184 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 18:59:11
「サラエボ事件は史実通り発生しました。各国の動きも概ね史実通りです」

「しかしオーストリア皇太子の警備が史実以上にずさんであるとは……」

「オーストリアの疲弊は、どうやらナポレオン戦争以来続いているようですよ。あれだけの動員をやって損耗したので当然でしょうが」

「貧すれば鈍するといいますが、手段をもう少し選ぶべきでしょうに」

「幸い我々は巻き込まれない可能性が高い。我々は精々稼がせてもらうとしましょう」



日仏ゲート世界 有為転変2 -Ordeal by Innocence-



サラエボ事件の勃発から、オーストリアはサラエボに宣戦布告。連鎖的にイギリスとロシアの英露協商と、独土墺の同盟が
ぶつかり合うことになった。この時点における主な中立国は日本 フランス スペイン イタリア アメリカ アカディア大公国
アウスタリ大公国 オランダ スイス スウェーデンなどであった。

アメリカはモンロー主義をとっていたことと経済圏に飲み込みつつあった中南米への対処、さらに参戦理由がこの段階では
まだ存在しないことから中立を選んでいた。とはいえ、アメリカの経済界やホワイトハウス内の意見としては参戦による
戦争特需を期待する声が大きかったことは間違いない。実際、アメリカが参戦したのも戦争の流れが協商側に傾いてからであった。
それによる軍の動員は国内にかなりの経済効果をもたらしたし、第一次世界大戦の戦訓を獲得した軍はそれに対応するために
多くの予算を獲得することができた。少々軍部と軍事会社のつながりがあったとしても、それもある意味仕方がないことだろう。

建前的に潜水艦による民間船への被害を例に挙げ、「ドイツが欧州の平和を乱そうとしているため」などと表明していた。
しかし、それはあくまでも建前であるのは参戦国でも中立国の間でも半ば公然の秘密となっていた。史実と異なり
ドイツはUボートによる無制限潜水艦作戦を承認しておらず、むしろ国際法を順守して戦争を行っていた。
アメリカの言う『民間船』もイギリスなどに徴用されて兵員輸送船となっている船ばかり。病院船や中立国の捕虜引き渡し船などには
一切手を出しておらず、撃墜されたと主張するアメリカ国籍の船も中立国としては国際法違反の仕事をしていたとの疑惑もある。
しかしながら、戦争末期の混乱によって資料が散逸したために、戦後の現在においても明確な証拠については存在していない。
その証拠はたどろうとしても途中で途切れていたり、何となく腑に落ちない結論が出されてお終いとなっていた。

185 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:00:02
一つ確かなこととしては、新たな消費活動にアメリカは飢えていたということが挙げられる。中南米諸国に資金を
ばらまきながら開発し、その地域の資源を、食料であれ労働力であれアメリカ経済のエンジンとして飲み込んでモノカルチャー化し、
『アメリカの延長』へと変化させたがまだ国内の欲求を満たすには足りなかった。そこで新たな市場として参戦による
軍需品の需要拡大を期待していた。アメリカは、実際の所戦争経験が少なかったこともある。モンロー主義によって
欧州に干渉せず干渉されずを維持していたため、精々がメキシコなどをはじめとした中南米の国々での治安維持が精々。
だが、イギリスなどに観戦武官を送る中で経済界は気が付いたのだ。総力戦というのは、すさまじい消費活動だと。
だが、彼らが火遊びによって思わぬ大やけどをすることになるのは、それから数年の内であった。

この世界において、本来三国協商を構成しているはずのフランスは述べたように中立を宣言していた。
とはいえ、協商にも同盟にもどちらにも因縁やつながりを持っているために、何時参戦するかは未知数に近かった。
どちらに味方するかは、どちらかといえば同盟側への参戦も予測された。しかし、それは協商側がフランスと敵対関係にある
ためという消去法による判断である。イギリスなどと手を組むということもアロー戦争などを考えればありえなくもないため、
ドイツをスケープゴートとする形で協商と協力できるとも予測される。

