18 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:01:33
本当に彼らは何処に逝こうとしているのか…
「海軍大佐イアン・フレミングです。本日付で駐在海軍武官として着任いたしました」
「全権大使のロバート・レスリー・クレイギーだ。着任を歓迎するよフレミング大佐」
駐日英国大使館内部の執務室では、一人の海軍軍人が着任の挨拶を行っていた。男の名はイアン・フレミング。007
シリーズの原作者として著名な人物である。史実では、戦後退役してジャマイカの別荘に居住しているのであるが、憂鬱世界では引き続き海軍軍人として勤務していた。
第2次大戦後、産業界の要請によって陸軍の大規模なリストラを断行していた英国であったが、海軍では事情が違っていた。陸軍とは違い海軍は職能集団である。末端の一兵卒ですら技能持ちであり、陸軍のようなリストラは不可能だったのである。産業界の圧力に負けて必要最低限度の人材を民間へ放出せざるを得なかったのであるが、それ以外の人材は徹底的に囲い込んだ。退役しようとする海軍軍人は、希望を最大限考慮するという条件で強く慰留されたのである。
この当時のフレミングは、史実と変わらぬ…いや、史実以上のプレイボーイぶりを発揮しており、女性関係で多大なトラブルを抱えていた。イアン・フレミング海軍中佐が昇進したうえで日本へ飛ばされたのは、煩わしい女性関係から遠ざかることを望んだフレミングの要望と、駐日英国大使館の海軍駐在武官を探していた海軍の思惑が一致した結果であった。
フレミングの日本への派遣は、彼が海軍情報部勤務だったことも大きな理由である。情報部将校として情報収集と分析に長けており、さらに語学堪能で上流階級との人脈も豊富であった。フレミング家自体がロスチャイルド家の家系であり、同じく日本に派遣されているヴィクター・ロスチャイルド陸軍大佐との連携も期待されていたのである。もっとも、来日してからも浮名を流しまくって英国と日本の関係者に多大なるストレスを与えることになるのであるが。そこはまぁ、愛嬌というヤツであろう。
19 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:02:32
英国国会議事堂の奥には、普段は使われない一室がある。後に円卓の間と呼ばれることになるその部屋は、英国の真の中枢というべき円卓の面々が会合をするために使用している部屋であった。
1944年11月某日。
この日の円卓の主要な議題は、サンソム卿が本国へ送ってきたレポートに関することであった。夏コミに参加してそっち方面へ目覚めてしまったサンソム卿は、サブカルを活用した対日関係修復を実現するべく詳細なレポートを本国へ提出していたのである。
「日本のサブカルチャーを利用した英日友好推進だと?」
「荒唐無稽ですが、著名な日本研究家でもあるサンソム卿の言うことなので無視は出来ません」
「スキャンダル絡みでしたが、実際に駐日大使館では対英感情の好転に成功しています。可能性は十分あるかと」
円卓の出席者の大半はその効果に半信半疑であったが、サンソム卿は当時の英国における日本研究の第一人者であったし、実際に実績を挙げているので特に反対意見は出なかった。計画遂行にあたっては、総責任者としてサンソム卿が任命された。発案者であり、著名な日本研究家であることを考慮すれば妥当な人事ではあった。しかし、円卓の人間達は知らなかった。彼を含む、大使館の主要な人間のほとんどが既に二次元に汚染されていたことを…。
「しかし、単に英日友好だけを推進しても意味が無い。我々は日本に追い着くためにあらゆる手段を講じる必要がある」
「その件に関してですが、サンソム卿から日本への留学が提案されています」
「日本が70年前にやったことを、今度は我々がすることになるのか…世も末だな」
20 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:03:35
円卓で有識者達を集めて議論した結果、最終的に以下の方針が決定された。
- 日本への留学生の派遣。
- 駐日英国大使館の一部を開放して、英国文化に親しんでもらえるようにする。
- 日本の技術・文化の研究のために、大使館内に研究所(新館)を増築。
- 日本国内における諜報活動の強化と担当者の増員。
日本への留学であるが、英国政府は自薦他薦を問わずに広く募集をかけていた。しかし、この当時の英国人の日本に対するイメージは、得体のしれない黄色人種が支配する列強筆頭国であり、日本行きを自ら希望する物好きは少なかった。逆の見方をすれば、敢えて日本行きを希望するのは相当な強者と言えた。実際、自ら参加した者は技術者が大半であり、日本の優れた技術を直接見てみたいという欲求に抗えなかった技術MADたちであった。日本がトランジスタコンピュータを発表した影響か、特に数学者や暗号技術者、英国IBMなどのコンピュータ技術者が多かったようである。
