249 :名無しさん:2016/05/08(日) 23:05:15
日本大陸 日仏ゲート世界 ナポレオン戦争


フランス革命戦争後のフランスが行ったのは、国内の立て直しと、近隣各国への仕返しだった。
特にフランス革命戦争時に活躍したナポレオンが出世を遂げて果たしたことから、一般にはナポレオン戦争とも呼ばれている。
彼の戦争指揮能力はずば抜けており、後の軍事的な基盤を構築したという意味でも、彼の功績は評価されていた。
ここでは、彼が行った一連の戦争について振り返っていく。

真っ先にナポレオンに狙われたのはスペインだった。一般には『バルセロナ侵攻』と呼ばれる報復戦争が始まったのは
1803年の事であった。本来ならば1800年には開始される予定ではあったのだが、ここには史実よりも早くなった
フランス領ルイジアナを巡る動乱があり、また侵攻計画についてナポレオンが日本から得ていた情報をもとに再度
構築し直したこともあって遅れていた。また、ナポレオンの目下の課題であったアフリカ・フランセーズの軍備増強が忙しく、
政治の面ではインドシナ・フランセーズの領土問題などがあったことも由来する。しかしその分、スペインへの報復を行う軍の
準備には時間をかけることもできたし、海軍の準備を行う余裕を生むことにもつながっていた。

落陽を迎えつつあったスペインはピレネー山脈を越えてバルセロナ方面へと侵攻してきたフランス軍を押しとどめることは
不可能だった。ここでフランス軍は艦隊を対地支援に導入。兵を上陸させて陸軍を支援し、スペインの地中海沿岸の都市を
一気に制圧した。この際にはバルセロナを守備していたスペイン軍に致命的ともいえる被害を与え、すぐさま守備を固めた。
普通ならばまだまだ戦争は続くのだが、焦土戦術をとって撤退したスペイン軍の予想に反してフランス軍は動かなかった。
スペイン軍としては引きずり込んでの勝利を狙っていただけに拍子抜けしたのだが、逆にバルセロナをはじめとした
都市の返還を求めねばならなかった。というか、フランスが脅迫してきたのだ。「交渉に応じなければバルセロナを無に帰す」と。

これにはスペインも混乱した。しかし、この時に至ってようやくフランスの意図に気が付いた。スペインへの侵攻ではなく、
報復をするためにスペインに打撃を与えることが目的なのだと。しかし、それを阻むことは既に時遅し。バルセロナは
占拠され、下手をうてば重要な都市が破壊されつくし、経済的に大ダメージとなる。やむなく交渉に応じたのだが、
当然のように条件は割と吹っ掛けられた。フランス軍はいくつかの関税などについて有利な条件を獲得すると意気揚々と
引き上げた。この際に結ばれたボルドー条約(※1)ではスペインから賠償金と大小の火砲などの引き渡しなどが行われ、
さらにマリョルカ島やメノルカ島の軍事的中立(という名のフランスの管轄)をスペインが認めるなど、実質的な
スペインの敗北となった。この戦争に敗れたスペインは被害の大きさのために暫く軍事的な行動をとることが出来
なくなっていたし、バレンシア方面にもフランス艦隊が押し寄せてくるかもしれないというプレッシャーがスペイン政府の
迂闊な行動を抑止した。言わば、スペインの喉元にナイフを突きつけたのと同義であった。

