798 :yukikaze:2011/12/10(土) 23:19:15
それでは投下。合衆国海軍最後の意地をご覧あれ。
1943年4月15日より行われた、日本の弾道弾攻撃は、物理的被害という観点から
言えば微々たるものではあった。当時の技術的問題などから、三式弾道弾の破壊力は
限定的なものでしかなく、正直、これを使うくらいならば、連山爆撃機を投入した方が、
破壊力という観点から言えば、コストパフォーマンスと効率性から鑑みて、
軍配が上がったであろう。
しかしながら、これはあくまで「通常弾頭の破壊性」から見た場合である。
アラスカより東海岸まで届く射程距離。その高速性能から、迎撃することは
全く持って不可能であるというレポートが合衆国首脳部に届けられた時、
彼らは一様に戦慄することになる。「これにBC兵器が積まれたらどうなるんだ?」と。
既に合衆国がBC兵器を利用してしまった以上、BC兵器の枷は取り払われた状態である。
そしてこれだけの兵器を有している以上、日本が使わないという保証はどこにもない。
合衆国政府の反応は、実情を知る後世の人間からすれば、やや過剰反応に見えるが、
それはあくまで結果を知っているからそう見えるだけであって、当時の日本の弾道弾の
配備状況を知らない(BC兵器搭載弾頭はまだ開発されておらず、弾道弾もコストと
移動距離から、2~3日に1発が精々であり、1日に3~4発撃てるようになるのは
7月に入ってからである)合衆国政府にとっては、日本の弾道弾配備は、
史実のキューバ危機に匹敵する代物であった。(4月21日にピッツバーグに同弾道弾が着弾し、
製鉄所に大火災が発生し、多くの工員が死傷したのも、彼らの不安を増幅させた)
そして合衆国政府は、日本の弾道弾攻撃に対して2つのプランを策定した。
そのうちの1つは、あくまで保険という程度のプランであったのだが、
このプランこそが太平洋戦争を世界大戦に発展させる要因になってしまう。
1943年5月3日。カリブ海からサンディエゴに急遽派遣された、戦艦3隻
(ニューメキシコ級)を基幹とする、カリブ海艦隊は、悲壮と言ってよい
命令を受けることになる。
「カリブ海艦隊はその全力を以てアンカレッジに突撃し、同港の使用を不可とせよ」
799 :yukikaze:2011/12/10(土) 23:22:37
この命令を受けたカリブ海艦隊司令部は、思わず太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将に
命令を再度問い直したのだが、ニミッツは哀しげな表情で、アンカレッジ攻撃を命じる大統領命令を告げている。
確かに、アラスカ最大の補給路であるアンカレッジ港を破壊すれば、補給に多大な支障をきたし、
上手くすれば弾道弾攻撃を中止させられる可能性もある。
そうした点から言えば、戦艦による港湾攻撃は別に不合理でも何でもなかった。
アンカレッジに無事に着くという前提条件が、限りなく低いという事実に目を瞑ればだが。
事情を悟ったオルテンドルフは、批判的な声や視線を浴びせる幕僚たちを静まらせると、
苦悶の表情を浮かべているニミッツに「Yes sir」とだけ答え、準備に取り掛かることになる。
なお、同中将は、出撃の際に、年老いた親がいる者や、まだ10代の若者達を降ろすことを
ニミッツに告げ、ニミッツも了承している。
『米艦隊。サンディエゴより出撃する』という報は、同港を偵察していた潜水艦より
緊急電として伝えられることになる。
そして日本海軍は、同艦隊が西海岸沿いに北上していることから、
最終目的地がアラスカ方面であると予想し、全軍に第一種警戒命令を発令する。
この時、アラスカ近辺に存在したのは、自慢の空母機動艦隊の内、第3機動戦隊のみであり、
(第三艦隊は4月まで同地を警戒したのち内地へと帰還をし、第二艦隊も、
3月の追撃戦などでの補給や、第4機動戦隊がハワイ・西海岸ルートの通商破壊作戦を行っていた)
軍令部や連合艦隊司令部は、偵察情報から「戦艦3 軽巡1 駆逐艦8」の規模であることが
判明しており、彼らの航空攻撃だけで、十分に追い払えるものと考えていた。
だが、日本海軍のこうした楽観論は、5月16日の気象班の報告で文字通り吹き飛ぶことになる。
何故なら、同艦隊がアンカレッジに突撃するであろう開始予定日付近において、
同地では濃霧や荒天により航空攻撃を行うのが著しく困難になるという予測がなされたのである。
つまり、日本海軍は一番大事な時に最大の槍を使えない可能性が出てきたのである。
そして日本海軍は、何故米海軍が、すぐさま突撃してこなかったかを悟ることになる。
