571: yukikaze :2016/12/25(日) 22:57:59
『
夢幻会が豊臣政権に転生したら(関ヶ原後ver)』の3作目を考えたので投下。
題名としては『ある日の駿府城』ですかねえ。
(さて・・・どうしたものか。)
先年、将軍職を息子の秀忠に譲り、大御所として隠居した家康は、駿府城の一室で思いを巡らせていた。
(大坂の秀頼殿にも困った物よ。老臣達は目が見えておるゆえ心配はないが、あの若者は何を考えているのやら。まあ齢14故、もう少し辛抱はしようが・・・)
考えれば考える程、秀頼の精神的な幼さに、家康は溜息をつきたくなった。
老臣達は、豊臣家が正式に秀忠の臣下になるのと引き換えに、豊臣家の安泰を徳川家の一門として保障してもらうことを狙っており、政治的に見れば完全に正しいカードを切ろうとしたのだが、肝心の秀頼がむずがった事で、エースのカードは無残にブタになってしまった。
そしてその事実は、常識人と言っていい家康にしてみれば、何とも惜しい失敗であった。
(秀忠は武勲がないことを焦っておる。故に、豊臣家が『新将軍に』頭を下げれば、武勲ではなく遺徳を以て平伏せたと宣伝させ、徳川の権威と秀忠の自信につながったものを)
大軍を引き連れての上洛は失敗だったかと家康は考える。
全国の諸大名が新将軍の威にひれ伏していると見せつける為であったが、大坂では薬が効きすぎてしまったようである。勿論少なかったら少なかったで問題はあるのだが。
「ままならぬものよのお・・・」
「人生とはそのようなものでございましょう」
穏やかな声で、家康の他にたった一人だけ部屋にいる老人は答える。
「達観しておるのお」
「思い通りに進んでいれば、三河は一向宗の国ですわ」
かつて自身が一揆軍の軍師として、目の前の主君と戦った事実を指して、老人はカラカラと笑う。
そんな姿に、家康も怒るどころか苦笑をする。
思えばこのような物言いをする三河者も大分いなくなってきた。
徳川四天王の内、生き残っているのは本多忠勝だけであり、元亀天正の動乱の中、戦場を駆け抜けた三河者も一人また一人とこの世を去っていった。
逆に増えたのは、栄達した徳川家を知る者達。
自然と家康を敬い、家康の言葉を神聖視する態度であり、このように言う者は、自分の周りではこの老人か、後は大久保の若造位か。
まあ大久保の若造は、この老人と比べると思慮も分別も足りていないという欠点はあるのだが。
572: yukikaze :2016/12/25(日) 22:59:55
「江戸は・・・やはり声が大きいか」
「大樹もですが、一番声が大きいのは・・・」
「相模か。あれは上田で何を学んだのか」
「後は酒井殿に土井殿」
「戯けどもが・・・大坂の財に目がくらみおったか」
家康は吐き捨てるようにつぶやいた。
家康が頭を痛めているのが、現在の徳川の若手官僚達がとかく好戦的であるということであった。
何しろ彼らが物心付いた時には、徳川家は無敵と言っていい戦績を誇っていたのだ。
故に彼らは自然に徳川の武威を誇るようになったのだが、だがその戦績は、海道一の弓取りと言わしめた家康の戦術の才に、それに応えることができる分厚い武将達、そして死をも恐れぬ三河武士の三つが合わさってのことである。
そのどれか一つでも欠ければ、その「無敵」という看板も下ろさざるを得なくなるのである。
現に第一次上田合戦では、家康がいなかったために、真田に翻弄されるという失態を犯している。
「大樹公のお気持ちもよくわかるのですが」
「良くも悪くも糞真面目じゃからのう。秀頼殿の行動が気に障るのもわからなくもないが」
太平の世を維持するという点から言えば秀忠の気性はあっているのだが、やはり経験不足というか杓子定規に事を考えがちになる。