250 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:06:47
スペインが片付き、地中海の通過を確保したフランスの次なるターゲットはイギリスであった。
ここには依然述べたトラファルガー海戦が発生するのだが、実はこの海戦はネーデルランド方面へのフランス艦隊進出の
布石でもあった。陸路での侵攻を行ったナポレオンだが、海上輸送を行い、尚且つ対地支援などに船舶を導入したいとも
考えていた。実際、陸軍の錬度は十分で国境線を押してはいたのだが、あと一押しが欲しいところであった。
無理押しすれば突破が可能であることをナポレオンは理解していたのであるが、イギリス海軍の上陸やオランダへの肩入れを
警戒するためにどうしても動きは鈍くなりがちだった。ネーデルランド方面にはプロイセンの勢力やオーストリアも
手を出してきているため、迂闊に増員しない手を取ると逆に進行を受けかねなかった。
ともあれ、ナポレオンは国境線を史実のベルギー・オランダ間のそれと同じ位置でいったん戦線を停止させて、フランスは
イギリスとの戦いに臨んだのだ。結果は知っての通り、イギリス艦隊を無事に撃破することに成功し、英仏海峡を通過させて
支援艦隊を送ることに成功した。オランダはもちろん海軍を有していたのだが、フランス海軍は真っ向から戦うこともなく
人員輸送のみに徹したため、特に被害らしい被害を受けずに済んだ。確かにオランダは没落しつつあるとはいえ海上帝国の
一角を占めていた大国だ。後発のフランスと比較すればイギリスとの間ほどではないにしろ、差があった。
しかし、それはあくまでも艦隊戦に限っての話である。陸軍の行動の一環として海軍を動かすというものに関して言えば、
陸軍国であるフランスには一日の長があった。ここにはトラファルガー海戦での失態を反省したフランス海軍が慎重に
行動したことも影響し、陸軍の侵攻を十分に支援してオランダの国境線を一気に貫通した。

陸軍の侵攻は一瞬でり、オランダ陸軍はフランス軍の圧倒的な火力と機動力を前に翻弄されて撃破された。
その動きは所謂後手からの一撃であり、釣り出されたオランダ陸軍はフランス軍が構築した火力陣地に誘い込まれて
濃密な十字砲火を受ける羽目になった。首都にこそなだれ込まなかったものの、ロッテルダム近郷にまで進行され、
いくつかの街が崩壊していた。フランス軍は略奪こそ行わなかったものの、敵対を選んだ都市や町には一切の容赦を
していなかったためだ。即ち、食料をある程度提供して妨害しないならばそれで良し。もし毒を混ぜるなどしてきた
場合には容赦なく攻撃するという手を取ったのだ。町や村のいくつかは実際に抵抗を選び、あっけなく粉砕された。
勿論背後から襲おうとしたケースもあったのだが、フランス軍は輸送経路を維持する輸送部隊をきちんと整備しており、
また降伏した町への監視もきっちり行っていたこともあって大勢に影響するほどの抵抗は出来なかった。

ここには、フランス陸軍の強さをオランダ領内へと噂レベルで流れるようにして、士気を下げるという目論見もあった。
こうすればオランダ領内でもフランスとの講和を考える声は自然に発生するし、偽の情報を流すことも容易くなった。
何よりも、現地の有力者が領土の安堵などと引き換えに様々なオランダ国内の情報を手に入れる事にもつながっている。

251 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:08:26
これに合わせるようにして、東南アジアの植民地及び保護故国からなるインドシナ・フランセーズは残っていたオランダ植民地へと
圧力をかけていた。これに流石に困ったオランダはやむなくフランスと講和。多額の賠償金と香辛料などの現物で
本土を安堵してもらうことに成功した。しかし、史実におけるベルギーはフランス領となり、衛星国ではなくフランスの
直接統治が行われた。フランスとしてもここをとることはネーデルランド方面への要となる場所であり、同時にプロイセンへの
にらみも聞かせることが可能な土地でもあった。これまではダンケルクがその中心ではあったが、英仏海峡をにらむ
必要もあるダンケルクとカレーでは流石に重荷となっていたのだ。だが、これを分散させることに成功したことで
軍事的負担がだいぶ軽くなった。賠償金を得たことに加えて軍事的なアドバンテージを確保することができたこと。
この2点が、後のフランスの戦略にも大きくかかわっている。よって、この世界においてベルギーは一国としては
成立することはなかった。