この戦争に参戦しない中立国はフランスの動向に注視していた。イギリスもドイツもロシアも欧州圏における強力な
プレイヤーであるが、明確に状況を一変させることが可能なプレイヤーは誰かと聞かれれば、誰もがフランスと口をそろえて
証言する。それだけ欧州におけるパワーバランスに食い込んでいるのだ。高い工業力、高い農業生産、高度な軍事力、
膨大な人口と植民地。そしてそれらを束ねる強力な集権体制。おまけにゲートという非常識な手段で固く結ばれた同盟国の
大日本帝国がいるという反則ぶりである。その精強ぶりはナポレオン戦争以来欧州では半ば伝説として語られているし、
フランスは常に戦争に備えていることは明らか。故に、最強の国家と言えるだろう。

参戦国にしても同様である。肩入れを表明せず、実際そのように行動するならば医療品と食料を除けばフランスは貿易を
制限する可能性が出てくる。かなりストイックに国家間の条約や取り決めを守る傾向にあるフランスなので、そこら辺は
覚悟する必要がある。また、戦時ということで値を高く設定されることも予想される。これに関しては想定しているので
ある程度は許容できるだろう。しかし、もっと重要なのはフランスの参戦を招かないこと。特に国境が接するドイツはそれに
注意する必要があったし、植民地や航路がブッキングしやすいイギリスも注意を払う必要があった。

186 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:00:47
よって、開戦した際に戦場となったのは、史実と異なり東部戦線が主体となった。
元々ドイツの西側はフランスとオランダとルクセンブルクの3か国で占められている。そうなれば陸軍の出番があるのは
ロシア帝国の方が主体であった。もう一つが協商側に参戦していたギリシャだった。元々イギリスが経済的に進出して
地中海でのプレゼンスの維持を行っていたこの国は、嘗てオスマン帝国領であり、そこからの独立を果たした地域である。
さらにギリシャはドイツと同盟を結ぶブルガリアとも接しており、イスタンブールにも距離的に非常に近い。
よって、西部戦線に布陣するはずであったイギリス陸軍はこのギリシャ方面へと進出することになった。ここには戦後に
イギリスの企業がいくつか進出して経済的・軍事的な支援を行うなどの契約が交わされていたとされる。

イギリスの動きを読んでいたドイツとオスマン帝国は陸軍をロシア方面へ割り当てつつも、ギリシャ方面に割り当てた。
ここにはイギリス海軍が投入されるかと思われたが、オスマン帝国が日仏独3か国の支援の下で海軍を十分にそろえており、
さらにドイツ海軍の一部が合流しているために、被害を受けることを考えるとイギリス本国の艦隊を結構割いたうえで
イギリスが有利になる状況にしなければならなかった。そして、それだけの主力艦隊を動かせば地中海方面でも通商破壊を
実施しているドイツ帝国の哨戒網に引っかかり、オスマン帝国と殴り合っている間に本国が攻撃を受ける可能性がある。
かといって、ドイツ海軍を片手間に倒せるほど余裕があるわけでもない。そんな都合もありイギリスは海軍の護衛の下で
陸軍をギリシャへと派遣するにとどめた。この際に何度かの遭遇戦が発生したり、無防備すぎる輸送艦や護衛艦に対して
潜水艦が打撃を与えたりしたのだが、それはまた別な話である。イギリスは決戦時まで艦隊を保全することを決定。
オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は通商破壊をしながらも艦隊決戦が起こるのではと不安ながらも待機していた。

ドイツ帝国にとっても地中海は活動しやすいようで活動しにくい場所だった。オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国
の支援で母港には困らないのだが、潜水艦による通商破壊を行う場合、流れ弾ならぬ流れ魚雷が中立国の船舶に命中しては
大惨事である。アフリカと本国を行き来するフランスの船舶は多いし、それに紛れようとイギリスの輸送艦なども
うまく逃げ回る。さらにイタリアが史実同様に中立を表明しており、通商破壊を行うには若干窮屈となっていた。
その為、地中海方面の情勢はイタリアがどちらに転ぶかも重要事項となりつつあった。

