689: yukikaze :2016/12/29(木) 21:23:20
はい。少し時代は下がっての一幕です。タイトルとしては『宴の後』
次回は『よろしい。では連中に戦争を教育してやろう』です。

部屋に入った瞬間、精根尽き果てたのか、豊臣秀頼はへたり込んでいた。
全く室町礼法だか何だか知らないが、あの儀式の煩雑さと宴で出てくる食い物と酒の量の多さは何とかならんもんなのか。
足利将軍が若死にしているのも何人もいるが、そりゃあ若死にする訳だ。
あんなん年がら年中やっていれば、胃か肝臓をやられるわと。
それ考えると、家康が長生きできたのって、こんな儀式を最低限にして、普段は抑えていたからじゃねと、頭の中でそう取り留めもないことを思っていると、不意に前から水の入った器が差し出されていた。

「恩に着ます」
「いやいや。これくらいはせんと」

そう言って、今回の江戸東下において、補佐役の立場で付き従った大野修理(憂鬱近衛)は、気さくな表情を浮かべながら、主君を労っていた。

「で・・・感触は?」
「取りあえず序盤に先制パンチを加えたのが功を奏しました。徳川も淀の方の人質は想像していたでしょうが、私が1年おきに出府して、将軍家に礼を尽くすという表明に虚を突かれたようで」
「そりゃあねえ」

この時代、参勤交代自体は行われてはいたものの、あくまでそれは自発的なものであり制度としては整えられていなかった。
しかし、とかく反抗的と見られていた豊臣家が、今後も定期的に出府し、将軍に忠誠を誓うと表明することは、政治的には紛れもなく徳川の勝利であり、そしてそれだけのインパクトあるものを、豊臣家当主が将軍相手に告げたということで、逆に徳川家の重臣達があたふたしている有様であった。

「まあ流石に本多佐渡守は一筋縄ではいきませんでした。間髪入れずに『これはめでたい。豊臣家の当主が、徳川家に忠誠を誓うと諸侯の前で宣言を成された。これにて降らぬ風説など吹き飛ぶものでありましょう』と言ってのけ、事実の固定をやってのけましたし」
「君もそれにのったのだろ。『佐渡守殿の言われるとおりである。この秀頼、疱瘡にて死を覚悟した時、亡き父太閤殿下から大いに叱られ申した。『天下を乱すような馬鹿なことはするな。これよりは身を慎み、仁政を行い、将軍家に尽くせ』と。この秀頼、亡き父の言葉に目を覚め申した。これより後は仁政を行い、以て天下泰平の世が続くよう力の限り尽くす所存』とか」

その言葉に秀頼はにやりと笑う。
『死の淵に立った時、祖霊に叱られ身を律す』というのは、ありきたりなネタではあるが、そうであるが故に、突然の豹変に対しても理由がつける物でもあった。
少なくとも豊臣にとっても徳川にとっても、この秀頼の豹変については、文句を言う理由はない。
もっとも、徳川の一部はそうではないようだが・・・

「だが・・・これだけではすまんでしょうなあ」

先程から口を挟んでいなかった、十河兵庫助存英(憂鬱東条)が呟く。

「箱根といい、今回のこの宿泊といい、幕府の中では、うちを挑発乃至は軽んじようと画策しているのが複数いるのは明白ですからね。うちの若いのにはよくよく言い聞かせていますが、旗本や御家人どもが、喧嘩を売ろうと手ぐすね引いているでしょうし」
「前の中の人は本当に負の遺産残してくれましたよ・・・」

690: yukikaze :2016/12/29(木) 21:24:03
秀頼は本気で溜息をついていた。
どこからそんな自信がわいていたのかは知れないが、前の中の人によって、江戸の徳川の豊臣に対する心証は地の底まで落ち込んでいた。
本来箱根の関では、武具等に関しては証書を出しておけば形式的なもので通すはずなのを、確認できるまで通さずとネチネチ嫌味を言い、宿泊施設についても、『江戸に手ごろな施設がない』とのことで1~2万石程度の大名の宿舎程度でしかない、この豊臣家の江戸屋敷(これも前の人の負の遺産である。本来ならば、幕府から用地を拝領すればよかったにもかかわらず、『江戸での出費なんてムダ』とむずがったことで、江戸に派遣された青木の俸禄に見合った程度の屋敷(それも江戸城からみると郊外)しか用意していなかった)への宿泊を半ば強要されていた。

まあ前者については、そのあまりの横柄な態度に内心ブチギレていた秀頼が、軍配を翻して全軍にその場で武装させ『武具を確認するとのお役目ご苦労。さればこれより武装した我らをお見せする故存分に確認すべし。なお、我らは将軍家にお目見えする大事な役目の為、ここで行われた事正直に報告する』と告げると、慌てて平身低頭して、『御無礼をいたしました。どうか先にお進みください』と、震えながら告げ、後者においては、どこか他人事のように対応し、宿泊施設を抑えていなかった青木を『職務不行届』と、更迭するネタを抑えると共に、大野が町名主たちに頭を下げ、周辺の建物を一時的に借り上げた後派手に金をばらまくことで、その周辺の民たちから喜ばれることになり、喧嘩を売ろうと来た旗本達が町名主たちの訴えによって、逆に叱責される有様であった。

「後は、忠誠を示すために摂河泉を取り上げて、どこか別の領国への転封を押し付けるか、それをしたくなければ、大坂城の一部破却をせよというか」
「本命は後者だとは思うが、大久保相模や土井大炊頭あたりは、3国の経済力に着目して、奪い取ろうとするかもしれんな。こっちは懲罰込みで大和あたりに移封とか」