こうして三方面へとけりをつけたナポレオンは、停止させていたイタリア・オーストリア方面への反撃を再開した。
北部イタリアの輸送経路は中立という名の支配下にあるトリノを経由して十分に行えたし、むしろ積極的にフランスへと
攻め込んでこようとするオーストリア軍に対しては待ち伏せしていれば勝手に突っ込んできてくれるため、非常に
対処は容易かった。オランダが事実上の中立を選び、国境の通過を認めないことを選択したためにオーストリアや
プロイセンの侵攻ルートは自ずと限定されるため、二線級戦力を配置して余裕を持たせることにもつながっている。
つまり、ナポレオンはフランスを囲う包囲網を一つ一つ砕いて回ったのだ。迅速に、そして連鎖的に崩壊を生み出すように。
この1805年から1807年初頭にかけて発生した『オーストリア戦役』において、装備と練度の差から被害を一方的に
受けたオーストリアは、主宰する形であったウィーンで結ばれた第三次対フランス同盟に参加する国々から
軽視を受けるようになってしまう。とはいえ、加盟している国のいずれもがフランスに被害を受けており、五十歩
百歩であったのだが。

とはいえ、ナポレオンも戦争をだらだら続けることを嫌い、1807年にプレスブルクの和約を以て戦争を終結させた。
戦費の回収である賠償金とオランダ方面への国境線の設定を急ぎ、戦時体制を解除した。ここまでの戦争はフランス改革後
初めての事であり、長引かせるのは戦後の体制にも響くとナポレオンは判断していたのだ。
そもそもスペイン・オランダ・イギリスを下したのは東に位置する厄介な国を黙らせる布石であり、同時に侵攻が再び
起きた際に有利な配置で迎撃できるような戦後体制を見越したものであって、あくまで領地獲得のみが目的の侵略ではなかった。
ここまでの戦いが、一般に言うナポレオン戦争、またはフランス報復戦争であった。この戦争での勝利は欧州における
パワーバランスがフランスを中心に再構築されることを象徴するものであり、フランスに手を出すことがいかに危険であるかを
欧州各国へと付きつけるものとなった。

また、このナポレオンの勝利を得た後に、大国間に挟まれていたスイスは史実と比較して一足早く永世中立を宣言し、各国に承認された。
フランスにしてみれば東側の国境線の蓋をするのにちょうど良い立地で、他国からすればフランスが行軍する際の
障壁とすることが可能であったためだ。加えて、これまで途絶えがちだったフランスと欧州各国、そしてフランスを介して
日本が欧州各国との外交を行うための場が必要だったことも起因している。こうして、スイスの永世中立が樹立し、
プレスブルクの和約が結ばれ、オーストリアがいったん国力を衰えさせたことから第三次対フランス同盟が事実上
瓦解したことを以て、ナポレオン戦争は終結した。すべてにけりがついたのは西暦1808年の夏のことであった。

252 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:09:52 しかし、欧州はまだ戦争を望んでいた。

「我輩は一生分の戦争を済ませたはずだった。しかし、どうにもならぬこともある」

これはナポレオンの日記の一節である。
1809年半ばにスペイン内部での争いがフランスでも観測可能になった時に、彼が予言のように書き残している。
当時、彼は軍人上がりの政治家になっており、軍略が絡む政策へのアドバイザーとして参加していた。まだ駆け出しとは言え、
元々政治に近い軍人として活動していたこともあり、すぐさま政治の最前線に放り込まれていた。元々リベラルで、
尚且つ良い意味で人種にこだわらず、良い意味でフランス人にこだわる彼(※2)は軍と政治のバランスがとれる人間として
何かと頼りにされていた。

そんな彼にとって、ナポレオン戦争は「フランスに10年の安定をもたらす」と信じ、側近にも漏らしていた彼であるが、
残念ながらその予想は外れてしまったのあった。そして、彼もまたこの予想が外れたことのしりぬぐいをする羽目になった。
何故ナポレオンが引っ張り出されたか。それはほかならぬナポレオン戦争が原因であったためだ。
スペインとフランスはちょうどピレネー山脈によって隔てられている。しかし、地中海をちょっと抜ければフランスのトゥーロンから
バルセロナやバレンシアにたどり着くのは容易である。事実スペインへの報復はこれを利用して行われていた。
しかし、一時的に占拠したのだが、その統治政策が緩かったこともあってバルセロナを中心に親仏派閥が誕生してしまったのだ。

