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今日の日本で使用される歴史の教科書は、出版社によって弱冠の差異はあるものの、
多かれ少なかれ内容は似たようなものになる。
そして近現代の歴史を学ぶ際、かなりの割合で参照される一枚のイラストがある。
『ちょんまげの日本人と辮髪の中国人が一匹の魚を狙って釣り糸を垂らし、
それを横取りしようと橋の上から狙うロシア人』
これは日清戦争当時の状況を端的に表す風刺画として、よく紹介される。
子供の頃に目にして、大人になっても覚えている人は多いだろう。
このイラストを描いたのは、明治期に来日し、
17年間の長きに渡って日本で活躍した
ジョルジュ・ビゴーというフランス人だ。
彼は日本の文化に魅せられ、一念発起してはるか遠く日本へと渡り、そこで画家、というよりは、
今で言うイラストレーターとして多くの作品を残した。
もっとも、日本を愛していながらも、日本人の民度はいまだ低く、
世界の一等国となるには早いという考えをもっており、
不平等条約の改正前に彼は日本で得た妻と離縁し、フランスに帰国している。
この背景には、居留地の外国人たちが条約改正を嫌って帰国し始めており、
彼ら相手にイラストを描いていたビゴー自身経済的見通しが立たなくなったことも
一つの要因としてあった。
さて、以上が史実における彼の日本における足跡であるが、
夢幻会による魔改造が成された日本において、彼の運命もまた大きく変わろうとしていた。
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「私に、挿絵だけでなく記者としての仕事もお願いしたいと?」
「その通りです。我が日ノ出新報社において、貴方の力を大いに発揮していただきたい」
銀座に最近登場した、割烹着の女給が珈琲や紅茶を運んでくるカッフェの片隅。
来日五年目の若き画家であるジョルジュ・ビゴーは、目の前で自分を熱心に口説く、
近々新設される新聞社の主筆を務めることになると言った男の姿を見て、不思議な感慨を抱いていた。
彼は当時新聞への漫画の掲載といった仕事も行っていたが、
あくまでもイラストレーターとしての契約であり、
報道そのものにはほとんどタッチしていなかった。
日ノ出新報社という名前は聞いたことがなかったが、それもそのはず、
そもそも設立予定の新聞社であり、現在は何の活動もしていないからだ。
YES or NOの返答以前に、その新興の新聞社に、
なぜ日本でそれほど実績を上げているわけでもない自分が誘われているのか。
そのことを考えている彼に、男はどことなく確信を持ったような調子で言葉を続ける。
「私は、狭い井戸の中からようやく抜け出した日本人に、
真の意味で世界を知ってもらいたいと思っています。
己とは違う価値観を持つ多くの外国人たちの中で、自らがどのように見られているのか。
その上で自分はどのように行動すべきなのか。
そして、そのためには単なる欧米追従でない、
本当の意味での日本人としての自覚を持つ必要があるでしょう。
私はそれを、新聞という手段を使って国民に訴えかけていきたいと考えています」
そこで彼は一度言葉を止め、テーブルの間を行き来する割烹着の女給たちをチラリと見た。
彼女たちのうちの一人が運んできた珈琲を、男は砂糖も入れずに飲む。
珈琲をブラックで旨そうに飲む日本人をそれまで見たことがなかったビゴーは少し驚くが、
男は気にせず言葉を続けた。
「ですが残念なことに、この国は未だ、多くの国民が高い教養を持っているとは言いがたい状況です。
文章を読める人間は多くても、そこから意味を汲み取ることのできる人間は多くない。
反面、それほど教養のあるわけでない大衆にも分かりやすい形で訴えかけることのできる絵画は、
きわめて強力な武器となります。
だからこそ私は、貴方の画家としての優れた力、
そして状況を的確に読み取り、風刺画に託すことのできる高い教養が欲しい。
どうか、私たちと共に日本、いやこれからの世界のために、働いてくれませんか」
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男の説得は、ビゴーの胸を打った。
彼自身、日本の文化に心惹かれたものの、そこで暮らす日本人の姿は
文明国フランス出身の彼からすれば、ひどく前時代的で、
かつ自分たちの優れた文化を一顧だにせず、欧米文化を有難い有難いと受け入れるその姿に、
深い失望を感じていたのも確かだったからだ。
だが、その状況を良しとせず、何とかしようと懸命に動いている者たちもいる。
