69 :リラックス:2016/04/13(水) 19:07:20
乙ー、便乗して自分も弥次郎氏の瑞州大陸の支援ネタを
やっぱり知識は足りていない。
例によって矛盾及び弥次郎氏にとって都合の悪い部分が出た場合は無かったことにということでオナシャス







軍艦と関連技術の進歩
扶桑型装甲艦(一番艦扶桑、二番艦山城、三番艦近江、四番艦丹波)の完成により、幕府海軍の艦船はより大型でより強力な装甲と主砲を備えた強力な艦の整備に力を入れるようになった……かといえば、そうではない。

理由は幾つも存在するが、海軍の役割は一に航路防衛であるという意識が末端に至るまで刻み込まれていたこと、

海軍の戦いとは組織的な物であり、個艦性能が海軍の強さに直結するとは限らないと特に上層部は理解しており、水兵たちに教育を徹底していたこと、

電波による通信や航空機を用いた索敵が不可能であったこの時代において、強力な艦を用いての示威行為は勿論のこと、通信伝達及び索敵、通商保護、通商破壊それぞれの任務必要とされる能力は異なり、それに応じた性能の艦が必ず必要になることを理解していたことなどが挙げられる。

帆船時代にはこれらの任務に対して各等級の戦列艦がそれぞれの性能を鑑みて割り振られていたが、木造帆船から蒸気船・装甲艦の時代へと移り変わったことで帆船時代の艦種区分は再整備されることになる(注1)。

こうした経緯から幕府海軍はむしろ強力な武装、装甲を有する大型艦よりも航路防衛を主任務とする小型快速な艦艇(巡洋艦)の整備に熱心であった(注2)。

また、こうした艦艇は航路防衛などの任務に就く関係上、巨砲よりも取り回しの楽な武装の方が適しているという意見から、砲の改良は単純な大口径化以外の方向でも行われていくことになる。



巡洋艦と装甲
扶桑型装甲艦では弦側に鋼鉄の装甲を貼ることで船体の防御を行っていた。

しかし、この方式では船体が重くなり高速を求められる艦には不向きとされたことから、高速性を重視した木造船体の蒸気船もしばらくは建造が続けられた。

これらは巡洋艦はあくまでも航路防衛を行う艦であり、列強を相手にする場合の主力艦(戦艦)を別に整備して、巡洋艦で手に負えない相手が出てきた場合は足止めに徹して主力艦の援軍を待てば良いという意見が当時主流だったことが挙げられる。

しかし、1853年に発生したシノープの海戦においてロシア海軍がトルコの木造船を相手に炸裂弾を用いて大戦果を挙げた情報を得ると、木造船体の巡洋艦では足止めすら出来ず撃破される危険性が浮上し、主力艦以外の航路防衛に就く艦艇(巡洋艦)にも装甲を施すべきではないかという意見が多くなっていく。

結果、『被弾すると致命的な箇所』に限定して装甲を施す形式が考案され、それまでの巡洋艦と区別して防護巡洋艦や装甲巡洋艦と呼ばれる艦が誕生し、1850年代後半から1860年代にかけて就役する。

70 :リラックス:2016/04/13(水) 19:09:27
魚雷
船はその構造上、喫水線から下のダメージに弱いことから、小型の動力船に爆弾を搭載し衝突させるというアイデアは早くから存在した。

この発想を発展させた物が魚雷だとされる。

最初の試作魚雷は圧縮空気を動力に用い、およそ時速12キロで100間(約180メートル)を走ったという。

この試作品のテストは成功したが、ある課題も浮き彫りになった。

それは深度調節で、走行する魚雷が設定深度に留まらず大きく上下動し、酷い時にはそれこそイルカのように水面上に飛び上がったり潜ったりを繰り返した。

この問題の解決のため、当初直結させていた水圧を感知する装置と昇降用の舵の間にふりこを噛ませた。

当初の装置では水圧によって水深を判断させ、設定深度より魚雷が浅ければ舵が下に切られ、逆に深ければ舵が上に切られて浮上する……という所までは良かったのだが、問題は設定深度付近での動作だった。

