90 :ooi:2016/04/13(水) 22:07:46
豪州+新西蘭転移ネタ8
清国及び中華民国について1
清国はアロー戦争の仲介料として外満州の大半を、日清戦争では多額の賠償金に加えて台湾、海南島が日本に割譲されていた。
これによって、清国は国威、国力の両面で大打撃を食らっていた。
止めに、日露合意で満州が勝手に割譲された事にキレて、義和団と残っていた正規軍、私軍を動員して日露に戦争を仕掛けたが壊滅的敗北を喫した。
日露に合計6億両の賠償金を支払った事で財政が破綻状態となり、革命によって清朝は滅亡する。
日英露は王朝が保有した運び出せる文化財の殆どを国外に運び出す事を条件に清国皇室や政府要人の財産を含めた脱出の手助けを行った。
脱出した人々はこれらの美術品を管理する仕事が与えられ、彼等が書いた由来等の記録は中国美術史における貴重な資料となった。

清朝滅亡後、中華民国が成立した。
孫文は、ハワイが日本領だった事からアメリカではなく日本に留学して様々な経験を積んでいた。
この後、本格的に西洋の知識を得ようと考えて英領インドや仏領インドシナに赴いて欧州の議会制民主主義を学んだ。
彼と共に学んだ同志達十数名は農業や鉱工業、経済、軍事についての知識を深めた。
孫文は留学時の伝手を活かして国内の立て直しと近代化を行おうとしたが、国防上の理由や袁世凱を警戒して首都を広州に変えた事が華北の反発と軍閥時代を招いてしまった。
孫文は日英露の支援で北伐を画策したが、日英露の反対で断念する事となる。
元々、夢幻会や円卓にとって中華統一は害悪であったので、統一妨害策展開の時間稼ぎとして孫文に国民党勢力圏の近代化を先にすべきだと伝えた。

孫文率いる国民党が現時点で抑えていたのは本拠地の広東省を中心に広西、湖南、江西、湖北、重慶市の5省1市であった。
国民党は様々な改革によって現時点における国土近代化を大規模な妨害が無かった事もあって完遂した。
軍も近代化が進み、1932年には九二式軽戦車を50両購入して機甲部隊も設立させた。
航空部隊も旧式機ではあるが戦闘機60機、爆撃機30機が所属していた。
歩兵部隊、砲兵部隊も比較的新型の兵器を装備しており、これを上回る軍備を持つのは華北共和国と福建共和国だけであった。
国内の立て直しと軍の近代化を成し遂げた孫文は中華統一に向けて動き始めた。

しかし、孫文の考えた中華統一の夢は非常に厳しいものであった。
日英露の転生者達は、中華統一の妨害策を展開させていた。
その対策の1つが先程触れた華北共和国と福建共和国の建国である。
この2国は日英露が色々な名目によって建国され、日英露駐留部隊が両国のインフラ、経済力及び軍事力の近代化を進めていたのであった。
奉天派が建国した華北共和国は満州で日露両陸軍を間近で見た事もあって練度や戦術は優れていた。
軍備も八九式中戦車や九二式軽戦車を各々50両程度保有し、30年代には二式突撃銃、M2重機関銃等の新型兵器を購入及び生産しており部隊の機械化率、攻撃力も高かった。
航空隊の陣容も強力であり、中華民国陸軍や陸軍航空隊をワンサイドキルするのも可能であった。
海軍の最大艦艇は駆逐艦だったが大韓帝国封印には十分であった。
安徽派が建国した福建共和国も華北共和国には及ばないが中華民国に十分対抗可能な陣容を揃えていた。

次に、日英露が雲南派、四川派、西北派に多くの旧式兵器を売り払っていた事であった。
日英露は上記軍閥に旧式兵器を売り払う事で自軍の軍備近代化と開発資金の確保、そして中華民国の体力減少を狙っていた。
なお、山西派は奉天派の意向によってそれ程売られておらず、早期に潰されて華北共和国に編入された。

この妨害策に孫文は憤慨したが、自身の政策を安定して遂行出来たのも日英露のお陰だったので表立って文句は言えなかった。
文句を言ったら最後、中華民国はあらゆる手で弱体化させられると理解していたからだ。
だからと言って諦める孫文ではなく、1933年4月に北伐と云うよりは西進に近い形で雲南派撃破を目標として蒋介石に精鋭部隊を預けて出撃させた。

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最終更新:2016年04月17日 18:40