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司馬遼太郎、という小説家がいる。
歴史小説の名手であり、いろいろと言われることはあるものの、間違いなく国民的作家といえる男である。
史実では学徒出陣で大陸に動員され、そこでの戦争体験が後の作家生活の礎になったと語った彼だが、
日本軍が順調に戦争を遂行した憂鬱世界においては学徒出陣など起きなかったため、
彼は戦争を体験することなく、一学生として戦争期を過ごした。
しかし人間には天命とでも言うべきものが備わっているのか、やがて司馬は小説を書くようになる。
いくつかの賞も受賞し、着実に作家としての地盤を固めていった彼だが、
しかし史実のように国民的作家、と呼ばれるにはほど遠い状況だった。
その理由の一つに、彼の名前を上げた一大傑作、『竜馬がゆく』を司馬が書かなかった、いや、書けなかったことがある。
『竜馬がゆく』の主人公坂本竜馬は、史実では司馬の作品によって国民的英雄と認識されるようになった男だ。
常識をぶっ壊す型破りな発想、大胆不敵な行動力で時代を動かし、そして志半ばにして無念の死を遂げる。
まさしく日本人が大好きな判官びいきそのものであり、彼と共に司馬が大いにその名を上げたのもうなずけるものだった。
だが、ここは史実ではなく、憂鬱世界である。
坂本竜馬は、彼を慕う転生者によって近江屋の死亡フラグを突破し、その後も大いに活躍した(憂鬱一話参照)
経営には携わらなかったものの、三菱財閥設立のカリスマとして岩崎本家からも信頼を置かれた竜馬は、
多くの業績を遺して史実と違い、殺されることなく天命を全うして亡くなった。
これだけならば、司馬も彼を題材とすることに問題はなかっただろう。
しかし憂鬱世界の坂本竜馬は、ある意味アンタッチャブルな人物になっていた。
伝統の三井、住友に加え、新進気鋭の倉崎という強力なライバルに挟まれた三菱財閥は、
新興の財閥である自社イメージを高めるために、設立に参画した坂本竜馬を維新の英雄として祭り上げたのだ。
その証拠に、三菱が会社ひとつ作れそうな資金をつぎ込んで建設した「維新記念館」は、
実質半分近くを土佐関係の資料が占め、その中でも坂本の史料は創業者一族であるはずの岩崎の倍以上という有様だった。
ちなみにこの坂本関係の事業には、三菱に入り込んだ竜馬ファンの転生者が関わっていたことは言うまでもない。
ともかく、こうして死後もなお三菱のカリスマとして輝く竜馬に手を出すのは、
当時はまだ駆け出し作家であった司馬には少々荷が重い相談であった。
さて、こうして憂鬱世界では国民的とまではいかずとも、一歴史作家として着実に歩んでいた司馬であるが、
その速筆もあって次々に作品を発表し、それらが総じて良い評価を受けたことで、
次第に小説家の夢である大長編を作りたいと思うようになっていった。
彼は当初、昭和日本を書きたいと思っていたようだが、
新聞社時代のコネをフル動員して会うことができた、
夢幻会のとある超大物への取材の中で言われた一言がきっかけで、
明治日本、特に日露戦争を舞台とした作品を構想するようになる。
「昭和の我々が日本を導けたのは、古来からの多くの先達、
特に維新とその後の戦争という嵐を乗り越えた英傑たちの不断の努力、献身あってのものである」
とある超大物……日夜身体を蝕んでもおかしくない激務に晒されていたにもかかわらず、
齢八十を超え全ての公職を引退してなおかくしゃくとし、
政財官軍あらゆる方面に未だ絶大な影響力を持つ巨人、嶋田繁太郎元首相である。
日本最大の危機を首相という立場で乗り切った男から受け取ったこの言葉を胸に、
司馬は十数年にわたる構想と取材、そして執筆を経て、ひとつの一大歴史小説を完成させた。
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『坂の上の雲』
明治日本を舞台に、秋山好古、真之兄弟、そして正岡子規を主人公に、
猛烈な勢いで近代化していく日本を描いた一大群像劇である。
もっとも、転生者たちによる歴史改変によって、
特に日露戦争あたりは史実における同作とは随分とタッチが違うものであった。
まず、史実では司馬によって無能と断じられた乃木希典将軍だが、
憂鬱世界では海軍との緊密な連携によって旅順封鎖作戦を見事に遂行し、
さらにいくつもの会戦でロシア軍を壊走させた陸軍屈指の名将として描かれた。
加えて、乃木は好古の主張した騎兵旅団の火力増強を強く支持するなど、
好古にとって、極めて先見の明に溢れた理想的な上官でもあった。
もっともこの行動は、乃木将軍に憑依した転生者が、自身が将来いろいろ言われたくないとか、