例として設定深度より浅いと判断した場合、魚雷は舵を下に切って沈む向きへと方向を変える。
だが、元々のシステムだと定深度付近に近づいても一度着られると舵は切られたままであり、また沈もうとする向きにそのまま進もうとする力は即座に無くなる訳ではなく、設定深度より魚雷が深く進み過ぎてしまう。

勿論、沈み過ぎれば今度は逆に舵が切られ、浮上する向きに魚雷は進み始めるのだが、今度はそのまま浮かびすぎてしまう……というように、沈み過ぎ&浮き過ぎが繰り返されてしまう結果が激しい上下動である。

改良型のシステムでは水圧を感知して舵を切るところまでは同じだが、潜行・浮上の際に魚雷本体の傾きが大きくなると、システムに噛ませられた振り子が重力に引かれて下に振れる。

そうすると潜行・浮上いずれの場合も設定深度付近に近づくにつれて舵が水平に戻るように微調整されていくため、魚雷の傾き=深度変化の速度が一定以下に抑えられ、沈み過ぎ&浮き過ぎを防ぐのである。

これによって深度の安定性は大きく向上した。この機構の完成度は高く、第二次世界大戦に至るまで魚雷の深度調節に用いられることとなる。

ちなみに、この試作品の魚雷は先端が丸くなっていたのだが、先端を尖らせた方が速くなるのではないかという声が出て、実際に競争させることになったのだが、実際には同じ条件で先端が丸い魚雷の方が速いことが確認された。

また、先を尖らせるより丸くした方が弾頭に搭載可能な火薬を増やせることもあり、魚雷の整備は丸く整えられるようになった。

なお、この頃の魚雷は目立つようにするため弾頭が白く塗られていたことから白頭魚雷と呼ばれることが定着したという。



速射砲
大砲は一発撃つごとに砲座ごと後退していたことから、それに伴って照準もズレてしまい、次弾を撃つ前に砲を元の場所に戻し、次弾を装填した後に照準を付け直すという一連の作業が必要となっていた。

これに対して速射砲は砲撃後、砲鞍とそれに装着した照準器を動かさず砲身のみが反動で後退し、砲身が元の位置に戻った段階で装填、砲撃を行える機構を備えた砲である。

駐退器
砲撃後に大砲自体が動いてしまうことにやり照準が付け直しになってしまうことは早くから問題視されており、この点の改良は長く関係者にとって命題となっていた。

扶桑型等では大砲を傾斜したレールの上に載せ、後退した砲をすばやく元の位置に復元できるようにするといった工夫が行われていたが、本格的な速射砲は19世紀半ば、高品質かつ強力なバネの開発によって実用化したバネ式の駐退器と閉鎖機の改良を待たなければならない(注3)

なお、こうして完成した速射砲は前述の防護巡洋艦や装甲巡洋艦に主に搭載されることになる。

71 :リラックス:2016/04/13(水) 19:10:06
多銃身回転式連発砲
機関銃の先駆けであり、クランクを手で回し、環状に配置された複数の銃身を回転させて銃撃を行う。
銃身が回転することで、空薬莢の排出、新しい弾薬の装填、銃口・銃身の冷却が行われる仕組みとなっている。
これにより、銃身の過熱を防ぎつつ連続射撃を行うことが可能になった。
この砲は命中精度こそ乏しかったが、当時主力である小銃が単発式であることを考えれば連射による火力はそれを補って余りあるものだった。

多銃身回転式連発砲は1831年に雛形が誕生し、問題点の洗い出しや改良が行われた後、1836年に幕府陸軍で正式に採用される。

開発当初は固定式弾倉に紙で包んだ鉛弾を内蔵する鉄製薬莢の実包をバラで投入していたが、幕府陸軍が採用したタイプは真鍮製薬莢の弾丸を自重を利用して給弾する箱型弾倉式になっていた(これ以外にも上部から実包を次々に継ぎ足す装弾クリップ式も後に開発された)。

その後も幕府水軍で艦艇にも搭載されたり、開国後は海外に輸出されるなど人気の兵器となったが、クランクを一定の速度で回さなければ故障の原因となること、また射手が伏せられない関係で狙撃されやすいこと、多銃身の構造から重量がかさみ、重量が通常の砲並となり、運搬に制限がつくなどの問題があり、ガス圧を利用したり射撃時の反動を利用した機関砲が開発されると徐々にそちらへと取って代わられた。

