409 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:00:51
「私はこの時二度目の祖国への失望を抱くに至った。嘗ての亡霊に仕える国など、国であってはならないのだ」
-----アドルフ・ヒトラー 自著「我が闘争」において

「こんなものが艦隊決戦なものか、演習にもならん」
-----フランス帝国海軍派墺艦隊 ベルナルダン・ディ・トマソ海軍中将 あっけなく撃沈されるテゲトフ級を見て

「畜生、恨むぞ!」
-----嶋田繁太郎 派仏海軍航空隊少尉 戦闘が始まる前にどこかの誰かに向かって

「やれやれ……」
-----山本五十六 派仏海軍航空隊少尉 嶋田繁太郎と並ぶエースパイロットと評価されての感想

「貴様らが滅びるのは勝手だが、ドイツ帝国まで巻き込むなど正気か!恥を知れ!」
-----ヴィルヘルム2世 オーストリア=ハンガリー帝国を罵倒して


日仏ゲート世界 有為転変4  -Towards Zero-


日仏の参戦。その衝撃は参戦国全てを揺るがした。
現在の参戦国の状況から見るに、バランスブレイカーの参戦であった。

まず海軍についてだが、フランス帝国海軍は無傷の状態であり、その数も質も現在欧州に存在するすべての海軍を圧倒している。
最新の高速の超弩級戦艦のリヨン級と改リヨン級が合計6隻と弩級戦艦のクールベ級4隻。さらにダントン級4隻。
プロヴァンス級が4隻。さらに巡洋戦艦としてブリューゲル級6隻を主力として揃えていた。植民地に配備している
二線級の戦力をあわせれば海軍国家ではないとはいえドイツと凌ぐ建造数だった。

英独の海軍はどちらもユトランド沖海戦で大打撃を受けている状況だ。辛うじてドイツ海軍の方が艦艇は無事ではあったが、
ユトランド沖海戦の疲弊は大きく、優秀な水兵はかき集めても乾坤一擲の艦隊戦しか挑める戦力しか残っていない。
イギリス海軍も、建造競争の中で建造された艦艇は多数残っていたが、ユトランド沖海戦で幾多の同型艦が次々と
撃沈されたことを考えるとどうしても戦力としては見劣りした。下手をしなくてもユトランド沖海戦の二の舞となり
艦艇が撃沈されることが予測された。かといって、先の海戦の戦訓を生かすにはあまりにも時間が短すぎた。
現在イギリス海軍の工廠は損傷艦の修復に必死で、既存艦艇の改装にまで手を回す余裕はなかった。かといって
既存艦の改装も手も抜けない。おまけに、ドイツ海軍の温存されていた潜水艦隊が積極的に攻勢に出ているため、
通商路の護衛に力を注ぐ必要があった。

次に陸軍。フランスという国はもとより陸軍国家であり、古来から陸戦への理解がある。フランスは本国のみならず、
イギリスにおけるインド人兵と同じようにアフリカを巨大な兵士供給地として活用ができた。動員可能な人数は戦争によって
消耗している各国の比ではない。さらに恐るべきは対戦車兵器の充実にあった。フランス王国時代の名残である狩猟旅団
から愛用され続けていた古田式狙撃銃は、その後も改良を続けながら進化していたのだが、歩兵用のものよりも口径の
大きな強装弾を使用する対戦車ライフルとして形を成した。ドイツの投入したマウザーM1918と異なり使用者への負荷が
かなり軽減された物であった。この時代の戦車に対してはかなり有効で、輪帯であれ正面装甲であれを破壊するにも
十分すぎる威力を持っていた。歩兵の装備もフェドロフM1916相当の歩兵の携行可能なフルオート小銃の普及が進み、
塹壕戦も意識したグレネードランチャーやバンガロール爆薬筒の配備も十分に進んでいた。日露戦争へのフランス軍は
義勇軍として参戦しており、近代戦に対する理解は十分あったし、要塞や塹壕による防衛線に対する浸透突破戦術なども
十分訓練されて習得していた。