帰国した彼らが日本の真のイメージ?を英国本国に広めたことにより、日本留学を希望する者が急増することになる。ちなみに、この時点で英国では日本人に対するビザの免除を行っており、この恩恵により倉崎をはじめとした日本企業の英国市場への参入が加速していくことになる。相互主義の観点からすれば、日本側も英国に対するビザを撤廃するべきであったが、当時の日本人の対英感情を考慮すると難しかったために英日双方でビザが完全に撤廃されるのはかなり後のこととなる。
なお、政府の動きとは別に英国の上流階級は、華族との政略結婚のために日本語教育や日本文化、風習、日本の上流階級のマナーなどの教育を行う人材を求めていたのであるが、その人材を確保する場所として駐日英国大使館に注目していた。そのため、日本帰りの大使館職員には貴族からのオファーが殺到することになる。
英国とは違い枢軸側は、日本人を領内に入れること自体を危険視していたため、ビザ免除など論外であった。もっとも、人種差別上等なドイツやフランスに行きたいという酔狂な日本人はごく少数だったので、さしたる問題とはならなかった。イタリアだけは例外であり、逆に日本との文化面での交流を積極的に進めるために入国審査を簡略化していた。このことが功を奏したのか、枢軸側で唯一日本人が観光出来る国として認知されていくことになるのである。
21 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:04:49
英国文化に親しんでもらえるように、駐日英国大使館の敷地を一部開放して飲食と展示スペースにすることになったのであるが、何を出すかで大論争となった。
「何は無くとも最優先で紅茶とスコーンを!」
「スコッチは絶対に外せないだろう!」
「エールとフィッシュ&ポテトもだ!」
「うなぎのゼリー寄せを…!」
「ハギスとブラッドソーセージも…!」
飲食スペースで提供するメニューにゲテモノが多いような気がするが、多分気のせいであろう。観光の目玉と言えば食事である。風光明美な景色を愛でるのも良いが、観光地でのみ味わえる美味しい食事は観光の楽しみの一つである。それだけに来訪する日本人に提供するメニューには細心の注意が払われたのである。しかし、この時代の英国料理は美味しくないというか、はっきり言って不味かった。最初こそ物珍しさで食べる日本人が多かったものの、あっという間に飲食スペースは閑古鳥が鳴く状態になってしまったのである。
英国料理とて、好き好んで不味くなったわけではない。そこには歴史的背景が存在していた。最大の原因は産業革命以降の労働者の非人道的なまでに劣悪な居住環境であろう。当時の労働者階級の賃金水準では食材を入手すること自体が困難であり、1日20時間近い重労働に従事させられて調理に手間をかけることもできなかった。これに食物を加熱殺菌することが奨励された当時の衛生学の啓蒙が相まって、必要以上に食材を加熱してとりあえず火だけは通し、喉さえ通れば胃袋さえ満たせれば味などどうでもいいという調理法が定着していったのである。
その結果、野菜を本来の食感がわからなくなるほど茹でる、油で食材が黒くなるまで揚げる、麺を必要以上にゆでるなどといった、食材本来の味や食感を残さないほど加熱する英国料理独特の調理法が完成したのである。英国料理は、食べる人の好みに応じて塩や酢などで味付けされることを前提としているため、調理の段階で味付けらしい味付けがされないことも多く、そのままだと味も食感も乏しい英国料理を日本人観光客は忌避したのである。
この問題が英国内で留まっているうちは、さしたる問題ではなかった。しかし、これら英国料理を日本人に提供するとなると大問題である。こと日本人は、何時いかなる時代でも美味しいものを食べることに全力を発揮する国民性である。英国料理を口にした日本人シェフが、本場以上に美味しい英国料理を作りだし、彼の振る舞うフィッシュ&チップスを口にした英国人は『初めて本物の英国料理を食べた。我々が食べていたのは紛い物だった…』とのコメントを残しているくらいである。
22 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:05:42
繰り返すが、食事は観光の目玉であり、火急な改善が求められた。大使館側は件の日本人シェフを破格の報酬で雇用してメニューの改善を図った。当時、無名であった日本人シェフの手腕は確かな物であり、観光客の味覚を満足させるレベルにまで劇的に改善させたのである。ちなみに、この日本人シェフは世界的にも名高い料理人である北一輝の弟子であった。師匠と同様に独立して店を構えようと資金稼ぎをしている最中に英国面の呪縛に捕らわれてしまったのである。
後に、この日本人シェフは英国本国へ招かれ、円卓のお歴々にも料理を振る舞った。改良された英国料理を口にした円卓出席者は、改めて自国の料理の不味さに気付かされたのである。以後彼は、英国料理改善計画のプロジェクトリーダーとして多大な功績を残し、最終的に勲章を授与されることになる。