目の前で夢を語る男のように。
「しかし、そのような論調の新聞が、果たして売れるものでしょうか。
それに、風刺画は対象を小馬鹿にして描くものです。
そのような絵を見た日本人から攻撃されないとも限りません」
「その心配はもっともですな」
男は頷く。だがそんな質問は十分想定の範囲内だったのだろう、よどみなく彼は言葉を継ぐ。
「この新聞は認知されるにつれて、多くの人々から攻撃されることになるでしょう。
ですが、だからこそあらゆる攻撃は全てこの日ノ出新報社が受け止めます。
後ろの記者にまで手出しはさせません。
それに…これはあまり言い触らすようなことではありませんが、
この新聞社の設立自体が、今の日本を動かしている人たちの肝いりなのですよ」
その言葉に嘘はないだろう。そもそもこの男を紹介したのは、
ビゴーに陸軍大学校での仕事を斡旋した大山巌陸軍卿である。
それはこれ以上ないお墨付きであると同時に、到底断ることなどできない無言の圧力でもあった。
にもかかわらず、礼を尽くして自分を迎えようとする目の前の男に、ビゴーは好感を抱く。
となれば、どの道断るという選択肢がない以上、結論は早いほうがいい。
「分かりました。精一杯やらせていただきます」
こうしてジョルジュ・ビゴーは、日ノ出新報社の設立メンバーに名を連ねることとなる。
とはいえこの日ノ出新報、大衆迎合的な部分がほとんどなく、猛烈な勢いで文明開化していく日本と、
それに熱狂する大衆に容赦なく冷や水をぶっかけるような記事を平然と書いていたせいで、
最初は攻撃されるどころかほとんど見向きもされなかった。
いくら国家の実力者の肝いりで設立された新聞社とはいえ、売れなければ話にならない。
資金を融通するのも限度がある。
こうしてすわ倒産か、と危ぶまれた日ノ出新報社を救ったのが、誰ならぬビゴーであった。
彼は日ノ出新報フランス語版の記者として
(当初はフランス語版の責任者として迎えると言われたが、さすがに固辞)
精力的に各地を取材し、多くの記事を居留地の外国人に向けて発信していた。
日本文化をこよなく愛する彼が書いた多くの記事は、
時折一緒に掲載される写実的でありつつどことなくユーモラスなイラストもあいまって、
瞬く間にフランス人をはじめとした外国人たちに評判となる。
こうなると、おフランス人が読んでいるなら俺も、と考える日本のエリート層の間で購読者が増え始め、
日ノ出新報社の経営は、ここでようやく軌道に乗り始めることとなる。
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さて、安定した職を得て、さらにその後家庭を持ったビゴーではあったが、後に語ったところによると、
一度だけ本気で家族を捨ててフランスに帰国しようと考えたことがあったという。
日清戦争に勝利したことで急速に力を付け始めた日本が、
押し付けられた不平等条約の改正に向け動き始めたことがその理由であった。
先に紹介したとおり、史実の彼は日本人の民度が未だに劣るとして、
条約改正には否定的な立場にあった。
この世界でも、各地を取材する中でむやみに欧米人を差別する日本人や、
えこひいきをする司法、警察をつぶさに見てきたことで、史実と同じような考えを抱いてはいたが、
同時にその状況を改善しようと精一杯働いている同僚たちを見ていたことで、
改正自体には消極的賛成という立場になっていた。
とはいえ、他の多くの外国人が特権が失われることへの反発から帰国を始めており、
外国人向けの発行を伸ばすことで業績を維持していた日ノ出新報社は、早くも二度目の経営危機に陥る。
ビゴー自身も簡単に帰国する外国人を戒める記事を書き、
『立派な服に着替えた日本人から、おびえるように逃げ出す欧米人』
といった風刺画を描いたりと懸命に動いていたが、
如何せん一新聞社の力ではどうにもならず鬱々とした日々を過ごすようになる。
また、元々画家として来日していたこともあり、
画家として身を立てることへの憧れを捨て切れなかったことも理由の一つであった。
新聞記者としての仕事は充実していたが、画家としての栄達からはどんどん遠ざかっていく。
そんな折、彼は取材を通じて、日本の洋画界をリードする俊英と目される黒田清輝と知り合った。
彼と黒田は当初こそ画家という共通点があり意気投合したものの、
身に付けた表現技法の違いからすぐに絶縁することになってしまう。
彼が日本で過ごす間、フランスでは印象派が台頭し、それがトレンドとなっていたからであった。
史実ではこのことが契機となり、
日本で画家として暮らすことが不可能になったと悟った彼は帰国することとなるのだが、