独眼龍なんぞは「仁とか智とかは大事だけどそれも過ぎれば毒なんだよ」と言い放ったというが全く同感である。まああれはあれで「いい加減火遊びをするのを止めんか」というか分別をつけてほしいものだが。
「のう・・・佐渡。秀忠が総大将で、儂もそちも平八郎もいない状態で、大坂は落とせるか?」
「落ちましょうな。ただ、被害に関しては豊臣滅亡で見合うかというと・・・」
「じゃろうなあ。あれは太閤が心血を注ぎこんで作り上げた名城よ。おまけに指揮をするのは、人望の厚い修理か甲斐守。どちらも名うての戦上手ではないが、少なくとも牢人衆と譜代衆との間で諍いを起こさせるような阿呆なことはせぬしな」
この国で最も戦の経験のある名将の評価に、正信は深くうなずく。
援軍も何もない状態であるため、最終的には大坂城は落城するであろうが、今の徳川の血気に逸った面子ならば、腰を据えての戦よりも、無策に攻め込んで大打撃を幾度も浴びるなどという可能性が極めて強いのである。
上田で次世代の武将たちの戦ぶりを見ていた正信にとっては、火を見るより明らかであった。
「まあ後4年が限度じゃろうなあ」
「大御所も総見院様も同じ時期に家を切り盛りしていましたからな。幼君とは言えますまい」
無論、彼らは理解していた。
自分達の寿命ももってそれ位ではないかと。
豊臣が愚かな選択を取り続けるというのならば、それこそ何らかの手を打たなければ幕府の威信にかかわるのである。
豊臣を積極的に潰す気もない家康であったが、それにも限度というのがある。
「それにしても・・・大坂五大将とかいったか。目の付け所『だけ』はあるの」
「真田に毛利、後藤に明石に長宗我部。確かに一手を率いる武将としては有能ですな。
後藤以外は徳川に逆らったという点を除けばですが」
2人の老人は苦笑を浮かべる。確かに戦をするならば頼りにはなるであろう者達である。
だが、どれだけ有能な武将を揃えても、それを活用できなければ何にもならないのである。
大坂の秀頼の、あのプライドだけは肥大化した凡君に、彼らを使いこなせるとは到底思えなかった。真田辺りはせいぜい高く自分を幕府に売りつけるのが目に見えていた。
「修理や甲斐守のように老獪に進めよとは言わぬがな」
「あれは見事でしたな。立花を例に出されては、こちらも文句は言えませぬわ」
あの時の2人の話の進め方は見事であった。
牢人を野放しにしていては天下が乱れるとして、乱暴狼藉をする者達を厳しく取り締まると共に、『弾圧するだけでは謀反の元になるので、陪臣の中で計数や民政に明るいものを登用させてほしい』と頼み込み、数年の間に官僚層を立て直し切ったのである。
おまけに七手組再編を利用しながら、立花の登用を逆手に取り、幕府に積極的に逆らわなかった氏家行広を招聘すると共に、借りがあるとして淡輪重政を登用している。
家康も認める程の器量を持つ氏家は、片桐や速水の補佐役として誠実に政を行い、淡輪は増田や長束以上の計数家として頭角を現すまでになった。
『六郎兵衛(注:淡輪の通称)がくしゃみをすれば、畿内は風邪をひく』とまで、畿内の商人達に言われているのだから大したものである。
勿論、畿内が風邪を引けば、日本は重病になるということでもあるから、幕府としても頭の痛い所ではあるのだが。
573: yukikaze :2016/12/25(日) 23:00:30
「そういえば・・・大坂から赦免の願いが出ているとか」
「大谷の倅の事か。相変わらず嫌な所を突いてきよるわ」
「『刑部は徳川殿に何の異心もない。彼が西軍に付いたのは、治部への個人的友情と、家族を西軍に人質に取られたため』ですか。情に絆される者も出てまいりましょうな」
「まあ、刑部は当家とも入魂であったしのお。ついでにいえば宇喜多の件で借りがある」
家康はつまらなさそうに呟いた。
