91 :弥次郎@帰省中:2016/07/06(水) 21:00:00
日仏ゲート世界 有為転変1 -Destination Unknown-
世に言う第一次世界大戦の勃発は、複雑な欧州の政治事情が絡んでいることは言うまでもないことだった。
直接の要因そのものは、オーストリアの皇太子がサラエボ事件において暗殺されたことである。
第一次世界大戦において図らずも参戦国の殆どとの政治的関係を持つことになっていたオスマン帝国の視点から
世界大戦を見ていこう。開戦前、オスマン帝国の友好国乃至同盟国はドイツ 大日本帝国 帝政フランスが中心だった。
一応ペルシャとは大日本帝国を介して欲もなく悪くもない関係を維持していたので、ほぼ問題なしと言えるだろう。
この関係というのは南下政策をとり続けているロシアに対抗してのものだった。
南下政策によって不凍港を求めるロシアの動きは、必然的にオスマン帝国と日本にぶつかることになった。
しかし、ロシアの太平洋方面での動きは朝鮮王国の永世中立化とアロー戦争時における日本の沿海州獲得によってほぼ頓挫した。
しかし、それでロシアが不凍港を求める動きを諦めたわけではなかったのは言うまでもない。東がだめならば西側に
と不凍港を求める動きは続いた。そして、日仏から支援を受けながら近代化を進めるオスマン帝国はロシアを警戒する
ドイツにも接近し、協力関係になることに成功していた。敵の敵は味方というわけである。もとよりエルトゥールル号遭難事件時の
日本側の誠意ある対応から親日勢力がオスマン帝国内に存在したことから、オスマン帝国内でも日本への援助を求める
動きは歓迎されていた。
そして日本の同盟国であるフランスから見ても、オスマン帝国は良くもないし悪くもない関係にあった。
一応はフランス革命戦争時には敵対していたが、遠隔地にあることから形ばかりに近い形であったし、スエズ運河開発の過程で
だいぶ関係改善が続いていた。日本との共同で開発を進めたスエズ運河をイギリスに握られないため、という建前もあったが
一応欧州にほど近い地域に友好国が欲しかったという点からもオスマン帝国とのつながりは悪いものではなかった。
フランスの工業製品を輸出する市場という観点からもオスマン帝国は魅力的であった。一国の近代化にはいろいろと
必要なものが多いのだが、その際にフランスの装備やインフラの輸出が出来たことはフランス経済にとってもよい刺激を
与えるきっかけになっていた。史実においては近代化の遅れや資金不足などが響いて瀕死の病人と呼ばれていたが、
この世界線においては日本とフランスから支援を得ることができたために、まだまだ健在だった。
ここで補足するが、オスマン帝国は病人ではなかったが、生みの苦しみを味わい続けていた。
国内ではオスマン帝国危うし、とする考えが外部から煽られながらも確かに存在していた。オスマン帝国の領土は
全盛期に比べればかなり減っていたし、史実ほどでないにしても借款は存在していた。さらに、オスマン帝国がロシアに
勝利したクリミア戦争にしても半ばおんぶにだっこでの勝利だ。国内のアラブ系住人の一部には勝ち組に見えるイギリスへの
内通を考え始める一派も現れていたし、現在でいうところのイスラエルをめぐる問題はちらほらと危うさを持っていた。
そもそも、宗教+他民族+長年の恨みというトリプルコンボを決めておきながらも国体に響かないように纏め上げている
国など日本やフランスなどしかなかった。
アメリカは人種差別が残っているし、イギリスもイングランドとアイルランドの
いざこざが存在していたし、そうでなくてもユダヤ人への偏見は残っていた。そしてオスマン帝国もまた、国内の
民族・宗教が絡む問題の火消しに奔走していた。近代化を進めるときに散々躓いたその問題は、未だに収束したとは
言い難く、この第一次世界大戦が終了し、オスマン帝国の方針が間違っていなかったと認められるまで続くことになった。
93 :弥次郎@帰省中:2016/07/06(水) 21:00:51
続いて、オスマンの敵対国を列挙するとイギリス ロシア ギリシャが主となる。