イベリア半島はもともと食料生産量が乏しい地域であり、フランス軍が占拠した後に真っ先にやることは食料の配給であった。
幸い、フランスの食糧生産は日本からの輸入も含めて飛びぬけており、現地での栽培とフランス軍の補給船によって
占領地域での食料事情や衛生はかなり改善した。この頃には瓶詰や缶詰が量産化されて普及しており、フランス海軍は
古い戦列艦を改造した専用の輸送艦を多数抱えるなどしていた。また、蒸気機関によるアシストを受けて物を釣り上げやすくした
クレーンのようなものまでも搭載されており、コンテナの積み下ろしが迅速化していたこともフランスの神速の
進軍には欠かせないものとなっていた。さらに、この頃のフランス陸軍は海軍に要請して病院船まで用意していた。
医師や看護師を前線にまで安全に運んでこれることで兵士の負傷率に対して死者がかなり減っていたし、娯楽や食料が
きちんと手配されることで士気も保つことが出来ている。おまけにこの補給船に関しての差配をとったのもナポレオンの
肝いりの部下たちであり、潤沢な資金と資源を以てこれは着実に実行されていった。

だが、これはバルセロナを中心とした地域の人々に対し、今以上の快適な生活が存在するのだと教えてしまった。
彼らは確かにうまくやってのけたが、うまくやりすぎてしまったのだ。良くも悪くもフランスはフェアにふるまっていた。
現地住人がゲリラとならないように注意を払っていたし、焦土戦術に備えてナポレオンも物資を潤沢に手配していたのも手伝い、
フランス軍の占拠は人気が出てしまった。こうしてフランスへの併合を望む声がスペイン内部に生まれてしまった。
史実で言えば、アフランセサドの台頭である。元々スペイン王家とフランスのブルボン家には浅からぬ縁があった。
フランス改革の成功を見ていたスペインの人々にはフランスに続け、という意思が存在したのもまた事実であった。
しかし、その動きは先鋭化するに従い、史実フランスの革命運動に近いものにもつながっていた。リベラル派、共和派、
急進派問わず、スペインという国家のために王家の否定さえも行われそうになった。それだけブルボン家の統治に憧れたのだ。

こうして国内の政治情勢はスペイン内部で拗れに拗れた。
革命か、改革か、フランスによる併合か、はたまた自助努力を重ねるか。フランスを除く対フランス大同盟各国にしても
スペインの脱落乃至離反は警戒するものだった。なのであの手この手で圧力をかけたのだが、これまたスペイン内部での
権力闘争の火種になってしまった。ここには史実と異なり王権神授説の明確な否定が行われていないという厄介な事情も
存在した。即ち、スペイン王家をどう扱うべきかまでもが議論の対象となったのだ。

253 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:11:03 そうした事情故に、フランスは発端となったナポレオンへの対処を要請した。
下手に革命勢力がスペインの体制を覆してしまえば、連鎖的にフランス国内へも革命の動きが活発化すると予測していたのだ。
帝政フランスとなって以来、革命勢力はほぼ地下に潜り込んではいたのだが、いつまた動き出すかは不明瞭な勢力であった。
少なくはないテロ活動をフランス国内で行っているのも確かであり、これが勢いづくことを阻止するには、スペインへの
圧力や干渉さえも辞さぬ覚悟でなさねばならないとフランス皇室も腹をくくっていたのだ。