187 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:01:28
さて、次にロシアについてみていこう。
この世界線において、ナポレオンはロシア遠征を結局行わなかった。このことはロシアがヨーロッパにおいて図らずも
国力的に上位に上り詰めることができるきっかけとなった。あくまで相対値ではあるがナポレオン戦争で生じるはずだった
国力の損耗はなかったということは戦争技術の発達が遅れることと引き換えに、ロシアに余裕を持たせることに成功していた。
しかし産業革命の遅れはかなり響いていたし、産業革命への理解が広まるのも遅くなってしまった。

武器や弾薬についての理解は進んでいたし、イギリスが友好価格で販売してくれるものをライセンス生産したり前線に
訓練させたうえで配備することで装備の面では何とかなっていた。一方でそれを運用するノウハウに関しては疑問符がつけられた。
はっきり言ってしまえば、ロシア帝国は近代戦の経験があまりなかったのだ。最近やった戦争といえばクリミア戦争があるが、
その際には工業の遅れや技術発達が他国の後方にいることを明確に示すものであった。この世界線において、日露戦争は
朝鮮王国の永世中立化で想定していた場所とは違う場所で戦闘を強いられ、おまけに陸軍も海軍も大きな損害を受けて、
復旧に時間を取られ、軍そのものの近代化を進めることがかなり難しい状況だった。斯くしてロシア帝国は、旧世代の
戦術や兵器へ重きを置いたままに近代戦へと突入していった。もし少しでもナポレオンとの戦闘や、日露戦争時における
戦訓をきちんと生かす意思があれば、もしくは戦訓を生かすだけの国力があれば。しかし、戦時においてそんなたらればは
現在においては全く通用しない。

そのロシアと激突したのは積極的な戦闘こそ少ないものの、フランスを意識した軍備拡張を進めてきたドイツ帝国と
日仏の支援を受けたオスマン帝国なのだ。そのオスマン帝国との交流の中で断片的ながらもその戦術について研究することができ、
近代戦において不確かながらもメソッドを確立しつつある国であった。後の研究においてはこのメソッドの確立こそが
寡兵で地理的に包囲状態にあったドイツ帝国が薄氷の引き分けをつかむことができた原動力となったと評価された。

逆に言えばロシアは、その人海戦術と物量による押し潰しに対して抵抗力を身に着けていたドイツ軍を破るために、
通常の比ではない出血を強いられることになったのであった。東部戦線において効果的な防御陣地と防衛線の構築に
成功したドイツ軍は、何度も押し寄せるロシア軍の数にあきれながらも効率的な迎撃を行いつづけた。さらに本家と言える
フランスにこそ劣るが逆侵攻時には機動力を生かした電撃戦の展開によって、ロシア帝国陸軍をすりつぶしながら
自国側に徐々に引きずり込んでくるという、柔らかい防衛線を用いた泥沼の戦線を展開。ロシア側をうまく翻弄していた。

188 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:02:12
一応ロシア皇帝なども前線視察でこれを見ていたのだが戦術的・戦略的理解が乏しく、「前線が押しているならば、
ドイツに対して勝利を重ねているはずだ」と更なる進軍を指示していた。前線で潰される兵士にとってはたまったものでは
ないのだが、傍目にはドイツが負けて見えるのだからそれはもう厄介であった。そしてイギリスから購入する兵器の量も
増加し、その負担は当然のように国内に押し付けられていく。男は戦場に行き、女子供は工場で働かされる。
税率は明らかに上昇していき、ロシア帝国は徐々に戦争という巨大な消費に耐えきれないほどに疲弊を重ねていく。
密かに国内に革命の灯火がともるのも、無理からぬことであった。

しかし、ドイツもモスクワまで兵を推し進めることができるほど有利なわけではない。
あくまで有利に戦闘を進めているだけであり、ドイツ軍にも被害は出ていた。勿論オスマン帝国の支援と派兵でだいぶ楽であるが、
それでもロシアの人海戦術には損耗を強いられていた。そこでドイツは無理に戦線を拡大することなく塹壕戦によって
戦線を停滞させた。バルト艦隊が日露戦争で損害を受けているロシア帝国に対してはオスマン帝国海軍でも十分対応可能だった。
それを理解していたロシア帝国海軍も無理な攻勢にはほとんど出ることはなかった。

