514 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:35:15

戦後の戦争というものが新たに生まれたのは、まさにこの瞬間であろう。それは国家と国家ではなく、もっと根源的な戦争だった」
---------サミュエル・モリソン 自著の中で第一次世界大戦に関して

「病は等しく我らの敵である」
---------大日本帝国遣仏軍陸軍部隊指揮官 秋山好古

「ルイジアナ、再びか」
-----アカディア大公国 大公 ルイ・フィリップ5世 欧州でのパンデミックを聞いて一言

「戦いに敗れ、処刑された方がどれだけ幸いであったか。この地獄を見ずに済むならば、先んじて死ぬべきだった」
----ドイツ帝国皇帝 ヴィルヘルム2世 ドイツに広がるパンデミックに対して

「貴様ら、これ以上口をきくな。私の言葉に対して貴様らに許されるの返答は『Yes』か『はい』か『Oui』のどれかだ。
 さもなければ荷物をまとめてここから出ていけ!」
--フランス帝国宰相 ジョルジュ・クレマンソー 講和会議の場において権益を要求するイギリスとアメリカの代表団に向かって




日仏ゲート世界 有為転変6 -And Then There Were None-



始まりとなったのは、イギリスのポーツマス、そしてアメリカのニューヨーク ボストン フィラデルフィアなどであった。
人々や兵士でごった返すその地域では、貧民層を中心に風邪のような病気が俄かに流行の兆しを見せていた。
イギリスはともかくアメリカは金持ちの国に思われるが、第二次世界大戦前の好景気の時でさえ、食事に事欠く人々が多くいた。
国家全体として見れば地上でも破格の国力を持つ国家ではあるが、ミクロレベルでの観測を行えば、そのような貧民層も
存在していた。特にこの世界線においては西海岸の開拓と開発が行われず、西海岸に存在する天然資源を獲得することが
できず、それが巡り巡って国内企業の力の低下を招いており、根強く残る黒人や黄色人種への差別も相まって、明確な
貧富の差がアメリカ社会に横たわっていた。

それらの風邪は通常の風邪であると判断された。風邪の予防が軍内部で口頭命令される程度であり、多くの兵士が
殆ど気にも留めなかった。精々似たような症状を見せた兵士に軍医が栄養を取るように促す程度であった。
イギリスにおいてもほぼ同様であり、食事の内容が栄養を(イギリス式に)考えたメニューにさし変わる以外は、あまり
変化はなかった。それらは欧州各地の一時駐屯地においても同様であった。唯一違ったのはベルギー方面で英米軍の動きを
監視している日仏連合軍とドイツ軍であった。

515 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:36:09
元々日仏連合軍は通常兵力を揃えながら後方支援を整えるだけの余裕と国力があったがためで、むしろ例外であった。
ドイツ軍は、総力戦のメソッドをオーストリアから得ており、さらに前線からの報告を上層へと上げやすくする体制を
予め構築していたというバックグラウンドがあった。つまりこれらの三ヵ国が例外なのであって、英米がそこまで気を
配れなかったのはある意味しょうがないのである。特におっとり刀で参戦した米国にとっては、このような総力戦に関する
情報が末端まできちんと伝達できるのは非常に難しい。

一方で日仏両国はどうかといえば、フランス革命戦争とナポレオン戦争において十分経験済みであったし、日本に至っては
長く続いた戦国時代の中で総力戦というものを既に経験済みであった。それに加えて夢幻会による知識のブーストも日本大陸
持つ国力と合わせれば、他国を抜けるだけの装備や後方支援体制を整えるのは容易であった。

そして、ドイツとは戦争の国である。多くの新兵器を惜しみなく投じるだけでなく、その運用法や国家戦略としての戦争を
長年研究し、それを現実化するだけの下地を構築する能力を持つ国家なのだ。戦術的に勝利しても戦略的に負けることが多いのが
玉に瑕ではあるが、戦術勝利が戦略的勝利に直結しているような状況、例えば今のようなドイツへの攻勢が行われる状況では
この強みが最大限生かされることは間違いない。実際、彼らの努力は紛れもなくドイツ勝利の方向へと動かしつつあった。

そして、季節は巡って12月。
大規模な輸送船団がイギリスやアメリカから到着し、ベルギー地方から一気にドイツへと進軍を開始した。
アメリカの工業力を生かして生産された大量の自動車や飛行船などをフル動員し、戦車や野砲などを揃えてドイツへなだれ込んだ。
ドイツもこれを自国領内に引きつけて万全の体制で迎え撃つ用意を整えていた。古来より、歩兵の数の差は戦術や戦略、
そして迎え撃つ地形や状況によって覆されてきた。スパルタ然り、赤壁の戦い然り、上田合戦然り。

