328 :弥次郎:2016/04/21(木) 13:00:40
大陸日本世界 日仏ゲート世界 マリーのパン


史実世界において、マリー・アントワネットの名言(迷言?)として
「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」
というものがある。
よく一般市民の困窮を知らない実情を表した言葉であり、度々彼女を非難するために引き合いに出される。
しかし、この言葉は意訳というか日本語訳の過程で文言が削られた言葉である。

「(一等小麦を使って作る)パンが無ければ、(二等小麦を使って作る)お菓子を食べればいいじゃない」

これが本来の言葉に近いとされる。日本的に言えば「白米が無ければ玄米を食べろ」という感じだろうか。
因みにだが栄養学的には玄米は脚気などを防ぐことができるので白米以上に優秀であるので、一概には悪いとは言えない。
むしろ、栄養を副食で補えないほど困窮している家庭ほど、主食で補う方が望ましい。

話を戻そう。2つのフランス革命、革命派と国王派の双方が始めた革命は一時期フランスを混乱させた。
一応国王派のフランス改革(革命との同一視を避けるためにこう呼ばれた)は国軍の指揮系統をきっちり維持しており、
各地で起こった反乱に対応ができたし、侵攻軍にも日本や植民地からの増援を得て払いのけた。

しかし、その中で食料不足というのは明確にあった。というのも、当時フランス軍は正規兵の他に植民地と日本からの
義勇兵に加え、市民や貴族自らが武器をとって戦った。しかしそれは同時に、フランスが持っていた食料供給能力を
超える兵士がフランスに現れたということである。膨大な量の食料が必要となったのだ。確かに日本は食料を持ち込んだが、
国王派を丸ごと補えるほど大量に持ち込んだわけではない。また、日本も民間人への食糧供出をしようとしても主食としていたのは
米が中心であり、提供しても日系フランス人を除けばあまり受け入れられるものではなかった。麦も栽培されては
いたのだが、
その生産地は北海道などゲートのある場所から見て遠隔地が中心。急遽集めるにしても相応に時間はかかる。
間が悪いことに、夏の間に降水量が多い大陸日本では麦の栽培が限定されていたし、革命戦争の勃発が7月であったため
フランスにしても日本にしてもようやく秋まき小麦の準備が進められているころだった。

事情を悪化させたのは、各地の反改革軍が略奪を行い、外国からの介入軍もまた現地調達を行ったことにある。
一部においては一時的に町を占拠しており、食料不足に拍車をかけていた。ここには国防軍が急行して解放し、
食糧支援を行わなければならないほど困窮していた。どうやら諸外国勢力は、ラキ火山の噴火以来凶作の続く本国の畑
を見限り、物資が豊富(と思われる)フランスでの『収穫』をアテにしていたようだ。まあ、戦って奪わねば飢える
とわかっている軍は死力を尽くすし、あながち間違いではない。日本でもその手の方法をとる大名がいなかったわけではないのだが。

また、米の調理には水が大量に必要だった。しかしこの戦乱状態においてあまり井戸水や川の水は信用できるものではなかった。
噂レベルだが、毒薬がまかれているとの情報が入ったのだ。一応確認をしながら使ってはいるが、何時投げ込まれるかは
分からないし、貴重な水をむざむざ大量に消費するのも惜しい。こればかりは日本から持ち込むのは難しかった。
比重1の水はそれだけ重い。運搬するのもかなり時間がかかる。なまじ日本式の入浴習慣やトイレが流行っていただけに
水の消費量は大きく、水源への依存度も大きかった。反改革軍は、というか過激な革命勢力はうまくフランスの弱点を
ついていると言える。また、川から遠いところにおいては水不足に陥る確率が高い。日本から輸入された雨水を集めて
ろ過し飲み水とする装置もあったのだが、それもキャパシティーぎりぎりだった。