72 :リラックス:2016/04/13(水) 19:10:41
安全保障問題(注4)
転生者たちが日本の安全保障を考える上で、ペリー来航時の幕府や各藩あるいは当時の情勢や見解などを振り返っての分析は不可欠であった。

まず、明らかにしなければならないのは、なぜ当時の幕府首脳部がペリーの 「威嚇」 に屈して開国を決断したかの問題である。

嘉永6年 (1853年) のペリー来航からの開国、更に明治維新がそれからわずか15年後であることを考えれば、当時の衝撃波それほどのものであったことがわかる。

しかし鎖国で世界の文明発展に取り残された日本が、外圧によりついに開国に踏み切らざるを得なかったというのはある意味で当然としても、問題は『何故そのタイミングがペリー来航時だったのか』ということである。

事実、ペリー来航以前、それもそれほど離れていない時期に欧米の船舶が日本のあちこちに来航
しているが、いずれも幕府はこれらの船を追い払っている(交渉すること自体は無いわけではなかった模様)。

主なものを取り上げると、

ペリー来航の前年、嘉永5年 (1852年) ロシア船が下田に来航。

嘉永2年 (1849年) イギリス船浦賀に来航。

弘化3年 (1846年) アメリカ東艦隊司令官ビドルが戦艦2隻を率いて浦賀に来航。

同年フランスのインドシナ艦隊司令官セシルが琉球に来航。

天保8年 (1837年) アメリカ船モリソン号日本人漂流民を伴い浦賀に来航。

となるが、モリソン号来航の80年以上も前から幕府は応接に暇がないほど来航する外国船を追い払い、開国を断固拒否し続けてきた。

最も頻繁に接触してきたのはロシア船であり、

元文4年 (1739年) 安房沖に来航、

明和8年(1771年) 阿波に漂着、

安永7年 (1778年) ロシア船が蝦夷地に来航して通商を求める

寛政4年 (1792年)にはロシアの使者ラクスマンが伊勢の漂流民大黒屋幸太夫を伴い通商を求める

というように極めて頻繁かつ執拗に来航している。

史実において、ロシア帝国は1628年にシベリア遠征軍を派遣して以来、東に領土を拡大しシベリアから沿海州に至り、1707年にはカムチャツカを占領、1784年にはアラスカにまで進出した。

(なお、清国は史実ではすでにこの頃からロシアとの対立・摩擦を起こしていた (1652年松花江の戦い。1656 年アルバジンの戦い、1689年ネルチンスク条約)。

ちなみに史実において江戸期の国防論の先駆者となった林子平が寛政3(1791年)に出版した『海国兵談』 (ただし翌年禁書) は、寛政4年 (1792年) ロシア使節ラクスマンの根室来航に危機感を募らせた人々に大いに読まれ, 以後の国防論に影響を与えた。

史実においても北方から迫るロシアに, 日本の朝野を挙げて脅威を覚えていたのは確かなようである。

しかし、この時からペリー来航までの60年余りの間、ロシア以外にもイギリス、アメリカ、フランスなどの船舶が頻繁に日本に来航しいるが、幕府はそれらすべてをやり過ごしてきた。

これを見ればわかるだろうが、日本側から見れば『開国を迫る外国の使者』とした場合、ペリーは何の前兆もなく突然現れたわけではない。

73 :リラックス:2016/04/13(水) 19:14:09
更に西欧諸国のうち唯一日本との長い国交を続けるオランダは、アメリカのみならず広く国際情勢の概要を定期的に幕府へ報告していたことは「阿蘭陀風説書」 の記録でも知られている。

特に幕府の関心を引きそうな重大情報は「別段風説書」 として扱われ、渡辺 惣樹 氏の 『日本開国』によれば嘉永3年 (1850年) のそれには「アメリカ議会では北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって日本を開国しろという議論」 が起こっていること、

嘉永5年 (1852年) のものには 「翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸にやってくる」こと、

さらにそこには艦隊の構成、艦名と乗員数や艦載砲など武装の具体的内容まで記載されていたという。

つまり、「鎖国している内に井の中の蛙となっていた日本は、突然そこに黒船という文明の巨大な姿を見せつけられたことにより周章狼狽し、幕府は弱気になって不平等条約を結んでしまったのだ」というのは全くの誤りである(注5)。