そして、スペイン内部で政変が起こった。後の時代の呼称でいう『スペイン内乱』の発生だった。
主な勢力としてはスペイン東部を中心とする親仏・リベラル派と、それ以外の旧派勢力。そしてどっちつかずの
スペイン王家の三竦みになった。とはいえ、フランスにしてみれば巻き込まれた形になる。しかも、原因は自分たち
にあるとはいえ、勝手に親仏政権を建てられても正直困る。
実際の所、予測されるスペインへの軍事展開というのもかなりつらいところがある。実際、バルセロナ占拠時には
結構な食糧供給負担が発生していた。平時ならともかく、他に戦線を抱えている状況でバロセロナを支援するというのは
流石のフランスも厳しいものがあった。ピレネー山脈を越えるのも一苦労だし、ピストン輸送をするにしても海軍を
動員せざるを得ない。

「フランスにとって味方は必要だが、押し売りされるほど困ってはいない」

これもまた、ナポレオンの口述した内容である。というわけで、フランスは奇妙なことにスペイン内の親仏勢力に対して、
自重を要請して回る羽目になった。幸い説得そのものは何とかうまくいき、いったんは過激な親仏勢力も行動を抑え始めた。
これで手を引っ込めることができる、と考えていたフランスだが思わぬ敵が生まれていた。
スペイン内のカトリック勢力であった。というのも、既得権益をがっちりと握る教会勢力というのはフランス革命時にも
王家と連座するようにして結構ひどい目にあっている。当然、カトリックが主となっているスペインでもそれと
同じような光景が見られた。なまじ、フランスに異教や異端が入っているという情報がスペインへと流れていたことから
勝手に敵視していたわけである。まあ、ガリカンやブルボン家がローマ=カトリックから異端に近い扱いを受けているのは
ほぼ周知の事実であったし、フランスもある程度は自覚はしていたのだが、まさかここに影響してくるとは思わなかったのだ。

ともあれ、スペインのカトリック勢力は勝手に盛り上がって親仏勢力に圧力をかけ始めた。
これまた厄介なことに、スペイン領内にいるフランス人への嫌がらせをも始めていたのだ。異端審問とまでは行かないのだが、
とにかく宗教的な嫌がらせ、レリギナル・ハラスメントを行い始めた。やむなくフランスはスペイン領内に滞在する
フランス人に対して帰国命令を発布。丁度その頃はスペイン国内の情勢もかなり妖しくなっていたために、フランスは
海軍に船舶の護衛をさせるなどして慎重に対応していた。この際、スペイン領内の穏健なカトリック勢力がフランスへの
亡命を希望し、なし崩し的に保護する羽目になっていた。穏健派というか宗教的融和派なのだが。

しかし、その頃のフランスものんびりしているわけではなかった。
オーストリアやザクセン王国、スウェーデンはいまだにちょっかいをかけていたし、日本からも援軍を受けながら
も国境沿いで防がねばならなかったためだ。この第4次対フランス同盟もまた、すぐに崩れる羽目になった。
フランスから見れば、一向に学習しないものだと半ばあきれてはいたのだが。

254 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:12:22
そして、1810年についに武力による本格的な激突が発生した。それまでは精々小規模な小競り合いだったのだが、
より大規模な動員が行われたのだ。親フランス勢力と反フランス勢力はスペイン各地でぶつかり合い、連動するように
宗教や政治の拗れが一斉にぶつかり合ったのだ。史実の半島戦争よろしく、国内は未曽有の混乱に襲われていった。
合計で7つもの大規模戦闘が発生し、略奪は日常茶飯事となった。首都こそ何とか平穏そのものであったが、大都市でも
カトリック教会への焼き討ちや暴動、王家への反発のデモ、ブルジョワ階級への襲撃、カトリック勢力による『異端審問』
『魔女狩り』(※3)、さらに政治的な意味での思想検閲などなどが発生した。ここで語るにはあまりにもスペースが足りない。