ドイツは東部戦線で実施した遅滞戦術と急きょ増産した野戦砲、さらに飛行船爆撃を組み合わせた全長50キロに及ぶ
防御地帯を米英軍の進路上に構築した。無線機を活用して上空・前線・後方・中継点の立体的な連携を構築し、効果的に敵を
強力な火砲の降り注ぐ地帯へと追い込む構えを見せた。奇しくもそれはフランス軍がドイツ軍に対して見せた連携を
そのまま生かしたものであった。この短期間の間にモルトケはフランスの戦術の神髄に近いところにまで理解していたのだった。
全軍にとはいかないが、浸透突破戦術への理解を深めるための訓練を実施していたし、それへの備えとして有刺鉄線の生産や
通信仲介の為の飛行船の建造も進めていた。この時点で双方が最終決戦を必然的に望んでおり、それはもはや目前であった。

516 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:37:17
しかし、史上最大の作戦となる筈だったこの決戦は、止まってしまった。
始まりは、アントワープに一時駐留していたジョン・パーシング率いるアメリカ欧州派遣軍内での異常の発生だった。
彼らは戦車などを揃えて意気軒昂であり、単純な数としても非常に頼りになるものであった。しかし、その陣地内部に
おいて倒れる人間が続出したのだ。彼らは一様に発熱・喘息・体のだるさ・頭痛などを訴えていた。
それはイギリス本土やブリュッセルに待機していたイギリス陸軍にも見受けられた。作戦の開始を待って準備を整え、
紅茶を楽しんでいた兵士たちが次々と倒れていき、軍としての行動すら危ういレベルにまで落ち込んでいった。
やがて、英米連合軍に見られたものと同じ症状を訴える患者が欧州各地とアメリカで報告され始めた。
それは中立地域であったスペイン、協商に加わっていたイタリアでも、そしてフランスのベルギー地方やオランダ南部でも
風邪に似ながらも非常に重い症状を発する病気にかかる患者が確認されていく。混乱し始めた英米連合軍だったが、
ついには合同作戦司令部へも感染者が確認され、未知の感染症へのパニックからついには指揮能力の喪失というあっては
ならぬ事態へと発展していく。本国との連絡も、そもそも本国での感染者への対処で欧州戦線に構っている暇などなく、
事実上役に立たなくなってしまった。発生源と思われたアントワープとブリュッセルから一文字ずつ取ってAB風邪と
呼ばれたこの風邪は似たような感染者が爆発的に増えていった。

そして、風邪の流行を知らぬながらも、士気が乱れているこの隙を見逃してやるほどドイツ軍は甘くはなかった。
モルトケ率いるモルトケ師団(およそ3万人)が先頭を切って、前衛に10個師団以上を配置していた英米連合軍に対して
速度と浸透突破戦術への理解で勝った状態で突っ込み、瞬く間に前衛の防衛線に風穴を開けた。そしてこの風穴めがけ、
モルトケ師団の後方にぴったり張り付いて前進してきていた本隊が一気に突っ込む。混乱が収まった無事だった師団が
ドイツ帝国本体の側面若しくは後方に回り込もうとしたが、とっくにそれは対策済みであった。機動力が低いとみなされていた
部隊が時間差で到着し、無事だった英米連合陸軍の横っ面を殴りつけたのだ。
この最後の戦闘、後の「カイザー・シュラハト」と呼ばれるミヒャエル作戦は、ドイツ軍18個師団前後と英米連合
陸軍25個師団(後方支援と予備5個師団)のぶつかり合いで、英米連合陸軍側がそのおよそ半数を失い、前線へと
運び込んでいた大量の戦車や兵器を失いながら撤退する羽目になった。無論、破れかぶれにドイツ軍に反撃を試みる
英米連合陸軍であったが、モルトケ率いる前衛がこれを受け止め、自らの大損害と引き換えに後退していく本隊への
追撃を防ぎ切った。こうして実質的な主力がすりつぶされ、混乱に陥った英米連合軍は後退を決断した。というか、
もはや指揮系統もなにもが崩壊寸前で、各師団が『高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に行動する』必要に迫られていた。
そんな彼らが病魔に悩まされている中選べたのは撤退でしかなかった。しかし、国境沿いまで一気に押し返したドイツ陸軍が
目撃したのは病に倒れた兵士たちが、本国とのとれぬ連絡に悲嘆する姿であった。これの報告を受けたドイツ帝国陸軍は
一方的ながらも停戦を宣言。フランスを仲介役としてアメリカやイギリスに連絡を取って戦闘の一時停戦を申し出て、
同地域における防疫活動に従事を始めた。