話を戻して、つまるところ幕府首脳部が開国を決断したのは 「今回来訪した艦隊(ペリー艦隊)には対抗できない」と 「初めて」 認識したことが原因であると言える。

では、それまでの外国船の来訪とペリー艦隊の来訪、何が違っていたのだろうか?
一つにはまずペリー提督が交渉に武威を利用することに長けていたことが挙げられるだろう。

それを示すエピソードとしてとして一八三二年、彼が「コンコード」の艦長をしていた時、ナポレオン戦争に際してアメリカがこうむった通商上の損害に対する賠償金を取り立てるため、臨時に編成された四隻からなる艦隊を率いてシシリー王国に派遣されたことがある。

この時、彼は配下の艦隊を用いてたくみに交渉に成功させ、目的を果たした。このように、彼は艦隊による示威運動を適度に活用することを得意としており、彼の派遣された先では一時的な緊張は起こっても、致命的な衝突には至らず最終的には良好な関係を築くことに成功している。

幕末から明治初期に通訳として活躍したイギリスのアーネスト・サトウも以下のように述べて
いる。

74 :リラックス:2016/04/13(水) 19:14:41
「アメリカ人の目は, 当時世界の一大産金地として有名になっていた自国のカリフォルニア州と太平洋を隔てて相対している日本に、多年向けられていた。 彼らは、この 『神国』 を取り囲んでいる障壁を破ろうと試みた、従来のあらゆる計画がみな失敗に帰したことを知っていたので、今度は武力を示してこの日本を開国させようと決心した。

日本の国民は物わかりはよいが、近代の砲術を知らない。 こういう国民には大砲の威力を見せつけることが、四海同胞説や国際的義務を説くよりも強力な談判の下地となりうるからである」 (アーネスト・サトウ著, 坂田精一訳, 『一外交官の見た明治維新』)。

第二の理由としては、彼が用いた武威が日本側に開国を決意させるに十分な物であったことも無視できない要因のようだ。

では幕府は、具体的にどのような武力の実態を認識したのであろうか?

嘉永3年 (1850年) 九州遊学の途についていた吉田松陰は、『西遊日記』の11月朔日の項に次のようなことを記している。

フランスの 「砲将百幾撤私 [ペキサンス] ハ、ホンヘカノン [ポンペカノン砲=炸裂弾を発射
するカノン砲], 柘榴カノン [榴散弾を発射するカノン砲] ヲ用ユ、云々。一八廿二年、此書大ニ世ニ行ル」 。

ペキサンスとはフランスの砲兵将校、アンリ=ジョセフ・ペクサンのことで、彼は1823年、それまで不可能とされていた炸裂弾を発射出来る平射砲を設計した人物である (「シェル」 といわれる炸裂弾そのものは, この時期フランスで開発されていた)。

75 :リラックス:2016/04/13(水) 19:15:19
ペクサン砲の存在はアヘン戦争が勃発した1840年 (天保11年) には日本でも知られており、同年11月には鍋島藩武雄の砲術家平山醇左衛門が 「ペキサンス大砲絵図」 を長崎で発注し、更に弘化2年(1845年) には鍋島藩主がペクサンの原書を購入、長崎のオランダ通詞に翻訳させている(松蔭が読んだのは, オランダ語に翻訳されたものを小山杉渓が和訳した本を筆写した物と思われる)。

松蔭は続いてこの書のデータから欧米諸国が備える大砲の具体的な威力を推測した。

彼の推測を要約すると 「48ポンドや80ポンドの榴散弾だけでなく、150ポンドや200ポンドの大型ポンペ砲で巨弾を発射しても、砲弾は水平に直射し、威力は容易に減殺しない」となる。
また、彼は欧米の大砲は日進月歩で進化を続けており、砲弾の重量はいよいよ増し、砲身は益々長くなり、火薬の威力もさらに増大し, 砲身の内径と砲弾の外径はより精密に一致し, 従って射程は益々長大になるとも残している。

