477 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:54:51
日仏ゲート世界 トラファルガー海戦
フランスが軍事的にも勢力を拡大したのは、フランス革命戦争時に活躍したナポレオン・ポナパルトのころだ。
彼は史実同様に砲兵科に入学し、さらに日本への留学経験もあるインテリとして早くからフランス陸軍でも有望視されており、
フランス革命戦争時にはイタリア方面での戦線において野戦で寡兵を策と相手の油断をつく判断力で撃破していた。
また、
日本大陸から輸入されていたロジスティクス、即ち兵站管理技術にも造詣が深かった。
現地調達の風習が残っていたフランスだが、国内での防衛線とその後の報復戦においては現地調達することが
国内への疲弊に直結したり、焦土戦による被害が大きくなったことで、合同で動いていた幕府派仏救援軍の方から
苦情が来ていたこともあり、特に陸軍は其方へと傾倒しつつあった。まあ、正直なことを言えば
夢幻会も初代将軍の
無茶ぶりに応えた結果広大な日本大陸でも物資を絶やさなくて済む仕組みを作り上げたためなのだが。
ともかく、ナポレオンはそれを理解する頭脳を持っていたということである。
人を束ねて動かすという才能を見込まれた彼はほどなく帝政フランス連邦軍(※1)参謀本部(※2)へと招聘され、
前線勤務の参謀(※3)として働いた。
そして彼は出世を重ねて大本営主席参謀長、平たく言えばフランス帝国軍のブレインへと出世を遂げた。とはいえ、
本来彼が専攻していなかった海軍についての勉強もせねばならず、かなり苦労を重ねたようである(※4)。
そして、彼が主席参謀長となった際に一番最初に皇帝(※5)であるルイ17世(※6)へと奏上したのが、植民地の
各守備軍の充実だった。これまで主戦場となっていたのはフランスの存在する欧州だったが、今後は植民地にも
手が伸びてくるだろうと彼は警戒したのだ。既にアフリカは資源地帯としてフランスには欠かせないし、イギリスの
動向を知るにもアフリカは重要だった。東南アジア地域においてはにらみ合いが続いているし、何時軍事衝突が
起こるかは不明瞭なまま。特に警戒したのがゲートの問題。今のところは順調につながっているが、万が一閉鎖してしまったら
その時に付け込んで欧州各国はこちらに殴り込んでくる。その際には地球の反対側にある日本よりも、アフリカフランセーズの
人々の方が先に着く。ならば、日本に負けない練度の軍を配備しておけば心強いはずだと述べた。
ナポレオンがこうした意見を述べた背景には、軍人の数が増えすぎて経済負担が大きくなることを恐れたためだ。
今のところは平和な時代。しかし働く場が無ければ不満を抱く軍人だって出てくる。そうした軍人が国内で結束されては
困る。参謀長ともなればあちらこちらから不穏な噂も聞こえてくるのだ。そうした軍人をうまく分断し、
監視しやすくし、陰謀を潰す。尚且つ軍人の仕事を作り経済効果をある程度狙っていた。
478 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:55:36
こうしてアフリカ・フランセーズおよびインドシナ・フランセーズの軍備拡張に合わせて、フランス軍は装備の刷新を
始めた。というのも、フランス革命戦争の際に量産された兵器は整備はしているが物によってはそろそろ交換の時期が迫っていた。
炸裂弾などの砲弾も中の信管が悪くなっている可能性がある。となれば破棄するしかないのだが、ただ破棄するよりも
訓練などで消費した方がよいに決まっていた。
斯くして、ゲートや船舶によってアフリカ・フランセーズやインドシナ・フランセーズに大量の武器が輸出され、
同時に軍需工場の建設も始まった。経済の頭打ちの兆しが見えていたフランス経済にとっても、植民地への新たな投資は
非常に歓迎されるものだった。なによりも革命戦争時の恩を返そうという動きは市民の間にもあったのだ。これに合わせ、
現地のインフラの刷新や行政体制の見直し、万が一の際の本国との連絡経路の確保、通報艦の就役等が行われた。
因みにだが、奴隷制はこの世界線においてフランスはしいていない。労働環境については一部で改善の必要性が
認められているとはいえ、それを除けばほぼ制度としては存在していなかった。
これらの政策は植民地における当地の容易さにもつながっていた。