410 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:01:50
また、陸海軍の両方の面で、フランスの同盟国である大日本帝国は脅威の一言に尽きた。
極東最大の海洋国家というだけあり、弩級以上の戦艦だけでも金剛型が6隻、改金剛型の剣型が2隻、扶桑型4隻。
実質的な弩級戦艦といえる巡洋戦艦の河内型4隻。準弩級戦艦にも薩摩型と鞍馬型を合計で4隻を持っていた。
さらに、建造中の戦力も多い。改扶桑型と目される戦艦が2隻以上。さらに剣型の後期型と予測される巡洋戦艦が2隻(※1)。
それらに付属する巡洋艦や駆逐艦など信じがたい量を揃えていた。しかも、海軍はフランス領各地を結ぶ通商路の護衛を
フランス海軍と連携しながら行うだけの余裕がある。

さらに陸軍を見てみると、日露戦争においては大陸国家であるロシアを凌ぎ、その規模からも侮りがたいと評されている。
元々大陸国家として古来から陸戦が繰り返され、火薬と鉄砲の伝来で急速に変化を遂げた。そのインフレ具合は欧州さえ凌いだ。
運用する騎馬兵は世界観の違う巨大な馬を使っているし、フランス革命戦争で多くの兵をなぎ倒すか踏みつぶした象兵は
トラウマとなって各国に刻まれている。現在では騎兵突撃への対処法が広まっているとはいえ、後方攪乱や軍の展開などに
有利であることに変わりはない。極東の蛮人と侮る声がいくらか存在したが、それも大した根拠のないものだった。

最も恐ろしいのは兵力の派遣速度だ。ゲートによって一瞬で兵力をフランス国内へと移動させることができることである。
イギリスでさえインドから物資やインド人兵士を連れてくる際に通商破壊を警戒して艦隊を割く必要があるが、日本は
いきなりフランス国内に軍を派遣できる。ドイツ帝国は海軍を用いて救援軍のフランス本土上陸阻止をすることが事実上不可能だった。
第一、このゲートを通じた移動はゲートを通過できるものという限定があるとはいえ、1秒とかからないのだ。

日本の動員可能人数は、本国の防衛などに人員を割り振るにしても100万人前後は派遣可能と推測される。フランス軍が
動員可能な人数と合わせれば最低でも250万人。フランスが小出しにするとは思えず、下手をすれば陸海あわせて300万人を
超える動員をしてくる。これは同盟側にとっては脅威などというレベルではない。同盟は協商との間で数ラウンド激しく
殴り合ったところなのだ。ここで元気な新たなプレイヤーがリングに上がってくるなど溜まったものではない。しかも、
あちらはこちらに対して容赦を捨ててくる。

そして日仏双方に言えることが戦争を続けるだけの体力が高いということ。フランスはアウスタリ大公国やアフリカに広がる
アフリカ・フランセーズに、日本は国内に、戦争に必要な資源ほぼすべてが揃っており、尚且つ食料自給率は他国に
大量に輸出してあり余るほどだ。長期戦になろうともその国力と競争になるとドイツ帝国は確実に負ける。ドイツ帝国は
史実と異なりアフリカの植民地はわずかしかなく、中国にも利権を持つ程度でしかない。おまけにストラスブール事件以来
中立国は食料すら輸出を渋っている状況であった。つまり、ドイツはもはや息切れ寸前で回復する手段さえないということだ。

ともかく、オーストリアが日仏に喧嘩を売ったことで戦争の流れは一気に変わった。
オスマン帝国はドイツ帝国に対して事態の究明が済むまでの同盟の断絶を宣告し、最悪の場合宣戦布告すると宣言した。
オーストリア=ハンガリー帝国に対しても同様の処置をとった。というか、実質的な宣戦布告文章を国内のオーストリア大使館へ
と叩きつけ、国内の残存部隊が国境沿いに速やかに展開した。オーストリアと国境が近いイタリアもまた、オーストリアに
脅迫まがいの文章を送り付けた。さらに東欧のこれまで中立だった国々もオーストリアとドイツに非難を強めていく。
同盟の構成国のブルガリアの対応もオスマン帝国のそれに倣っていた。