松蔭すら知るこのような大砲は、もちろん幕府首脳部以下諸藩とも熟知していた(『日本開国』 によれば、嘉永4年 (1851年) 会津藩が江戸湾 (富津台場) 防備を命じられた際, 江川英龍に150ポンド ペクサン砲の鋳造を依頼している)。

アメリカ海軍は1845年以降、8インチペクサン砲を艦載砲に採用し、その後10インチ砲へと換装を行った(ペリーが日本遠征時に率いた蒸気船サスケハナ号には6門、ミシシッピ号には合計10門のペクサン砲が搭載されていた)。

『日本開国』によればペリー来航時、艦上でアメリカ側と交渉した浦賀奉行所与力中島三郎助はいち早くこのペクサン砲を認め、アメリカ側を驚かせたとされている。

もちろん、搭載されていた大砲はペクサン砲だけではなく、ペリーの率いた4隻の艦隊にはペクサン砲を含め合計63門の艦砲が搭載されていたが、同著の中で「ペリー艦隊第1次来航時の大砲は全て32ポンド砲 (約3.8貫目) 以上であり、 (中略)対して日本の3貫目砲以上の合計数は32門で数量的にかなわない」 と分析されている。

76 :リラックス:2016/04/13(水) 19:15:57
しかし、これだけで幕府首脳部が白旗を揚げたわけではない。

幕府側が重視したのは, 大砲の数だけではなく、その性能であった。

ペリー艦隊の搭載する大砲の射程距離は, 江戸湾沿岸を防備する日本側の大砲のそれを大きく上回っていた。

浅川 道夫  氏の『江戸湾海防史』によれば天保8年のモリソン号事件の頃、浦賀の砲台陣地に配備されていた大砲は1貫目筒など4種類の和筒で、これらの射程距離はおよそ1000m、外径60 mmに満たない鉛製の球状実弾を撃ち出す物でしかなかったという。

相手の砲がどれほど強力でも、それが艦載砲である以上は迎撃側の砲兵陣地に設置された大砲が侵入者側の艦砲の射程距離を上回るか、最悪でも拮抗してさえいれば、砲の破壊力において多少劣っていても侵入者を撃退できる可能性は高い。

理由は簡単で、船は沈むが陸地は決して沈まないという絶対的な優位があり、『撃ち合い』を行う限りは陸地に設けられた砲台陣地の方が有利なためである。

しかし、この時期幕府側の配備していた大砲の射程は20町から25町(約2000mから2500m)に過ぎず、これに対してペリー艦隊の12インチ砲は最大射程8000mを誇っていた。

これが何を意味するのだろうか?

海の防衛で幕府の最重要地区は言うまでもなく江戸湾だ。

この湾への外敵の侵入を防ぐには神奈川の三浦半島最東端の観音崎と房総半島西部中央で西に細く張り出す富津岬の間の最も狭い両岸に砲台を築いて迎撃態勢を整えれば良いというのは地図を見れば素人にも理解できる道理であり、『江戸湾海防史』によれば幕府も当然そうした防衛体制を整えていた。

しかし、この海峡には約 7 kmの幅があり、幕府の砲の性能では単純計算でこの海峡中央に幅2 km程のどちら側からも砲弾の届かない安全地帯が生じてしまう。

つまり侵入者はこの中央 2 km の水路を通り抜けることで江戸湾奥深くまで自由に侵入出来た。

攻め手側の大砲の射程が防御側のそれに比較して2倍以上を誇る状況では『撃ち合い』でなく一方的に撃ちこまれるしかなく、そのような状況では陸上からの有効な対抗手段など無いと同義であって、それはすなわち相手がその気になればなすすべなく国の中心である江戸へ向けて好き放題に大砲を撃ちこめるということを意味していた。

炸裂弾は従来型の金属の塊である実体弾と違い砲弾の内部に炸薬を充填しており、目標に着弾すると砲弾そのものが破裂し無数の弾片を飛散させると同時に, 艦艇も陸上の家屋や施設も発火炎上させることができる。

ただの金属の塊である砲弾がいくら撃ちこまれようとも被害は限定的だが、炸裂弾を江戸の町に撃ち込まれれば大炎上を免れられず、更にそれが蒸気船に搭載されているとなれば効果的な迎撃すら難しい。

