の職業となり、第二次世界大戦前にフランス空軍は世界1位の規模を誇る事となる。
海軍航空隊も基地航空隊を含めたら世界3位の規模を誇っていた。
なお、海空軍が共に基地航空隊を持っているのは役割の違いから来ている。
この時フランスを席巻したパイロットブームはフランス航空業界を躍進させる最大の要因となった。

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最終更新:2016年04月17日 18:34