この結果、憂鬱世界における英国料理は劇的に改善され、もはやメシマズではなくなった。英国でも美味しい料理が食べられるようになったわけであるが、それは日本料理や、日本の料理の技法を取り入れた新しい料理だったり、伝統的英国料理を改革したものという位置付けになった。カレーはその典型的例であり、英国本国では普通にカレールーが売られて庶民の味として普及していくのであるが、それは『日本風カレールー』(英国産で味のベースはC&Bカレーパウダー)として認識されている。
英国には元々存在しなかった、日本オリジナルの洋食については『日本風~』などという枕詞をつけずにそのままの名前で普及していった。例として挙げるならば、ハヤシライス、チキンライス、ナポリタンなどである。これらはそのままの発音で英語として認知されていくことになるのである。
ちなみに、激マズだった料理とは対照的にスコッチをはじめとした英国産の酒は大好評であった。英国PUBを模したアルコール提供スペースは、初日からアルコール好きで賑わっていたのである。駐日英国大使館は、第2次大戦後まもないころは、本場のスコッチを飲むことが出来る日本唯一の場所であり、各界の著名人らがお忍びでやってくることが多かった。特に外務省官僚の白洲次郎が入り浸っていたことで有名である。
23 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:06:59
展示スペースでは、日本人に英国文化を知ってもらうために英国の生活様式やファッションなどの展示を行っていた。それだけなら何の変哲もない展示スペースなのであるが…。
「うおお!メイド服だメイド服!!」
「女性兵士とかかっこいい!」
展示スペースの一角が異様な熱気に包まれているのは、メイド服や、バトル・オブ・ブリテン時の女性兵士の写真や軍服(を着せたマネキン)などなど、フェチ心をくすぐるものが多数展示されているためである。噂を聞き付けたオタクや同人作家達が押しかけたのは言うまでもない。
一部の展示物の内容やレイアウトは、サンソム卿の手によるものであった。夏コミに参加して以来、地方イベント…もとい、地方でのフィールドワークを重ねて日本人オタクの行動パターンを研究した成果は存分に発揮されていたのである。
フェチ心をくすぐるモノだけでなく、資料的な価値の高い物も数多く展示されており、見物客による写真撮影も盛んに行われていた。この時代におけるカメラは未だに高級品の部類であったが、日本国内では大戦終結直後から発売が始まった二眼レフカメラが急速に普及していた。金余りのオタク共がライカやコンタックスといったドイツ製高級カメラで撮影し、一般観光客は国産の二眼レフカメラで撮影するという、ある種異様な光景が展示スペースでは繰り広げられていたのである。
戦時中、日本国内のレンズメーカーは、カメラや双眼鏡、狙撃銃のスコープなど、軍向けにレンズを大量生産していたのであるが、戦争終結とともに過剰在庫を抱えてしまった。この在庫を有効活用したのが二眼レフカメラである。
二眼レフカメラは、当時の高級カメラの代名詞とも言えるライカやコンタックスといった、レンジファインダーカメラに比べて構造が簡単であり、特にボディは単なる箱に穴を開ければ事足りるため、町工場レベルの鈑金技術で製造が可能であった。余剰品のレンズに簡単単純な構造で生産しやすいボディとが組み合わさって、価格破壊と言っても過言ではない驚異的な低価格で販売されたのである。
日米戦争に勝利したことによる心理的解放感と、戦後の市場拡大による好景気の到来により、爆発的な勢いで二眼レフカメラは普及していった。その結果、戦後10年足らずでカメラは高級品ではなくなったのである。イベントや観光など、事あるごとにカメラで記念撮影をする日本人の姿は、海外の人間に強く印象付けられることになる。眼鏡にカメラという、外国人から見た日本人のステレオタイプが定着化したのもこのころである。
二眼レフカメラの売上で多大な利益を得た国内カメラメーカーは、その利益を一眼レフカメラの開発に注ぎ込んだ。当時主流であったレンジファインダー機は、ドイツ企業の独壇場であり、これを覆すのは容易ではなかったからである。
逆行者達の努力の甲斐もあり、一眼レフカメラの核心技術ともいえるペンタプリズムとクイックリターンミラー、さらに自動絞り技術が史実よりも早く実用化された。1950年代に入ると実用的な一眼レフカメラが発売され、二眼レフカメラと入れ替わるように普及していくことになるのである。
24 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:08:13
紆余曲折があったものの、観光スポットとして次第に認知されていった駐日英国大使館であるが、想定すらしてなかったものが人気となってしまい、大使館関係者を困惑させたものがある。それがスーツの仕立てサービスである。
このサービスは大使館職員用であり、関係者のスーツや礼服の仕立てに使用されていた。トップである全権大使はもちろんのこと、一般の大使館職員でも日本国内のイベントやパーティに参加する機会は多い。国を代表するには、その国に相応しい装いを、というわけである。スーツの本場サヴィル・ロゥで修行した職人が仕立てるスーツは紳士を演出するこれ以上ないアイテムであった。