ただでさえ家事と喧嘩は江戸の華、などとも言われた江戸でこれはとてつもない脅威である。

77 :リラックス:2016/04/13(水) 19:16:43
更に言えば『西遊日記』に「カノン砲を搭載した蒸気船は風がどの方向から吹こうと, また無風の時でも, 何時でも意のままに港に出入りすることができる。
暗礁や沿岸に設置された大砲の射程範囲を離れて安全に航行できる。水深が浅くとも [安全な航路を意のままに選んで] 航行でき, またマストを建てて帆をはることもないので遠方からは見つけにくい。
それ故[この蒸気船に] 炸裂弾を発射するカノン砲を搭載して攻撃すれば敵は不意打ちを食らうであろう」 と書き記されているように、蒸気船は暗礁や浅瀬にさえ注意すれば江戸湾奥深く侵入することも可能であり、また状況に応じて直ちに湾外に退却することもできる。

蒸気船と炸裂弾を装備した艦載砲、そして彼我の大砲の射程の差、これらに対応する手段を幕府側は有していなかった。

さらに幕府側には別の弱点とあった。

江戸湾入り口から敵対、あるいは非友好国の軍艦を追い払うことができなかった場合、その軍艦
が湾口近辺に居座ることで江戸湾を海上封鎖されてしまうことである。

人口100万人とも称される当時でも世界有数の巨大都市であった江戸は、政治の中心であった。そして、人が多いということはそれに見合うだけの膨大な消費も発生する。
当時の江戸周辺の近郊農村の生産性は低く、都市生活者の多様な商品需要に応える生産能力は備えていなかった。
江戸という巨大都市の需要を満たすための物資の多くは、遠く西国からの海上輸送によって運び込まれていたのでる。
従って、もし敵意ある外国軍艦が江戸湾口を封鎖すれば、短時間のうちに江戸の町は飢餓に苦し
み、政治に中枢としての機能も麻痺することは明らかである。

三谷 博 氏の『ペリー来航』でも語られているように、このような事態が現実となった場合、幕府の統治の根幹を揺るがすことは確実であった。

つまり、ペクサン砲を搭載したペリー艦隊の蒸気船は神出鬼没に自由なタイミングで日本に存在するあらゆる港湾都市を焼き払うことが可能なこと、江戸湾を封鎖された場合事実上なす術が無く江戸は干上がることを示された結果、幕府はペリー艦隊を『これまでに無い脅威』として認識しなければならなくなったのである。

78 :名無しさん:2016/04/13(水) 19:18:12
かの有名な狂歌 「 太平の 眠りを覚ます 上喜撰 (蒸気船) たった四杯で 夜も眠れず」というのは、 蒸気船の持つこうした本質的な脅威を言い当てている。

ここで、仮に海で侵攻を食い止められず「敵」 が上陸した場合でも、幕府側は旗本や諸藩の武士を動員して陸上戦闘に持ち込めば勝てるのではないかと考えられる方もいるだろう。

実際、ペリー艦隊の兵士は合計で二千人もおらず、武器も船で運び込んだ以上の物は持ち込めず、制海権はフリーとはいえ太平洋を隔てた本国から援軍や補給を運び込むのは相応の時間が必要となる。

事実、嘉永6年(1853年)にペリー以下アメリカ側兵士がアメリカ大統領の国書授受のため浦賀の久里浜に上陸した時、ペリーに随伴した武装兵士はわずか300名であったのに対し、日本側は総勢5000人の警備兵を動員したとされる 。

勿論、この時に戦闘は発生しなかったが、幕府側はこの間それまでの警備体制全般を様々に検討
して、以下のような問題が発生する。

ペリー艦隊の武装兵士300名が持っていた銃は先込め式単発銃 (欧米で後装式かつ薬莢に尖頭弾を着けた弾丸を用いる小銃が使用され始めるのは1860年代初め頃。) で、日本側の火縄銃よりは性能は優れていた。

しかし、それでも5倍ほどの鉄砲隊……、1500人ほどを用意してぶつければ(敵の艦砲の支援がない状況で、という前提があってだが、海から十分に離れた内陸なら、この条件の達成は難しくない)、まず負けることは無いことは明らかだった。

