205 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:15:13
「密かに清く自己を保存せよ。自分の周りは荒れるにまかせよ。功を焦れば、多くを失うことになる」
---------ラインハルト・シェア中将 艦隊出撃前の訓示において、ゲーテの言葉を引用しての発言

「我が艦隊は今日は何かおかしいんじゃないか!」
---------デイヴィッド・ビーティー中将 インディファティガブルとクイーン・メリーの轟沈を見ての発言

「結局のところ、海戦のあり方はこの戦いでまた一つ変化した。それを生かさねば百万の兵が海に沈む」
---------ドイツ帝国の戦艦オストフリースラントに観戦武官として乗艦していた下村忠助中佐



日仏ゲート世界 有為転変3  -Dumb Witness-



夢幻会の会合が開かれたのは、行政要塞都市安土の一角にある料亭であった。
しかし、会場には騒然とした空気が漂っていた。

「これは……」
「いや、驚きですな……」
「……どうしたものか」

日時から察するにそろそろユトランド沖海戦と夢幻会は予測していたために、観戦武官や各国に配置している大使館などから
情報が提供されてくるのを今か今かと待っていた会合のメンバーだったが、情報が集まるにつれて動揺が広まっていた。

「……イギリスの戦艦はここまで柔らかかったか?」
「いや、水雷防御がアレな戦艦のようなものを作ったイギリスでもここまで……」

ユトランド沖海戦は、ドイツの判定勝利という形で終結した。
戦略的に見て、イギリスは自国の制海権をぎりぎりで維持。一方ドイツはラッキーヒットが重なったとはいえイギリスの艦隊の
史実より多くを撃沈することに成功していた。さらにそれに比例してイギリスの人的被害も大きかった。

「爆沈 撃沈 爆発して砲戦力を失い自沈処理……なんだかイギリスの被害がひどくないか?」
「いや、それを言うならドイツの艦艇も被害が史実よりも少ない……というか、巡洋戦艦の動かし方が史実と異なるぞ?」
「リュッツォウが無事でライオンが雷撃処分……?何の冗談だこれは」

それぞれがもたらされた情報に目を白黒させながらも、

「これはドイツの勝利なのだろうかな?」
「微妙だな。ドイツ海軍は撃沈された艦が少ない分、艦艇の修復を行わざるを得ない。暫く海軍が動けないだろう」

この、ドイツ海軍の長期戦略的 戦術的勝利に終わったユトランド沖海戦は、未来を知る夢幻会に大きな混乱を呼ぶものとなった。

206 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:16:25
ここからは神の視点で見ていこう。
このイギリス艦艇の被害の大きさが史実よりも拡大していたのは、イギリス艦隊が防御をおろそかにしていたことと、
人為的なミスが大きく響いていたことが原因であった。例えば、砲弾推進剤であるコルダイトをドイツ海軍のように
真鍮のシリンダーに収めず、絹の袋に入れた状態で、誘爆を抑えるための防火扉をあけ放った状態で砲塔近くに置いておく
という誘爆してくださいと言わんばかりの状態であった。これは史実においてもやっていたことで、砲塔の爆発によって
速力の低下や砲撃能力の低下となってこの海戦の最中に確認されていた。さらに悪いことに、史実以上に速射力を求めた
イギリス海軍は、というか現場の人間は、倉庫に入りきらない分の砲弾とこのコルダイトを火薬を置くべきではないスペース、
例えば開けっ放しになっていた砲塔の防火扉や通路に無造作に置かれていた。

また巡洋戦艦の『速度こそ装甲』というフィッシャーの考えが、実戦においては正しくないということが明らかになっていた。
速度を上げるために装甲が戦艦より薄い巡洋戦艦はこのような決戦時には真っ先に被弾しやすい最前線へと出てしまうことは、
撃沈されてしまうリスクを高める結果となった。この巡洋戦艦の存在意義に関わる設計思想と実戦のミスマッチングは、
ポストユトランド型という新たな戦艦の進化を生んだ。しかし、この時の第一海軍卿(軍令部長官)となっていた
ジェリコーの意向もあり、こうしたミスが現場レベルの話でしか指摘されなかったことで、一部では改善されなかった。
つまり、浸透していた悪い習慣を取り除くチャンスを不意にしたということである。それ以上に、イギリス海軍全体に
ドイツ海軍に対してせっかくの艦隊決戦で決着をつけそこなったという意見が大半を占めていた。

