446 :弥次郎@帰省中:2016/07/12(火) 19:00:38
「やれやれ、そろそろ終わりとしたいのですがね……」

「せっかく無関係でいられるかと思ったが、そうではなかったか」

「しかし、実戦で経験を積めたのは良いことだと思いますよ。授業料としては些か高額でしたけど」

「突撃しかできないような状態のオーストリア軍など、訓練の的にしかならないのだが」

「海軍としても陸軍の意見に賛成である」


日仏ゲート世界 有為転変5 -Death Comes as the End-


僅か一週間前後の戦闘で、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は戦力の多くを失う羽目になった。
オーストリア軍に至っては並行して起きていたブルシーロフ攻勢において払底に近い状況で何とか抽出した貴重な戦力を
失うこととなり、主力部隊はほぼ全滅となっていた。つまり、オーストリアは戦争から脱落状態といってよかった。
国内は男手が足りず食料も不足しがちとなり、医薬品も欠乏し始めていた。中立国がストラスブール事件以降実質的な
禁輸措置をとったことでさらに情勢は悪化していた。何しろ軍にさえもろくに医薬品の在庫がないのだ。ようやく国内には
オーストリア首脳部が何をやらかしたのかを悟り混乱する市民が現れ、反政府デモを行う人々さえ現れていた。
軍需工場や道路・橋などに対して飛行船による爆撃が行われたこともあり、オーストリアは国家を維持するために
必要な要素を次々と失っていたのだ。一応戦闘機がなくもなかったオーストリアだったが、護衛の戦闘機に蹴散らされていて
ろくに抵抗できなかった。

しかし、これでもまだオーストリア=ハンガリー帝国はぐずぐずしていた。というより、あまりの事態に政府が行政機能を
ほぼ失ってしまい、無政府状態に近いものとなっていた。残っていた政府首班は責任の押し付け合いをし始め、あまつさえ
国外逃亡を図ろうとする者もあらわれていた。ここでフランツ・ヨーゼフ1世がいたならばなんとか収拾はついただろうが、
彼は史実同様に死去していて、皇位はカール1世へと引き継がれていた。しかし、史実よりも早くオーストリア=ハンガリー帝国は
事実上の崩壊に向かっていた。彼が仰々しい伝統的な儀礼を排除して国内の効率化に努めたにもかかわらず、
国内は各民族の離反が相次いでいた。多民族国家故に多くの民族が離反を選んだ時点でオーストリア=ハンガリー帝国の
国家としての寿命は秒読みに入っていたといってもよい。そんな状態で、厳密に言えば彼に責任があるとは言えない状態で
責任を問うたところで、何時までも議論が続くであろうことは想像しやすいものだった。

447 :弥次郎@帰省中:2016/07/12(火) 19:02:01
「次にフランスの攻勢があった場合、陸軍はすべての主力が駆逐されるでしょう。彼我の戦力比も開きがありすぎます」

「Uボートの報告によれば、ブレスト軍港には着々と軍艦が集まり始めています」

「国内の産業も、これ以上の戦時体制を続けるのは不可能かと。年を越せれば御の字でしょうな」

「……ならば、すべきことは一つだ」

そのような会話がなされたのは、ドイツ帝国首都のベルリン。
陸海軍のトップや参謀などに加え、内政を担当する大臣や次官が揃っている。そこに共通するのは全てドイツ人であること。
その会議の中心にいる男性 ヴィルヘルム2世はそれらの報告を目を閉じたまま聞いていたが、やがて眼を開く。