オランダやスウェーデンなどもオーストリアへの批判を強めた。ドイツ海軍の通商破壊に備え、中立国の輸送船は多くが
輸送船団を組んで航行していた。その際に大きな安心感を与えていたのが日仏海軍の通商護衛艦隊だった。
後の第二次世界大戦にも活躍するのだが、この世界大戦時には中立国の中でも国力や軍事力の観点からある種の信頼を受けていた。
『寄らば大樹の陰』というわけではないが、日仏の船団についていくとドイツが攻撃してこないと理解したのだ。
欧州の中立国の多くがフランスと日本を頼っていたことも関与していたことでオーストリアへの批判が強まった。

411 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:02:53
さて、このように批判にさらされた当のオーストリア=ハンガリー帝国は、そして実質的に支配しているドイツ帝国は
釈明に追われた。ややこしいことに、ドイツ軍所属のオーストリア人の起こした事件だ。軍事的な意味ではドイツ軍、
そしてドイツ帝国の責任になる。しかし、その軍人はオーストリア人であり私情から攻撃を仕掛けた。そういう意味では
オーストリアの側に責任があると言えなくもない。
なんとかオスマン帝国を介して日仏に猶予を得たドイツ帝国は国内での調査と責任問題の解決に乗り出した。

しかし、この事件をめぐり世論は真っ二つに割れた。ドイツとオーストリア=ハンガリーで責任の押し付け合いとなった。
正しく言えば、オーストリア=ハンガリー帝国はフランス憎しの世論が盛り上がり件のオーストリア人兵士を擁護する
動きが大いに盛り上がっていたのに対し、ドイツ帝国ではオーストリアへの責任追及の声が高まっていたのであった。
ドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世は在独オーストリア大使を呼び出して直接厳重注意と責任追及を行ったのだが、その大使も
ついてきていた外交官ものらりくらりと追及を逃れようとした。

オーストリアにしてみれば、戦争はほぼ終結しつつあり、この状況でフランスと事を構えても問題なかった。
東部戦線はロシアが実質離脱したことで停滞しており、その兵力を西に回せば済むと考えていたのだ。
実際、西部戦線は既に陣地化が進められており、大軍が押し寄せようとも長期間の時給が可能なレベルまで整えられていた。
この西部防衛線 通称『AHライン』は、過労で倒れたアルフレート・フォン・シュリーフェンの後任であるヘルムート・
ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケが、シュリーフェンの意思を継いで整備を続けた広大で分厚い防衛線だった。
想定される侵攻ルートであるドイツ北西部(ネーデルランド方面)のブレーメン~ドルトムント間を警戒しつつ、
万が一フランスが進軍してきたときに備え、シュトゥッガルト~フランクフルト~ボン~ケルンを結ぶラインに陣地が
何層にもわたり構築された。即席とはいえ航空機や飛行船の基地も整備されていた。そして、この時代としてはかなりの
先取りだったが戦線が崩壊した際に前進してくる敵軍をまとめて焼き払う飽和爆撃を行う用意を整えていた。他にも
この陣地には東部戦線での教訓が生かされており、物資も潤沢に投入されている。

この情報を軍部経由で得ていたオーストリア=ハンガリー帝国はそれに自信を持っていたのだ。
ロシアが来ないならば、もはやオスマン帝国との手切れとなったとしても惜しくはない。イギリスが上陸してこないのであれば、
あとは陸軍で迎え撃てばよい。ここまでくると、オーストリアのかなり都合の良い考えであることは明らかなのだが、
ある程度の事実を捉えていたのもまた確かなことだった。ドイツはもとより陸軍の国。準備に時間をかけたこちらが
有利であるのは確かであった。一応フランスも戦時体制なのだが、あくまで警戒態勢。もとより戦訓を得たとしても
それを反映する余裕は平時に近い故に簡単ではないはずなのだ。