一方イギリスとギリシャはオスマン帝国の首都であるイスタンブールへの攻撃を考えていた。
幸いギリシャが味方に引き込まれ、イタリアが事実上の中立を選んでいることから、一時的にでも海軍を切り抜けられれば
というイギリス側の楽観があった。軍事交流の名目でギリシャに駐留していたイギリス軍は平時に派遣したものでそこまで多くはない。
しかし、少々押してやれば簡単肉ので歯とも考えていた。

オスマン帝国もそれに備えてダーダネルス海峡の要塞化を進めていた。この海峡要塞は、アフリカの地中海に
面する地帯や東南アジアにフランスが構築してきた沿岸要塞群を参考にしつつ構築されたもので、上陸してくる敵に備えて
予め陣地の構築も進められていた。オスマン帝国側が目論んだのは、史実の第二次世界大戦末期のノルマンディー上陸作戦に
対するロンメルの対応策と奇しくも酷似していた。即ち、上陸してこようとしてきた敵軍を水際で叩いて数を大きく
減らすというものだ。しかし、軍事顧問としてオスマン帝国に出向していたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将は
イギリスが無理やり力押しで上陸してくることを恐れた。確かにオスマン帝国海軍も前弩級戦艦を保有し、さらには補助艦艇も
そろえていたのだが、真っ向から殴り合ったときにはオスマン帝国がオーストリア=ハンガリー帝国と共に維持している地中海の
制海権が揺らぐという懸念があった。この時代戦艦の艦砲射撃の威力は十分に信頼されていた。既にドレッドノート級の
登場から前弩級戦艦の価値は下がりつつある中で、前弩級戦艦を多く建造していたイギリスが使い潰してもいい
戦力として
まとめて差し向けてくることもありえたのだ。使い潰せる戦力をいきなりぶつけられると少々厳しい。
そこでリーマン中将は艦隊決戦ではなく、機雷や要塞砲そして潜水艦を使った散発的な攻撃を目論んだ。
イギリス海軍が海軍力による決着を試みて、ヴェンジャンス オーシャン イレジスティブルを中核とした艦隊を
送り込んだのだが、史実同様にオスマン帝国は機雷敷設と要塞砲による砲撃を実施して撤退に追い込んだ。
そこで上陸しての戦いを目論んだのだが、協商は上陸をして橋頭堡を築いた時点でオスマン帝国の綿密な十字砲火に
前線を動かすことが出来ず、損耗ばかりを重ねてしまったのだ。
概ね史実通りというべきだろう。

189 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:03:16
イギリスとしては、オスマン帝国が対ロシアに派遣している兵士の吸引を狙っていたのだが、むしろ寡兵でうまく大軍に
対して持ちこたえられてしまう結果となった。オスマン帝国の放った潜水艦による積極的な護衛艦隊への攻撃は
対潜兵器の発達が遅れていたイギリスの艦隊に被害をかなり与えることに成功した。実のところ、潜水艦研究は何も
ドイツでしか行われていなかったわけではない。一番最初の潜水艦の活躍もアメリカ独立戦争でのものであったし、
日本においても研究は進められていた。ただ、艦隊決戦の補助戦力ではなく通商破壊という場面に組織的に応用したのは
ドイツが有名であるというだけだ。そしてそのドイツから潜水艦の供与を受けていたオスマン帝国は、艦隊決戦では
勝てずともイギリスなどにダメージを与える手段としてこれに着目した。

潜水艦のメリットは、やはり排水量や人員に対しての期待できる戦果の多さである。ヨーロッパの国々より先に常備軍を
持っていたオスマン帝国だが、やはり潜水艦という未知の船舶への理解は全体として見れば進んでいなかった。
潜水艦の一つの欠点として、乗組員の訓練が通常とはやや異なり、適正と育成時間が必要というものがある。史実の
太平洋戦争時に日本とアメリカの潜水艦の建造数は人口や国力と比較しても、それほど比率が変わらない。
つまり、アメリカという膨大な人口を抱える国家でさえ、潜水艦を運用する人員の育成には一定の限度があるのだ。
しかし、逆に言えば通常戦力での差が大きすぎるときには潜水艦という戦力に頼ると逆転する可能性があるということだ。