「諸君、ドイツ帝国に忠誠を誓う諸君。すまないが、諸君らの命を借りる。地獄まで付き合ってもらおう」

その言葉に、否と答える声はなかった。
彼らは皇帝に忠誠を誓う騎士なのだから。体も命も領地も、皇帝と国家に捧げる覚悟はある。

448 :弥次郎@帰省中:2016/07/12(火) 19:02:50
明確な動きが見られないことに業を煮やしたヴィルヘルム2世はついに禁断ともいえる手に出た。
ドイツ帝国からオーストリア=ハンガリー帝国への宣戦布告と即日の同盟断絶の通告だ。
この、イギリスがカナダに戦争を吹っ掛けるような奇妙な事態は協商側の混乱を呼んだが、ドイツの残っていた精鋭部隊が、
宣戦布告の文章を送り受諾されてから1時間後にはオーストリア内に侵入し、カール1世とその家族、および政府首脳部の
多くを一気に確保した。さらに、別動隊がオーストリア軍の司令部を制圧。さらにオーストリア=ハンガリー帝国の
主要都市において配置についていたドイツ軍が行動を開始して主要都市の行政権を強引に軍政へと切り替えた。宣戦布告
から4日でドイツ帝国はオーストリア=ハンガリー帝国を実質的な支配下に置いた。曲がりなりにも独立国であった
オーストリア=ハンガリー帝国への主権侵害ともいえるこの異例の措置は、進退窮まったドイツ帝国の乾坤一擲の賭けでもあった。
ドイツが日仏まで敵に回すことはできない。ならば、その原因を力技で潰してしまえというわけだ。この、後年に
「オーストリア懲罰戦争」と呼ばれる政変は、オーストリア=ハンガリー帝国領内でいくらか混乱が見られたものの、
離反が相次いでいたオーストリア領の安定を実現した。その上で、ドイツ帝国は日本とフランスに対して和平を申し出た。

そして1917年8月25日。日仏両政府はドイツ帝国の申し入れを受諾。「オーストリア懲罰戦争」から5日と経っていない
電撃的な和解だった。9月に入る前には『フランクフルトの和約』を締結して日仏連合軍は撤退を開始した。
この和解にはドイツ皇帝自らが資産を切り崩し、さらにオーストリア皇室からも半ば脅すようにして賠償金を支払い、
さらにフランスに捕縛された兵士の処遇を事実上フランスに一任した。必要であるならば、自分とカール1世の首も
差し出そうとヴィルヘルム2世自らが宣言するという、異常事態であった。

「これでも足りなければ、我が国は全力を以て戦場で戦いましょう」

ドイツ側はその上で、全面戦争さえも是としていることを告げた。流石にこれには驚いたフランスと日本は矛を収めざるを得ず、
賠償金とヴィルヘルム2世とカール1世の公式の場での謝罪で手打ちとした。これはドイツ側の交渉の戦術であったとされるが、
いきなり自らの首を差し出すことでそれ以上の要求を出されないようにした。まあ、戦後のことを考えれば生きて
おいてもらわねば困る。仏独間の交渉は終わったとしても協商側がそれで矛を収めるわけではない。
フランスにしても日本にしても、高々一つの事件で大戦争をするほど愚かではないし、どう考えても割に合わない。

449 :弥次郎@帰省中:2016/07/12(火) 19:04:02
一方の協商側のイギリスはアメリカを巻き込んで陸軍を欧州本土へと上陸の準備をさせていた。上陸するのはフランスの
ベルギーやカレーに広がる軍港だ。これはフランスもドイツも承認していたことだが、「ドイツと戦争は止めるが、
他国がドイツに向かうために通過するのは黙認する」という独仏間のフランクフルトの和約に基づく行動だった。
つまり、フランスはドイツに対して中立国として振る舞う必要はないというわけであり、事実上の敵対国となった。
だからイギリス軍やアメリカ軍が自国領内を通過するのをフランスの意思で決められるということだ。
これについてはイギリスとフランスの間で取引があったようで、イギリスは文字通り『通行料』をフランスに支払うことで
決着している。フランスは前金前払いを要求したのだが、イギリスがこれに反対して、4割先払いし残りをあとからとなった。