騎兵の天才秋山好古をさらにチートすれば俺の死亡フラグ減るんじゃね?といった非常にアレな理由によるものだったが、
それが元で史実版坂の上の雲とは違う、日露戦争屈指の英雄として描かれるというのは、何というか歴史の皮肉であろう。
乃木将軍に関しては特に奉天会戦時、第三軍全軍突撃に際して全将兵を奮い立たせるような雄叫びを上げるシーンがあるが、
この場面は主人公たちをさし置いて、同作屈指の名シーンとして名高い。
それと、敵国ロシアの将軍や政府要人等も、史実と比べて随分と格好良く描写されていることも特徴だろう。
ロシア革命時において日本にはアナスタシア皇女をはじめ、多くのロシア人が亡命してきていた。
それから数十年のときを経てなお、日本国内には強力なロシア人コミュニティーが形成されており、
それもあってロシア人をあんまり無様には描けなかったのだ。
食うか食われるかの帝国主義全盛の世界の中、冷徹に日本を見つめるニコライ二世、
日本の実力を冷静に分析し、その上での必勝の策として後退戦術をとるものの、
日本を侮り思い通りに動かない部下たちに悩まされるクロパトキン総司令官など。
司馬の手で描かれた、日露戦争の当事者たちに、無能でどうしようもない人間たちはほとんどいない。
ただあるのは、勝つにしろ負けるにしろ、自らに課せられた使命を果たすべく全力で戦う男たちの姿であった。
こうして『坂の上の雲』は、英雄たちの一大群像劇として世に出ることになった。
新聞連載時からすでに大いに評判になっていたこの作品は、
単行本発売当初から国内で爆発的な売れ行きを記録し、
史実よりは遅れたものの、司馬を国民的作家に押し上げる原動力となった。
もちろん、そんな作品だからこそ、『坂の上の雲』や司馬遼太郎本人は数多くの批判にさらされることとなる。
戦争を美化しすぎているのではないか、英雄主義的ではないのかといった批判をはじめ、
重箱の隅をほじくり返すかのような歴史考察までが押し寄せ、それらも含めて作品は一大ムーヴメントとなった。
その熱が冷めやらぬままに大河ドラマとして国営放送でドラマ化され、
大河史上最高の視聴率を記録、以降も幾度かに渡って映像化されるなど大人気作品として定着することになる。
さて、話は変わるが、司馬遼太郎のその独特のバイアスがかかった歴史観を皮肉って
『司馬史観』なる言葉が使われることがある。
憂鬱世界の司馬は、過酷な戦争体験がなかったことで『毒』が幾分弱く、
歴史を積極的に断罪するような行動力を発揮しなかったため、
史実と比べ作家としての『深み(エグみ)』は多少薄れていたが、
やはりどこか史実に通じる部分もあったようで、憂鬱世界でも『司馬史観』という言葉が造られることになる。
その代表的な例を、先の『坂の上の雲(憂鬱世界版)』から見てみよう。
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司馬は同作の後書きにおいて、昭和の巨人である嶋田繁太郎元首相への取材の中で言われた一言が、
この物語を書くきっかけとなったと述べている。
曲がりなりにも歴史作家を生業としていることもあり、
一般民衆よりは当時の日本の置かれていた厳しい状況を理解していた司馬にとって、
その危機を卓越した指導力で乗り切った嶋田繁太郎はまさに天下の英雄であった。
その英雄をどうしても作品に登場させたい。
そう考えた司馬は、史実世界でもやらかした自身の悪い癖を発揮して、
『歴史を下敷きにしたフィクション』という言葉を免罪符に、創作エピソードを盛り込んだ。
主人公の一人である秋山真之が、海軍大学校の教官として赴任していた時期に、
当時嶋田繁太郎が在籍していた海軍兵学校への視察に訪れたというエピソードを捏造したのである。
もっとも、実際に司馬の書いた原作の中で嶋田が登場するシーンは極めて短い。
“わずか数時間の短い時間の中で真之は、どこか瞳に人とは違う輝きを持った男を見出した。
その男こそ、後に国家の全てを背負い、究極の国難に立ち向かうことになる嶋田繁太郎である。”
上の二行が、本編中で嶋田について言及している全てである。
さすがにこれ以上はやりすぎになると思ったのか、司馬は名前を出せただけで満足した。
しかし、この作品が国営放送でドラマ化されるに及び、嶋田の登場シーンは大幅に増え、そして脚色されることになる。
以下に代表的なものを紹介しよう。
まず真之が兵学校を視察するシーンだが、ここで本編にないエピソードとして、
真之と若き嶋田が兵棋演習で対決する、という何とも荒唐無稽な描写がぶち込まれた。
しかも嶋田は真之が予想もしなかった手を次々と打ち、真之を驚嘆させるのである。
この一件で真之に気に入られた嶋田は、日露戦争開戦直前、聯合艦隊が佐世保に集結するシーンでも、