517 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:39:06
フランスの仲介によって、イギリスもアメリカも停戦に応じることになった。
どちらも国内の患者への対処でいっぱいいっぱいだったし、その中で戦争を続けるなど正気の沙汰ではない。
未曽有の風邪のパンデミックにより停戦した各国だが、すぐさま動けたわけではなかった。イギリスは陸軍の多くが
感染してしまっていたために最前線に振り分ける兵士を新たに招集する必要があったし、アメリカも対岸の火事と傍観
できるわけもなく、ニューヨーク港などの衛生環境を立て直すために追加で予算承認や新たな兵士の招集を行うことになった。
参戦を決めたウィルソン大統領は議会からの嫌味や追及の声を黙って受け入れざるを得ず、次の大統領選挙での落選が
ほぼ確実となってしまった。これが後にアメリカの国際連盟への加盟が遅れた理由ともなり、ひいては国際調停機関の
信頼性の低下にもつながったのだが、ここでは些細な問題である。

「ボーイズの血を流し、おまけに病気を見過ごしていた」
「モンロー主義への回帰を」
「戦争は欧州だけの出来事だ」

重要なのは、ウィルソン大統領の戦争指導能力はおろか、平時の施政能力さえも疑われてしまったことだった。
国内経済はこのパンデミックと『ウィルソンの大失策』によって講和さえ纏まらぬうちに早すぎる戦後不景気に突入。
政権の支持率の急降下と相まって株価も乱高下。アメリカ合衆国の国債の価格もフリーフォールとなり、幾人もの投資家が
紐無しバンジーを開始してしまった。この市場の混乱でいくつも会社がつぶれたり倒産の危機に陥ったりした。
さらにこの混乱は必要となる医療や衛生管理に関する会社へも波及してしまい、アメリカ国内は未曽有のパニックとなりつつあった。
欧州との交易をおこなう貿易商なども感染症を持ち込みかねないということで事実上の開店休業に追い込まれていたし、
感染者が感染拡大阻止のために暫く欧州から帰ってこれないというのも、兵士たちの家族の不安を煽っていた。

この時の混乱はアメリカにいた欧州系の移民の間にも波及した。
アメリカでは伝染病が久しく起きていなかったが、それでも病気がアメリカ東海岸を中心に確認されたと理解できれば、
そこから逃げようと考えるのが自然であった。「欧州での戦争」と文字通り対岸の火事と静観を決め込んでいた
アメリカ国民にとってはショックが大きすぎたのか、一部には何とアカディア大公国への逃避を試みる者もあらわれ、
さらにはアメリカ政府もアカディア大公国への避難を許可するように要請した。アカディア大公国はこの事態に対して
東部からの移民を国境から国内に殆ど通さない措置をとった。軍まで動員して、あらゆるルートから国内への入国を
試みる人間を拘束したのだった。

当然アメリカ合衆国は非難の声を上げたのだが、対するアカディア大公国も毅然と反論する。
アカディア大公国はフランス帝国連邦に名を連ねる国家ではあるが、経済的な意味ではむしろ大日本帝国の傘下にあった。
元々アカディア大公国建国の際に食糧支援やインフラ整備などに力を貸したのが大日本帝国であり、本国との距離が
パナマ運河開通まで時間がかかっていたこともあって、日本大陸との貿易はかなり活発だった。つまり、裏を返せば、
安全な後方地帯として欧州のAB風邪への対処を支える大日本帝国に、アカディア大公国を経由して風邪の持ち込みが
起こる可能性があるのだ。もともとペストなどの流行させたという罪を擦り付けられた経験を持つアカディア大公国に
とっては、自分たちの領域に再び危険な病気を持ち込まれるなどたまったものではないし、国家成立の源流の一つでもある
大日本帝国に自分たちのせいで病気を持ち込むなどできるはずもなかった。

「アメリカ人は疫病を第二の祖国に持ち込もうとしている」

それだけで、アカディア人にとって反発するに値する理由であった。

518 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:40:26
一時、アメリカ西部の州が展開した州軍とアカディア大公国陸軍がにらみ合いとなったのだが、アメリカ側が折れることで
アカディア大公国への市民の避難を一時見合わせることで決着した。その代わりに、アメリカ合衆国内での感染拡大阻止のために
必要な物資をアカディア大公国が日本から取り寄せて提供することが決定した。

欧州ではフランスと日本が合同でベルギー地方の西側からの封鎖を担当し、東側からフランスと日本から提供された防疫装備に
身を固めたドイツ軍が担当することで、なんとかダンケルクよりフランス側に感染者を広げることを阻止することに
成功した。フランスの整備していたダンケルク要塞を活用した防疫線は非常に有効であった。
人からの人への感染が疑われたために、人の出入りを制限したり、物資投下を車両ではなく飛行船や飛行機を利用する、
マスクや衣服の処理を行う際には焼却滅菌を行う、手洗いうがいを行うなど具体策を打ち出していった。
この初期対応の素早さは、元々『フランクフルトの和約』において冬季を控えたドイツへの日本からの医療品や食料の
提供を行うことなどを予め取り決めていたことが原動力となっていた。