事の発端は、外務省官僚である白洲次郎が大使館にスーツを注文したことであった。白洲は『英国人以上に英国人』とまで言われるほどに英国を愛する男であり、スコッチを愛飲し、三つ揃いのスーツを仕事では常に身に着ける紳士であった。そんな彼であるが、環太平洋諸国会議の準備のために目の回るような忙しさであり、連日の激務で体形が服に合わなくなってきていたのである。
英国スーツ、いわゆる3ピースのビスポークスーツ(三つ揃い)は、注文者の体形に合わせた形状が特徴である。どのようなブランドであれ、個人で仕立てる注文服は、既製服に比べてその傾向は強いのであるが、英国スーツは、よりタイトに身体にフィットする。つまり、ちょっとでも太ったりするとすぐに着辛くなってしまうのである。英国スーツを着続けるには、常に体形を維持するストイックな精神が必要といっても過言ではないのである。
この手の注文服は、ある程度までの体形の変化には対応出来るようになっており、仕立て直しをすれば問題無いと思われた。しかし、白洲が着ているスーツは英国滞在時に仕立てた老舗ブランドの逸品であり、国内のテーラーでは対応出来るか疑問だったのである。
戦前から英国大使館に出入りしている数少ない日本人である彼は、大使館職員と非常に親しい関係を築いていた。大使館内部に詳しい彼は、スーツ仕立て屋があることを知っていたのである。そこで、国内のテーラーよりは信用出来るだろうということで、スーツの仕立て直しを依頼したのである。大使館側はこれを快諾。早速、採寸をしたのであるが、生地に仕立て直す余裕が残っていなかったために、新しくスーツを作ることになった。ブランドにも依るが、スーツの完成までには数度の仮縫いを含めて2か月ほどかかる。白洲は激務の合間を縫って大使館に通ったのである。
25 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:09:11
きっちり2か月後に完成したスーツは見事なものであった。特にウェストコートの出来栄えは、まさに『血が通っている』と言われるほどのものであり、同僚の外務省職員達の間でたちまち評判となったのである。たかがスーツに何を大げさな、と思いがちであるが、対外交渉を担当する外交官にとって見栄えは重要な要素である。特に欧州においては、スーツは文化として完全に確立しており、この分野に関しては日本は大幅に立ち遅れていたのである。なお、この場合のスーツ文化というのは、単にスーツの縫製技術のみならず、デザインや着こなしも含めたものである。
日本におけるスーツ文化は、幕末の外国人居住区に滞在する外国人相手に出店したテーラーに、日本人が弟子入りして技術を学ぶことから始まったわけであるが、生地を身体に沿わせるのは平面的に生地を扱う着物職人では対応出来なかった。そこで、スーツ作りには足袋職人が起用された。足袋職人は履く人間の足の形に合わせて曲面的に生地を縫製する技術を持っていたからである。彼らは貪欲に技術を吸収し、さらに独自の技術を編み出すなど研鑽を重ねていき、その技術は本場欧州のテーラーと比較しても見劣りするものではなかった。しかし、肝心の見栄えがダメであった。国産スーツは、デザインが野暮ったくてエレガントさに欠けていたのである。こればかりはセンスの問題であり、職人の努力でどうこうなるものではなかった。欧州の人間は長く続くスーツ文化で審美眼が鍛えられており、職人もまた然りであった。対する日本のスーツ文化は未だ歴史が浅く、とりあえず形にしてみたという段階。これでは勝ち目などあるはずがなかった。
その後、白洲のスーツの評判を聞きつけた外務省職員からの問い合わせが殺到したわけであるが、大使館側としては、当初は注文を受けるつもりはなかった。仕立てサービスは、あくまでも大使館職員用であり、白洲のスーツの注文を受けたのは、あくまでも特例扱いだったのである。しかし、新たに日本でコネクションを作る必要性を感じていた英国本国の意向により、スーツの注文を受けることになった。この手の服を所望する人間は着道楽でセレブな人間が多いので、コネクション作りには最適なのである。
実際、注文を入れてくるのは、華族をはじめとしたセレブ階級が多かった。戦前は欧州へ行くことも多く、要人との会談で本場の職人の仕事を間近で見ていた彼らが、国内のテーラーの仕立てで満足出来るわけがなかった。しかし、現在は欧州への渡航は極めて難しい状況であり、注文服を作りたくても作れなかったのである。広告を出したわけでもないのに、口伝で噂が広まったのか注文は増えていく一方であった。
この事態に英国大使館は頭を抱えたわけであるが、客層が客層だけに、しくじりは許されなかった。急遽チーフカッターを本国から追加招集するとともに、国内のテーラーへ下職を出したのである。セレブ向けの仕立てなので、給金が高いうえに本場の仕事を見れるということで人気があり、仕事の取り合いになることもあったという。