そして、十数隻という少数ながらも組織的に運用された潜水艦はギリシャへの物資を運ぶ輸送艦へとドイツ海軍と連携して
襲い掛かり、少なくはない出血を敷いた。当然、ダーダネルス海峡をめぐる争いにも何とか用意した潜水艦で抵抗。
結果、このダーダネルス海峡をめぐる協商と同盟の陸海をまたいだ戦いは、史実同様にオスマン帝国側の勝利となった。

さて、手詰まりに見えたイギリスだったが並行してオスマン帝国内部のアラブ人への接触を図った。
戦前からオスマン帝国は過激な民族主義者の摘発に力を注いでいた。多民族の複合国家として国家を維持している
オスマン帝国にとっては、地方の自治権をめぐる問題は非常に厄介であった。オスマン帝国は史実と比べる緩やかな
近代化を進めていた。しかし、史実においても伝統的な宗教と近代化の激突というのはどこかしらで発生する。
主導者であるオスマン帝国側もかなり気を使って、長い目で見た近代化の推進に努めていたのだが、やはり問題は浮上した。
特に顕著だったが、議会の設置についてである。投票権を宗派に関わらず与えることに関しては一致した見解ではあったが、
国民の多くを占めるイスラム教への理解が必須となるために、『イスラム教徒枠』を設けるべきではという意見があった。
これはやや極端な提案ではあったが、カリフやイスラム教徒を政治的な地位から除くべきであるという意見が存在し、
それへのカウンタープランとしての提案だった。実際の所、スルタン=カリフ制は現在の所うまく回っていた。近代化を
進める中で列強国のフランス イギリス ドイツらと交渉し、国内事情とうまく擦り合わせを行えるように尽力したのは
憲法と議会の構築を進めているオスマン帝国のスルタンであったためだ。その地位によって国内の改革は進んだといってよい。

190 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:04:23
しかし、当時のオスマン帝国の議会の議席を見ると、先に近代化へと舵を切った青年トルコ党かスルタンの支持者から
固められた統一トルコ党(※)を除けば、他の勢力が政治や議会制への理解が十分ではない弱小勢力ばかりであったのだ。
図らずも、スルタンによる君主制を改めるはずの近代化の結果が、スルタンかそれに近いグループによる政治を生んでしまった。
分かりやすく言えば、国民投票の結果一党独裁になってしまったのだ。野党が構築されるだけの下地が無くなってしまったのだ。

民主制において、市民の意思は何物にも妨げられない。だが、それは果たしてどこまで有効であるかが議論の種となった。
これまでのイスラム教の国家はイスラム教という宗教が色濃く残る中で政治が行われてきた。というより、宗教があっての
政治や生活が営まれてきた。つまり極端に言えば宗教を信仰するために生活するというわけだ。だが、この投票という
概念によってイスラム教が排除されるのではと懸念する意見が存在した。その考えは政党こそ違えどもすべての人々に
共通する懸念事項であった。彼らは祖国の飛躍を願っていたのであり、まかり間違っても文化の破壊を願っていたのではない。

しかし、傍目から見れば中央の意思ばかりが優先されて、地方の権利が阻害されているようにも見えた。
イギリスはこの動きを密かに利用し、フサイン・イブン・アリーらを支援してアラブ系国家の建国をそそのかした。
イギリスの考えとしては、スエズ運河そのものを掌握できなくとも、地中海からインド洋方面に抜ける出口を抑えることで
大西洋への出口を抑えているフランスに対して対抗するという動きがあった。そして、フランスなどの手が届きにくく、
尚且つ戦争に乗じた動きで勢力下に収められると考えられたのがオスマン帝国の南部で見られた独立を求めるアラブ人であった。