しかし、決戦のために集まっていた兵士たちを中心に多くの死者が出たのは確かだった。
高貴ゆえの務め(ノブリス・オブリージュ)を果たすべく従軍していた貴族の子弟の多くが感染して死亡し、さらに
元々栄養状態が良いとは言えない末端の兵士たちの間で爆発的に流行した。また、感染しても発症しないままキャリアーとなる
人間もいたために、迂闊な感染地域での移動すらはばかられた。
同時に、隔離地域内の人間を民間人を含め、それこそ病に弱い子供や老人も含めた人間への食糧や医療品の配給を滞りなく
おこなう上においてとてつもない障害となっていた。折しも季節は12月を迎えようとする頃。雪が降れば湿度は上昇
するだろうが、気温の低下は体力と体温を奪い、降雪による移動速度の低下も引き起こされることが予測された。
平時の風邪でさえ対処が難しかった時代である。まして、栄養という観念が現代よりも知識がない状況だったために
どの国も対応が遅れた。

そのため急遽日本では毛布や仮設住居建設のための資材を集め始めた。クリスマス休戦に備えていたことが幸いし、
日本にはかなりの消費物資が用意されていた。元々日本の人口も生産能力も下手な欧州の国々よりも高い。フル生産していた
それらは急遽ゲートを介して欧州へと運び込まれた。この時代のゲートは、初期の20m×30mの大きさから拡大しており、
概ね70m×70mほどにまで大きくなっていた。このゲートが大きくなっていくことは日仏でもなぜ大きくなったのかという議論が
交わされたが、やはり未知の分野が多く、別に大きくなったからと言って害があるわけでもないので、半ば放置されていた。
特にこの事態においては物資をいち早く運ぶ必要があったし、ゲートを介して感染症が日本に広がれば今度はアジア圏でも
パンデミックが発生する。日本という一大生産地を風邪から守ることはごく自然な目標となった。

岐阜の街はゲートを中心とした地域が急遽人の出入りが制限された。
これまでの日仏合同の調査で、ゲートは空気の移動が行われていることが分かっていた。もし空気感染ならば、そしてオルレアン
にまで広がっているならば、勝手に日本にも入ってくる可能性があることが懸念された。オルレアンに関しても同様で、
1日3回以上の消毒や町の清掃 移動制限などが義務付けられ、多くの人々が不安な毎日を送る羽目になった。

ドイツ帝国側にも感染者が出ていた。元々感染者が出ていた英米連合軍の陣地へと踏み込んだのだから、感染者が出ない方が
むしろおかしい。しかし、潜伏期間がそれなりに長く発症するまでに人と接触する機会がいくらか生じてしまったことから、
ドイツ帝国の国民にも似たような症状が現れ始めていた。肺にまでウィルスが及んだ患者は呼吸すらままならないレベルで
苦しみ、気管支炎や肺炎にまで発展し命を落としていった。一時期士気が崩壊しかけたのだが、ドイツ陸軍司令官の
ヴィルヘルム皇太子が自ら前線に赴いて兵士たちを鼓舞。なんとか統制を保っていた。

519 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:41:59
さて、その感染症対策が行われている最中にも、戦争を終わらせる外交戦争は続いていた。
客観的に見て、ドイツの判定勝ちというべきであった。しかし裏返せば、パンデミックによってイギリスとアメリカが
ドイツに止めを刺し損ねたための敗北でもあり、別にドイツがイギリスやロシア アメリカに対して確定的な勝利をおさめた
わけでもなかった。もし戦争が再開されれば控えめに見ても敗北するのはドイツの方である。イギリスにとって戦争再開など
戦後のことを考えた場合とらない方がよい選択肢ではあるが、イギリスはそこを交渉カードとする構えだった。

また、ドイツはドイツでオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告して戦争を行っているし、元々ドイツが同盟を組んでいた
オスマン帝国はブルガリアなどと共に同盟から離脱して独自勢力としてロシアなどと講和していた。そして日仏同盟が
短いながらもドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国と戦争状態にあり、これも独自に講和を行っていた。
そしてロシア帝国はソビエト連邦とロシア帝国亡命政府に分裂しており、事実上英露協商は崩壊状態にあった。ロシア帝国としても
これ以上の派兵には賛成しないし、そもそもモスクワは現在ソ連の制圧かにあり、欧州に軍を派遣など夢のまた夢だった。
イタリアも参戦国であるのか中立国であるのか微妙なラインに立っている。そして、アメリカもイギリスもフランスも
ドイツも、誰もが風邪への対処に追われていた。