この世界では同じ結果から、異なる見解を彼は抱いた。
この時期の彼について、彼の妻は興味深いエピソードを語る。
「あるとき夫が、出し抜けに『お前は浦島太郎の物語を知っているか』と問うのです。
有名な話でございますから、当然存じておりますとお答えしたのですが、
するとさらに続けて『では太郎は幸せだったのだろうか』と問うて参ります。
わたくしは夫と違い頭の出来は良くありませんので、深く考えることなく単に甘えるつもりで
『愛する者がそばに居ないのはとても寂しいことと存じます』と返しました。
それっきり、夫は黙ってしまい、
わたくしは浦島太郎を子供の寝物語にしようかなどと考えるだけでございました」
これは、彼が自らを浦島太郎になぞらえていたことを示すエピソードである。
フランスに帰国したところで、自分はすでに時代遅れの人間でしかないと考えたのだろう。
それを示すように、この時期彼は正式に日本に帰化し、以後ジョルジュ・肥後を名乗るようになる。
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日本への帰化を果たしたビゴー改め肥後は、吹っ切れたかのようにこれまで以上に精力的な活動を行った。
活発に風刺画を描き、日本の文化を紹介する著作を刊行し、気が付けば日ノ出新報社取締役にまで出世していた。
また、この時期になると、政・財・官・軍問わず多くの実力者が彼の下を訪れるようになる。
彼らは一様に日清戦争の『魚釣り』に言及するため、あのイラストはそんなに印象的だったか?
と肥後は困惑するものの、日本を動かす実力者たちとの交際は彼の名声をさらに高めた。
こうした交際の中、彼は日本の頂点に近い近衛公爵、伏見宮海軍軍令部長と知り合い、同じ趣味を通じて親友となる。
ここまで来ると、国家による特定メディアへの贔屓、と他紙に攻撃されることを避けるため、
彼は長年勤めた日ノ出新報社を退社せざるを得なくなるが、
以降も一民間人として積極的に風刺画を投稿するなど、関係は続いていった。
そして彼のキャリアの絶頂期は、まさにこの時期である。
自らの長年に渡る風刺画の数々と、日本で得た多くの人脈を駆使して諸外国の風刺画を集め、
それらをまとめて『風刺画で見るニッポン』という著作を刊行したのだ。
彼のこれまでの風刺画家としてのキャリアと、
長年の執筆活動からすでに辛口の名物記者として名前が知れ渡っていたこともあり、
この本は爆発的なミリオンセラーとなる。
またそれ以上に、各地の小学校で歴史を教える教材として用いられ、
彼はアメリカ大統領を抑え、日本で最も有名な外国人として名前が挙がるようになった。
こうして大いに活躍した彼、ジョルジュ・肥後は、1930年、史実よりも少しだけ長生きしてこの世を去った。
彼の日本国外での知名度は、祖国フランスにおいてさえ低い。
風刺画など当時の欧米では珍しくもなかった上、
画家としても、文筆家としても、彼には決して人類史に残るような才能はなかったためである。
にもかかわらず、今日の日本において彼の名声は当時の他の在日外国人と比べて圧倒的に高い。
「日本初のイラストレーター」
「風刺画の神様」
「日本文化をこよなく愛した男」
これらのような異名を持ち、また小中学校の歴史の授業では、
必ずといっていいほど彼のイラストが使用されるからである。
彼が生涯に渡って描き続けた膨大な風刺画、スケッチなどは、彼の死後子供たちの手で整理され、
都内に小さな美術館を構えそこに展示されることになる。
『ジョルジュ・肥後記念美術館』というその小さな美術館は、訪れた者がクスリと笑い、
そして往時の日本へ想いを馳せることが出来る空間として、
今日においても決して小さくない人気を誇っている…
fin
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以上になります。目を通していただきありがとうございました。
また、このようなSSを投稿する機会を与えてくださったearth様と名無し三流様に
心からお礼を申し上げます。
このSSを考えたきっかけは、この魔改造世界ではどのような風刺画が掲載されているんだろう、
とふと思ったことが理由でした。
そうしてジョルジュ・ビゴー氏を活躍させたいが、どうすればいいだろうと悩んだところ、
名無し三流様の『日ノ出新報』というSSを見つけ、それに飛び付いた次第です。
このSSがきっかけとなり、この世界ではこんな風刺画があったんじゃないか、と考える機会になれば、
これ以上の喜びはありません。
それでは、お目汚し失礼いたしました。
最終更新:2012年12月20日 23:08