ところが、この『1500挺の銃を集め, 鉄砲隊を編成する』ことが当時の幕府の軍事体制では容易にできなかったのである。

当時、江戸城にさえこの数の銃は常備されておらず、まず鉄砲を買い集める所から始めなければならなかった。

旗本や諸藩の武士を集めて火縄銃を与え、弾丸と玉薬を用意し、それなりの数の鉄砲隊を編成するには、少なくとも一両日中には不可能だった。

それだけ時間的な猶予があれば「敵」 はさっさと蒸気船まで退却し、そのままこちらの防衛体制が整っていない地点へ軍艦ごと移動、そこを自由に(軍艦からの支援砲撃の下)攻撃することも可能なのである。

江戸以外にも当時の日本には重要な都市は多数あり、しかもそれらは大半が海岸に面した港湾都市であった。そして仮にそのような行動をとられた場合、阻止する能力は幕府には無いのは先述した通り。

このような軍事面を中心とした様々な検討の末、老中筆頭 阿部正弘 初め幕府首脳部はペリーの開国要求の受け入れを決断したのである。

79 :リラックス:2016/04/13(水) 19:20:06
例えば『日本開国』によれば、攘夷派の急先鋒である水戸の徳川斉昭は 「我が槍剣の長技をもってすれば陸戦において彼を皆殺しにすることは容易である。 艦内に入って対談するごとく見せかけ、将官どもを突き殺さば少人数をもって全艦員を屠ることもできる」などと強硬論を唱えていたが、この時ペリーの要求を拒否し、何らかの武力衝突が起きていたら。その後にどのような事態が発生していたであろうか。

仮にこの案が実行され、ペリー艦隊を全滅させることに成功したとしよう。

その場合、アメリカ政府が行ったと予測される対応の一例がある。

1831年、スマトラ島北西部のインド洋に面した港クアラバツーに碇泊していたアメリカのフレンドシップ号(木造帆船)をマレー人が襲撃、数名の乗組員を殺害して積荷である貴金属、コインやアヘンなど当時の価格で合計2万ドル相当を略奪した。

この知らせを受けて時のアメリカ大統領アンドルー・ジャクソンは帆船フリゲート艦ポトマック号 (大砲50門を搭載) 積荷の奪還と略奪行為の賠償を求めてスマトラへ派遣、事件の起きたクアラバツー港に上陸した海兵隊は港近郊の村々を焼き払い、婦女子を含む200人に及ぶ村民を殺害したという。

このような報復は、1840年のアヘン戦争の際のイギリスの例が顕著だが、遠く大航海時代のポルトガル・スペイン以来イギリス・オランダ・フランス・ロシア・アメリカといった植民地を持つ列強国では一般的な対処である。

日本が斉昭の強攻策を実行していた場合、間違いなくアメリカは『開国の使者として送った自国の将兵』を害したとして報復攻撃を行ったはずである。
そして報復のためペリーの率いた艦隊の規模を大きく上まわる艦隊が来航し、幕府首脳部が想定したように江戸湾奥深く侵入し、砲撃により江戸の町を焼き払ったのは確実だろう。

当時の輸送能力で江戸を占領可能かは微妙だが、幕府の支配体制を崩壊させるには十分な出来事だ。

その後日本側がゲリラ的な戦法を用いて抵抗を行った場合、アメリカ軍との泥沼の戦闘が続いた後にアメリカ軍を追い出せる可能性もあるかもしれないが、少なくとも明治維新からの近代化、日清、日露戦争の勝利、といった歴史とは大きく乖離するのは間違いなく、恐らくは日本にとって明るいとは言い難い未来へと進んだ可能性が高いだろう。

そういう訳で、ペリー提督の手腕と示された武威、そして幕府側がそれが何を意味するか理解して強硬的な声を抑えることが出来るだけの見聞を備えていた、つまりはペリー提督と幕府の間にパーフェクトコミュニケーションが成立したことこそが開国へと繋がった三つ目の理由と言って良いかもしれない。

80 :リラックス(78も自分です):2016/04/13(水) 19:20:53
さて、こうした史実の事情を考察すると自ずと国防と安全保障上における課題が見えてくる。