あいつら本当に経済のこと分かってんのかねと、大野はぼやく。
現在の畿内の繁栄は、郡主導の元、慎重な資金投入と減税政策により、庶民の懐が潤っての消費の循環がうまくいっているからこその繁栄である。
このさじ加減を間違えた瞬間、畿内を中心に廻り続けているこの国の経済は大打撃を受けかねない。
そして大久保にしろ土井にしろ、為政者としては及第点を与えられるが、経済政策において特出した才能を持っているかというと、なかなか難しいものがあった。

「まあ大坂城の施設を一部破却で納得してもらいましょう。少なくとも本多殿は落としどころとして上手い理由を持っているでしょうし」
「だな。そもそも元亀・天正の頃ならばいざ知らず、今の大坂城は難攻不落というには設計が古い。
少なくとも備前島を抑えられ、砲兵部隊が展開した瞬間詰む」

秘密裏に行われた図上演習によって導かれた解答に、部屋の人間は一様にうなずく。
強硬的な意見を持つ木村重成ですら、この図上演習の結果には一切文句を言わず受け入れている程演習の結果は無残なものであった。
少なくとも、豊臣家上層部においては『大坂城=難攻不落の要塞』と幻想を抱くものは存在しない。

「そう言えば、井伊や水野がしつこく絡んできましたわ。『戦上手と公言する秀頼公にぜひともご教授願いたい』と。どうやら試し合戦で、うちを完膚なきまでに叩いて、うちを政治的に抹殺したいようですが」
「知恵の足りない井伊の長男坊に、狂犬水野か。鉄砲玉としては最適だな」
「前の人の公言ですので『若輩者の戯言。お許しあれ』と、苦笑いして受け流しましたが、あの狂犬のしつこいこと。そりゃ色々な家中でトラブル起こしては討手を差し向けられるはずですわ」

691: yukikaze :2016/12/29(木) 21:24:38
よほど嫌な思いをしたのだろう。秀頼が内心苦虫をかみつぶしていた事が良く理解できた。

「しかしまあここまで露骨に挑発するとなると、老中連中も一枚噛んでいるな」
「ええ。本多中務殿が一喝をし、佐渡守殿が老中達に小声で叱責をしていましたので、徳川家の総意という訳ではないでしょうが。大御所だけでなく、秀忠殿も少しばかり不快な表情をしていたのが救いと言えば救い」
「ふむ。秀忠は良くも悪くも常識人だからな。ある程度のガス抜きなら許容するだろうが、それも度が過ぎた場合『徳川家による挑発』と、諸大名から見なされかねんし。それは望む所ではない」

無論、前の人の度重なる挑発的な発言に、江戸にいる徳川の連中の不満が高いのも分かっていた。
だからこそ秀頼達も、ある程度のガス抜きは認めていたし、それをケジメとすることで手打ちにするつもりではいた。だが、度を過ぎた挑発行為まで甘受するつもりもなかった。

「場合によってはやる羽目になるかもしれんな、試し合戦は」
「明日辺り、大久保彦左の陰険辺りが暴走しますね。どの逸話読んでも性格ネジくれていますし」
「逆に木端微塵に打ち砕いて『豊臣に喧嘩を売ると大損』と思わせるのもありですかな」

3人はほくそ笑む。向こうの無理難題な挑発を逆手にとって、こちらの政治的アピールにする。
さじ加減は難しいが、やってみる価値はあるだろう。

「そうなるとカギを握るのは、十河さんと柳生か」
「まあ大丈夫でしょう。うちのは鍛えに鍛えていますからねえ。前進しながらの交互一斉射撃もお手の物です」
「近接戦闘は・・・柳生に任せりゃ大丈夫か。仙石も木村も落ち着いて指揮できているし」

そう言って、大野はにやりと笑う。実の所、彼も徳川の中級役人どもの当てこすりにいらいらしていたのだ。

「では十河さん。その際は、連中に戦争を教育やってもらえますか」
「心得た。夢の中でもバカなこと思わせんようにしてやるよ」

692: yukikaze :2016/12/29(木) 21:43:12
これにて本日は終了。
秀頼公とそのゆかいな仲間たちによる、江戸での『反省してまーす』回です。

なおここでは端折りましたが、会見の控え場が、親藩の『大廊下席』ではなく一国持ちの『大広間席』にされるなど、地味な嫌がらせとかされていましたが逆に『礼法を完璧にこなし』『言説も爽やかで思慮深く』『しかも内に覇気を秘め
かといって全く驕っていない』『体格に優れた』豊臣秀頼を天下の諸大名に見せることになり多くの諸大名が『あれがあの阿呆と言われた秀頼か?』と驚愕することに。

しかも将軍へのあいさつと、江戸への定期的な参府についても、媚びずしかも堂々と言ってのけた事で、諸大名からは『流石は太閤殿下の息子』『世評の噂などあてにはならぬ』と、見直されることになり、その後の宴で、前の人のせいで絶縁状態になった黒田長政と加藤嘉明に対して、礼を尽しての詫びを入れてのけ、黒田や加藤が「わかっていただけたら結構」と慌てて絶縁を撤回するなど、殿中外交もやってのけています。

こうした姿に、本多正信などの穏健派は「理由はどうあれ、親徳川を明確にした以上、注意は払うが見守ろうや」と考え、大久保達強硬派は「腰砕けになっているのだから、この際徹底的にやるべきだ」と主張することになります。
なお権現様は穏健派。秀忠は、秀頼の政治的な屈服と、献上品に救荒作物としてのさつまいもとその栽培方法を記した書物を献上し、更にはセメントやコンクリートの製法も献上するなど、幕府の今後の統治にも役立てる物を提供したことでやや穏健派となっており、それも強硬派が焦る要因になります。

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最終更新:2017年02月08日 22:12