英米として見れば、日仏が楔を打ち込んだラインを再度突き破ればいいのだ。ドイツ軍が防衛線を復旧しつつあるとはいえ
脆くなっていることは確かだ。ロシアを通じて得た戦訓に基づく準備も整えられていたし、マーク1などの戦車も
揃えることが出来ていた。そして何よりもイギリス陸軍はこれまであまり動かされずに温存されてきたのだ。数の面でも
150万人を揃えたアメリカ陸軍とインド人兵によってカバーできる。そして、当然のようにドイツもこれを察知した。
既にガタガタになっている艦隊で上陸の阻止することは難しい。ユトランド沖海戦でこちらの制海権はかなり危ういものと
なっていた。となれば、必然的に陸戦で決着がつく。相手が決戦を望み、またこちらもそれを受けるしかないことは
どう控えめに見ても明らかで、不可避だった。オーストリア侵攻という作戦を指揮したという名目で地位から身を引いた
モルトケに代わり、ドイツ帝国陸軍参謀総長となっていたエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは海軍の潜水艦や
スパイ網からもたらされた英米の動きを聞いてただ一言述べた。

「イギリスはもうルビコンを超えたならば、我らはそれを受けるのみ」

そして、残存する兵力を糾合して東部へと集合させていった。
動員までに必要な時間と食料や物資の蓄積。そして海で展開されるドイツによる通商破壊の被害を鑑みれば、おのずと
決戦の時期は決まっていく。ロシア革命の勃発とそれへの出兵が完了する12月中旬から下旬。その頃になるという
予測が建てられた。ドイツは残存する戦力と残っていた資材などを動員して破られた防衛線の修復と構築に割り当てた。
損傷の激しい艦艇は搭載砲を下して野砲への改良を行ったり、あるいは兵員輸送艦や物資輸送艦への通商破壊に乗り出した。
海軍の陸戦隊も陸軍への合流を急ぎ、残った艦艇は万が一キール軍港へ突入してくる艦隊に備えて準備を整えた。

次の攻勢さえ凌げれば、講和が見える。どの国も、アメリカやフランスといった参戦が遅かった国を除けば、疲弊が
頂点に達しようかというころだ。元々モンロー主義を掲げるアメリカは今回の参戦がだいぶ国内世論に波乱を呼んでいることは
ドイツでも理解していた。つまり、一撃を与えてやれば反動で継戦を諦める可能性がるということ。となれば、イギリス陸軍さえ
叩いてしまえば勝ちなのである。少なくとも、負けは回避できる。フランスが参戦する前の状況にまで戻すことができる。
何年後か、5年か、10年か。その時に起こるリベンジ戦に向けて仕切り直しを行う。ついでに、オーストリアには落とし前を付けさせる。

イギリスにしてもこのチャンスは千載一遇だった。
ドイツが日仏とのぶつかり合いになって戦力を消耗した上に、フランスが事実上ドイツへの道路となることを認めたのだ。
とするならば、わざわざ地中海を経由したりオスマン帝国にチェックメイトを掛けられている状態のアラブ人などを使うよりも、
自らの手で決着をつける方が速いというわけだ。元々はフランスをドイツとの戦争に巻き込み、フランスとドイツを
フィールドとして、フランスとドイツ双方に消耗を強いて戦後のアドバンテージを得るはずだったのだ。

450 :弥次郎@帰省中:2016/07/12(火) 19:04:43
ドイツを降伏させればオスマン帝国とブルガリアの中央同盟は戦争を続ける理由もなくなる。そうすればあとはドイツに
傀儡政権を建てることも容易だ。ドイツ国内に関しても精々分割してやればあとは勝手に喧嘩をするだろう。地理的な
面から言っても、ドイツはフランスをけん制するにはちょうど良い場所だった。さらに、ドイツの支配下にあった
オーストリア=ハンガリー帝国の持つ地中海の軍港というのも魅力的だった。そんな皮算用をしながらも、イギリスは
準備をぬかりなく進めていた。