治安が良ければ、統治コストが下がり、さらにその分の予算をインフラなどに割り当てることもできる。ブルボン朝の時代から
着々と進められたアフリカや東南アジアの植民地は、さらにこの時代に開発がすすめられた。
アフリカ・フランセーズやインドシナ・フランセーズにおいてはまだ現地住人を交えての統治機構の構築が不完全で、
そのすきをつかれて軍事侵攻を受けることを防ぐ意味でも重要だった。なにより、住人への安心感を与えるということは
フランス本国からの移住者を増やす要因にもなっていた。
こうしたフランスの軍事力整備の動きを欧州各国は慎重に見張っていた。
傍から見れば軍事侵攻を目論んでの軍拡に見えたのだ。フランスは黄色人種やアフリカ・フランセーズ出身の
人間が市民からも歓迎されるレベルで市民権を得ていたのだが、その分他国の植民地出身の諜報員が入る隙間もあった。
まあ、その諜報員が色々と心が折れそうになったことは何度かあるようだが(※7)。
あるいは、植民地へのインフラ投資が現地住人に向けても行われていることに、彼らの常識から判断して大いに疑問を
浮かべながらも情報を集めていた。
479 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:56:25
そして、イギリスの諜報網はナポレオンの計画の一端をつかんだ。
作戦名は「lion marin作戦」。フランスの有する艦隊をもって揚陸船団を構成し、イギリス本土へと突入させ、
上陸させた陸軍によってイギリスを制圧していくというものだった。動員数は誇張もあるだろうが最低でも50万人。
上陸されれば、フランス革命への介入時に見せつけられた陸軍に蹂躙されているのは目に見えていた。そこで、イギリスは
海上でこれらの戦力を潰してしまうことを画策した。そしてイギリスの期待を背負ったのが、史実同様に海軍の提督
ホレーショ・ネルソンだった。
しかし、この世界においてホレーショ・ネルソンの活躍はやや小さい。
そもそもナポレオンがエジプト遠征をおこなわなかったのが大きな要因である。ナポレオンにしても、各地の軍事整備をしながら
オスマン帝国の領内へと乗り込んで戦争をするだけの余裕があるとは考えていなかった。確かに日本軍の協力もあれば
容易いかもしれないが、今回ばかりはフランス本土ではなくアフリカに出向かなければならない。地中海方面では
イタリアが物理で大人しくなっているが、イギリスと連携されると非常に面倒だった。その為にエジプトにはそもそも
向かうこともなく、むしろ対フランス同盟に加担していたオスマン帝国をやや警戒していた。迂闊に首を突っ込めば
再び敵になる。そうそう考えて遠征は行わなかった。
彼がやったことといえば、フランス革命戦争時に史実通りに動き、そして日本からの派仏救援海軍に壊滅的被害を
与えられた艦隊の救援を行ったことくらいであった(※8)。まあ、一応追撃などをうまく振り切る指揮をとれた当たり
史実通りの優秀さを持ち合わせていたことは間違いないだろう。
しかし、フランスはもとよりイギリスに上陸する気などなかった。意図して流していたダミー情報だった。
狙ったのは、偽りの作戦によっておびき出された海軍を海上で撃滅することにあった。
海上国家であるイギリスが屋台骨としている制海権を奪うことで、イギリスの心を折ることが目的だった。
フランス革命戦争時における介入の意趣返しが唯一果たせていない国が、海を挟んだ反対側のイギリスだった。
一応植民地での圧力をかけることには成功していたが、それで満足していたわけではない。そして、ナポレオンの
発案したのが海上戦力の撃滅作戦であった。
たしかにイギリスの植民地は魅力的だ。しかし、そこにはすでにイギリスの勢力圏にあり、支配体制を作るだけでも
大いに疲弊することになるだろうとナポレオンは読んでいた。実際の所、インドは史実においてイギリス植民地時代の
負の遺産がいまだに残るところであり、国内も決して結束しているとは言い難い状況だった。そもそも、アフリカフランセーズの
開拓に注力するフランスにとってこれ以上の植民地はいらなかったこともある。
つまり、ナポレオンにとってみればこの海戦は単なる手段でしかなかったのだ。ぶっちゃけ、勝てば儲けものにしか
考えていなかった。幸いにして海軍国家たる日本の支援を受けて錬度も装備も十分。たとえイギリスが開戦に勝利を得ようとも、
それはあくまで防衛戦に勝利したに過ぎず、フランスとイギリスのパワーバランスには何ら関与しない。ほかに彼が考案したのは