26 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:10:12
国内のテーラーにとって、英国大使館からの下職を受けることは、本場の技術を学ぶこと以上の意味があった。このころ大人気だった、とある映画俳優が英国仕立てを愛用しており、銀幕の中で強烈な存在感を放っていたのである。そうなると、映画を見た観客は当然気になるわけで、贔屓にしているご近所のテーラーに、映画で見た服を所望するわけである。テーラー側としては、生活のために否が応でも英国仕立てを習得する必要があったのである。
英国仕立てというと、一般的に重厚なクラシックスタイルと思われがちである。しかし、英国では1950年代になると、『コンジット・カット』と呼ばれるスマートなシルエットが流行し、当時の大ヒット映画だった007で、主人公であるジェームズ・ボンドが着用して一躍有名となった。初代ジェームズ・ボンド役であるショーン・コネリーの広い肩幅とは対照的な細いラペル(スーツの下襟)は、切れ者のイメージを定着させることに成功している。そのスマートさから、コンジット・カットは、日本では若者向けの服装として定着していくことになる。
27 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:11:48
サンソム卿の提言により、日本の技術・文化の研究のために大使館の敷地内に新館を建てることになったわけであるが、日本政府への建築許可の申請や、資材の調達、さらに実際に建築するための人手の確保などに手間取った。純英国建築にするために、資材や人材を英国本国から持ってくる必要があったというのが、表向きの理由であるが、実際は機密上の理由であり、盗聴装置その他の傍受装置を埋め込まれないようにするための措置である。そのため、新館の完成は1950年までずれ込み、新館が完成するまでは、倉庫や空き部屋を利用して研究が行われていたのである。
技術研究で特に力を入れていたのは、当然トランジスタコンピュータ関連技術であった。とはいえ、トランジスタコンピュータは機密指定が解除されたばかりであり、市場へは流通していなかったわけであるが。それでも、得られるものは多かったのである。
「アキバの品揃えは素晴らしいな!mt管が激安で手に入れ放題だぜ!」
「サブミニチュア管が無造作に山積みにされてる…!?」
「ラジオが小さくてめちゃくちゃ安い…!自分用に買おうかな…」
憂鬱世界においても、電子部品のメッカは秋葉原であった。史実では進駐軍の放出品を扱うことから電気街として発展していった秋葉原であるが、この世界では
夢幻会の逆行者達の意図が強く働いており、史実よりも早く大規模な電気街として発展していたのである。史実のラジオストアー、ラジオガァデン、ラジオセンターも既に設立されており、ラジオ用に真空管やその他関連部品が大量に、しかも格安で販売されていたのである。全国から大勢の人間が買い出しに訪れており、秋葉原は文字通りのメッカ状態であった。
技術者達は秋葉でパーツを買い漁り、最終的には独自にコンピュータ(ミニコン相当)を自作する域にまで達していた。これに並行して、特許庁に日参してトランジスタ関連の特許を調査したり、新たに獲得したコネを活かしてトランジスタコンピュータの現物を見せてもらえるように根回しするなど、あらゆる方向性からコンピュータ開発を促進していたのである。
ハードだけでなく、ソフトウェアの研究も行われた。英国では機種に依存する機械語やアセンブリ言語が主流だった時代に、ALGOL系列のプログラミング言語を開発したのも、英国大使館に常駐していた技術者であった。当時の日本のプログラミング言語は日本語ベースでの記述だったので、それを英語ベースに構築し直すのには相当の苦労があったのであるが、ここでは割愛する。
後に本国へ帰国した技術者らであるが、当時の英国は日本で主流となっているトランジスタコンピュータではなく、パラメトロン全盛であったので、その技術のすり合わせに苦労することになる。
1950年になると、英国でもトランジスタの理論的な解析は終了し、実験室レベルで初期型トランジスタの動作が可能になっていたのであるが、いざ量産するとなると、歩溜りが悪すぎて採算が取れなかった。パラメトロンの性能向上も既に限界にまで達していたので、既に特許切れであったトンネルダイオードを使用したコンピュータ(史実ゴトーペア)を実用化して凌ぐことになるのであるが、その際にも大使館帰りの技術者達が大いに役立ったのは言うまでもないことである。
28 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:12:55
日本の文化研究であるが、それこそサンソム卿夫妻の従来の研究分野であり、新たな文化研究はサブカルチャーに集中することになった。この時代の憂鬱日本のサブカルチャーというと、やはり漫画や同人誌があげられる。それゆえに大使館内でも同人誌を作ろうとする動きが出てきたのは、ある意味当然のことであった。