だが、ドイツ皇帝もドイツ陸軍もそこまで楽観はしていない。
元々フランスと日本は中立国として、食料と医療品を提供してくれていた。食料自給率や資源の自給率の観点から見れば
長期戦はそもそもドイツには不利である。そのドイツにとって、なんだかんだ言いつつ貿易を続けてくれる両国が
どれだけ大きい存在であるかは言うまでもない。これまでドイツ軍はフランスや日本の参戦を招かないためにも潜水艦による
通商破壊にかなり気を使っていた。無制限潜水艦作戦は史実と異なり実施していないし、むしろ撃沈する船から退避した
人員への配慮も欠かしていなかったほどだ。それだけに、終戦に持ち込む算段が整いつつある中でのオーストリアの
失態はあまりにも大きかった。フランスはドイツとオーストリアに対して釈明を要求。1917年7月18日に発表されたこの要求は、
7月31日までに明確な回答がなかった場合、両国に対する交戦状態に入ると付け加えられ同時に両国への貿易の一切の
停止を突きつけた。無論、責任の追及も行う余裕を持たせたこの要求が実質的な最終宣告であるのは明らかである。

412 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:03:38
しかし、フランスが期待した返答は結局のところ行われなかった。
ドイツは自国の指揮が甘かったことを認め、また私情に走ったオーストリア=ハンガリー帝国の責任を認め、
公式に謝罪。補償などにも応じると返答した。さらに、この大戦を含めた停戦を呼びかけて、戦争の終結を他国へと訴えた。
オーストリア=ハンガリー帝国は国内世論が統一できず、見解を示すのが限界であった。国内世論は反仏一色。
首脳部や政府内でも見解が分かれており、意思統一が容易ではなかった。一応ドイツに同調する意見を述べた閣僚などもいたのだが
『事故死』や『病気療養』などで政府首脳部が激しく入れ替わり、結局出された声明もドイツの返答とは真逆で、
オーストリア=ハンガリー帝国の責任ではないとする趣旨のものとなった。両国の意思統一も当然のことながら失敗。
結果的に回答は一致したものが出されることはなかった。そうして国内紛争一歩手前の同盟国側を差し置いて、フランスと
日本は陸軍の派遣を行った。オーストリア=ハンガリー帝国の予想と異なり、両国は既に戦時動員が可能な状態で国内の
準備を万難を排して整えていたのだ。

オスマン帝国とブルガリアはドイツとの同盟を正式に解き、新たな勢力として正式にドイツとオーストリアに宣戦布告をした。しかし、彼らが直接ドイツやオーストリアに攻撃を加えることなく国境の防備を固めるだけに
留めたのは、恐らくではあるがどちらの国も攻勢に出る必要がないということを理解していたためと推測される。
勿論、両国が戦力を消耗していたこともあるのだが、一番の理由としてはフランス軍とドイツ軍が激突した際の結果を
予測できていたためだ。元々オスマン帝国は日本とフランスの支援の下で近代化を進め、両軍の特徴をある程度理解していた。
そして、ドイツ帝国が逆立ちしようともフランスと日本には勝てないと予測したのだ。

これらの行動が一種のポーズであることは明らかだったが、半分以上は本気の宣戦布告でもあった。
オスマン帝国にとって日仏のバックアップは戦後の情勢に関わる非常に得難い物。オスマン帝国側の心情としても
オーストリア=ハンガリー帝国のせいでとばっちりを食らうなどたまらない。それに、ドイツの暴走を見逃したと日仏に
捉えられれば今後の支援なども打ち切られるだろう。そうなれば国際的な信頼はもとより、親仏・親日の政治勢力や
国民が多いオスマン帝国にとっては下手をすれば自壊しかねない懸念事項であった。