イギリスの日干し作戦だったが、欧州各国がフランスと敵対しつつある中で行ってもどこかの国を介して平然と貿易を
続けることができるため、あまりにも費用対効果が悪く却下された。
ともあれ、この英国艦隊に損害を与えてイギリスに威圧を与え、フランスがイギリスを追い越していることを
突きつける作戦は承認を得た。イギリスに対してはフランス革命戦争時に受けた屈辱もあり(※9)、これを果たすことが
国威高揚につながり、イギリスへの意趣返しとなると判断されたのだ。
480 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:57:35
そして、1805年にトゥーロン軍港に集結していた建前的には露払いの艦隊およそ40隻が出航。
史実通りネルソン提督はビクトリーを旗艦とする27隻で阻止の構えを見せた。会敵の場所も史実同様に
トラファルガー岬の沖合だった。
ネルソンの計画通り英国艦隊は2列に縦列でフランス艦隊の側面に突入を開始した。いわゆるネルソン・タッチである。
戦闘が始まった時、フランス艦隊はやや北方向きカーブを描いてはいたが、どちらかといえばこれは誘い出すための
素振りでしかなかった。一見バラバラに見える艦隊も、実際のところきちんと統制されていた。これは、きちんと
統制されている艦隊に、衝突のリスクが小さい小型の艦艇を不規則に配置することで統制が取れていないように
イギリスに対して錯覚させるためだった。
午前11時45分、イギリス艦隊はフランス艦隊の横から突入。戦列を汲んでいる艦隊を分断しようと画策した。
しかし、フランス艦隊は事前の打ち合わせ通りに散会。そして、先頭を切って来たTemeraire、
RoyalSovereign、Belleisle、Euryaiusそして旗艦Victoryの前に数隻の船が現れた。小型のそれに
イギリス海軍は若干困惑するも、それを無視してフランス艦隊を分断するべく動いた。ある船は、それを衝角に
よって撃沈しようと目論んだ。だが、それもフランスの狙い通りだった。
それぞれの船が近づいた瞬間に突如として爆発。それぞれに爆風による被害をもたらした。
この際にこれらの船は莫大な量の火薬を積んでおり、爆発時に殺傷能力を上げるために鉄の破片が仕込まれており、
船自体が巨大な爆弾と化していた。勿論船員はタイミングを見計らって火をつけた後に脱出している。
また、爆発の被害が及ばなかったはずの船舶にも被害が出ていた。これも無人自爆船から放り出されていた
接触信管式の機雷や魚雷の初期型だった。縦列を組んでの分断は確かに有効ではある。しかしそれは先頭が急停止
ないし行き先を定められなくなると全体の動きを止めざるを得ないということである。
そして、この爆発によってネルソン提督が負傷して一時的に指揮が混乱し、イギリス艦隊が艦隊の動きをまとめようとする間に
フランス艦隊は回頭を完了し、イギリス艦隊を包囲し始めていたのだった。
そして一方的な射撃が始まった。フランス艦隊は3つの切り札があった。まず一つ目に自爆船。
これでイギリス艦隊の意表をついたし、艦隊の動きをある程度阻害することに成功していた。そもそも横から食い破ろうと
動いていた艦隊が急に方向転換しようとしてもなかなかに難しい。
そして二つ目に長射程砲だ。これはアームストロング砲とよく似た後装式施条重砲で、後のド・バンジュ式緊塞方式を
採用しているために、発射の際のガス圧を利用して閉塞をより確実なものとして、射撃の安定性を高めていた。
これによって射程は安定して2500m前後を維持していた。この頃のイギリスが有する砲の有効射程がおよそ1000ヤード、
メートル換算で1000メートルに届かないことを考えれば、卑怯といっていいレベルである。
そして、フランス艦隊は安全な距離から滅多打ちにした。ここでマストに設けられた見張り台から弾着観測を行うのは
アフリカ出身の目が良い海兵だった。望遠鏡によってその視力はすさまじいものとなっており、砲弾が何処に着弾したのかを
はっきりと観測することができる。狩りに生きる彼らにとって、2キロというのは大した距離ではない。
そして、3つ目の切り札。
それは日本において作られた炸裂式の焼夷弾だった。つまり、動きが鈍った艦艇に数発でも命中弾を与えることができれば
水では簡単に消えないナパーム弾の効果は絶大だ。ガスによる殺傷は望めないが、それでも十分すぎる。