最初はお気に入りの同人誌の模写から始まり、果ては漫画家のアシスタントとして働く剛の者まであらわれた。その甲斐あってか、数年後にはコミケに出展している作品と遜色ないほどのレベルに達したのである。当然、大使館の職員が日本国内でそういった活動をすることには問題があるのだが、サンソム卿は文化交流で押し通した。そもそも交渉ごとで英国紳士に適う人間はそうそういるはずもなく、日本側の担当者は理詰めで、ぐうの音も出ないほどに説得されたのであった。
同人誌だけでなく、コスプレやフィギアにも力が入れられた。サンソム卿が要請して、本国より、金属、皮革、服飾職人らを文化研究の名目で呼び寄せたのである。本職の人間が作っただけあり、その完成度はそんじょそこらのモノとは比較にならぬ出来栄えであり、展示スペースに飾られて大使館観光の目玉となった。特にセ○バーのドレスと甲冑、エ○のメイド服は完成度が高く、量産販売が一時期真剣に検討されたほどであった。
日本文化の研究と理解の一環として英国大使館では、コミケや陸海軍合同文化祭への参加も積極的に行っていた。サンソム卿夫妻を筆頭に、多数の大使館職員が同人誌販売やコスプレに参加していたのである。イベントの常連となった彼らはサークル名『駐日英国大使館』として、現在でも老舗の大手サークルとしてイベント活動を行っているのである。
同人の大手サークルとなると、それなりに利益が出るのであるが、発生した利益は全て日本国内における活動費用として使用された。そのため、英国本国からは英国大使館のサークル活動について、一切文句が言えなくなったのである。同人活動に拍車がかかったのは言うまでもない。
29 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:14:02
史実日本では、漫画と並ぶ有力なサブカルであるアニメであるが、憂鬱日本では戦前よりテレビ放送は始まっていたものの、普及台数の上では未だラジオが未だ主力であった。戦後の好景気により本格的な普及が始まっており、当時の白黒テレビ用に○人○○号や○バQ、○ー○ン等が放送されていた。もちろん、子供たちに大人気であった。
1945年の時点で、カラー放送技術は実用化の域に到達していたが、試験放送レベルに止まっていた。なお、採用されたカラー放送は、史実のNTSC方式であり、白黒テレビ受像機でも、カラー放送の内容を見ることができるメリットがあった。
本格的にカラー放送を行うためには、テレビ受像機を白黒からカラー対応にする必要があり、放送局側でも設備を更新する必要があった。しかし、白黒テレビすら十分に普及していない状況で、カラー放送は時期尚早と夢幻会では判断したのである。萌えアニメをカラー放映したい一部の逆行者達は血涙を流したのであるが、無い袖は振れなかった。現実は非情である。
白黒テレビの性能向上と低価格化が進み、急速に普及していく影でカラー放送への下地作りは進められていた。1950年代半ばには、電電公社による全国カラー放送用マイクロ回線網が完成し、ほぼ全国をカラー放送の視聴可能範囲に収めることが可能になった。撮影現場では白黒受像機でも画質が落ちないよう設計された分離輝度2撮像管式カラーカメラが導入されて、白黒でもカラーでも安定した画像を得ることが可能になったのである。
1960年になると野球中継と大相撲がカラー化され、カラーテレビが急速に普及していった。カラーのアニメ作品が増えていったのもこの時期であり、特に海軍が全面的に協力した『宇宙戦艦ヤ○ト』の人気は絶大であった。ヤ○トはもちろん、そのモチーフとなった大和型戦艦の人気は天井知らずであり、海軍関係者は鼻高々であった。しかし、その人気故に、後に退役する両艦の処遇に頭を悩ませることになる。
30 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:15:14
日本国内における駐日英国大使館の諜報活動であるが、ヒューミント(HUMINT:Human intelligence)は控えられていた。戦前の裏切り行為により、協力的な人間が激減していたこともあるが、下手に接触すると日本側を刺激することになりかねなかったからである。代わりにオシント(OSINT:Open sourse intelligence)とシギント(SIGINT:Signals intelligence)に力が入れられた。
オシントで、公開資料を集めている情報解析チームは、新聞や雑誌、テレビといったメディアの報道を継続的にチェックしたり、書籍を集めて読み込み内容を分析する事で地道に情報を収集していった。
「情報収集のために、是非ともコノミンの新刊をゲットせねば!」
「コミケも良いが、神保町も良いぞ!掘り出し物があるからな!」
「まったく、アドミラル・シマダには感謝してもしきれないな。こんな素晴らしいものを広めてくれたのだからな」