  • 大砲の性能不足により一方的なアウトレンジを喰らう
  • 海軍力の不足から相手の蒸気船に自由な行動を許してしまう
  • 即座に対応可能な戦力の不足

軍事的な観点に絞ればこのような物であろう。

まず大砲の性能不足だが、これに関しては早くから取り掛かったことによって大幅に改善されていた。
オランダなどを経由して情報の収集に力を入れ、仮に欧州の軍艦が武力を以って脅して来た場合に備えての準備も怠らなかった。

その結果、各港湾都市の沿岸には砲台陣地を築き迎撃可能な体制を整えていたし、史上で問題となった江戸湾への侵入も、砲の改良によって海峡全体を射程内に収めることが出来るようになったことで防ぐ目処が立っていた。

次に海軍力だが、これに関しても蒸気船を含む有力な船舶を保有し、航路防衛を長年務めていた海軍が既に整備されており、相手が蒸気船の艦隊を引き連れて来ても行動のフリーを与えるということはあり得ない体制を築くことに成功していた。

最後に対応部隊だが、これに関しては瑞州大陸に流された豊臣家に対する備えという名目で陸軍
奉行が設立され、この頃から軍制改革の試みがなされている。
また旗本、御家人の子弟を対象にした鉄砲術や砲術、大坂の陣で使用された新型兵器の取り扱い、戦術学の研究などを行う講武所の設立もこの頃に行われた。

失業対策にしで無駄飯食らいを大量に抱えるくらいなら屯田兵として開拓にでも送り込んだ方がいいのではないかという意見もあったが、仮に新型兵器の開発に成功しても取り扱える者がいなかったり適切に運用する戦術が構築されていなければ宝の持ち腐れであり、そうした面から考えるとこうした人材の育成・確保と戦術の研究を行う機関は必要と判断され、設立される運びとなった。

幕府陸軍という名称が正式に誕生したのは幕府水軍が設立されたのと同時であるが、設立時から両者の連携と関係を深めるため、時折様々な催しが行われていたという(注)。

このようにして、多数の転生者と多くの協力者による長年の努力によって問題点の改善に努めつつ、来るべき時を待つことになる。

81 :リラックス(78も自分です):2016/04/13(水) 19:21:23
注1、大型な主力艦を戦艦、航路防衛を主任務とする小型高速な艦を巡洋艦という区分が誕生したのはこの頃と言われる。

注2、どうせマジェスティック級以前の戦艦は陳腐化が早いのであまり大規模に整備しても仕方なく、実際に建造するのは技術蓄積のための最低限で十分という転生者達の思惑もある。

注3、速射砲の登場で、火力を評価する場合、一発あたりの威力という評価のほかに、単位時間あたりの砲弾の(数と重量)投射量という評価基準が生まれた。

注4、黒船来航と開国関連についてはここを参考にしまくりました。丸写しにならないよう注意したつもりですが、見過ごせないレベルで問題があるようならお手数ですが削除依頼をお願いします。ttp://ci.nii.ac.jp/els/110009900642.pdf?id=ART0010431694&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1460539599&cp=

注5、同様に吉田松蔭が、「なぜあのような鉄の船が海に浮くのかを知りたいのだ。鉄が海に浮くなど(私の常識では)考えられない。彼らの文明とはいかなるものなのか、是非、自分をあの船に乗せてもらいたい」と言ったという話も全くのでたらめである。
幕末といわず、もっと古い時代から、鉄製の鍋や釜は存在している。そして当然ながら鍋も釜も水に浮く。
そもそもペリー提督の座乗したサスケハナ号は米国海軍の『木造』スクナー・フリゲート外輪蒸気艦。もう一隻の蒸気船ミシシッピ号も木造蒸気フリゲート(残り二隻は木造帆船)、黒船の名の由来は木造の船体に塗られた防水・腐食防止用のピッチによるものである。ttp://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/images/Ships.pdf

注6、陸軍水軍合同の運動会や武道大会、文化祭などといった内容であり、帝国陸軍、帝国海軍へとそれぞれ再編された後も伝統として受け継がれている。特に文化祭は今日で言うコ○ケの前身になったという説もあり、萌えという概念や文化誕生に大きく関わっているとされる。

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最終更新:2016年04月17日 19:09