飽和攻撃を受ければ、いくらダメコンが優れていようが瞬く間に燃え広がってしまう。もとより木で作られているなら、
水分を含んでいたとしてもほぼ関係はない。
斯くして、イギリス艦隊は集中砲火で多くがダメージを受けていた。反撃の砲も飛んでは来るのだが、如何せん
まぐれ当たりにしか期待はできない。特に前方にいた15隻は包囲砲撃によってほぼ継戦不能。残りの艦隊にしても
速度を落として回頭しようとしているのが確認された。砲戦力を失ったヴィクトリーではネルソン提督の死亡が確認された。
フランス艦隊は撤退していくイギリス艦隊に追撃を行ったのだが、イギリスの意地が出たのか4隻が大破、1隻が自沈処理を
せざるを得なかった。最終的に生き残ったイギリス艦隊は5隻。残りは全てトラファルガー沖の水底へと配置転換されてしまった。
481 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:58:41
この海戦の結果はナポレオンは満足させるに十分だったが、逆に追撃戦で被害が出たことに激怒した。
たしかにイギリスに射程の差があることを見せつけたが、いずれそれはばれることだ。だから、無理に追撃する必要はなかった。
しかも、射程の差を利用できずに近づかれたのは、海軍国イギリス底力を甘く見ていたところがあったためと理解した。
装甲が施された軍艦ではない船が追撃に出たことで被害が大きくなってしまった。そこには一部の艦長の
独断専行があったとされるが、多くの船員が死傷したために正確なことは分からなかった。しかし、指示を無視して
突っ込んだ挙句に被害を受ければ、とんだケチがついたことに変わりがない。
そもそも、ネルソン提督が戦死した時点で、そして当初の予定通りイギリス艦隊を半壊に追い込んだ時点で
フランスの目標はほぼ達成されていたのだ。無用な被害を出した現場指揮官にナポレオン直々に注意が飛んだ。
勿論、立案者であるナポレオンも国王や議会からお小言をもらった。
とは言え、フランスにとってもこれはある種の契機となった。
敵は倒せるときに倒すべきではあるが、死を覚悟した兵は恐ろしくなる。そして、海軍という多くの人間が船に乗り込むと
万が一の際の被害が大きくなるとわかったのだ。特に海軍においてはこれが骨身に染みた。これまでは陸戦がメインで
海軍の晴れ舞台となる筈の海戦。実際、最後になるまではほぼうまく言っていたのに、最後の最後で欲をかいたばかりに
汚点となってしまった。これには鼻高々に勝利とはいえなかった。実際、このことが市民に知らされたとき、新聞には
ナポレオン元帥(※10)の怒りの言葉が目を引いた。市民は失態をした海軍をなじったし、海軍の戦略を日本側と協議して
見直すと宣言したナポレオン元帥の言葉を支持した。そして、ついにイギリスに対しても復讐戦を果たしたことに
多くの市民が溜飲を下げた。
この際にフランスは日本側からもたらされた「シフト制によるダメージコントロール」と「艦艇そのものの装甲化」という
二つの道を選んだ。これは艦そのものを沈みににくくするという方策に他ならない。艦隊保全主義といえばそうなるのだが、
目的達成の過程以外では船が沈んでしまうことを避けるという意味が強かった。水兵の教育には少々困っていたという
陸軍主体の国ならではの悩みもあってのことだった。貴重な水兵を無駄にしないことにもつながるため、この方針は
海軍にも受け入れられた。後に完成する装甲巡洋艦『ラ・グロワール』級は欧州初の本格的な装甲艦として配備された。
ここにはフランスに日本から鉄鋼の精製技術がもたらされ、極めて質の高い僧鋼板を作ることが可能だったことも
関係していた。防御性能などに関してはイギリスの装甲艦ウォーリアを容易くしのいでおり、一部には装甲を傾斜させたり、
延焼防止剤を木材部分に塗ったりしていた。また、速力はイギリスのウォーリアが最大でも17ノットなのに対し、
ラ・グロワール級は蒸気機関による推進でも17ノットから19ノットを維持していた。排水量的にも大きいラ・グロワールが
そういった性能諸元の点でウォーリアを凌ぎ、尚且つ均一に建造された同型艦が多数存在するというだけで、イギリスと
フランスの工業力の差を浮き彫りにしていた。より正確に言えば、イギリスがウォーリアに注ぐ余力を史実以上に
持っていなかったことを明確に表していた。