複雑な状況の下で始まった戦争は、複雑な経過をたどったがために、その決着さえも複雑であった。
スイスに集まった各国の代表たちであったが、なんとも会議は進行しなかった。いや、会議は進んでいるのだが複雑すぎる
事情故にこなすべき会議や話し合いが多く、進んでいるように見えないのだった。

そして協商以外の国にとって噴飯物だったのが、イギリスの外交であった。
フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言の2つが、オスマン帝国が敗戦国でも戦勝国でもないことから非常に扱いに困った。
イギリスにとってはなかったことにしたいのだが、資金や助力を得ていた手前、そしてAB風邪対策で現在進行形で
支援を受けていることからひっこめられなくなっていた。この協定などについてオスマン帝国と懇意にあったフランスと
日本に追及を受け、イギリスはどうにもならなくなった。元々ロスチャイルド家などユダヤ系から得ていた資金は
国力が史実よりも減退していたこともあってかなりの額に及んでいた。今さら踏み倒すなどできないし、かといってユダヤ人の
パレスチナにおける居住地を力押しで作るなど不可能だった。そもそも、オスマン帝国がエジプトやギリシャなどをパージ
しながらも極めて健在であることも、イギリスにとっての想定外もいいところであった。戦争で疲弊させるつもりだった当てが外れ、
おまけにオスマン帝国内の独立派のアラブ人たちが自分たちの訴えを取り下げたためだ。元々オスマン帝国も国内の独立を
求めるアラブ人の動きについては十分認知していたので、別に独立を求められても構わないという考えが強かった。
まあ、急進派というのは何処にでもいるもので、イギリスが支援を約束した急進派は戦争がイギリスの勝利に終わらなかったことを
理由として、イギリスとの約束をなかったことにした。

520 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:43:02
もとより、アリーはメッカの太守を任されながらもメッカにつながる鉄道を破壊してしまったという事実から、イスラム教圏での
支持を急速に失っていたのだ。オスマン帝国が手を下さなくとも、自然とその地位を追い出されるか、暗殺されるかは
明らかであった。否、下手をすればアリーに対するジハードさえ起こりかねない事態だったのだ。
アラブ系のコミュニティにもイギリスに一杯食わされた、という認識が広まりイギリスへの不信感が生まれていった。
というか、イギリスが破壊をそそのかしたという事実はアラブ人側にも『偶然』伝わってしまった。

この事実をフランスからそれとなく知らされたイギリスは一時恐慌状態となった。
聖戦、ジハードはリアルでアサシンがやってくる。現代においてもイスラム教過激派のテロ行為はとどまることを知らない。
元々砂漠という過酷な環境で培われた闘争的な気質故に作られたイスラム教という宗教は、敵対者に容赦をしない気質だ。
下手をすれば中東とイギリスの間で戦争となりかねない。そうでなくても、イギリスに刃を向けることをためらわないだろう。

結局のところ、イギリスがオスマン帝国に頭を下げる形で、オスマン帝国が国内にユダヤ人の入植地、事実上のユダヤ人国家を
建設することで決着をつけた。場所に関しても彼らの聖地であるエルサレムに建国することが承認された。
このユダヤ共和国は、暫くの間はオスマン帝国の管理の下で、フランスと日本の支援を受けるという形になった。
幸い、オスマンから切り離されなかったことで外交貿易の重要性が史実ほど高まることもなく、ユダヤ人とアラブ人の
ぶつかり合いもかなり減っていた。イギリスに見切りをつけ始めていたアラブ人は、結局オスマン帝国に帰属することを選んだのだ。
ユダヤ人たちにとっても念願のエルサレムへの建国が認められたわけであるし、いくつかの条件、例えばユダヤ教以外への
迫害や攻撃などを行わず、キリスト教徒やイスラム教徒が巡礼などをこなうのを認めるなどの条件を付けられたが、
そこに関しても当然妥協できるレベルだった。念のためという形でオスマン帝国の警備が入ってはいたが、半ばポーズだった。

一部のアラブ人は外貨獲得のためアウスタリ大公国やアフリカ・フランセーズへの移民を開始して開拓や開発に従事するようになった。
オスマンにしろ、アウスタリ大公国にしろ、アフリカ・フランセーズにしろ宗教の自由は認められていたし、皇帝や大公を
頂点とした宗教の連絡・管理体制が出来上がっていたことから、宗教的なぶつかり合いに発展するのはまれだった。
もっと言えば、イギリスに利用されるのは勘弁ならないとアラブ人たちが考えたことも大きいだろう。
その点で言えば、フランスはフェアに扱ってくれる大国だった。イギリスとは異なり約束を守ると安心できた。