329 :弥次郎:2016/04/21(木) 13:01:34
そんな状況を打破したのが、他でもないマリー・アントワネットだった。
史実同様にオーストリアから嫁いできた彼女は、日本料理を取り入れたフランス料理に惚れこんでおり、立派にフランスの
生活を謳歌していた。日本の芸術品へのあこがれも強く、史実同様に結構散財したのだが、史実と異なりあちらこちらへと
戦争を仕掛けずにいた(※1)フランスの財政は健全そのものであり、むしろ適度に王室の財産が市井に流れ、彼女に倣った
ファッションが日仏双方で流行するなど良い方向へと転がっていた。

彼女は国王と貴族のために備蓄されていた食料の多くを市民へ向けて解放したのだ。
勿論、全部差し出したというわけではない。しかし、王室が抱える食料備蓄というのは存外馬鹿にならない。
元より国家のすべてを握る王家までが貧乏になっても、会計上は大赤字になった王家など欧州では珍しくもないが、
少なくともそこらの貴族や庶民などに負けるほど貧乏なわけではない。そもそも王家として成り上がるまでには相応の
時間と労力が必要だし、その過程で多くの財産や利権を抱えるようになるのだ。別に彼らは何の苦労もなく王となった
わけではない。貴族が貴族たるのは、そして王家が王家たるのは彼らしか持ちえないものを使って世の中を
渡ってきたゆえなのだ。その為、少なくともパリとその周辺の都市において食量の余裕が生まれた。

そして、彼女は日本側に注文を送ったのだ。曰く「米を使った保存のきくパンを作れ」と。
代金はもちろん、彼女のへそくりと王室の予算から払われた。幸い、日本にはフランス経由でパン酵母が
もたらされていたために、少なくはない量が製造されていた。日本へと渡ったフランス人はパンを所望することも多かったし、
アンパンなどの形で日本人向けの物も誕生していたため絶対量は米には劣るとはいえ、人を増員すれば大量生産可能だった。
また、日本大陸においてはいわゆる古米・古古米を備蓄食料や貧民向けのものとして大量に備蓄していたので、
それらも使えば必要な分の米は賄えるのだ。

このアイディア自体は、彼女が日本から読んだパティシエから聞いたものだった。
米を主食とするだけでなく製粉して菓子とすることもある、と。そして彼女は食べやすくした煎餅……というか、米を
材料としたクラッカーを楽しんだのだ。彼女の味覚には十分にあっていたし、米であると知らなければひょっとすると
気が付かないかもしれないとも考えた。そしてこのクラッカーは玄米を使用したもので、香ばしさがあり、尚且つ
脚気対策のために使われることもある長期保存食料だった(※2)。

このアイディアはすぐさまゲートを通じて日本へと持ち替えられ、大々的な生産が開始された。
もとより同盟国のフランスが戦争状態にあったため、日本もまた戦時体制だったこともあり、国内のパン業者は急遽
人員を増やして量産体制に入った。幸い、産業革命によるパンの生産ラインは結構機械化が進んでおり、そのラインを
麦ではなく米粉を使ったものへと調整するだけで済んだ。また、日本国内にあるボイラーの廃熱や温泉などを利用して
作られた温室内で育てられた果物からジャムなども作られ、ゲートを通じて輸出された。その量はすさまじく、義勇兵だけでなく
一般市民に向けても配給された(※3)。それらは保存がきくように塩が多めに使われた物であったり、クラッカーの
ように焼き上げて保存がきくものだったりした。それらのレシピは100近くに上るとされ、今なおフランスの家庭の味
として伝わり続けている。

