133 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20:19:57
ああそうでしたか…
それは失礼しました。
当方も一本、駄ネタを考えましたので投下いたします。



   ――「大和」海中記念公園



住所:沖縄県宜野湾市大和(新埋立地)
行き方:JNR沖縄那覇線宜野湾駅から無料連絡バスが運行中(30分に1本)
県営バス56系統「大山貝塚」行上下線で「海中記念公園」から徒歩3分


【概略】―――1966年の沖縄本土復帰15周年を記念して開園した海中公園。
有名な沖縄沖海戦で戦没した日米の艦艇とその慰霊施設で構成されている。
宜野湾市部の宜野湾海浜公園と、北部宜野湾海中に分かれている。
宜野湾市部の埋め立て地と人工海岸で構成される公園には、沖縄沖海戦に参加したアメリカ海軍の軽巡洋艦「アストリア」と日本海軍の駆逐艦「初霜」が保存されている。
また、公園内には慰霊碑とともに在沖縄アメリカ軍の広報館である「オキナワ・メモリアルセンター」が併設されている。

海中部は、沖縄沖海戦の最終段階となった宜野湾砲撃戦において沈没した日本海軍の戦艦「大和」「陸奥」、そしてアメリカ海軍の戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」を海中から潜水船によって見学することができる。
季節や天候によってコースは変わり、水深300メートル圏内までに沈没している戦艦「大和」と「アイオワ」の見学コースが一般的である。



【設置】―――第2次世界大戦後、激戦地となった宜野湾には早くからアメリカ陸海軍の手で慰霊碑がたてられていた。
また、終戦後の鉄量不足から多くの突入艦艇は解体されてしまったものの、駆逐艦の一部は残存し、また地元住民の手で清掃作業などが行われていた。
この場所に慰霊公園を設ける計画が持ち上がったのは、沖縄の日本復帰後すぐであった1952年のことになる。
当初は沖縄県主導の計画だったのだが、これにアメリカ海軍退役軍人会が乗り、ついで在沖縄米軍が、最後に日本政府が乗る形で合同で計画はスタート。
ついで、終戦10周年記念事業の一環として沖縄沖海戦で沈没した艦艇の調査が行われた。

その結果1957年2月、沖縄本島西方沖合30海里の海域、水深150メートルにおいて日本国防海軍の深海潜水艇「しんかい(旧西村式潜水艇)」は戦艦「大和」をはじめとする艦艇を発見。
特に、戦艦「大和」「陸奥」「アイオワ」「ニュージャージー」は砲戦の損傷や沈没時の爆発による損傷こそあったものの原型をとどめており、海中に堂々たる姿をとどめていた。
これを受けて引き揚げ計画などが検討に入ったものの、日米双方の遺族や海戦の参加者たちがこれに反対。
その結果、沈没海域を国立公園地域に指定することによって盗掘や立ち入りを制限することで日米の当局者が一致し、1957年に「沖縄海中戦跡国立公園」として指定。
1965年に、宜野湾市において「戦後25周年記念事業」の一環として宜野湾記念公園として整備が行われ、翌年開園した。



【潜水慰霊事業】―――年に一回、遺族や戦友会が許可を得て潜水船に乗り込み海中の艦艇を訪れることが行われていたが、これを受けてアメリカ・テキサスで「潜水船に観光客を乗せた興業事業」が発案される。
当初は大きな反発を受けたものの、発案者○○○○が弟を沖縄沖海戦で失ったことが知られると提案は討議に移された。
結果、沖縄沖海戦の生存者や遺族たちによる親睦会は討議の末に第2次世界大戦の艦艇や慰霊碑のための費用として運賃を用い、さらには「日米双方の霊への敬意を示す」ことを条件として提示、この案は許可された。
生存者の一人であり、新河野造船所のトップであった河野道兼社長(潜水船の建造で有名であった)が潜水船を提供し、発案者が資金を提供、さらに国防海軍と三菱造船が整備面での協力を申し出、1967年、海が穏やかな3月から4月にかけて日に1回のペースでの潜水事業が開始された。
その後、ガラスの船底を持つ船で海底の艦艇を見るという通年観光コースも設置され現在に至る。
参加には事前の予約が必要である。
また、参加の際には自費で慰霊のための花を持って行くのが通例となっている。


135 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20:26:35
誤字修正
「国立公園地域とすることで」→「国立公園地域に指定することによって」
「失ったことから」→「失ったことが知られると」

137 :ひゅうが:2014/09/15(月) 20:42:54
さらに修正、「終戦25周年記念事業」ですね

各部修正
最終更新:2016年08月13日 21:47