758: yukikaze :2017/01/14(土) 10:49:09
ネタ投下。江戸時代の官位序列って基本めんどくさいんです・・・
豊臣家の官位事情
江戸時代、大名達が最も重要視したのは何かというと、江戸城での家格争いであった。
戦国乱世は既に終わり、合戦で大功を上げてのし上るということは不可能になった今、大名達が他家よりも優位性を保つ一番の手段は、家格の上昇であった。
ではこの家格。どうやってあげるのであろうか?
一つは伺候席の場所であった。
伺候席は拝謁者の家格、官位、役職等により分けられており、大名家にとってその家格を表すのが一目瞭然であった。
故に外様でも小禄の大名などは、養子等で願譜代になることを画策したり、帝鑑間詰の譜代大名が、なんとか溜詰になろうとあの手この手の策をとっていた。
一方、基本的に伺候席が変わることのない面子はどうするかというと、官位の極官を上昇させることで、他家への優位性を保とうとしていた。
有名なのは伊達と島津の位階争いであるが、豊臣家も御多分に漏れず巻き込まれることになる。
さて・・・豊臣家の極官は、正三位権大納言右近衛中将であるが、ここに至るまでの経緯はある意味めんどくさいものであった。
豊臣家の藩祖である豊臣秀頼の生前の官位の極官は、正二位右大臣であった。
まあ幕府に頭下げた時点では、右大臣職を辞していたため、生前彼の事を呼ぶ場合は「前右府様」の期間が長いのだが、ではこれを豊臣家の極官の基準にするかというと、非常に問題があった。
何故か? まあ簡単である。
徳川将軍家の官歴を見ればわかるが、基本的に将軍就任時に内大臣になり、次に右大臣転任となり死去時に太政大臣が追贈というのがパターンである。場合によっては生前は、内大臣で終わるケースもある。
つまり豊臣家の極官を右大臣とした場合、徳川将軍家と並んでしまうのである。
勿論、徳川の極官を左大臣や太政大臣にするという手もあるが、そうなるといかな武家官位とはいえ太政官における事実上の最高位職を牛耳り続けることは、朝廷関係においても面倒になるのは目に見えていた。彼らは正しく歴史を学んでいたのだ。
もう一つの理由としては、場合によっては将軍家の後継を出す立場でもある尾張家と紀伊家を超えて貰っても困るというものであった。
彼らの極官は、従二位権大納言右近衛中将であるが、幕府としては豊臣家の極官はこれよりも下でないと、御三家と幕府の間で争いが起きると懸念していた。(実際、家光期は徳川将軍家と豊臣家は水魚の交わりであったのに対し、将軍家と尾張・紀伊の関係は控えめに言ってもぎくしゃくしていた)
この懸念については、秀頼も了承し、秀頼の官位は彼一代のみとし、それ以降は尾張や紀伊よりも幾分下で構わないと確約してくれたことで、幕府も胸をなでおろしたのだが、家光から「豊臣の親父殿の優しさに胡坐をかいて、恥をかかせるなよ」と、特大の釘を刺されたことで、また頭を悩ませることになる。
最終的には「前田家と同格は拙いよなあ・・・」と、言うことと、「豊氏長者」という観点から正三位権大納言右近衛中将となることが決定になった。
幕府としても、家光の意向もさることながら、これまで幕府の為に尽力し、北海府という宝の山を得ることになったのだから、その功績を考えるならば、尾張や紀伊の少し下位の位階を与えるのが望ましいというのが、当時の上層部の意見であった。(尾張や紀伊も納得していた)
759: yukikaze :2017/01/14(土) 10:50:23
が・・・この決定に猛然と噛みついたものがいた。
馬鹿ではないのだが、自分の信じる道徳を絶対視する傾向が非常に強い徳川光圀である。
光圀にしてみれば「豊臣は確かに幕府に力を尽したかもしれないが、彼らが頭を下げたのは彼らが追いつめられてからであり、古くから忠義を働いている譜代の面々とは比べ物にならない。
そもそも秀頼が真に英邁ならば、関ヶ原の前に権現様に禅譲をするべきであり、それができなかった事を考えれば、全ては徳川の慈悲のなせる業であり、過分に恩をかける必要はない」というものであった。
まあ噛み砕いて言えば「豊臣優遇するよりも水戸家を優遇しろ」という内容なのだが、なまじ学識がある分、朱子学の大義名分論と聖人論を上手く噛みあわせて、単なる難癖を『忠義』という枠組みでの論争にしてのけたのである。
この展開に幕府要人は全員頭を抱えていた。
この時期には秀頼も幕府の創成期を守り抜いていた寛永の遺老達もなくなっており、酒井忠清がトップとして政権を運営していたのだが、彼もこの横紙破りには半ば呆然としたらしく、意見書を読み終わった後に「水戸は狂ったか」と、呟いたとされる。
当たり前だ。過去はともかく、頭を下げて以降の豊臣家は、幕府に対して献身的に働き、幕府に対して莫大な利益を与えたのである。