この汗かき分をイギリスは分割払いでオスマン帝国とフランスに資金を払う羽目になった。結局アラブ人の国家建設は流れていった。
アリーは太守の地位を追われ、自らが破壊した鉄道の復旧を行う羽目になった。文字通り、自らの手で。
史実ではアラビアのロレンスと言われたトーマス・ロレンスも軍人としての身分を奪われ、この工事に一労働者として従事した。
さらにこの工事の費用はイギリスとヒジャーズ王国に賛同した人々の資産からまかなわれた。

なお、史実において結ばれたフサイン=マクマホン協定は存在していない。オスマン帝国が健在であるし、そもそもフランスは
オスマン帝国の領内に存在する土地をどうこうするのにイギリスやロシアなどと手を組む必要がなかったためだ。

521 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:44:47
さて、問題となったのがどちらかといえば一応の敗戦国であるドイツ帝国の扱いだ。
敗戦国とは断言できず、パンデミックの直接の原因ではなく、かといって無関係とも言い切れない。
オーストリア=ハンガリー帝国への身内の背中を刺すような行為は国際的にも問題ありと言えなくもない。
はっきり言えば、責任を負うことが出来るのははっきり言えばドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国しかなかった。
この時にはアメリカとイギリスが感染源であったというのは明確な証拠がなく、かといってどの国が責任を負うかが
どうにも定まらなかった。何しろ引き分けに近い終戦なのだから。長い議論の末にようやくまとまったのが以下のようなものだった。

  • ドイツ皇帝の退位と連邦共和制への移行
  • ドイツ帝国及びオーストリア帝国および両国皇室からAB風邪の対策費の捻出(事実上の賠償金)
  • オーストリアおよびドイツにおける一定の軍備制限(装備の開発や船舶などの保有制限)
  • ドイツの持つ海外利権の売却及び艦艇の譲渡
  • オーストリア=ハンガリー二重帝国の解消

これによって明確な君主としてのドイツ帝国は終焉を迎えることになった。皇帝の資産はAB風邪の対策費用として使われる
ことが決まり、動かすことができない固定資産や美術品などについては美術館や公共施設へと転用することで皇帝の手を離れた。
皇帝自身の処刑についても取りざたされたのだが、流石に命を奪うことまでするのはどうかという反論があった。
そこで一種の凌遅刑(死刑を望む人間を敢えて処刑しない刑罰)ということにして、ヴィルヘルム2世は退位の上で
謹慎ということで何とか決着を見た。建前的には『死刑にしない方が死刑にするよりも酷な刑である』という理由で。
これもヴィルヘルム2世が「必要であるならばこの命は差し出そう」と述べたことをきっかけとしていた。
まさにスケープゴートに近い形であるが、ドイツが行った行動(オーストリア懲罰戦争、ストラスブール事件への対処の甘さ、
オーストリア=ハンガリー帝国の管理の甘さ)についての責任を負えるのは彼しかいなかったのだ。

またオーストリア=ハンガリー帝国に関しても二重帝国状態の解消を目的に新たにオーストリアとハンガリーに分割される
ことになった。元々オスマン帝国やドイツ帝国にとっては日仏の参戦を最悪の形で招いた元凶だ。協商も同盟も、
そしてオスマン帝国を筆頭とする中央同盟も庇う義理など持ち合わせていなかった。斯くしてカール1世の反対も
押し切られる形でハプスブルク家によるオーストリア=ハンガリー帝国は発行された書面一枚であっけなく崩壊し、
オーストリア共和国とハンガリー共和国が成立することが確定した。ここでついに欧州で長く続いていたハプスブルクの
治世は終わりを告げた。さらにカール1世についてはオーストリアに処分はまかされたのだが、あれよあれよという間に
死刑が宣告されて、すぐに処刑されてしまった。オーストリアもまたスケープゴートを必要としていたようだった。

  • ドナウ連邦の成立(および関係地域における帰属先を決める住人投票の実施)
  • ポーランド復活
  • オスマン帝国領内にユダヤ人国家建国の承認とその支援
  • 飛び地及び国境線の整理(個別交渉)
  • 中立国への各国による被害の賠償

そのほかに以上のような提案がなされ、承認を受けた。
ドナウ連邦はオーストリア=ハンガリー帝国に代わる多民族国家として成立した。範囲は史実のチェコスロバキア ハンガリー
クロアチアなどが含まれており、セルビアとオーストリアを除くドナウ川に接する地域が自治州としてまとまって形成された。
オーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア共和国となり、戦争でガタガタになった国内経済と不安定な政治状態のまま、
戦後の賠償を支払う必要に迫られた。不履行など誰もが認めるはずもない。しかし、生産階級が軒並み兵役についており、
有力な指導者がおらず、さらには海外の資本からも嫌われたオーストリアはその後は嘗ての栄光のかけらのみを抱え、
生きて恥をさらし続けることになった。そう、オーストリアに残された価値は、欧州の緩衝地帯としての『空間』しかなかった。