一つ言えるのは、イギリスがスペインに対して軍隊を派遣していたこともこの混乱を大きくした原因となったことだ。
史実においてもこのスペイン独立戦争にナポレオンに対抗するべく介入していた。この世界線においても、スペインと
ポルトガルが対フランス同盟から離脱することを恐れた、いわば督戦に近い派遣であった。同時に、カトリック勢力が
必要以上に弱体化してスペインとポルトガルが国として傾くことを阻止する構えだった。
だが、当然のように介入を嫌うスペイン人もいるわけで、この世界においてはイギリス軍の方がゲリラ戦術に悩まされる
羽目になった。これの被害はフランス革命戦争において陸軍が疲弊したイギリスに追い打ちをかけることになった。

そして、この一連の激突はスペインと隣接するポルトガルにまで飛び火して国内の大きな疲弊を引き起こした。
文化財の喪失はもちろん、市井に存在していた美術品も多くが失われたし、地方においては貴重な畑などで現地調達が続いたことで
大きく荒廃する羽目になった。また、知識人・文化人の一部はフランスや国外への脱出を図ったために、国内の
インテリジェンスは少なくはない影響を受けた。この影響は、元々小さくなっていたスペインの影響力を大きく減じさせる
遠因ともなり、一節には100年分の損失とさえ言われた。

この戦争の結末はイギリス軍が本格介入することで何とか決着を見た。
リベラル・自由・親仏派などが中南米へと離脱して独立運動をおこし、ラテンアメリカの独立戦争が史実以上に激しくなったが、
一応スペイン領内の親仏派閥はおとなしくなった。というか、どの勢力も継戦不可能とあきらめたことが停戦につながった。
なによりも、決着がつかないことにしびれを切らしたフランスが艦隊を派遣して威圧したというのも大きかった。

「大人しくしないならばすべての勢力を根切りにする」

そのメッセージの意味を理解しない勢力は、スペイン領内には存在しなかった。
1811年に発表された「ナポレオン恫喝」が終戦の決定打となり、スペイン内部の混乱はようやく終結したのだった。
この直後に何かを勘違いしたオーストリアがフランスに喧嘩を売って来るのだが、史実と異なり一蹴された。
というか、史実以上に痛い目に遭ったオーストリアはプレスブルクの和約で味わった屈辱を晴らすどころか、それの上塗りを
しでかし、シェーンブルンの和約を結ばされる羽目になった。こうして、スペインへ集中してるフランスの横っ面を
叩くべく結成された第五次対フランス同盟はあっけなく崩壊。以後は散発的な抵抗がみられるばかりとなった。

255 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:13:56
さて、うまくスペイン動乱を乗り切ったナポレオンであるが、国内はかなり盛り上がりを見せた。
元々アウステルリッツの戦いにおける勝利で神聖ローマ帝国に大きな痛手を与え、尚且つオーストリアにも軍事行動が
暫くできなくなるほどの大打撃を与えていたことで、彼の戦争指揮能力の高さは評価される一方であった。
事実、彼は爵位を授かり貴族に列されることがほぼ内定しており、政治の側からも軍略家としての手腕を期待されて、
恐らくは政治家として働くことになりそうであった。ナポレオンとしては後進の教育という問題もあるというのに、さらに
政治まで抱えることになるとは、と嘆いている。