何故か公費で、漫画や同人誌を大量に購入していたが、あくまでも情報収集の一環であった。後に問題視されたので、サークル活動で得た利益で購入することになり、ますます趣味性に富んだ書籍が購入されることになる。
ちなみに、英国でも日本の最高指導者として有名な嶋田であったが、いわゆる同人の生みの親であったことを英国に広めたのも駐日大使館職員だと言われている。後に英国で開催されたコミケでも、嶋田の銅像が飾られたという。
31 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:16:04
シギントによる解析であるが、元々駐日大使館には本国と直接通信出来るアンテナがあったので、これにアンテナを追加装備することで、容易に日本国内のラジオや無線を受信出来た。しかし、受信する分には問題無かったのであるが、別の問題が発生したのである。
「なんだこれは!?チャンネル数が多すぎて把握出来んぞ!?」
「民間ラジオだけでもこれか!?業務用無線とかも含めたらとても手が足りないぞ!」
戦前よりラジオ普及に力を入れていた夢幻会によって、日本全国、特に都心は電波銀座とも言える状態になっていたのである。AM放送だけでなく、史実よりも前倒しして始まったFM放送まで含めると、当時の英国のラジオ放送とは、文字通り桁違いのチャンネル数であった。
この事態にスタッフを大幅増員して対処することになった。
再編成されたシギント班はラジオと無線の2チームに分けられたのであるが…。
「いやぁ、あの子の声かわいかったよなぁ!早く週末が来ないかなぁ!」
「セイユウだっけ?これがジャパニーズ・モエというやつか…!」
「くそぅ、今週もお便りが採用されなかった。来週こそは…!」
ラジオ解析班はあっという間に、萌えラジオの虜となり。
『もう仕事が多すぎて過労死しそうです。あぁ休みが欲しい(バーロー声)』
『そうなんですか、トー○ョーさんも大変なんですねぇ』
『あの腹黒大魔王に何度泣かされたことか…!(バーロー声)』
『まぁまぁ、そのうち良いことがありますよ。お仕事頑張ってください』
『うぅっ、あんたホントに良い人だなぁ…(バーロー声)』
無線解析班はアマチュア無線に嵌ってしまったのである。
こんなザマでも、さすがは英国紳士というべきか、仕事はきっちりこなしていた。いや、その分性質が悪いというべきかもしれないが。
32 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:17:12
苦労の末に手に入れた情報であるが、本国へ持ち込めなければ意味が無い。安全で確実な方法は、マイクロフィルムを外交特権で持ち出すことであったが、この方法は即応性に欠けるため、緊急時の情報伝達には不向きであった。そのため、技術情報などに用途が限られていた。
最初に考えられたのは、暗号無線で本国と直接交信することであるが、これは最初は否定された。英国では既にエニグマと、さらに強力なローレンツ暗号をコンピュータで解析した実績があったが、日本のコンピュータ技術は英国のさらに先を行っているのは確実なため、下手な暗号無線などあっという間に解析される恐れがあったためである。しかし、即応性を考えるとこれ以上の手段は無いのが実情であった。
暗号技術者を交えた関係者達は必死に考えたあげく、以下の結論に達したのである。
- 変換を複雑化すると手間がかかりすぎて即応性に欠ける。
- どんなに暗号返還を複雑化しても、コンピュータで総当りされればいずれ破られる。
一般的な暗号は鍵(キー)があれば解読出来るのであるが、鍵が無くても高性能なコンピュータがあれば、どんなに複雑な変換をしたとしても、多少時間はかかるが、必ず解けてしまうのである。この事実に関係者達は頭を抱えてしまったが、ある一人の技術者の発言が問題の解決に光明をもたらすことになる。
『破られる前提で、常に新しい暗号を使用すれば良いんじゃね?』
新たに採用された暗号は、いわゆるシフト暗号であった。文章を暗号ブックと重ねて、アルファベット順で数値化したものである。例を挙げると、暗号ブックがAで文章もAの場合は0を、暗号ブックがZで文章がXの場合は-2となる。極めて簡単な暗号であり、暗号ブックさえあれば、素人でも簡単に解読出来るシロモノである。
ただし、この暗号ブックが曲者であった。この暗号に用いる暗号ブックは一般書籍であり、英国ならばどこにでも売っている物であったが、日本ではまず入手出来ない超ローカルな書籍であった。それでも、同じ暗号ブックで繰り返し通信すれば、コンピュータで全数検索と頻度分析にかければ解読は不可能では無いのであるが、この暗号では2度と同じ書籍を使用しないようになっていた。いわゆる使い捨て鍵暗号であり、バーナム暗号の一種でもあった。
見た目は(中身もであるが)完全な一般書籍のため、大使館関係者が日本国内へ持ち込むのは容易であり、実際に日本側のチェックも素通りであった。新暗号で製作された暗号電文は、駐日英国大使館の大出力アンテナから発信されて、いくつかの中継地を経て英国本国で受信された。逆に本国から駐日英国大使館へ宛てた暗号電文もそれなりの頻度で発信されており、日本側の暗号解読者たちは、一時期躍起になってこの暗号の解読に励んだのであるが、結局のところ徒労に終わっている。