522 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:45:46
また、今回の大戦における被害の大きさから毒ガスや病原菌を用いた生物兵器の使用・開発制限が新たに設けられた。
ペストの再来とも呼べるこのパンデミックは、各国に改めて病気の恐ろしさを知らしめたし、人間の知恵がそれを人為的に
コントロール可能なレベルにまで発達している事実を突きつける結果となった。ガス兵器などはその被害の広さと処理の
困難さが取りざたされ、市街地への影響力の大きさが各国が共通して懸念するものとなったのだ。これらの、賠償や国境の
再制定を含む戦後体制の確立は、春を目前に控えた1918年3月23日に慌ただしくも締結。調印の場所にはドイツ帝国の
ミュンヘンが選ばれ、ニンフェンブルク宮殿にて調印がなされた。この調印の場所であるニンフェンブルクから
とってこの条約は一般にニンフェンブルク条約と呼ばれるようになり、この条約以降のドイツとオーストリアなどの地域に
おける戦後体制をさして「ニンフェンブルク体制」と後に呼ばれることになる。

斯くして、大戦は終結した。

しかし、これですべてが決着したわけではなかった。
同時期に似たような、しかし異なる感染症が欧州を席巻。後の分析でH1N1型のインフルエンザウィルスによって
引き起こされた感染症通称『スペイン風邪』の流行である。元々流行していたAB風邪と同時に当時の参戦国すべてに襲い掛かった。
この同時期に発生したパンデミックはAB風邪の包囲網を一時危うくするほどのものとなった。後の調査で、WW1における
戦死者以上の死者をAB風邪とともに叩き出したことが判明した。

さらに、希土戦争が勃発した。オスマン帝国とギリシャの間で起こったこの戦争はギリシャを通じてイギリスが日仏との間で
行った代理戦争の一つとも言われる。この戦いをきっかけにオスマン帝国とギリシャの関係は悪化の一途をたどり、
後の第二次世界大戦時における激しいぶつかり合いへと繋がっていくことになった。

また、ウクライナにおいて共産主義革命を標榜するウクライナ社会主義共和国と、レナ川以東に成立しつつあった
ロシア亡命帝国との関係維持を行っていた当時のウクライナ人民共和国との間で内戦が勃発した。
ソ連による援助が疑われたがソ連は暴力的な革命を行うウクライナ社会主義共和国を否定。ロシア帝国亡命政府を史実する
日本とフランスが軍民双方での支援を行ったことにより、ウクライナ人民共和国側が勝利した。このウクライナ赤軍の
活動はウクライナ内戦後にも続いており、全ての構成員の拘束乃至死亡が確認されたのは第二次世界大戦が終結した
後の1950年代を待たなければならなかった。

他にも、オーストリア=ハンガリー帝国の解体後にハプスブルク家への支援者やオーストリア=ハンガリー帝国の再興を謳う
過激派による事件がオーストリアおよびハンガリーなどで発生した。これもかなり根深い活動を続けているようであった。
いまだに残るオーストリア憂国騎士団の残党を名乗る勢力が取りまとめ役となっているらしく、オーストリア人に対する
不信感がドイツ連邦共和国には残り続けていた。第二次世界大戦が迫る緊迫した国際情勢の中ドイツの取りまとめを
オーストリア出身でありながら、圧倒的な支持率の元で行ったアドルフ・ヒトラー首相は「漸進的に対処する」と述べるに
留めた。彼が同郷のオーストリア憂国騎士団に何を思っていたのかは、現在でも証言や物証が発見されていない。
あるいは、元々ヒトラー首相が述べなかったとする説もあるが、推測の域を出ていない。