この海域を知り尽くしている彼らは、自らの天敵である航空機の攻撃を、気象という盾を以て防ごうとしたのであった。
ある
夢幻会上層部は「キスカの奇跡でもやらかすつもりか」と、忌々しげにつぶやいたとされるが、
もう一つの問題は、第三機動戦隊がアラスカよりも遠方で米艦隊を叩き潰そうと考えていたため、
アンカレッジからそれなりに離れてしまい、彼らの突入に対応できるかどうかが微妙となっていたことであった。
これにより、アンカレッジの運命は、輸送船団の護衛として派遣されていた、
第一艦隊第二戦隊に委ねられることになったのである。
この時、同戦隊を指揮し、臨時迎撃艦隊司令長官となった阿部弘毅中将は、
「男子一生の快事である」と述べ、直ちに迎撃戦を行うことになる。
801 :yukikaze:2011/12/10(土) 23:26:20
5月17日午前9時。
曇天のアラスカ沖において、遂に日米最後の艦隊決戦が行われようとしていた。
アンカレッジ沖に形振り構わずに突っ込もうとする米艦隊に対し、
阿部中将は彼らの頭を抑えるべく機動。同航戦になるようにしむける。
そしてそれに対し、オルテンドルフも又、同艦隊を突破しなければ、
アンカレッジに到達することは不可能であると考え、阿部の挑戦に真っ向から勝負することにする。
この時、日本側の戦力は、全速力で駆けつけている第三機動戦隊を除けば、戦艦2(日向・山城)、
重巡2隻(青葉・衣笠)、そして日本海軍最強の水雷戦隊というべき第二水雷戦隊(宇治、駆逐艦16隻)
であり、戦艦の数こそアメリカ海軍が多かったものの、補助艦戦力では日本海軍の方が圧倒的に有利であった。
阿部としては、戦艦をこちらが何とか耐久している間に、こちらの優勢な護衛戦力で敵の護衛部隊を蹴散らし、
水雷攻撃で止めを刺すと考えていたのだが、ここでオルテンドルフは思わぬ行動をとる。
何と彼は、戦艦部隊の砲撃を、日本海軍の戦艦ではなく、護衛部隊に対して放ったのである。
予想外の行動に混乱した日本海軍に対し、合衆国の水雷戦隊が突撃。混戦状態に追い込むことに成功する。
日本海軍は初戦で、自分たちのアドバンテージを失おうとしていた。
この行動に阿部は苦笑いを浮かべるも、返礼として戦艦部隊に対して砲撃を開始。
以後、阿部とオルテンドルフの意地の殴り合いが始まる。
そしてこの殴り合いに勝利を収めようとしたのはオルテンドルフであった。
彼は戦艦が1隻多いというアドバンテージを最大限に利用し、旗艦であるニューメキシコとアイダホを中破させたものの、
ミシシッピーはほぼ無傷であり、それに対して日向と山城を大破させることに成功していた。
まさに数の暴力の勝利であった。
そしてオルテンドルフは、両戦艦が戦闘能力をほぼ失ったと判断したことで、
攻撃を打ち切り進撃を再開。必死になって追い縋ろうとする敵護衛部隊に対して、
速度が衰えていたアイダホと残存護衛部隊に対応を任せると、勝利をつかむべく全速を出すよう命令する。
だが、彼の希望は、ニューメキシコの周囲に降り注いだ水柱によって絶たれた。
阿部の粘り強い時間稼ぎによって、遂に第11戦隊と第9戦隊が戦場に到着。
この時の進撃の無茶ぶりは、護衛についていた駆逐艦部隊の燃料が危険なレベルにまで下がっていたことからもうかがい知れる。
そして追撃戦闘をとことんまで追求した伊吹級の突撃に、予想よりも早い出現に虚を突かれてしまったオルテンドルフ艦隊は、
体勢を立て直す暇もなく、旗艦ニューメキシコが爆沈してしまい、慌てて迎撃しようとしたミシシッピーも、
伊吹と鞍馬の砲撃に気を取られている間に、第9戦隊の水雷攻撃を受けて波間に没することになる。
この光景に、最後まで生き残っていたアイダホ艦長は、もはや抵抗は無意味と考え洋上にて降伏。
ここに合衆国最後の有力な艦隊は消滅することになった。
かくしてアメリカ海軍は善戦したものの、結局目的を果たすことができないまま、
事実上ここに消滅することになった。
余談だが、阿部は今回の被害の責任を取るために辞表を提出したが、
彼の粘り強い指揮が増援が来るまでの時間を稼いだことと、
そして「敵味方問わず救助に当たれ」と命令したことが評価され、
不問に処されている。
一方、今回の海戦により、海上からの攻撃が不可能になったアメリカ合衆国政府は、
遂に保険としていたもう一つのプランを実行に移すことになる。
1943年5月24日。『オペレーション・ポーラスター』が発動。
ワシントン州に展開していた2個軍団が、カナダ国境を越えた瞬間であった。
最終更新:2014年09月18日 03:32