ロシアは言うまでもないが、ギリシャとイギリスが敵対することになったのはオスマン帝国が近代化をしながらも
統治が難しくなった地域をパージして独立させたことが間接原因だ。そもそもイギリスがオスマンと敵対したのは、
オスマンが独立させたエジプトを実質掌握してスエズ運河に関与していることが原因であった。スエズ運河は史実同様に
レセップスが開発に関わっていた。また、ここにはフランスのみならず日本の資本と技術も投入され、運河を運営する
会社の株も一定程度保有していた。オスマンもそれに人員などの点で協力したことで株を有していた。運河開通からまもなく、
史実同様にエジプトが負債を抱え込み過ぎたことでスエズ運河の株式の売却に選択した。史実ではイギリスが株の買い付けに
走るのだが、ここで日仏が介入した。そして元々エジプトを支配していたオスマン帝国も日仏に続いた。この世界において、
日仏間の交流が盛んであることからスエズ運河を通過する船舶は概ね英仏日の三ヵ国で占められていた。もしここでイギリスが
スエズでのアドバンテージをとることは日仏にとっては容認できるものではない。
暗闘の結果、イギリスは株の保有率を全体の15%前後で抑えられることになった。史実の半分以下でしかない。
6割前後の株を有するオスマン・日本・フランスの3か国が反対すれば、イギリスも口を閉じるしかない。
代わりという様にエジプトの経済的に狙い、強引にエジプトを支配下に巻き込んだ。元々エジプトにオスマン帝国に
見捨てられたと考える人間が一定程度いたことがイギリスの支配の浸透を容易くしていた。とは言え、オスマン帝国が
パージする前から、もっと言えばナポレオンの時代からエジプト支配は揺らいでいたも同然であり、マムルークの
有力者たちが自らの意思で政治を牛耳っていたため半ば自業自得でもあった。おまけにこの世界においてはナポレオンの
エジプト遠征が発生せず、エジプトの近代化が史実よりも遅れていたことも、エジプトがろくに抵抗することが出来ず
支配を受け入れるしかなかった理由であった。また、イギリスとてオスマン帝国のような後進国に後れを取るわけにもいかなかった。
元々オスマンの背後には日本とフランスがいるのだから、イギリスが簡単に手を引っ込めては世界帝国の名が泣く。
実際のところ、インドとの連絡路に位置するスエズ運河をフランスに完全に握られた場合、最悪封鎖されてしまう可能性があった。
その瞬間、イギリス最大の資源地帯にして人員供給地との連絡が途絶えてしまう。
イギリスとしてはオスマンがせめて中立であれば、という考えもあった。エジプト駐留軍とオスマン帝国陸軍が激突する
公算は高かったのだが、どちらかといえば上陸しての行軍に備えて温存しておきたい兵力だった。スエズ周辺が中立地帯として
日仏の睨みがきかされることを考えればむやみに日仏を刺激する行為は避けるべきだった。
94 :弥次郎@帰省中:2016/07/06(水) 21:01:42
次いでロシアが敵対国である。これは南下政策との激突が根底に原因がある。嘗ての露土戦争で敗北を喫したオスマン帝国
だったが、クリミア戦争時にオスマン帝国が日本を主体とした日仏同盟の支援で史実以上に余裕を持って勝利をおさめた。
この戦争においてイギリスからの支援も受けていらオスマン帝国だったが、史実よりも欧州からの口出しを封じることが
できたために近代化を自らのペースで進めることに成功していた。そもそもフランスや日本という近代化の成功例を参考に
出来たことがかなり大きかった。史実より借款は少なく、史実と一部異なるミドハド憲法の制定を成功させた。
このクリミア戦争で自信をつけたオスマン帝国は法治国家としての体制を整えていく。リビアはフランスとの合同統治という形で、
実質的にオスマン帝国領として残存していた。フランスという後ろ盾は近代化を進めるオスマン帝国にとっては非常に
ありがたいもので、伊土戦争も敗北することなく乗り切ることができた。しかし、バルカン半島やギリシャといった地域は