523 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:46:51
セルビアは独立を勝ち取った後はセルビア人の国家として、立憲君主制をとったもののドイツ帝国という後発ながらも
列強の支援を失ったことで経済的・軍事的な孤立状況にあった。元々第一次世界大戦の引き金を引いた国であり、
民族自決の考えが広まりつつあったセルビアを統治するのは難しいと判断したドイツ帝国はオーストリアを動かして独立を認めた。
しかし、セルビアは『一人で勝手に独立した』という認識を持たれた。嘗ての支援国であったロシア帝国は東の彼方に存在し、
ソ連もセルビアへの支援は「考慮する」と表明するにとどめていた。この結果、扱いにくい国であるという評価を列強から
受けたことで、ドイツとセルビアにほど近いオスマン帝国、さらにその背後の日仏独の反感を買わないために周辺国は
セルビアを放置する動きに出た。ドナウ連邦もこれに倣っており、ようやく得た支援者はイギリスであった。
そのイギリスもイギリスで大戦時の被害の大きさやAB風邪への対処、さらにオスマン帝国への支払いなどを行う必要があり、
積極的な支援が行われたとは言い難かった。こうしてセルビアは孤立状態に陥り、貧すれば鈍するを絵に描いたように
国内情勢が大きく荒れてしまった。ここに追い打ちをかけたのが、条約で定められた軍備制限とドナウ連邦成立の
支援金(という名の賠償金)であった。軍備についてはまだよい。そもそも、軍人となる人間がないのだ。しかしこの支援金は大きく削られた領土内で得るには非常に厳しいものだった。故に、国内の混乱は続いた。これが収まるのは、
後にソ連さえも認めた社会主義実践者であるチトーの登場によるセルビアを含んだ東欧の安定化が行われる1960年代以降を
待たねばならなかった。

あとに残されたのは、僅かばかりの権益と、多くの死傷者や病人ばかりとなった。



大地は荒れ果て、人々は病魔におびえながら、安全な地域に身を寄せ合うようにして生きていた。

                            • そして、それでもなお、戦いの火種は尽きることはなかった。



  • 終幕-

524 :弥次郎@帰省中:2016/07/13(水) 18:48:00 以上となります。wiki転載はご自由にどうぞ。

これにて第一次世界大戦は終結となります。
まあ、戦争ってのはろくな結果になりませんな(戦後生まれ並感

フランスの立場が一つ違うだけでかなり史実と剥離しましたが、結果誰も得をしなかったという何ともむなしい結果に。
お気づきの方もいると思いますが、この作品『日仏ゲート世界 有為転変』のサブタイトルはアーマードコア4のチャプターの
タイトルから引用しました。『And Then There Were None』、即ち「この戦争の勝利者など誰もいなくなってしまった」
というわけですね。AC4においても、アナトリアとアスピナは繁栄を手に入れながらも滅び、地球上には深刻なコジマ汚染が
残るだけとなってしまいました。そして最後のミッション名が『悪意の大地に種をまく』。正しくこの一連の作品の
タイトルにもってこいであると私は考えました。結局多くの血が流れただけで、新たな争いの火種が欧州から世界中に
拡散して終わったこの戦争は、書き手である私自身やるせない感情に支配されることになりました。
誰もかれもが必死になって戦い、しかし、それは全て無に帰してしまう。あとに残ったのはとてつもない虚無感だけです。
大きな感情の空白と言えるかもしれません。いずれにせよ、ろくでもない結果なことに変わりはありません。

しかし、ここから新たな希望も芽生え始めていることは確かであります。ソ連は史実と異なる体制を構築し、ドイツも
オスマンも疲弊しながらも新たな世代へと引き継ぎを行っていこうとしていきます。日本もフランスも、次に起こるであろう
新たな戦いに備え、準備を続けていきます。丁度この第一次世界大戦と第二次大戦の戦間期に、夢幻会は世代交代を
行うことになるでしょう。この戦争を駆け抜けた夢幻会が一体何を思うのかは、私の語ることができる物ではありません。

あとは戦後のあれこれをより詳しく書く感じでこのシリーズは終わりでしょうねー…
現在ユトランド沖海戦の模様を3割くらい書き上げてますので、次はそれで。
ついでにニンフェンブルク条約の内容も纏め上げたいと思います、出来る範疇で。
日仏世界もまだまだ続きます。まだやりたいことありますしね。

最後は、このシリーズを書くにあたり影響された言葉を書いて終わろうと思います。

「これは『荒地に種を撒く話だ』と宮崎英高ディレクターは私に語りました。
世界は悪意に満ち、不幸である。でも、だからといってあきらめてないで次の時代の種を撒こう
というのがAC4、ACfAのテーマであり、世界観です。」

---------鍋島俊文 (ニコニコ大百科 単語記事『不明な提督が着任されました』から引用・一部変更)

推奨エンディング:ttps://www.youtube.com/watch?v=1_swd8ioRgE


作者:弥次郎
サブタイトル引用元:アーマードコア4
協賛:夢幻会
原作:earth氏『提督たちの憂鬱』 『日本大陸を考察・ネタスレ』
アドバイザー(順不同 コテハンの方 敬称含み)
:ひゅうが氏 ooi氏 霧の咆哮氏 トゥ!ヘァ!氏 リラックス氏 ナイ神父Mk-2氏 ham氏
 ハニワ一号氏 New氏 同志岡田真澄氏 And you!

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最終更新:2016年10月26日 11:34