その功績を根底から否定するなんてことをすれば、それこそ外様大名から「あれほど功績を立てた豊臣家ですらこの扱いか」と、幕府に対する不信感が急速に拡大するのである。
酒井が自分の娘婿である松平頼常(光圀の倅)に対して「あの親父マジで何とかしろ。いやしてくれ」と、半ば悲鳴じみた懇願をするのも当然であった。
(なお、幕府でこの問題を確実に制御できたであろう保科正之は、光圀のこの論理が、自分が信奉する朱子学上は理に適っているため、自縄自縛に陥っており、更に豊臣家が「儒学は精々が礼儀作法や道徳のための修養であり、絶対的なものではない」という姿勢を取っていた事で、感情的に豊臣家に隔意を持っていた事も、事態の収拾に動かない原因になっていた)
もっとも、光圀にはそのような意見など屁のツッパリにもならなかった。
彼にしてみれば、最大の目標は、水戸家を尾張や紀伊に家格を引き立てることであり、それこそが両家に対して待遇に差をつけられ、内心無念を抱いていた父に対する何よりの供養であると信じて疑っていなかったのである。
そうであるが故に、彼は屁理屈と言われようと何といわれようとも、自分達よりも家格が上になっている豊臣家を叩き続けることで、最終的に幕府から「尾張・紀伊と同格の待遇にする」という言質を取ろうとしたのである。『水戸は天下の副将軍』という露骨すぎる宣伝が盛んになるのもこの頃である。
豊臣家にしてみればとばっちり以外の何物でもないのだが、この状況に、秀頼の後を継いでいた豊臣光頼は、完全にやる気を失い屋敷に引きこもってしまう。
光頼にしてみれば、隠居して後、幕府の相談役として身を粉にして働くも、藩政には絶対に口を出さなかった父には感謝や誇りに思っていたのだが、ある種子供じみたこの対応に、家の誇りを汚され、おまけに幕府内部が右往左往しているという現実に、完全に呆れ果ててしまったのだ。
この事態に、親交のあった徳川頼宣などが、光頼の屋敷に行って、色々とフォローしようとするのだが光頼は誰にも会おうとはせず、光頼の正室の実家である尾張徳川家が、幕府に怒鳴り込む騒ぎにまで発展するなど、もはや収拾不可能な状況に陥っていた。
760: yukikaze :2017/01/14(土) 10:51:23
こうした状況を、大坂で半ば呆れかえっていたのが、宇喜多秀家と柳生宗章である。
「慶長の試し合戦最後の生き残り」として武名を轟かし、同時に「最後の傾奇者」としていまなお大坂で人気を誇っていた伊達者と、秀頼たっての嘆願で八丈島から赦免され、その後は家督を息子に譲り大坂で悠々自適の隠遁生活を楽しんでいた(お蔭で寿命が延びていた)風流人は、「若い連中は喧嘩の落としどころも知らんのか」と、水戸を筆頭にした手際の悪さに頭痛を覚えていた。
既に大坂では、光頼に対する仕打ちに同情が向けられており、徳川に対する反発が巻き起こっており導火線に火がついた瞬間そのままドカンである。
先君が命がけで太平の世を守ったのに、こんなアホな事態でそれがパーになったら、それこそあの世で先君や同僚たちに合わす顔がないのである。
そう決断した彼らの動きは早かった。
両名はすぐに動ける供周りを引き連れると、年齢を思わせぬような速度で江戸へと急行。
旅装も解かずにそのまま酒井忠清の屋敷に駆け込んだのである。
酒井も、この戦国最後の生き残りの老人2人が、ずかずかと門に入るや「阿呆が。こんな子供じみたことで戦乱を起こせば、権現様が日光から飛び起きて怒鳴りつけるぞ」と、一喝をしたのだから無礼を怒るよりも先に「何でこんな目に合うのよ」と、本気でわが身を嘆いたのだが、この老人達からの解決案を聞かされて、思わず平伏したと言われている。
そして一週間後、幕府から一つの沙汰が下されることになる。
「これまでの幕政への貢献を讃え、前水戸藩主である徳川頼房に『従二位権大納言』を追贈することを朝廷に奏請する」
これに光圀が狂喜したのは言うまでもない。
少なくとも父が尾張や紀伊に位階で並んだという事実は、同時に水戸家が尾張や紀伊と家格は同格であるという先例にもなり、必然的にこれ以降の位階も並ぶという布石になるのである。
もっとも、光圀の狂喜も長くは続かなかった。
得意満面であった光圀に対し、将軍家綱は能面のような顔で
「そなたも頼房殿に負けぬ名君になるがよい。今のままでは到底頼房殿と同じ位階は与えられぬ。
これはそなただけではなくそなたの後の藩主も同じと心得よ」
と、「あくまでこれは頼房一代限り」と、事実上念押しをされる羽目になっているのである。
家綱にしてみれば、水戸の暴走によって、豊臣家の当主が酷い目にあい、紀伊や尾張からも白い目でみられる羽目になった事を考えれば、温厚な彼であっても嫌味の一つは言いたい所ではあった。
そして、目論見が外れ、半ば呆然としている光圀に対し、隣に控えていた一人の老人が、つまらなさそうな声で、光圀をあざけることになる。