ドッガーバンクにおいてドイツ帝国のザイドリッツにおいて発生した火薬の誘爆という事態は、ドイツ側に巡洋艦の防御そして
防火体制についての欠点を指摘したものとなった。ドイツは依然からフランスや日本の艦艇について研究を重ねており、
ことさらに砲塔近辺での火薬の扱いについて注意をしていることをつかんでいた。さらに日本とイギリスの間で
巡洋戦艦についての評価と運用方針が分かれていることにも着目し、その原因は何であるかを考えていた。
そしてこのドッガーバンクの教訓は、それへの答えをもたらすものとなった。確かに巡洋戦艦は快速であり、位置取りという
攻撃において非常に重要な点において通常の戦艦を凌駕する。しかしそれは敵の砲火の矢面に立ちやすく、装甲の薄さと
合わさった場合、砲塔や弾薬庫などで容易に艦を沈めかねない事態が起こるということでもあった。
しかし、ドイツ海軍はその教訓を生かして根本的に欠点を改善することは時間や資材という点において実現不能と考えた。
事実、陸軍が主体であるドイツはそこまで海軍に予算を割り振っていたわけではなく、無事な艦艇を順次ドック入りさせても
その間にイギリスが出張ってくることも考えられた。そのために、いくつかの点に絞って対策を打った。

砲弾の推進剤はキチンとケースに収め、砲塔への注水も現場の判断ですぐに行えるようにした。
他にも巡洋戦艦を矢面に立たせることは危険であるという判断から、砲塔そのものを頑丈にし、さらに砲塔の仰角の限界を
大きくして、『戦艦以上の速力によって距離をとりつつ、戦艦並の砲を以て遠距離から敵艦を打撃する』という運用方針へと
転換を図った。これには巡洋戦艦だけでなく、古い弩級戦艦についても無理に接近せずに砲撃を行うように命令が飛んでいた。
つまり、速度を装甲とするのではなく速度によって稼がれた距離を装甲としたのだ。距離をとればドイツ側も攻撃が
当たりにくくなるのだが、そこは砲の命中率をカバーするために速射ではなく照準を合わせてきちんと狙うように指示した。
相手の砲が命中しない確率が高いとわかれば、むやみやたらに発砲するよりも落ち着いて命中を狙う余裕が出る。
総じてみれば「艦が沈まないようにする努力」を重ねていたのだ。これらの努力によって、参加艦艇の乗員は多くが冷静さを
欠くことなく戦いに赴いていた。出撃前にラインハルト・シェア中将が行った訓示も、それを明確に表している。

207 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:17:16
ドイツは息つく暇なく陸軍を動かした。イギリスが事実上の沈黙にある状況で残るロシアにケリを付ければ、
長い戦争にも終結が見えてくる。元々ドイツとロシアの国境をめぐる争いも続いていたことから、これを機にケリを
付ければイギリスとて妥協を選ばざるを得ない。まずドイツは残存艦艇から戦力を抽出・再編してバルト海方面に向けた。
日露戦争時に大打撃を負ったロシア帝国海軍は弱っているとはいえそれなりの脅威となりえた。また潜水艦は優先的に
大西洋方面へと割り振り、イギリスの輸送艦などを積極的に狙い続けた。