おまけとなるが、この開戦時に指揮官として乗り込んでいたピエール・ヴィルヌーヴ提督および彼の補佐官であった
アフリカ・フランセーズ ナイジェリア地方出身のアドリアン・アビオラ。そして、幕府海軍からのオブザーバーの
村上水軍の流れをくむ村上武国らが英雄として讃えられた。特に村上武国はナポレオンやルイ17世に謁見し勲章を
授けられるなど正しく英雄として讃えられた。彼としては将来の昇格が決定し、前線に出れなくなることに不満を抱いていたようだが。
482 :弥次郎:2016/04/23(土) 21:59:31
他方、イギリスは国王から一般市民までが恐慌状態だった。
艦隊がほぼ全滅し、ネルソン提督も死亡してしまった。なによりも、これまで無敵艦隊さえも退けてきたイギリス海軍が
敗北したという事実は何よりも大きかった。おまけにアルマダ海戦のように自爆船による被害を受けたというのが
スペインの意趣返しにも捉えられた(※11)。正しく過去の栄光を彩るエピソードをそのままやり返されたのだ。
屈辱以外の何物でもなかった。幸いにして何隻かを沈めることには成功したが、敗北であることに変わりはない。
結果的にフランス艦隊は上陸してこず、イギリス本土の安全は守られた。その意味ではネルソン提督は使命を
果たしたと表現できるだろう。
イギリスは国内の報道統制を行い、フランス艦隊を阻止することと引き換えに海軍は大打撃を負ったと発表。
ネルソン提督を英雄として祀り上げると同時に、海軍の再建を急いだ。たしかに嘘ではなかった。事実フランス海軍は
迅速に撤退したし、ネルソン提督は使命を果たした。新聞を見れば、フランスのそれと比較して勇ましい言葉が
多かったことに気が付くだろう。しかし、一般市民はいわゆる大本営発表を信じたのだった。
一方で、これはイギリス海軍内部に深刻な影響を及ぼした。仮にも海上帝国であるイギリスが、後進の筈の陸軍国
フランスに後れをとったのだ。陸軍の予算をある程度削って艦隊の債権が急ぐことはできたが、同じくフランス革命戦争時の
被害を再建中のイギリス陸軍には若干の怨みをもたれた。そもそも戦列歩兵の銃の更新と開発だけでもかなり足踏みしており、
特に長射程化に苦しんでいた。まあ、そこら辺は陸軍海軍問わず同じ問題にぶつかっていたのだが。
後に第一次、第二次大戦時においてイギリス海軍の艦艇開発が異常なほどの迷走ぶりを見せたのも、このトラファルガー海戦に
敗北したことが由来とされる。なにより、フランスにしてやられたことまではイギリスも情報が拡散することを抑えられず、
インドや植民地における治安が悪くなっていた。これに対応するために統治コストがつり上がっていたことも
敗戦に伴う出費に上乗せされて財政に大きい影響を与えており、各所に少なくはない影響を与えていた。
そして最も影響となったのが、イギリス海軍の内部に艦隊決戦思考が出来上がっていたことにあった。
フランス海軍が作戦目的を果たすことを第一とする任務至上主義に近い艦隊運用へとシフトしつつある中で、
あくまで敵艦隊を撃滅することを主眼とする運用方針が幅を利かせるようになったのだ。艦艇の設計思想に、航続距離も
犠牲にしてでも高い艦隊決戦型の艦艇を揃えなければ。そう考えるのも、ある意味仕方がないかもしれない。
その敗北は、海軍国家のイギリスにフランスが考える以上の影響を与えてしまった。
そう、第二次大戦時に欧州の制海権の奪い合いとなる際に、フランスが困惑するほどに。
何があったのか。それは、第二次世界大戦後に壊滅したイギリス海軍の再編を行った人物が遺した言葉に集約された。
「一つ言えるのは、イギリス海軍は国の命令ではなくネルソン提督の汚名をそそぐことにとらわれ過ぎていた。
結果的に何とかなったとはいえるが、それを注ぐまでに払った犠牲はあまりにも大きすぎた。
過去の大英帝国の幻想が、我々海兵の命を奪い続けたのだ。イギリスに海軍はなく、船に乗ったただの復讐者の集まりに過ぎなかった」
483 :弥次郎:2016/04/23(土) 22:00:05
※1:
建前的にはブルボン家は国王から皇帝へと格上げされていた。それに伴い国名も「帝政フランス連邦」となっていた。
より正確に言えば「ブルボン朝フランス連邦共和国」である。矛盾しまくりだが、気にしてははいけない。
同時に各植民地も「アフリカ・フランセーズ」「インドシナ・フランセーズ」「ギニア・フランセーズ」と順次改めていた。
※2:
幕府(大日本帝国)に合わせて陸海軍の合同の大本営が設置された。その大本営には参謀本部も儲けられ、
軍略家として評価を受けたナポレオンはそこへと進んだ。
※3:
彼としては前線勤務が主体としたかったようであり、実際に砲兵の運用能力は長けていた。
しかし、彼の出世に伴って前線勤務はどんどん減ってしまったようであった。
※4:
陸軍出身の彼には海軍が何たるかを知る機会は少なく、猛勉強に追われた。
日本において一水兵として訓練を積むこともあった。幸いにして大砲の扱いがうまく、艦上戦闘における能力が高かったため、
一定の評価を受けることができた。
※5:
最初から皇帝として即位したのはルイ17世からである。
ルイ16世は一旦王位から退いてフランス王国を途絶えさせ、その上で皇帝となっていた。
※6:
この場合のルイ17世は史実においては夭折したルイ=ジョゼフ・ド・フランスであり、史実におけるルイ17世は
アフリカ・フランセーズに統治の旗頭として赴任して統治政策を担っていた。
※7:
フランスと人種差別などがあった他の欧州各国では、現地住人の扱いが天と地ほどに違っていた。
それ故に、現地に潜り込んだ諜報員が待遇の差に思わず寝返りたくなる衝動に駆られたようである。
※8:
フランス革命戦争に乗じてアフリカ植民地へとケープタウンの植民地艦隊が乗り込もうとしたのだが、不幸にも
幕府海軍と鉢合わせする羽目になった。結果は言うまでもない。
しかし、生き延びた艦隊がネルソン提督の艦隊に保護され、その後の追撃をうまく振り払って逃れることに成功した。
※9:
少なくはない国境沿いの村や町が略奪によって滅んでいた。オーストリアと組んでいたイギリス軍による被害であり、
特に地方出身にはイギリスに憎悪さえ向ける人間さえいた。また、略奪時にはアフリカからきていた移住者も特に
酷い目に遭っており、アフリカ出身者たちもイギリスへの怨みを抱いている人間がいたようだった。
※10:これは正式な役職名ではなく、ナポレオン自体の愛称というか渾名に近い。結構人気もあったようだ。
※11:
アルマダ海戦において、イギリスは火薬などを詰め込んだ船を突入させてスペイン艦隊の混乱を誘った。
これをやり返されようにもイギリスは感じたわけである。
484 :弥次郎:2016/04/23(土) 22:02:04
はい、以上となります。wiki転載はご自由に。
今回は少々時代が飛んでナポレオンの時代に進んでいます。
ブルボン家が残っているために、ナポレオンは一軍人として出世を重ねています。
恐らくこの後には政治家に転身でしょうねぇ…おそらく天寿を全うできると思われます。
まあ、史実異なり戦争をあまりやらかさないので、没落理由があんまりないんですよね。
ま、国土を守った軍事的指導者として普通に英雄となるでしょうね。
そしてトラファルガー海戦となりました。
御免ね、ネルソン提督。一応英雄にはなったから……イギリス中が死を悼んでくれたから……
この時代の砲は結構射程が短いようです。パイレーツ・オブ・カリビアンでかなり接近していましたが、
実際にあれくらいまで近づいての乗り込みなどが多かったようですね。そんな中におもむろにアームストロング砲もどきを
投入してくる日仏海軍。そりゃ、一方的に殴られますよね。まあ、数的には多くはないので今回のように被害も出ました。
というか、ある程度被害が出てくれないと今後の面白みが欠けるので…。ワンサイドゲームより、少しの反撃があった方が
より面白いと感じてしまう悪癖ですのでお気になさらず。
因みに、フランスやスペイン海軍では「船上の紳士」の指示が優先されてしまう事態が度々あったようです。
ま、この教訓を反省して完璧に排除されるでしょうなぁ…
この戦いは結構フランスにとってショックだったようですが、この世界線においてはイギリスに大ショックを
与えました。史実日本で言えば東郷提督がバルチック艦隊の撃滅と引き換えに戦死みたいな感じですしねぇ…
なお、このネルソン提督の戦士はイギリスにショックを与え過ぎました。言い方悪いですが、ちょっと突進癖が生まれたと
言いますか、サーチアンドデストロイが行きすぎそうになったというか、そんな感じです。
危うさですね。士気的な意味での。サーヴァントスキル的に言えば、「勇猛」ではなく「蛮勇」でしょうか。
最後の一文が、末期のイギリス海軍の状況を端的に表しています。
では続きはゆっくりお待ちをー
最終更新:2016年08月06日 21:36