下手をすれば、ドイツ帝国は崩壊に追い込まれ、自国は列強のおいしい餌にしかなりえない。
ドイツとの同盟?知ったことではない。あくまで利害の関係から同盟を結んだのだ。利害さえも超えられる同盟など
現在世界に存在するとするならば大日本帝国とブルボン朝フランス帝国連邦から構成される日仏同盟と、パナマ共和国と
朝鮮王国とスイス連邦が結んでいる永世中立国連絡会議くらいなものだ。後者があくまでも永世中立の為と国際的な
調停機関としての役割を持つことに由来するならば、日仏の同盟は人為的に結ばれながらも地上のどの同盟よりも固く結ばれた
両国の信頼関係に由来する。そこまでするほどオスマン帝国はドイツ帝国に借りがあるわけでもなんでもない。

確かにドイツとの同盟破棄は裏切り行為かもしれないが、オスマン帝国にしても言い訳は立っていた。
同盟を破壊に導くだけの勢力を、この第一次世界大戦に参戦させてしまったこと。ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国
がどうやっても覆しようもない事実。斯くして、オスマン帝国というパイプを失ってしまったドイツ帝国は、否応なく
報復を行う日仏と相対する必要に迫られていた。

413 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:04:44
期限が切れると同時に、日仏は同時に行動を開始した。
日仏が投入した戦車はそれまでのイギリスが開発しロシアなどに提供していたマーク1などと異なり、堅牢な装甲板と
エンジンと搭乗室がきちんと分離された、紛れもない『戦車』であった。そして、オスマン帝国のルノーFT-17などとは
レベルが違う戦車であった。フランス陸軍の中核となるのは75mm砲を搭載した史実M3中戦車相当のルノーCM-01
(Char moyen:中戦車)や高性能機であるソミュアS2相当の軽快な速力を持つソミュアS1中戦車。さらに塹壕や
トーチカへの備えとしてサン・シャモン突撃砲やシュナイダーCA1(いずれも史実より性能向上)、歩兵の支援用として
史実チハ相当の八五式軽戦車、おまけのように重砲への備えとしてシャールC2(史実よりエンジンの信頼性向上と武装の見直し)
を用意していた。日仏にしても、初の実戦ということもありこの戦いには多種多様な戦車が投入されていたため、一種の
兵器実験大会と化していた(※2)。

しかし、いずれの戦車も戦果の多少の違いこそあれ、トーチカや塹壕などを強行突破する強力な鉄槌として、または歩兵の前進を
助けるものとして各地で活躍した。エンジンの信頼性の高さも手伝い、ドイツ軍を文字通り蹂躙していた。ドイツ軍は
日仏の投じた戦車を『鋼鉄の獣』と恐れた。それはロシア軍が行っていた歩兵突撃などとは違う、火力支援と戦車による
制圧前進であった。そして、鋼鉄の獣たちの蹂躙を支えたのが、日仏が持ち込んでいた大量の野戦砲による砲撃だった。
元々インフレ傾向のあった日本大陸での陸戦メソッドに、フランスなりの解釈、即ち「空から見つけて、地上の火力で叩き伏せて、
歩兵と戦車で蹂躙すればいい」という合理的な解釈を行った結果であった。日本の戦闘機及び飛行船の性能はドイツのそれを
容易く上回っており、コマンド部隊と合わせた偵察を行ったうえで、的確な航空支援の下で大量の車両を投入した日仏連合陸軍は
西部戦線で待ち構えていたドイツ軍をあっけなく破った。モルトケはこの時の日仏連合軍の猛攻によってAH線が破られる様を
以下のように日記に記録している。

『フランスと日本の雷光のごとき侵攻は容易く堅牢な要塞線を食い破った。我らはフランスにナポレオンの弟子がいることを
すっかり忘れていた。しかも厄介なことに、食い破られた防衛線は後退することも修復することも叶わない。
我々にできることは精々逃げ延びた兵たちを糾合して、新たに防衛線を作ることだけであった。そして、それが破られない
保証はどこにも存在しない……』