続いて、陸軍を進撃させる。目標となるのはかつてのポーランドの東側の国境線付近である。
そこまで押し返せば、時期に冬を迎える。言うまでもないことだが、ロシアの冬将軍というのは恐ろしいものだ。
嘗てナポレオンが策定したロシア遠征計画も、最大の敵としてロシアの冬の寒さを挙げていた。焦土戦術をあわせることで
ロシアを狙ういかなる敵でさえも撃退可能だろうと述べていた(※1)。
逆に言えば、冬が訪れればロシアも行軍を緩めざるを得ないのである。如何にロシアの領土が広く人口が多いとはいえ、
ロシアも等しくその広い大地を移動し、物資や人を運ばねばならないのだ。
そうすればロシアが動けない間にイギリスと講和をすることも可能だろう。損耗しているとはいえ対ロシアにはオスマン帝国らも
賛同して兵を供出しているので、交渉の間の背後は何とかなる。ドイツ帝国は、講和への足掛かりを確かに見出していた。

そんなドイツ帝国の西部は、泥沼に近い戦況を見せる東部戦線と異なり、緊張がありながらも穏やかな空気が広がっていた。
史実と異なりフランスは参戦しておらず、ドイツにしても東部に軍を集中させておきたい都合もあったことで、アルザスや
ロレーヌ地方に近いこのシュヴァルツバルトは平穏そのものだった。時たまフランス軍のものと思われる飛行機が偵察を行って
いるのが確認されてはいたが、それ以外は特に戦争の影は見られなかった。

そんなドイツ西部の駐屯地で、一人の伍長がラジオを聞きながらメモを取っていた。
ラジオから聞こえてくるのはドイツ語ではなく、フランス語と日本語。訛りのない綺麗なそれを聞きながら時々辞書を
手に取り、表現を確認しながらメモを書き進めていく。

「伍長、伍長はどこか?」

彼の耳に上司の声が届いた。

208 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:18:44
「は、こちらに」
「報告書の作成は順調かね?」
「順調そのものです。いくらか新しい情報が入ったようなので、現在まとめている最中であります」
「ん、よろしい。上層部もかなり情報には飢えている。滞りなく進めてくれたまえ、ヒトラー伍長」
「了解いたしました!」

アドルフ・ヒトラー。
史実においては伝令兵として第一次世界大戦に従軍していた彼は、この世界線においてはこの西部方面に派遣されていた。
彼の階級は伍長であり、肩書は伝令兵となっているのだが、史実と異なるのはもう一つの役割として情報分析官という
肩書があることだ。彼の担当するのは、ラジオの内容通り大日本帝国と帝政フランスの情勢分析。彼の赴任している地域は
アルザス地方のすぐ隣であり、アルザスに存在する国営のラジオ局の電波が国境を超えて届くのだ。そして彼は国境の
警備任務に就きながらもラジオを通じてフランス国内の情報を集めるという仕事を割り当てられていた。

これにはなかなか複雑な経緯がある。
フランスという国家は、フランス革命戦争以来ヨーロッパの国々に対してかなり警戒を強めていた。そのレベルは
かなりのもので、国境要塞の整備や国境警備隊の拡充によって密入国を難しくさせ、さらに戸籍管理によって国内の
スパイとなりうる人間を炙り出すことで国内の機密を守る体制を作っていた。必然的に他国の人々はフランスを訪れにくくなり、
欧州にありながらも封鎖的な社会を構築していた。他の欧州人への目が厳しくなったといってよい。そのため、ドイツや
イギリスなどはフランス国内の情勢をつかむのに非常に苦労する羽目になった。ここまでが前提条件となる。

ここでオーストリア出身のアドルフ・ヒトラーという人物がどのように関わって来るかといえば、彼が美術大学の
受験に落ちてしまう頃にさかのぼる。前述のように封鎖的な体制を構築していたフランスではあるが、そのハードルが
低い例外が多くいた。例えば、芸術家や技術者 研究者など、職業上国境を超えることが多い人間はきちんとした身分さえあれば
フランス国内を訪れることが許可されていたし、国外へ出ることもできた。
そして、この時にヒトラーがであったのがウィーンを訪れていたフランス人画家の一人だった。彼の作風が当時の欧州で、
より正確に言えばフランスを除く欧州では受け入れられにくいことを見抜いた彼は、ヒトラーをフランスへの留学を誘った。
詳しい経緯はここでは省略するが、斯くしてフランスの美術学校に留学したのちに、日本へも留学したヒトラーは
働きながら現在でいう夜間学校に通い、一般教養を身に着けていった。これによってヒトラーは史実と異なりきちんと
フランス語を喋れるようになり、さらに日本語にも通じるバイリンガルとなっていた。