真之直々に声をかけられ、どころか「これからの日本を、頼む」とまで言われる。
そして戦争中も、実際の嶋田は乗艦の和泉への砲撃で大怪我を負って気を失っただけなのが、
ドラマの中では、大怪我を負いつつも同じく負傷した友に肩を貸し、真之から受け取った言葉をリフレインさせながら、
「俺は死なん!生きてこの日本を守るのじゃあ!」と絶叫するというシーンが盛り込まれていた。
普通ならば明らかに『やり過ぎ』な描写であったが、しかしそこは後に本当に日本を守り抜いた嶋田である。
この描写も「嶋田閣下ならばそれくらい普通」としてスルーされ、
これ以降ドラマ化される際も嶋田繁太郎の役は、メインキャストに次ぐ地位を与えられた。
またこのドラマで嶋田を演じた若手俳優がそれから一気にブレイクしたことで、
嶋田役を演じる=出世するという方程式が成り立ち、それが元で後に嶋田は受験、出世の神様扱いされるようになる。
東郷元帥よろしく、本人は嫌がったものの大衆がこれだけの英雄を放っておくはずがなく、
後に嶋田神社なるものが創建されるのだが、そこは参拝客や受験生で溢れる人気スポットとなるのである。
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話がそれた。
さて、原作者の司馬は、大河ドラマの数々の荒唐無稽な描写には多少顔をしかめたものの、
ドラマなんぞそういうものだという意識があったため、特に気にすることはなかった。
しかし一部の史実主義者(いわゆる『正しい歴史』から外れた描写にとにかく噛み付く連中)が、
このドラマでの真之と嶋田に代表される『英雄同士の有り得ない邂逅を描く』ということを皮肉って
『司馬史観』
という言葉を使い始める。
まあ確かに、司馬遼太郎という人は英雄を描くのが好きで、そして英雄同士の邂逅というものは、
後に大ヒットするエロゲーである某ステイナイトよろしく、非常に一般大衆のウケがいいものである。
司馬の作品でもこういった英雄同士の、しかも史実重視の立場からすれば有り得ない邂逅が描かれることが非常によくあった。
しかし、何度も言うがここは憂鬱世界。
史実よりオタク文化が隆盛しているこの世界では、そういった『司馬史観』は、
物語を盛り上げる一要素としてむしろ積極的に使われるようになる。
まだ農民である秀吉を見出し、「俺の下に来い!」と言う信長。
ロシア皇女アナスタシアを救出するために共同戦線を張るマタ・ハリと明石元ニ郎などなど。
これにはさすがの司馬も、火葬と言えそうなものにまで『司馬史観』という、
自分の名前を冠した言葉が使われては我慢がならなかったのだろう。
「史実を極限まで追求した!」と銘打った作品をいくつか発表したが、それらは歴史マニアからは評価されたものの、
一般大衆からのウケはほどほどでしかなかった。
そしてそんなことが何度か続き、遂に司馬も開き直ってしまう。
ドラマ化を意識して『司馬史観』をバリバリに取り入れた作品をいくつも作り、
『歴史を下敷きにしたフィクション』という免罪符を振りかざして、いわゆる『売れる』作品を作るようになったのだ。
そんな司馬の遺作となったのが、司馬が長年書きたいと願っていた昭和日本を描いた超大作『夢幻(むげん)の如く』である。
いわゆる『司馬史観』バリバリのこの作品は、『坂の上の雲』と同じような歴史群像劇であり、
主人公は嶋田繁太郎、辻政信をはじめとした昭和の大物たちである。
まだ元号が明治の頃から、彼らは小国である日本を憂い、一緒に偉くなって日本を導こうと誓う。
そんな彼ら若き才能を見守る、伊藤博文、東郷平八郎といった明治の大物たち。
やがてその意志を受け継いで、軍で、官で、民間でそれぞれ主導的な地位を得た彼らは、
その若き日の志を忘れることなく、定期的に会合を開き、より良い日本のために議論を尽くすのだった。
資源も、領土もない、貧乏な小国である日本が懸命に駆け上がってきた、先進国への道。
しかしそこには未だ多くの困難が立ちはだかり、その果てはまるで夢幻の如く揺らいでその切れ端さえも掴めない。
そんな困難に挑んでいく彼らの様を見て、いつしか人は、彼らを『夢幻会』と呼んだ……
こんな書き出しで始まるこの作品は、何というか色々とヤバイ部分を大いに孕んでいた。
ここに描かれているのは、フィクションではあるものの、ぶっちゃけ夢幻会が辿ってきた道そのものだったからである。
ごく一部の人間にしか分からないことであるが、事実は小説より奇なり。まさしくこの言葉を体現した作品であるといえよう。
この作品が日の目を見ることができたのかどうかは……また、別の話である。
最終更新:2012年12月20日 23:08