実際、この電撃戦の採用者の一人としてナポレオンが挙げられる。第一次世界大戦以前の彼であるが、史実においても
その採用乃至研究を行っていたことが後年の研究から判明している。ナポレオン戦争時におけるフランス陸軍の大立ち回りや
高速の転進、移動は当時でも飛びぬけていたのだが、産業革命後の現在では自動車を大量生産し道路網を整備したことで
さらに速くなっていた。正しく電撃戦(ブリッツクリーク)は斯く在るべしを形としたような進撃であった。

勿論、ドイツも抵抗した。毒ガスの使用や戦車の投入などを惜しむことなく行った。
しかしそれらは戦術的には有効であれども、所詮は戦術レベルでしか効力を発揮できていなかった。
また浸透突破戦術の採用とそれに合わせた装備の普及度合いが日仏では非常に高く、塹壕内での戦闘もトンプソン相当の
サブマシンガンを十分に普及させていた日仏優位に進んだ。

414 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:06:13
そして、海上においてもドイツ軍に対する攻撃は一斉に始まった。
これまで通商護衛時に輸送船団を編成して通商破壊に巻き込まれないように注意を払っていた日仏の船団は、積極的な
攻撃に出たのだ。つまり、潜水艦を積極的に見つけ出して攻撃する能動的な船団護衛へと切り替えたのだ。
日仏は既に対潜ソナーの開発に力を入れていたし、イギリスの通商護衛から戦訓を得ることもできた。さらに攻撃こそ
されなくても輸送船団に潜水艦が近づいて来ればソナーによって感知することもできたので、そういった技術面での蓄積を
重ねることができた。理論で先行していた夢幻会が実戦による洗練を経たのだから、その効果は高い。
斯くして、地中海や大西洋方面に出撃していたドイツ海軍の潜水艦の多くが日仏の護衛艦隊によって撃沈されるか
航行が難しくなる損傷を受けてしまった。よって海軍はその行動範囲を大きく狭めざるを得なくなり、イギリスを日干しに
するための包囲網に大きな穴をあけられてしまった。曲がりなりにもイギリス海軍に打撃を与えていたドイツ海軍の努力が
一瞬にして消え去り、イギリスはこの隙をついてアメリカからかなりの物資を受け取ることに成功した。
おまけというべきだが、大日本帝国はドイツが権益を持っていた青島の攻略を実施。現地のドイツ軍をあっけなく降伏させた。

さらに、オーストリア=ハンガリー帝国の母港や工廠のあるポーラ トリエステ フィウーメ カッタロへの攻勢に出た。
フランス地中海艦隊に配備されていたリヨン級戦艦2隻 プロヴァンス級2隻 ノルマンディー級2隻を主力とする艦隊を
派遣した。遠隔地での作戦行動であったために、大日本帝国海軍は人員の派遣と弾薬や燃料の提供(※3)にとどまった。
オーストリア=ハンガリー帝国は、潜水艦戦力が日仏連合艦隊による事前の入念な掃討によって払底状態に追い込まれており、
これを防ぐにはどうあがいても艦隊決戦しかなかった。しかし、フランスは些か過剰戦力を投入したと言えるかもしれない。
何しろラデツキー級戦艦2隻とテゲトフ級戦艦3隻しか戦艦のないオーストリア=ハンガリー帝国(※4)にとっては海洋大国と
正面からぶつかるなど、どう考えても破滅しかありえなかった。かといって、戦力を残して指をくわえているなどできない。
オスマン帝国に援助を求めたがにべもなく断られ、ドイツ帝国の艦隊にしてもフランスの目の前を通過して救援に
駆けつけてくることなどどうやっても期待できるはずもなく、覆しようのない窮地にあった。