そして、ヒトラーがアルバイトで得た給与で日本で購入したのがラジオであった。
日本とフランス両方で使えるこのラジオは、図らずもドイツにとって垂涎の的となる情報源となったのだ。なにしろ
工作機械の技術レベルで世界のトップを走るフランスと日本の工業製品を手に入れて戻って来たのだ。しかもきちんと
稼働する状態で、当時としては最新のモデルを持ち帰った。さらに、彼はその衣服からお土産の置時計に至るまで調べられた。
ヒトラーは後年の自著において述べているのだが、この調査をかなりの屈辱と感じたようだ。彼にしてみれば自身のために
留学してきたというのに、この扱いはあまりにもひどいものだった。離れて暮らしていた母の元に家宅捜索同然に人が
乗り込んできたし、自分の下宿先も犯罪者のアジトのように調べられたのだ。

209 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:20:03
その後、ヒトラーに政府と軍が提示したのが、このラジオを用いたフランス国内の情報を集めるという仕事であった。
彼からラジオを取り上げるような真似をしなかったのは、ドイツ政府なりの気遣いだったのだろう。フランスにいる恩師に
ヒトラーが手紙を送って愚痴を言い、それが巡り巡ってフランス政府を動かしたのかもしれない。ともかく、彼は相応の給与を
得ることなどを条件として情報部に協力することになった。ヒトラーは母と親族をドイツへと呼び、自身はドイツ西部で、
ラジオの情報を書き留めながらまとめて政府へと提出する仕事を担当した。彼は日本で受けたような夜間学校を立ち上げ、
彼はその経営者であり東洋美術について教える教師となったので時間には余裕があった。ドイツにとっては貴重な情報を、
しかもかなり新鮮な情報を得ることが出来たことに大いに満足する結果となっていた。

また、彼の個人的な友好関係をたどるとフランス政府にもつながりがあった。時に彼が休暇を利用してフランス国内を
訪れることもあり、平時の情報収集役としてもかなり期待が持てた。彼に限らず、ドイツはこうした学者や研究者に声をかけて
日本とフランスに対する情報を集めるネットワークを構築していた。

さて、開戦後にヒトラーは徴兵に応募しようとした。
ここにはヒトラーなりの考えがあったようだが、戦争を知ることが自身のためになると考えていたようである。
しかし、この動きに慌てたのはドイツ政府だ。彼は貴重な情報収集者で、下手なスパイよりもフランスから情報を集めてくれる
人間だった。彼がうっかり戦死されてはたまらない。ということで、彼はドイツ上層部の、というか軍や政府の根回しで
戦争が起こらないと考えられた西部戦線への配置となった。一応東部戦線に出たこともあるのだが、半ば彼に箔をつけるための
従軍であったようで、すぐに本業に戻されることになった。即ち、フランスの情勢の分析であった。

元々諜報員として働くこともできるように訓練させられていたヒトラーは、たんなる一兵卒として使い潰すにはあまりにも
惜しい人材となっていたのだ。一兵卒のそれを超えたインテリジェンスと芸術分野を通じて構築した国外とのパイプ、
さらには軍である程度鍛えられた肉体。伝令兵というよりは、スパイという肩書がよく似合う。

さて話を戻そう。ヒトラーの報告によればフランス国内は極めて平穏そのものだった。
国内に報道される戦闘の結果なども多くは観戦武官の報告によるものと軍部へ内容の照会を頼んだ結果判明していた。
主にフランス国内のラジオにおいては、戦時におけるプロパガンダの一つとして通商護衛の精強さをアピールする軍の放送や
準戦時体制ゆえの注意事項などが平時よりも多く放送されるばかりであった。国内世論についても、このまま終結に向かうことを
願うという意見が聞かれるばかりで、あまり介入すべきという論は持ち上がっていなかった。