実際、フサイン・イブン・アリーの動きはスルタンの動きを懸念してのものだった。メッカの太守という地位も、
権限が徐々にイスラムではない人々の投票によって奪われるのではという彼なりの憂慮もあった。伝統と格式からなる
その地位が人々が賛成したからという理由で捨てるか、あるいは地位を理解しない人の手に渡ることを宗教的な意味からも
懸念していた。彼なりの心配に、例によってイギリスがつけ込んだというべきだろうか。

191 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:05:35
しかし、アリーの考えが現実的と言えなかったのも確かである。
彼の考えとしてはイスラム教の国家を丸ごと含んだ統一国家の樹立をと構想していたのだが、すでにイスラム教徒の
宗派間の考え方の違いはかなり明確になりつつあった。無理な統一を図ろうとするよりも、互いの領域や考え方を穏便に
すり合わせる行動こそが、現実に即した意味での統一には必要なのだった。

実際、イギリスとアリーの誤算は既にいくつも生じていた。
まず一つ目に、紅海の制海権をいまだにオスマン帝国が維持していたことだった。ギリギリ均衡状態といってもよい。
確かに艦隊戦においてオスマン帝国が不利ではあったが、ドイツから提供された潜水艦が狭い紅海を一杯に動き回り
通商破壊によってダメージを着実にイギリスに与えていたのだ。この戦時においても日本とフランスを結ぶ通商路は
スエズ運河を通じて行われており、両国がイギリスに対して圧をかけていたこともイギリス海軍が我が物顔で活動することを
一定程度妨げていた。これによって、イギリスは支援するための物資を史実のように自由には運べなかった。

さらに、アリーの考えていた統一国家への支持者が、予想以上に少なかったのだ。
オスマン帝国同様に日仏の支援を受けていたガージャール朝ペルシャ帝国は権力基盤が弱いながらも、統一国家として
領土を統治するだけの能力を持っていた。曲がりなりにも近代化の推進や列強の圧力を受け、時に不平等条約を
押し付けられながらも致命的なところに踏み込まれることがなかったのは、ガージャール朝イラン帝国の努力の結晶であった。
つまり、ペルシャ帝国は弱いながらもこれから成長の時を迎えようとする有望株であったのだ。石油産業の発達から
開始した近代化によって工業の発達も進み、オスマン帝国との戦争なども日仏の仲介で回避できたことなどで国力が
そがれることも回避できた。それによって権力こそ危ういが民衆の支持を集めるガージャール朝への非難の声は、
言いがかりレベルの物でなければあまり存在していなかった。さらに石油を求める日仏がこれの援助をしているということも
ペルシャ帝国に対する過激な行動を抑止していた。

これらによって、ガージャール朝に迂闊に手を突っ込むことは危険な行為となっていた。実際、石油産業が国の屋台骨の
一つとなり、協商・同盟のどちらにも味方しない中立国となったことは石油を大量消費する近代戦を行う各国にとっては
かなりの懸念事項となった。イギリスも懸念したのだが、もしこれがヒジャーズ王国を介して行われたイギリスの侵略行為と
みなされた場合、日本とフランスを含めて中東を丸ごと敵に回す。戦後のことを考えると最悪の場合石油を正規レートで
得られなくなることもあり得た。しかし、支援を表明した手前、アリーを切り捨てるのは簡単ではなかった。

このアラブの反乱は緒戦こそ勝利を収め、多くの捕虜を得ることができた物の、そこから先の行動については正直なところ
行き当たりばったりとなっていた。後方攪乱といえば聞こえは良いのだが、ヒジャーズ鉄道への破壊活動を行っていたのだが、
この鉄道が史実と異なりきちんとメッカまで伸びており、さらには日仏から得られる工業品や食料の交易をおこなうための
必需インフラと化していたことで、逆にヒジャーズ王国への非難の声を盛り上げてしまう結果となった。
こうしてゲリラ戦を仕掛けていたアリーと軍事顧問のロレンスは逆にゲリラから逃げ隠れしながらの戦いを強いられた。