しかし、イギリスとアメリカとしてはロシア革命への対処という予想外の事態が起こったしわ寄せが発生した。
即ち欧州本土に上陸予定だった陸軍及び送り届けるための海軍の兵士たちをアメリカ若しくはイギリスの各地にとどめ置く必要に
迫られたのだった。スペインとポルトガルとオランダが中立を宣言していることと、兵士への食糧供給を可能と出来る都市は
欧州でもかなり限られていた。フランスに配置することもできたが、フランスが一定以上の軍を国内にとどめ置くことを
政治的な意味と住人の感情的な意味から拒否した。スペインにとどめ置くこともできたが、それも全体から見れば
少数でしかなかった。イギリス側に立っての参戦を表明していたイタリアに配置する案もあったが、スペインと大して
変わらないレベルにしか置けなかった。スペインもイタリアも、そこに仮想敵国の兵士が多数駐留することをフランスが
渋ったためだ。どさくさ紛れの攻撃を受けてはたまらない。

その結果として、イギリスやアメリカの海岸都市には人が溢れかえらんばかりになっていった。
膨れ上がった人口はインフラのキャパシティーを軽く超え、俄かに衛生環境の悪化や食料不足や水不足に悩まされる羽目になった。
嘗ての奴隷貿易船を彷彿とさせる悪夢の輸送を終えた兵士を待っていたのは、これまた人が溢れかえる都市と数少ない食料。
そして劣悪で休むに休めない駐屯地であった。ドイツが期待していた「大人数の動員による負荷の発生」が見事に
発生していたのだった。ドイツは確かに総数では劣ってはいたが、その分兵士への負荷を減らす手間をかける余裕があった。
一人への食糧の供給や娯楽品の提供には何とか間に合っていた。元々、オーストリアが嘗てのナポレオン戦争時に
一足早く国家総動員体制を経験していたことから、ドイツはその教訓を帝国領内に広めることができたのだ。国家の
動員体制についての予めの理解と用意があれば、その損耗についてはある程度目をつぶれる。
だが、英米に発生していた負荷はドイツが考えるよりもよりひどかった。英米の上層部が考えるよりも救いがない状況だ。

例えば、1回の食事の量であるとか味付けだとか、あるいは支給される紅茶などの娯楽品は質が落ちていた。元々酷いとは
言ってはいけない。あれでも努力した結果なのだから、仕方がないのである。住居に関しても酷いものでは雑魚寝状態であったし、
末端の兵は入浴などもシャワーを交代で使う程度しか許されなかったりした。フランス本土にいる兵士は幸運にも
フランスから若干割高であるが食料を提供され、衛生環境の良い駐留施設を借りることができた。しかしながら、
それ以外においてはかなりイギリス軍に冷たい対応であった。

他にも、船舶を使っての兵員輸送もお世辞にも良いとはいえなかった。
元々イギリスは軍の輸送艦だけでなく徴用した船舶を使って兵員輸送や物資をギリシャやロシアへと持ち込んでいた。
潜水艦による兵站への攻撃が活発して以降は民間からも重用して何とか賄っていたのだが、ここにきての陸軍の大輸送が求められたのだ。
必然的に船舶は、それこそ古い船であろうと人員を詰め込むことをあまり想定していない船さえ動員された。
一応アメリカからレンタルすることもできたのだが、その数も限られていた。こうした輸送船は、Uボートの格好の
得物であった。イギリスも必死に護衛を試みたのだが、実質的に痛み分けであった。

こうして、海の上でも凄惨な戦いが続き、そして運命の時が迫ろうとしていた。
そう、何も船にはヒトやモノばかりのっていたのではなかった。誰にも見えない、小さな悪夢は欧州に上陸しようとしていた……







次話:有為転変6 -And Then There Were None-

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最終更新:2016年11月14日 11:37