210 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:21:31
フランスが戦前から取り組んでいたのが、植民地の重工業化であった。広大な土地を生かしての農業は植民地の経済維持に
必須であったが、その効率化を進めるにはやはり工業を育てる必要があった。アフリカ・フランセーズにおいては商品作物の
栽培が盛んとなっていたのだが、土地の改良や品種改良がすすめられたことで徐々に少量食物の栽培も始まっていた。
安定した収量の維持にはやはり機械化が欠かせない。そして徐々に工業化を進めていくなかで、やはり経済的な負荷が
生じていた。特にアフリカ・フランセーズに暮らすいくつもの民族(※2)にとっては自分たちの伝統的な生活とのすり合わせを
行いながら工業への理解が進んでいたため、それは10年や20年のレベルでは成し遂げられない長期的な計画となっていた。
そのほかにも各地で進んでいたインフラの整備などには多くの予算が割かれており、戦争に参戦することはこれに遅れを
生み出すのではないかという懸念があったためだ。戦争がこのまま終結してくれれば、フランスにとっては一番良いのだから。

ラジオの内容から推測される日仏の通商護衛艦隊の陣容などについてまとめたメモを手にしたヒトラーは、今度は軍から
支給されたタイプライターを使って報告書を作成する。主にまとめるのはそれまでの放送内容と今日の放送内容の
違いを洗い出してまとめることと、どのような番組が放映されたかと、フランス国内の世論についてだ。
太平洋の海上帝国である大日本帝国と、東南アジア地域における制海権をほぼ掌握する帝政フランスということだけあり、
かなりの海上戦力を揃えていた。そして、今日新たに分かったのがとある船舶についてだ。

「航空母艦か……」

海軍の採用したという新しい艦艇についての情報だった。史実を知らぬヒトラーにとっては知り得ぬ情報であるが、
日本は史実より早く航空母艦についての研究を行っておりこの第一次世界大戦時には既に鳳翔の建造が進められていた。
そして、フランスでもフードルで得られた結果をもとに新たな水上機母艦や航空母艦の建造が進められていた。
ユトランド沖海戦の戦訓の一つとして、相手の艦隊の位置を敵よりも早くに発見する必要があるというものが日仏で共有され、
その解決策として、偵察機を運用する水上機母艦の就役が始まったという話である。この頃既に日仏では艦隊の目としての
水上機母艦の役割に期待を寄せ始め、艦隊に付随できる速力を持つ支援艦の研究を熱心に行っていた。

とは言え、欧州戦線への影響は小さいとみるのが当然だった。一応プロパガンダの一環であるので嘘ではないだろうが、
参戦してくるわけでもないならばあくまで報告の隅に乗せておくレベルで済む話だった。建造中ということは就役して
実戦投入可能なレベルまでまだ時間がかかるということだからだ。また、当時の航空機の攻撃力には限界があったため、
飛行機をある程度知っていたヒトラーにしても、そこまで脅威とは考えていなかった。

彼らが知りえぬことであるが、航空機の爆発的進化はこの第一次世界大戦時においても発生し、たんなる偵察機から
戦闘機や爆撃機、さらには魚雷を搭載した雷撃機までも誕生している。初めは拳銃しかなかったような偵察機もやがては
機関砲の搭載で戦闘能力を得るように進化した。そして、第一次世界大戦時にはまだ健在であった戦艦への信仰も
航空機の集中運用によって砕かれることになるのはそう遠くはない未来の出来事であった。この時点で彼にそこまでを
求めるのはあまりにも酷な話である。それにドイツはもともと海軍国ではなく陸軍国。フランスのように植民地と
海を通じて繋がっているわけでもないので、優先度はやはり海軍の方が一歩遅れていた。

『日本とフランスが新しい軍艦の建造開始を公表。飛行場をそのまま船に乗せている『航空母艦』とのこと』

この書き出しから始まるヒトラーのレポートがドイツ帝国海軍に注目を浴びるようになるのは、戦後しばらくの時間が
たってからの事であった。それどころではない事態が、ドイツで発生したためだった。