「何とも無様な事よ。参議も堕ちたもの。景勝や隆景殿はもっと凛々しき顔をしていたものじゃが」
自らを「前参議中納言 宇喜多秀家」と名乗った男は、あまりの侮辱に顔を真っ赤にさせた光圀に対し「朱子学の理屈をこねまわしておるが、そなたのような机上の理屈屋が偉そうにほざいたことは儂はとっくにやっておるわ。太閤殿下の御恩の為に、家すら潰してのけたからの」と、一笑に付し「で・・・そなたは徳川の為に何をしたのじゃ? 旗本奴どもと乱痴気騒ぎをしていることくらいしか聞こえてこんの」と、痛烈過ぎる皮肉を返したのである。
才気煥発と言っていい光圀も、藩主としての業績はまだなにもなく、大日本史の編纂も緒に就いたばかりであることから何も言い返すことはできず、秀家の独壇場であった。
そしてそんな秀家の独壇場を許しているという時点で、幕閣の大半が水戸に対して冷淡になったと理解できない程、光圀も愚かではなかった。
彼に出来ることは、こうした侮辱にいきり立つ水戸藩士を抑えて、事態が好転するための空気づくりを地道にすることであった。侮辱をした秀家を襲った瞬間、彼を護衛している柳生宗章とその門弟たちに返り討ちにあって、更なる恥をかくことが明白だからである。
かくして、豊臣家の名誉は保たれ、極官は正三位権大納言右近衛中将が定着し、大廊下-下の筆頭席に座ることになる。(大廊下-上はあくまで「徳川家のみ」と規定することで、余計な摩擦を避けていた。
光頼も「父上は上之部屋であったかもしれぬが、水戸と一緒の部屋に居られるか」と、吐き捨てるように言ったという)
この位階は、若干の例外を除いて幕末まで続いており、維新後はその功績から、武家としては徳川宗家の他に唯一公爵位を貰うことになる。
761: yukikaze :2017/01/14(土) 11:02:22
投下終了。以前議論にもなっていた「徳川に頭を下げるとして、極官はどうなるよ?」への自分への回答。
二代将軍の長女を正妻に持ち、おまけに前の天下人の家系で、朝廷から姓を賜るという由緒付き。
なので、家格としてはまず間違いなく前田家よりは上になるので、最低でも「従三位 参議」以上は確定。
で・・・将軍家及び将軍家の家督を継ぐ可能性のある紀伊と尾張の極官をこえる訳にはいかないので、まあその中間あたりが落としどころになるかということで、正三位権大納言右近衛中将をチョイスすることになったと。
当初は館林や甲府と同じ位階にする予定でしたが、豊臣家のこれまでの功績考えると
これ位は必要になるなあということで修正しました。
765: yukikaze :2017/01/14(土) 11:20:02
(続き)
水戸は幾らなんでもこれは暗君だろ、と思われる人多数でしょうし、実際誇張している面もありますが、江戸時代に家格上昇に滅茶苦茶拘っているのもこの家の特徴で、無茶な申告で石高をかさ上げするなどで、藩財政を結果的に壊滅に追い込んで行っています。
自分が光圀を「民想いの名君」扱いできないのがそれで、当人は真剣に民の事を思ってはいたかもしれませんが、「理念と現実との整合性が下手」ともいえ(無論治水対策など功績もあるが)、所謂今のリベラルのように「理念をこじらせすぎて結果的に大多数を救えていない」人物だったのかなあと。
まあ光圀にしてみれば、この時期、水戸の家格は甲府や館林よりも下手をすれば下になりかねない危険性に陥っている所に、豊臣も家格が上になると、それこそ越前家のように没落していく一方という危機感もありましたから、彼の激情的な性格考えるとSSのようなことしでかす可能性がないとは一概には言えないんですよ。(何気に北海道の交易にも手を出していますんで、豊臣家は商売仇ですし)
なお、この時代確実に生きている保科正之が傍観していたのは、SSのとおり。
これが会津藩にとっては後々の負債になっていきます。
みんな大好き「泳いでまいった」備前中納言様は友情出演枠。
史実でも家康死去後に赦免されている(前田藩の支藩ということで大名復帰の可能性もあった当人がそれを断って八丈島在住)ので、家康死去後の恩赦及び功績を立てつづけた秀頼の嘆願あれば、当人も戻ってくる可能性あったんじゃないかなあと。
一応構想では、真田信繁も恩赦(ただし当人は出家し、高台寺の僧として一生を過ごし、息子大助が武藤姓になって豊臣家に出仕)対象になっています。
で・・・戦国大名大好きな家光にしてみれば、柳生宗章は大のお気に入りでしょうし、宇喜多も中国御陣から戦い続けた歴戦の将であり、且つ政治手腕は駄目でしたが人柄は滅茶苦茶いい人でしたので、どちらも相応の扱いを受けることになっていると。
幕閣がこの両名の来訪に何も言えなかったのも、宇喜多は「前参議中納言待遇」柳生が「傾奇御免状」をそれぞれ家光から拝領していているという裏事情がありました。
誤字修正
最終更新:2017年02月09日 22:08