330 :弥次郎:2016/04/21(木) 13:02:59
この際、彼女は自ら各地に赴いて兵士を鼓舞し、略奪から逃れてきた市民を慰撫し、慰めて回った。
さらには彼女は宮廷料理人も各地の訪問に際して連れて行き、革命を巡る戦乱におびえる人々に癒しをもたらし、
「お高く留まった王妃」ではなく「ルイ16世に相応しい王妃」として改めて評価を受けることになった。
彼女が各地で配って回った米粉を焼いて作ったパンはいつしか「マリーのパン」と呼び名がつけられ、その後の
フランスにおいても一定の支持を受けるようになった。
残念ながら地中海に面した一部の地域でしか水稲の栽培は不可能だったのだが、それでも現地の特産物となるほどにまで
生産は拡大された。少なくとも、麦に依存しきった大勢は改善されたのは良いことだろう。品種改良を重ねており、
現代においては製パン向けに改良された稲がフランス本土やアフリカ植民地の一部でも栽培されるようになっていた。

革命戦争(※4)が終結後、彼女はルイ=ジョゼフ・ド・フランスと共に日本へとゲートを通じて出発。
戦争後の後片付けに忙殺されていたルイ16世の名代として、幕府将軍や帝に謁見。祖国の危機に協力してくれた
日本に対して謝辞を述べた。彼女はおよそ7か月間日本へと滞在。日本各地を歴訪し、日本人との交流を深めた。
ここには日本との関係性を深めておきたかったフランス側の意思も働いていたのだが、フランスの意図以上に日本人に
対して彼女の人気が出てしまった。もとより、日本においては女性の英傑・英雄への信仰が存在する。
瀬戸内海のジャンヌダルクこと鶴姫、木曽義仲との別れをした巴御前、頼朝の死後に武士をまとめ上げた北条政子などなど、
逸話や伝説には事欠かない。彼女のわが身を顧みぬ行動は、それらと並んで評されたのだ。

ちなみに今日において日本に残るマリー・アントワネット関連の逸話が結構波乱万丈(※5)なのも、そういった日本の女傑
と同列に扱われて脚色がなされたためなのだろう。ま、彼女自身としては各地で史実日本以上に大暴れした女傑たちの伝説に
顔を引きつらせており、「彼女達と同じだなんて恐れ多い」と述べていたとされる。ま、それでも彼女が自身の女官や
メイドなどに武装をさせたりパーフェクトな執事を探し始めたりと、日本の文化に更に染まったことは言うまでもないが(※6)。
ともあれ、彼女は最後の絶対君主にしてフランス最初の権威的君主ルイ16世の名前と共に人々の間に記憶された。
国難に際し、自ら資材をなげうち、市民へと救いの手を差し伸べた王妃として。

さて、少々蛇足の話をしよう。
前述の「パンが無ければ」云々のセリフはこの世界においても誕生していた。
最も、彼女のセリフは彼女が赴いた食料配給所で生まれており、平易に訳せば。

「パンが無ければ、ブリオッシュをみんなが食べればいいじゃない。それかお米ね」

しかしこのセリフも何ら考えなしに喋ったことではないし、市民の困窮を理解していなかったわけではない。
記録にのこっている限りではこのような台詞であったという。

「王室から配るパンが無ければプリオッシュを配りなさい。それでもなければ米も配ってしまいなさい」

これが本当であるかどうかは、正直なところ不明である。
実際、彼女は各地に赴いた際には安全な場所でない限り「貴族の娘カトリーヌ」を名乗っていたためである。
まあ口伝いの噂の方が彼女が各地を回る速度より早く、暗黙の了解がなされていたというのは資料にいくらか残っている。
こうした冒険と名台詞を残した彼女は、今もなお市民の人気を集めている。

331 :弥次郎:2016/04/21(木) 13:06:23
※1:
史実と異なり、衛星国家を樹立させずにあくまで国境線を堅守することに努めた。
国境沿いの要塞群は拡大を続け、国境に近い都市では町を丸ごと要塞で囲い、万が一に備えて兵士も駐屯させた。
現代でいう予備役も積極的に募集がなされ、かなりの動員人数を誇った。
政治的に見ればフランスは異端視されて孤立しつつあり、周辺国を迂闊に飲み込めば内通者を生みかねないとの
懸念があった。
また、フランスの人口は増えつつあったため、自前での食料生産の限界ゆえに領地を増やしても食料不足と
なりうる可能性が高く、消極的だった。
他方でアフリカや東南アジア方面へは増えすぎた人口の放出先として有力だった。ここには欧州人がおらず、いたとしても
十分に数で勝っていたなどの理由があった。