211 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:23:08

事態が動いたのは、それから数日後のことだった。
その日、帝政フランス陸軍の航空機がドイツとフランスの国境沿いを飛行していたのだがそれが墜落してしまったのが
始まりだった。この偵察機はドイツとの国境沿いを警備する国境警備隊に配備されていた飛行機で、史実88式偵察機相当の
偵察機であった。エンジントラブルというのは往々にして起こるもので、この機体は何とか着陸しようとしたがうまくいかず、
結局片翼が大破する羽目になった。パイロットにしても打撲乃至骨折と思われ、身動きもとりにくい状況にあった。

そして困ったのが機体の処分に関してであった。この偵察機は他国と比較して10年は先を行く飛行機である。
しかも史実のそれと比較すれば機械の信頼性は高く、それに応じてスペックなども十分に他を圧倒するものとなっている。
トラブルが起きたとはいえ、それは他国にとっては格好の研究材料となりうる。

他方の偵察機の方もそれを理解していた。しかし片方の搭乗者は怪我を抱えていた。
しかし、現在地は回収が不可能と言えなくもない位置と推測される。そこで機密保持のためなどの点から救援を呼ぶことになった。
けがのなかった搭乗員が近くの町まで走り、電話を借りて軍へと連絡したのだ。

他方、ドイツ側でこの墜落を知ったのは、墜落の5時間後に知ったフランス側よりやや早かった。
ドイツ帝国側もフランスとの国境沿いの偵察活動を実施しており、この墜落をたまたま上空から発見したのだった。
そして帰投した偵察機の偵察員は当然のようにこれを上層部へと報告した。そして、これが基地の作業員や警備兵などに
口頭で伝わっていく。

ここから先は憶測や証言の曖昧さが目立つものとなっているので、やや信頼性に欠ける。
このフランス軍偵察機墜落の報告は、一夜にしてドイツ軍内部に広まった。とはいっても、墜落した地点がフランス領内と
言えるため、冷めた人間にとってはそこで興味を失うものであった。実際その基地司令はフランスが回収に来るだろうから
迂闊に刺激するな、と注意をするにとどめた。

偵察機のパイロットに至っては、報告を済ませたのちに補給が済んだ偵察機に食料などを積めてもう一度飛び立ち、
件の偵察機の近くに落下傘付きで落としてやるという行為まで行っていた。これはある意味独断行為ではあったが、
飛行機が誕生し、偵察機として使われ始めてから歴史が浅いころに故に見られた、『パイロット同士の交流』として
目をつむられた。実際、この時のフランス軍のパイロットは投下された食料に感謝しており、戦後には両者が再会する
ことができたという。

212 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:24:09
さて、このパイロット同士の心温まる話とは別にドイツ軍内部では暗い話が持ち上がった。
即ち墜落したフランス陸軍の偵察機の奪取である。偵察機の性能はこれまで接触したパイロットの証言からドイツ軍のそれを
超えており、おそらく技術的に先行していることが推測された。そして、飛行機の搭乗者は恐らく無事ではない。
つまり、保存状態が良い偵察機がドイツの目と鼻の先に落ちているというわけである。それを好機と見たドイツ陸軍の数名が
西部方面の基地から消えたのは、フランス側が事態を把握してフランス陸軍国境警備隊に連絡を取り「十分に太陽が昇ってから
偵察員の救助と可能ならば偵察機の回収」を依頼した数時間前の事だった。

このドイツ側の兵士の独断専行は、実はある種厄介なコミュニティが背後に存在したとされる。
『オーストリア憂国騎士団』。ハプスブルク家を信奉する伝統のある組織であった。彼らはハプスブルク家への
忠誠を誓う民兵であり、それ故にオーストリア=ハンガリー帝国に独自のネットワークを持つ組織であった。
しかしその実態としてはオーストリア人の寄り集まりに近い組織であった。たまたま支援者の一角にハプスブルク家の
支持者がおり、『ハプスブルク家を信奉しオーストリアを憂いる人々の集まり』という箔をつけるために利用しただけの事であった。
詰まる所、彼らはファッションレベルか、それに毛が生えたレベルでしか行動力や規範を持ち合わせておらず、中には
組織の一面である「オーストリア人同士の相互扶助」が目的であると勘違いしていたケースも見られたし、「ドイツ帝国も
認める秘匿組織」と信じ込んでいるケースさえ見られた。いずれにせよ、組織の事態はそんな陰謀渦巻く組織ではなく、
単なるコミュニティの域を出ていなかった。