192 :弥次郎@帰省中:2016/07/07(木) 19:06:16
あとから見れば、ここでアリーはゲリラ戦で鉄道を狙うべきではなかったと考えるのも当然であった。
しかし、ヒジャーズ王国の兵力はオスマン帝国のそれと比べて少数で、鉄道を利用した迅速な兵力展開を可能としていた
オスマン帝国陸軍に対抗するためには、どうやっても鉄道を狙わざるを得なかった。イギリスが史実よりも支援の余裕が
なかったことで生じた皺寄せで武器などが少ないヒジャーズ王国は鉄道の破壊によってオスマン帝国陸軍の補給物資を
積極的に得なければならなかった。実際、史実において5万人ほどの戦力を持っていながらもライフルの数は合計1万丁ほど。
つまり、5人に1人しか支給していなかった。つまり、ライフルを正規兵のほぼ全体にきちんと配り切れてたオスマン帝国と
比較すれば、真っ向で勝負するには力不足だった。

また、オスマン帝国は少数ながらも戦車を有していた。史実ルノーFT-17を乾燥地帯での運用を前提に改良したもので、
そのほかにも装甲車両・バイク・牽引式の野戦砲の積極的な採用など随所にフランスの陸軍のメソッドの影響がみられていた。
砂漠という環境に対してフランスも日本も適した戦術や技術について不足しがちだったこともあり、両国にとっても
非常に良いモデルケースであったようだ。オスマン帝国にとっても工業化を進めてきており、さらに国内インフラの整備が
着実に進んでいたこともあってそれらの導入と普及はスムーズに進んでいた。

しかし、鉄道への被害が出ていることを察知したオスマン帝国はラジオやビラまきをヒジャーズ鉄道周辺はもちろん、
国内にプロパガンダを広めていった。鉄道の被害はイギリスとイギリスにそそのかされたヒジャーズ王国が行ったもので、
オスマン帝国を侵略しようとするものだと、やや誇張気味ながら広めた。そして、旧式の銃火器を弾薬などとともに
揃えてすぐに提供できるようにした。結果はすぐに出た。鉄道に沿った地域に住むアラブ人たちがオスマン帝国への協力を
申し出てきたのだ。オスマン帝国はゲリラ戦を展開するアリーらへの注意を呼びかけた。しかし彼らに言うまでもなく、
外国にこびている(様に見える)アリーへの怒りを持っていたアラブ人たちは自らのネットワークでゲリラ戦への抵抗を始めた。
本来ゲリラ戦は、現地勢力を敵に回してできるものではない。斯くして損害を大きく出し始めたヒジャーズ王国はイギリスへの
援助を求め、イギリスもこれに応じて兵力を何とか派遣して援助しようと努力を重ねた。しかし、その戦力の供給方法は
一番避けるべき戦力の逐次投入であった。こうして、オスマン帝国はあまり兵力を割くことなくじわじわとヒジャーズ王国を
追い詰めていった。イギリスにとっては戦力吸引に見事に失敗した形となり、戦果を出そうと多くの兵力や資金を投じてしまった
ために逆に戦力を分散させてしまう結果となった。

各地で戦いは新兵器を投入しながらの凄惨極まるものとなった。
そして、長い停滞を打ち破るべく、イギリスはついに海軍を動かした。
受けて立つのは、建造競争によって建造されたドイツ帝国海軍の大艦隊。
両者の相対場所は、デンマーク ユトランド半島の沖合。

血戦は、ほぼ目前に迫っていた。


※青年トルコ党が比較的若い世代を中心に民主主義的な改革を掲げるのに対して、統一トルコ党は日本やフランスとの
つながりを得たこれまでの権利者(スルタンなどを含む)が自らのあり方を改めていこうと動くグループで、
アブデュルハミト2世の支援の下で比較的広い層に支持者が集まっていた。
青年トルコ人党が地方分権や自治制度の導入など地方分権的な政策を訴える一方で、統一トルコ党は集権的な体制を
維持しながら改革を進めていくべきだと主張していた。因みに、この世界線においてアブデュルハミト2世はミドハド憲法を
停止していないため、青年トルコ人党は専制政権の打倒は訴えてはいなかった





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最終更新:2016年11月14日 13:18