エジプトなどと同様にオスマン帝国からパージされた。実際、多民族からなるオスマン帝国にとって単一民族による、
あるいは複数の国家にまたがって分布する民族による統一運動というのは厄介極まりないものだった。
これに対抗するためも含めて、オスマン帝国はドイツ帝国との同盟を結ぶことになった。
一方、オスマンが手を組んだドイツ帝国であるが、史実と異なり仏露の二方面作戦を展開する必要が薄くなっていることから
ドイツ参謀総長のアルフレート・フォン・シュリーフェンはフランスとの中立状態を維持して、最低限の部隊を西部に
残してロシアに陸軍を集中すべきというシュリーフェン・プランを提唱した。
このシュリーフェン・プランは、政治的事情や国力から革命以来欧州のアンタッチャブルとなっているフランスをイギリスへの
盾にするという、ある意味恐れ知らずの内容でもあった。しかし、実際の所英仏間の関係は良いとはいえず、フランスが
ドイツと積極的に敵対する理由がなかった。またドイツにしても近代化が遅かったとはいえオスマン帝国という同盟国が
ロシアに共同で対抗することは数を補うことから言っても非常に重要であり、ドイツ上層部にとっても承認するに値した。
確かに現状のままフランスが中立を選んでいれば、迂闊にイギリスが海軍を差し向けることもないだろうというのは予測できる。
仮にイギリスがドイツへの上陸を選ぼうとしても、それはドイツ海軍を排除し終えてからの話だ。一部をバルト艦隊に
振り分ける必要があるとはいえ、陸海軍の戦力を集中できることは決して悪い話ではなかった。そしてイギリスが欧州本土への
上陸をするためには、フランスかオランダかあるいはスウェーデンなどを通らなければならなかった。
95 :弥次郎@帰省中:2016/07/06(水) 21:02:36
だから、どの国に対しても戦時には中立をとるように工作を以前から仕掛けていた。
オランダは戦後のことを考えれば大人しくせざるを得ない。もとより国力は戦力となりえないほど落ちているのだから。
スウェーデンをはじめとした北欧はドイツが対ロシアを政策として打ち出していて、ロシアの不凍港を求める動きを
意識する北欧各国はドイツへと積極的に敵対できない。最後に残ったのはフランスだが、日本共々イギリスとは敵対しつつあることを
考慮すれば、イギリスがドイツへと軍を送るための足場はほとんど存在していない。あるとすれば、ギリシャあたりを
通過させてオスマン帝国方面からの侵攻であるが、そちらはオスマン帝国とオスマン帝国に派遣する増援だけで防げる。
それにイタリアを同盟に引き込んでいるため、いざ戦闘が起これば地中海での制海権はこちらが主導権を握ることができる。
つまり、イギリスとの戦闘はこちらが兵站を維持しやすい位置で行えるのだ。これもフランスという楯のあってこそ。
ドイツにとってのメリットの一つが、オスマン帝国を介して隣国のフランスとの交渉や政治的取引のルートが構築できたことだ。
隣国が危険だというのはドイツ上層部では一致している意見であった。戦争以外の面でも、例えば一般市井における技術の
発展ぶりは傍から見ても明らかだった。飛行機による国内移動の迅速化、無線の技術発展、国内インフラの急速な整備など、
当時の列強すら異常と判断できる発展具合だった。一応隣国であるドイツもそれを見ており、フランスの活性化を材料に
陸海軍共にいくらか予算を確保しており、史実よりいくらかましな状況を作っていた。
しかし、問題だったのが七週間戦争以来実質的に支配しているオーストリア=ハンガリー帝国であった。
元々オーストリア=ハンガリー帝国はその政治体制故にフランス革命戦争ではかなりの兵力をフランスへと投じていたし、
その後のナポレオン戦争においても対仏大同盟を主宰するなど主導的地位にいた。しかし、参加した戦いはほぼ連戦連敗。
おまけにフランス軍の投じる兵器や兵士と比較すれば圧倒的に質も数も劣っていたため、損耗率のひどさは目を覆わん
ばかりのものだった。これによってオーストリア国内の単位人口当たりの男女の比率がだいぶ偏っており、必然的に国力も