史実におけるとある伍長の父親のように、ハプスブルク家への信仰に近い支持者というのは一定数存在し続けた。元々
ハプスブルク家が婚姻による欧州国家の統一、即ち血縁による欧州の連帯を作り上げていた。「戦争は他家に任せておけ。
幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉の通り、ハプスブルク家は戦争ではなく結婚によって欧州にネットワークを
構築していた。実際、1547年の時点でハプスブルク家のつながりは当時の欧州の多くを占めていたし、ブランドとして
ハプスブルク家はかなり有力な物であった。ルイ16世の妻であるマリー・アントワネットもハプスブルク家との
政略結婚の意味合いがあった結婚だ。とはいっても本人たちは恋愛結婚に近いようだったが(※3)。

このオーストリア憂国騎士団は、組織としては弱くとも横のつながりは確かにあった。
メンバーを増やしていたこの組織は、オーストリアがドイツとともに受け持つ戦場において多くのオーストリア人が戦地で
死んでいることに、彼らなりに悩んでいた。塹壕戦というすさまじい消耗を強いる戦闘が展開しているためにその程度の
損耗などコラテラル・ダメージと割り切られているのは理解しているが(若しくは認めていない)、それでもそれを
もどかしく思うことは確かだった。ドイツ西部に配備されたオーストリア人兵士はそんな東部戦線の様子を様々な形で
聞きながらも、歯がゆい思いを重ねていた。そして、そこに飛び込んできたフランス陸軍の偵察機の墜落。彼らが天佑と
感じるのも、無理からぬ状況であった。そして、近場の基地から合計で30名前後の兵がその偵察機の捜索に出た。
国家のために、オーストリアのために、ハプスブルク家のためにフランスの技術を得ようと。

213 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:25:30
結果だけを述べよう、彼らの、ドイツ軍所属のオーストリア人の行動は藪蛇にしかならなかった。
そもそも、フランス陸軍国境警備隊というのは、元をたどればブルボン朝フランス王国陸軍のエリート部隊にして、
アグレッサーにして、戦術研究を兼ねる組織である『狩猟旅団』を先祖に持つ組織である。本来二線級の実力として
認識される国境警備の戦力であるが、フランス軍にとってはそうではなかった。フランス革命戦争時の奮戦や命がけの
偵察・妨害・命令伝達はもはや伝説として語られているほどである。日本の宝塚歌劇団の演目にも取り上げられ、
多くの創作家が語り継がれる彼らの働きは、どう考えても二線級とは呼べない。

正統の系譜はフランス陸軍のエリート部隊や創設が決まった空挺旅団、あるいは皇宮警察へと繋がっているが、それは
ある一部から分岐し、創設当時からの伝統ある仕事、即ち国境警備を希望する兵が多くいた。よってフランス陸軍国境警備隊は
『質を維持するために自ら離れた国家への奉仕者』の為の慰労部隊であると同時に、そうした彼らの希望を叶える場でもあった。
余暇のある彼らは新人兵への、将来有望な人物をスカウトして訓練するために時間を使っており、民間からもフィジカルエリートを
独自に育成していた。この国境警備隊独自の育成過程は、彼らの中で競争を生み出しているため、溢れた人材でさえ
正規軍からのスカウトが絶えないというレベルであった。

実のところ、フランス陸軍国境警備隊は偵察機墜落の情報を早くに掴んでいた。
以前も紹介したが、狩猟旅団というのは独自のネットワークを構築している。それは公然の秘密、知ってはいても
誰もが知らないふりをすることで「異常を感じさせることのない異常」としてフランス国内に存在していた。
よって、「偵察機が墜落し搭乗員が負傷、偵察機の回収が必要」という情報は国境警備隊に正規ルートで連絡が逝く10時間以上前に
即応できる部隊へと届けられていたのだ。そして、彼らは楽な任務になると考えて軽い装備(※4)を整え、夜間行軍の
演習(※5)も兼ねて近く(※4)の基地から出動していたのだった。