33 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:19:13
あとがき
というわけで、改訂版です。
本当に駐日英国大使館は何処に逝こうとしているのか…(汗
イアン・フレミング
言わずと知れた007の原作者です。史実とは違い独身です。
フレミング家自体がロスチャイルド家の家系
事実です。イアン・フレミングとヴィクター・ロスチャイルドは遠い縁戚関係だったりします。
ビザの免除
英国側はもちろんのこと、日本側も行き来が簡単になれば英国の市場に参入しやすくなるので、メリットはあります。対英感情さえなんとかなれば、もっと早く相互でビザ免除出来るのですが…。
教育を行う人材
本編で描写されていたので書いてみました。長年日本にいれば日本語が堪能になりますし、マナーにも詳しくなるので、うってつけの人材ではないかと。
イタリアだけは例外
あのドゥーチェなら、日本人を積極的に招き入れることくらい平気でやりそうなんですよねぇ…。
『初めて本物の英国料理を食べた。我々が食べていたのは紛い物だった…』
元ネタはもちろん足柄さんのあれです。こちらは心の底からの本音ですが。
北一輝の弟子
破天荒な師匠とは違って、良識人だったために英国大使館からの要請を断れませんでした。破格のギャラに
吊られたというのもあるのですが。
もはやメシマズではなくなった
マズい料理と美味い紅茶とお菓子がスリムな英国紳士を形作っていたというのに、飯がウマくなったらメタボになってしまう…!
二眼レフカメラ
文字通りレンズが2つあるカメラです。史実でも、その安さから爆発的に売れた時期がありました。あり合わせの材料で組み立がてられるので、零細メーカーが乱立したことでも知られていたりします。現在のスマホみたいですね。あれもクリーニング屋でも作れるとまで言われてますし。
レンジファインダーカメラ
光学視差式距離計が組み込まれていて、距離測定に連動してレンズの焦点を合わせられるカメラのことです。代表的なのはライカです。
ペンタプリズム
反射を繰り返すことで正立正像(左右上下の向きが合っている)を接眼レンズに導く5角柱形で7面体のプリズム。一眼レフカメラの核心技術。
クイックリターンミラー
一眼レフカメラは、レンズとフィルムの間に置いてあるミラー(反射鏡)によってファインダー対象を写すのですが、撮影時にはフィルムに光を入れるためにミラーを移動させる必要があります。ミラーが移動している間は、ファインダーを覗いても何も見えません。いわゆるブラックアウトです。クイックリターンミラーは、シャッターの後幕が通過しきるのに連動してミラーが戻るようになっており、ブラックアウトの時間を最小にすることが出来ます。一眼レフカメラの核心技術その2。
34 :フォレストン:2016/06/11(土) 17:20:05
スーツの仕立てサービス
拙作のオリジナル設定です。さすがにスーツの本場なお国柄といっても、大使館内にスーツ仕立屋まで完備していないと思う…けど、英国のやることだから本当にありそうで怖い。
『英国人以上に英国人』
王様の仕立て屋~サルト フィニート~を読みましょうそうしましょう。
『血が通っている』
同上。
『コンジット・カット』
王様の仕立て屋~サルトリア・ナポレターナ~を読みましょうそうしましょう。
新館
史実でも1987年にオフィス用の建物として新館が新築されています。
ゴトーペア
トンネルダイオードを組み合わせて論理素子にしたものです。史実では、その動作速度の速さに注目されていました。速いといっても、さすがにトランジスタには勝てませんが。
NTSC方式
全米テレビジョン方式委員会(NTSC)が決めたもので、走査線552本。米国RCA社が開発した方式で、最大の特長は白黒テレビ受像機でも、カラー放送の内容を見ることができること。史実日本も採用している形式です。
現実は非情である。
このころの憂鬱日本は、大和型戦艦建造計画、新型の噴式陸上攻撃機と噴式戦闘爆撃機の配備計画、さらに稲荷計画にトランジスタとビッグプロジェクトが目白押しです。カラー放送の前倒しなんて、出来るはずもなかったのです。
電電公社
史実のNTTの前身です。親方日の丸です。憂鬱世界では分割民営化なんてされていないので、未だに存在し続けていることでしょう。
分離輝度2撮像管式カラーカメラ
史実の東京オリンピックの撮影に使用されています。
野球中継と大相撲がカラー化
オリンピックとかやる余裕なんて無さそうだし、他にカラーTVが急速に普及する理由を考え付けませんでした…_| ̄|○
『宇宙戦艦ヤ○ト』
史実と違って、沈んでいないので展開がだいぶ変わっているはず。保存運動が起きたらどうしましょうかねぇ。あれだけの巨艦を保存するとなると、費用も天文学的な額になりそうですが。
最終更新:2016年09月05日 21:55