減退しつつあった。オーストリア国内では軍需工場に手がすいた子女が動員され、一足早い国家総動員体制となっていたが、
それでもなおフランスには負け続きだった。しかし、それでもなおオーストリア国内は反仏の声がかなり強かった。
その為、間接的とはいえオーストリアにとって仇敵のフランスとドイツが手を組むことにはドイツ上層部でも不安の声があった。
オーストリア出身者がドイツ軍に入っていることはよくあることだったし、名前も別で主君も違うが他国というわけではないため
経済的にも文化的にも密接なかかわりがあった。内部を疑うような真似はドイツ帝国にとっても避けたいことではあった。
イタリアに関しても、オーストリアとの国境をめぐる争いがあったのは記憶に新しい。今はともかく、脅威がなくなった後に
争いが勃発することもあり得た。そうなれば、万が一の後に構築された戦後体制がいきなり崩壊しかねない。
96 :弥次郎@帰省中:2016/07/06(水) 21:03:36
もし中立をドイツ側から破れば、正確に言えばオーストリアが破れば、報復のためにフランス軍が一気になだれ込んでくる。
ドイツが誇る陸軍にしても、建造競争によって急速に規模を拡大しつつある海軍にしても、イギリスとロシアを相手取りながら
さらにフランスを防ぐことは不可能だと判断していた。フランスとドイツの間にはスイスとオランダとイタリアがある。
しかしそれはあくまでも一部が間に挟まっているだけであり、国境は基本的に接している。フランス軍の神速ぶりは
ナポレオンの時代からよく知られている。ましてや、技術が発達していたとは言えない時代でさえ早かったのだから、
今の時代での速さは言うまでもないほどのレベルだ。迂闊なことをすればドイツは一気に飲み込まれる。
首都であるベルリンはドイツのどちらかといえば東側なのがせめてもの救いであるが、何処まで持ちこたえられるかは
ドイツ陸軍であっても不安を隠せない。
おまけになるが、イタリア王国の立ち位置もなかなかに複雑だった。
元々北部イタリア地域がナポレオン戦争時から『イタリアではないイタリア』、分かりやすく言えば『未回収のイタリア』に
分類される地域にあった。元々イタリアが統一国家として動き出すのはガリバルディによる統一の動きを待たなければならないほど
他国から見て遅れていた。そしてその統一の運動以前、即ちナポレオン戦争時には北部イタリアがフランスよりの中立を維持し、
その後もフランスによる独立保証されたままだった。当然、住人たちもフランスへの帰属意識や親近感というものがあった。
その地域は北部イタリアのジェノヴァとミラノ、さらに遠くはヴェネツィアにまで及んでいる。とはいえ、それはあくまでも
自分達への利がある故の関係に近かった。実際、サルデーニャ王国はその後フランスとも距離をとることになっている。
やはりフランスの急速な改革というのは、不信感を抱かせるには十分すぎるところがあった。王家と貴族の持つ権力が
何故か国民へと惜しみなく譲渡されていき、気が付けば権威ばかりが彼らには残っていた。これまでの政治体制で地位が
保証されていた王家にとっては、封建制を、ひいては王家を否定しかねない危険なものに見えた。
ついでに言えば、この未回収のイタリアは後にオーストリアとの国境をめぐる問題にもつながっている。
普墺戦争時にヴェネツィアを奪還したものの、それ以上は7週間という短い期間の戦争故に取り戻すことが出来ず、
イタリアの手に戻っていなかった。なので、万が一となればイタリアが陣営を鞍替えすることが予測された。
実際、ドイツとイタリアの関係は良いとしても、イタリアとオーストリア=ハンガリー帝国の関係は良いとは言えない。
こうして俯瞰すれば、複雑な利害関係の元で第一次世界大戦は始まりの時を迎えようとしていた。
絡み合う糸のような複雑な国家情勢。
誰が敵で、誰が味方なのか。互いが互いに疑心暗鬼となりながらも、軍備と動員体制だけが整えられていく。
『欧州情勢は複雑怪奇』という、当時の大日本帝国内の新聞の表題が欧州の動きを端的に表していた。
最終更新:2016年11月14日 13:19