そして国境警備隊は夜間歩きとおして朝にはその偵察機の発見に成功していた。彼らは負傷者の回収を行ったのだが、
彼らにしても偵察機については持て余した。現状の装備では精々分解して持ち替える事しかできない。かといって、
意外と高い偵察機を破壊するような行動も躊躇われた。フランス陸軍に身を置く彼らも予算のことについてはきちんと理解していた。
というのも、皇帝一家の警護につくこともある彼らは儀典用装備を一式整える必要があり、これがまた意外と高い。
警備隊内部で装備を継承する風習があるにしても、それの手直しや経年劣化の補修などはかなり資金を使う。
それ故に、高性能の偵察機については扱いに困ったのだ。同じ陸軍としても何とかしてやりたいと考えた。

そこに最新兵器が落ちたと聞いて勇んで飛び込んできたのが、件のドイツ軍のオーストリア人兵士だった。
しかし彼らは迂闊過ぎた。仮にも戦争中であり、隣国は警備をきつくしていることが報告されており、さらには自分たちが
遭遇するかもしれない相手の装備を甘く見積もっていたのだから。実際彼らが持っていたのは良くて拳銃だった。
携行が許される範囲の武器しか持たない彼らと、実戦訓練も兼ねて実弾と小銃と手榴弾、さらに拳銃やスコップなども
持っていた彼らに殴り掛かればどうなるかは自明の理だ。

214 :弥次郎@帰省中:2016/07/08(金) 21:26:50
斯くして墜落した偵察機をめぐる偶発的な戦闘が勃発し、後に「ストラスブール事件」と呼ばれる軍事衝突となった。
事件の域を超えるレベルのこのぶつかり合いは、フランス側に負傷者2名、ドイツ軍に死亡4名負傷者21名を出して終結。
当然の如くドイツ軍兵士は全員捕縛される結果となった(※6)。

この事件は第二次世界大戦の流れを決定づける事件として後年に記録されることになった。
ついに地雷を踏んでしまったドイツ帝国がこの事実を知ることになるのは、外出した兵士が返ってこないことに違和感を覚えた
基地司令が捜索隊を編成して探し始め、ヒトラーの持っていたラジオにフランスの報道が入るまで待たなければならなかった……

※1
:ナポレオンは自分の死後の欧州情勢の予測を書籍としてまとめていた。この書籍には政治・経済・戦争の3分野に
おいてフランスが今後どのように欧州と戦っていくべきであるかを彼なりの視点から述べていた。
その中で、ロシアの気候や風土について述べた章において焦土戦の恐ろしさを予見していた。

※2
:アフリカの植民地であるアフリカ・フランセーズでは、アフリカの原住民の居住区が広く確保されていた。
彼らはフランスの保護を受けることと引き換えに農場や工場に対して労働力の提供などを行っていた。
特に軍は素の身体能力が高いフィジカルエリートを集めていて、その見返りはかなりのものだった。

※3:
恋愛結婚に近かった夫婦の中は非常によく、その様は宮廷でも市井でも噂になるレベルだった。
特に夫婦間で交わされた大量の手紙は今でも『重要文献』ということで保管されている。

※4:あくまで彼らの感覚の上でである。念のために。

※5:
夜間の行軍についても夜目が効くように訓練や食事制限を行っていた。他にも軍用犬や剣牙虎を引き連れての夜間の奇襲は
フランス革命戦争以来の狩猟旅団の十八番でもあった。現在残されている資料において狩猟旅団の平均的な視力は
2.6から3.4であると記録されている。

※6:逃げ出した兵士もいたのだが、そもそもフランスの野山に慣れ切っている国境警備隊とドイツ軍では雲泥の差が
あったためにすぐに捕縛された。



次話:「有為転変4  -Towards Zero-」

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最終更新:2016年11月14日 13:17