「戦争を始めるのは簡単であるが、終わらせるのは大変だ。そして、私の仕事もまた、終わらせるのに苦労しそうだ」

「勲章や報奨金は大量に得たが、休みが得られない」

「食事の量をふやしても体重が増えない」

「薬品に頼った体調管理などやりたくはないのだが、どうやらそれをしないとならないようだ」

ナポレオンの手記には、こう嘆きがつづられている。
彼が制定にかかわった市民諸権利法典(※4)は、なぜかナポレオン法典とあだ名がつけられてしまうし、三帝会戦(※5)
と呼ばれたアウステルリッツの戦いでの勝利を祝う凱旋門が建てられてしまうし、休暇をとるにしても迂闊に外に
出かけられなくなってしまった。迂闊に本人と分かれば、瞬く間にファンが詰めかけてくるのだ。人気が高すぎるというのも、
考えものである。結果として、彼が政治家として引退できたのは1820年を過ぎてからであり、長年の遠距離恋愛が実り
結婚したデジレ・クラリーとの落ち着いた生活ができるようになったのは、晩年に小笠原諸島の一角に別荘を買って
過ごすようになってからであった。この際に彼がデジレ・クラリーに記述させた「ナポレオン回想録」は、主にフランス
から離れた日本で記述されたものが多い。とはいえ、彼の愚痴が大半を占めており、出版された物はだいぶ抜粋した
内容であったようだ。ここには、編集に関わったデジレ・クラリーの配慮が見て取れる(※6)。
後の時代に、日本のとある人物が彼の回想録を呼んで深く共感したのだが、それは割愛しよう。
ともあれ、この一連の戦争を以て欧州のメインプレイヤーがフランスとなったことは、誰の目にも明らかであった。

256 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:14:38 ※1:
フランスが狙ったのはスペインのしばらくの沈黙であると同時に、この後に続く一連の戦争における戦費の調達の面も
あったようである。ある種の自転車操業でもあったが、政治的な観点からも賠償金が多く得られたことはフランスにとっても
大きなプラスとなっていた。

※2:
肌の色や出身などはとやかく言わないが、フランス人であるならばフランス人としての義務を果たすべしという考え方。
イタリアの方に出自を持つナポレオンがフランス皇帝に仕える臣民としての考えを持っていたことを如実に表す考えである。
即ち、戦争そのものを目的とせず、かといって政治に言われるままに戦争を起こすのではない、あくまで国益・皇帝の
利益のために相互協力すべしとナポレオンは常日頃から述べていた。

※3:
実際にはカトリックの名を借りたフランス系住人の一方的な処刑であったのが実態であった。
現地に残されていた資産が略奪を受けたため、スペインはフランスに対してかなりの補償金を支払わざるを得なくなった。
因みに、この補償金は戦争の賠償金とは別であった。

※4
史実のナポレオン法典とほぼ同様な法令。ただし、皇帝と自然法に基づいて諸権利を保障していた。
肌の色などに関係なく諸権利(裁判を受ける権利、教育を受ける権利、選挙に参加する権利など)を改めて保証する
内容となっていた。

※5:
ナポレオン自身はこの三帝会戦という呼び名を嫌っている。彼自身は一軍人でしかなく、皇帝を名乗るのはあまりにも
不敬であるためと彼は度々愚痴を漏らしていた。
また、この戦いでの勝利をきっかけに凱旋門が作られてしまった。彼としては半ば事後報告だったため承認せざるを
得なかった。しかし、その後皇帝などに対して一兵卒への金一封を『強く』要請している。

※6:
一般に公表されているのは、ナポレオンが自身の行った政策や軍事作戦について述べた部分のみであり、
それ以外の日常での発言や愚痴などは別な形でまとめられていた

257 :弥次郎:2016/05/08(日) 23:18:59
以上となります。wiki転載はご自由に。

ナポレオンが行ったのはフランス革命戦争時の報復戦ということで決着しました。
まあ、スペインに首を突っ込む羽目になったのは予想外でしたけど。

史実においても結構ナポレオンはうまく立ち回ってますね。
軍備一辺倒かと思いきや、うまく対仏同盟を崩すように戦争を仕掛けてます。まあ欲を出し過ぎて大陸封鎖令を
やらかしたのは大きすぎる痛手だと考えていますけどね…
拙作世界のナポレオンはこうしてメインプレイヤーがフランスであると再認識させ、再度戦争を仕掛けてこないように
欧州各国を脅すことになりました。

しかし、史実でもオーストリアって結構節操無しなんですよね…
何度もやられているのに何度もフランスに突っかけるという無軌道ぶり。ロシア遠征をしなかったらマジで
ナポレオンに蹂躙されていますよね…一体何を考えての事かは分かりませんけども。

さて、これで時代を飛ばしWW1あたりまで進められそうですな。
というか、早いとこアウストラリウス大公国とアカディア大公国についても書きたいです。
では続きをお待ちいただければ幸いだったり。

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最終更新:2016年08月06日 22:00