そしてアドリア海海戦は、『アドリア海の悲劇』と呼称されるほどの一方的な戦いとなった。はっきり言おう、
戦闘というよりも虐殺にしかならなかった。今大戦における二度目の艦隊決戦であったが、その実態としては日仏の
実弾と生きた標的を使った演習のレベルの戦闘だった。片や大国が潤沢な予算を注ぎ込み、錬度も十分な超弩級戦艦でも
指折りの速力と打撃力を持つリヨン級を筆頭とする大艦隊。片やナポレオン戦争以来落ち目の小国が財布の底をさらう様に
してなんとか用意した弩級戦艦とそれを主力とする艦隊。艦隊を撃滅したフランス艦隊は地中海に面したオーストリア=
ハンガリー帝国の軍港に艦砲射撃を実施。残存していた僅かな艦艇を吹き飛ばし、軍港の機能を喪失させた。これにより、
ドイツ帝国から預けられていたUボートも補給が続かなくなり、各地で洋上降伏が相次いだ。

この海戦においては日仏が投入した水上機母艦とその艦載機によって弾着観測や爆撃が行われ、空と海での連携が
戦闘に大きく寄与すると判明した(※5)。
キール軍港への殴り込みも、アフリカ大西洋艦隊を招集して準備を整えつつあった。戦艦だけでも8隻、巡洋艦も10隻以上
を揃えた大艦隊は、日本からの増援が合流すればすぐにでも出航できるように準備が整えられた。結局、それはとある
事情から中止となってしまったのであるが。

415 :弥次郎@帰省中:2016/07/11(月) 18:07:21
この一連の攻勢に、協商側は唖然と見守ることしかなかった。
ユトランド沖海戦の戦訓を生かすこともそうであったが、それまでとは次元の違う日仏の戦いに目を奪われたのだ。
短い期間に圧倒的な武力で相手をねじ伏せてのけたことは、フランスと日本の国力を改めて知らしめる結果になった。
特に戦艦は、フランスの「速力・防御力・打撃力」の三点を重視した戦艦が今後の理想とみなされた。
そう、リヨン級は集中防御構造を使ったポスト・ユトランド型の戦艦であり、その構造が改めて注目を浴びたのだ。
これを真似しようとして各国が盛大に自爆するのは、戦後の事であるがまあ放置しよう。

ともあれ、ドイツが許容しがたいほどのダメージを受けたことは控えめに見ても明らかであり、これによって膠着しつつあった
戦局が大いに動くであろうことは、少々軍事に詳しければ誰もがわかることであった。イギリスはアメリカを巻き込んで
ドイツの息の根を止めるべく動きだし始めた。

ゆっくりと、しかし着実に世界を丸ごと巻き込んだ大戦は終結へと向かっていく。
参戦国のエネルギーももはや臨界点を易々と超えるレベルまで高まっていた。
しかし、高まれば、同時にそれは必然的な落下を迎えることになる。
さながら、0の時間へと落ちていくように。


※1:この建造計画にはいくらかのダミーが混じっていた。WW1と戦間期における戦艦の進化のインフレに伴う
予算の増加を最低限に済ませるために暫くは建造を行っていなかった。

※2:他国の目を欺くため、史実のルノーbisをはじめとした多砲塔戦車も多数投入された。

※3:日仏は艦艇の弾薬の共通化だけでなく、乗員の訓練の一部を共同で行っており、乗員の互換性もあった。

※4:
史実より国力が減退したため、数が減っているほかスペックもダウンしている。さらにオーストリア海軍に
合流していたドイツ帝国海軍の乗員はフランスとの戦闘をボイコットしており、ラデツキー級とテゲトフ級は
駆逐艦や潜水艦などから人材をかき集めて何とか出撃していた有様だった。

※5:ここには二周目ということで、戦闘機パイロットに仕立て上げられた嶋田繁太郎なども参加していた。







次話:有為転変5 -Death Comes as the End-

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最終更新:2016年11月14日 13:14