宇喜多家の騒動を沈める為に、家康は、榊原康政を派遣して事態の収拾にあたったのだが、榊原に対する徳川家中での妬みに、榊原自身が耐えられず、仕事を投げ出していた。
これによって宇喜多騒動の早期解決は失敗に終わり、家康としても面目を思い切り潰される事になるのだが、同時に面目を潰されたのが、この騒動の鎮定に協力していた大谷刑部であった。
大谷にしてみれば『徳川殿が難儀をなされるだろうから』と好意で手伝いに来たのにも拘らず梯子を外して、調停の失敗に追い込んでしまったのである。
元々徳川との関係も良好だった大谷が、西軍に加入したと聞いた時は、家康ですら耳を疑ったほどであったし、その理由に思い至った時には、自身の失態に、手で顔を覆ったものであった。
「修理や甲斐守がおる故、間違いはないとは思うが・・・」
「真田や長宗我部に比べれば、マシではないかと」
本多正信がそっと口添えをする。
世評では、陰謀を巡らす狡猾な老人と見られがちではあるが、実際には正信はかなりの苦労人であり人情家でもあった。彼が冷酷になるのは、あくまで『徳川家の為に必要と判断した』場合であり、それ以外においては、むしろ穏健派であり温情的な態度を示すことが多かった。
彼の悪評が酷いのは、多分に政敵の大久保派の悪口が大きかった。
「随分と肩を持つの」
「修理達も大分苦労しておりますからなあ。少しくらいは手助けしてやらんと」
そう。『親徳川派を家中に増やしたい』という、大野達の要望は、徳川にとっても利があるのである。
彼らが『親徳川』路線を継続するというのならば、彼らの立場を揺るがせるのは得策ではない。
「相わかった。あと、仙石秀範も赦免して登用するのも許す。ゴンには上田で秀忠が世話になったからの。秀忠にしてみても、少しは借りを返せることになろうしな」
「これで、米子騒動で浪人していた柳生の二男坊に、太閤が潰した十河家の末裔も加わりますが。
さてどうなることやら・・・」
2人の老人は茶をすすりながら、黙考する。
できうるならば、こうして茶を啜るだけで毎日がすめばよいのだがと。
576: yukikaze :2016/12/25(日) 23:22:13
取りあえず終了。
一応年代としては、慶長12年で秀頼が右大臣を辞任している時期です。
まあこの直後に、秀頼は疱瘡にかかってしまうのですが。
家康は嘆くのも無理はないことで、将軍挨拶だけでなく右大臣就任時のあいさつすら家康との面会拒否していますんで「老臣達は理解してんのにあいつだけだよ。理解していないの」と、頭抱えている状態です。
これで老臣もバカだったら潰すになるでしょうが、老臣達は親徳川を鮮明にしているのと、畿内の景気が良くなったことで徳川にも利益が出ている事から「無理に潰すのもなあ・・・」となっている訳です。
勿論、秀頼の態度は江戸では不快に思われていまして、それが大久保を始めとする若手官僚層の
反発へと繋がっていきます。ちゃんとけじめをつけやがれと。
正直、本多と大久保が暗闘していたのかというと、小説ネタじゃねえのとは思いますが、ここではあえて内部対立があったということにしております。
てか・・・『葵 徳川三代』の『正信は老齢だから権力振う時期は少ないが、忠隣は若いから権力長く振うことになるから危険』と理由づけしたのが一番しっくりくるというか。
大谷刑部の西軍入りも大分謎でして。まあ友情に帰するのも「その位しか理由づけできねえ」という身もふたもない理由がある訳で。
ただ、主要因ではないですけど、宇喜多騒動での徳川の失態からの面目潰しも、幾分影響はあったかもなあと。
あれ、司馬のせいで『徳川がわざと邪魔した』扱いしていますけど、むしろ『大老が調停にでたのに早期解決に失敗した』ことで、家康の面目潰れていますし。(だから最終的に彼が直接乗り出している。)
誤字修正
最終更新:2017年02月08日 22:04