※2:
史実においてもクラッカーやビスケット、乾パンなどは保存状況さえ良ければ長期保存可能である。
この頃にはかなり信頼性のある無菌空間を作る技術が確立しており、またコルク栓や一部では缶詰も開発されて
非常食の保管に役立てられていた。

※3:
ガラスの生産が安定して行えるようになり、ガラス温室が日本各地やフランスにできていた。
これによってコストはかかるが香辛料や南方の果物などを本土でも生産可能になっており、季節をずらして野菜などの
栽培も可能となっていた。これにより、栄養不足や飢餓の割合はさらに減っていった。

※4:
史実におけるフランス革命は失敗し、国王派のフランス改革は成功していた。
しかしその陰には長い戦争(欧州各国による対フランス同盟による介入やフランス各地での略奪・暴動などが相次ぎ、
それの終結にはそれ相応の時間を要した。

このフランス改革に関わった勢力は概ね以下の通り。
  • 国王派民主制派閥
  • 国王派立憲君主派閥
  • 革命派テルミドール派閥
  • 革命派ジャコバン(マラー)派閥
  • 革命派諸勢力
  • 亡命貴族勢力
  • 欧州介入軍(反改革派)
  • 欧州介入軍(反革命派)
  • 欧州介入軍(反フランス派)
  • 織田幕府派仏救援軍
これらの勢力が複雑に絡み合いながらフランスを舞台に闘争を繰り広げ相応の被害をもたらしたようである。

※5:
結構話は盛られるもので、遊説している彼女に暗殺者が迫った際には彼女が自ら撃退したり、
略奪をする悪党を懲らしめたりと水戸黄門も驚きのフランス行脚となっていた。一応トラブルに巻き込まれる
ケースは少なからずあったようだが、後に多くの創作物語で彼女の冒険譚として面白おかしく使われた。
現在においてはフランスにおける連作ドラマの金字塔として「マリー・アントワネット」が放送されている。
何時の間にやら本国を飛び出しアフリカ植民地や日本大陸各地を旅しているが、いつもの事である。

※6:
所謂少女漫画に彼女は憧れたようである。傍から見れば、彼女の方が立派に少女漫画の主人公なのだが。
しかし、彼女にしてみれば政略結婚と実際の恋愛結婚がほぼ重なった、言ってみれば退屈な結婚であったことが
少女漫画などを呼んで不満になったようだった。これにはルイ16世も彼女に使える女官などに浮気などをしないよう
注意するよう頼んでいる。まあ、ルイ16世にしても市民の何気ない日常を描いた小説や、巨大な龍や獣たちを
相手に狩りを行う狩人たちの冒険譚を密かに愛読している当たりブーメランなのだが。

これらの作品は夢幻会の手配したものであり、通常の外交ルートだけでなく、個人の伝手や縁を利用したルートを
開こうと努力を重ねていた。これらの情報網を通じて欧州各国の情勢はかなり正確に把握していた。

332 :弥次郎:2016/04/21(木) 13:11:48
以上となります。wiki転載はご自由に。

まあ、こうなるかなぁと言った感じで考えてみました。
ぶっちゃけ、アイディアそのものは雑談の中で出た物を利用しています。
恐らくこれを契機にフランスにも米が広まるんじゃないかなぁと。一応フランス料理にも導入されていたでしょうが
やはり上流階級に限定されていたと推測されます。これの後は市井にも広まるんじゃないでしょうかね。

あとはフランス料理についても書き足したいですねぇ…
信長さんのシェフとか、憂鬱本編の北一輝の中の人とか、この時代にいてフランスに衝撃を
与えているかもしれませんしねぇ。あ、この世界のフランスはメシウマの国なので悪しからず。

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最終更新:2016年08月06日 22:25