72: yukikaze :2017/01/18(水) 23:40:16
『
夢幻会が豊臣政権に転生したら(関ヶ原後ver)』の幕末編ができたので投下。好評だったら続くかも。
しかしこの人ら、同じ世界軸で何回転生するんでしょうかねえ・・・
時は幕末。越後国長岡藩。
この城の一室で、いつもの面々が溜息をつきあっていた。
「おい・・・何でこんな目に合っているんだ?」
「確かgood endで終わっていたよな。少なくとも俺が生きていたころは」
「お嬢様学校すら作れないで身を粉にして働いた結果がこれ!?」
「取りあえずこの中で最後まで生きていたのは・・・誰だっけ?」
「郡(憂鬱辻)さんが家光の時に過労で血を吐いて突然死して、速水様(憂鬱伏見宮)は江戸詰で客死。大谷殿(憂鬱杉山)と十河殿(憂鬱東条)は、同じく家光の時。大野兄弟(憂鬱近衛に憂鬱田中)に渡辺殿(憂鬱阿部)も家光期・・・」
「七手組の生き残りたちも同じころだし、淡輪殿(憂鬱古賀)は秀忠時代」
「痛い子集団の柳生(憂鬱富永)は家綱期か。それと殿様も同じころだわ」
「うわー。殿様悲惨。家綱の時にはまともな奴がいなくなってトミーかよ」
「不幸ってレベルじゃねーな。そりゃ胃に穴空くわ」
その姿が容易に想像できるせいか大笑いする面々。
まあこの現状を見れば現実逃避したくなる気にもなる。
「で・・・結局理由は何よ?」
「全員の家の家譜やらを照らし合わせてみたんだが・・・銀相場だわ」
「犬公方か・・・一番ヤベエと思っていた奴に引っかかりましたか」
郡が頭を掻いて唸り声をあげる。
恐らく徳川将軍の中で最も独裁的であり且つ色々欠点はあるが政治家としては有能極まりなかった5代将軍は、夢幻会の面々からも最注意人物であった。
しかも彼の元で重用されていた勘定奉行であった荻原重秀は、現代に産まれても超一流の経済官僚として大成したであろう傑物であった。
その為、この2人をタッグにして争った場合、それこそ夢幻会も総力を結集する必要性もあったのだが・・・
「まあ無理もねえわ。上様ですら生きていたの家綱期の中頃だろ。柳沢やら牧野のパイプを作るなんて時間がなさすぎるし」
「大々的にやると、それこそ下馬将軍に睨まれるしなあ。ああ・・・水戸の隠居も煩いか。あの儒学狂いはその手の事ではとにかく喧しい」
学問好きなのは大変結構だが、為政者としては色々と問題のあった男である。
理念面のみが余りに肥大化しすぎた家風にしたことで、幕末に宗家を滅ぼす因を産み出した男を評価してやる程、ここにいる面々は人が良くなかった。
「しかし、銀相場については秀忠時代に決着がついたろ。当時の実情も踏まえて、1:10程度にしていた筈だが。(よく言う1:5の比率は幕末の小判と一分銀の交換比率である意味特殊例)」
その時の交渉を思い出したか、ゲンナリした表情で話す男に、家譜を調べていた男が話す。
「おっしゃる通り、我々は幕府に政治的屈服をする代わりに、天正期と同じ交換比率にする事を飲ませて、上方商人に恩を着せることに成功しました。それが豊臣家の繁栄に繋がったのは皆様も御存じのことなのですが・・・」
「が・・・どうした?」
「経済の発展と金銀採掘量の減少が、我々の首を絞めようとしていました」
そう。豊臣家の政治的屈服により、徳川政権は名実ともに公儀となった。
それにより積極的な開発ラッシュが促され、特に徳川秀忠による『北海府開発計画』(全く手が及んでいない蝦夷地開発を進めることにより、領土を増やすという武勲と、諸藩にとって頭痛の種となっていた牢人対策を解消するための開発計画。牢人達も功績を挙げれば幕府直参に取り立てられることなどから、積極的に参加している。勿論、莫大な費用もかかれば、北海の地で一揆を起こした面子もいたが)によって、奥州や関東で経済成長に伴う好景気が史実以上に発生することになる。
無論、こうした経済効果は西日本にも波及し、諸藩の財務官僚は、毎年右肩上がりになる収益に恵比須顔になっていった。
が・・・それも、四代将軍家綱の頃までであった。
北海開発に伴い、史実よりも経済拡大のパイが拡大していたのは事実であったが、経済拡大に対し金銀山の産出量の枯渇によって、貨幣供給量が追いつかなくなったのである。
なお悪いことに、米がまだ碌に取れない北海への供給分として、米の需要量は上がっていた事で史実よりも米の売却高が据え止まりすることはなかったのだが、これによって収入を増やすべく武家も百姓も米を売りまくったお蔭で、市場が飽和してしまい、貨幣経済そのものが崩壊しかねない状況にまで陥ったのである。
天下泰平による経済成長は、確かに好景気を齎したものの、それを持続するための体力を超える規模で拡大したことで、逆に経済が混乱しかねないという、幕府にとって想定外の事態が起きようとしていたのである。
73: yukikaze :2017/01/18(水) 23:41:54
こうした事態に対し、積極的に対応したのが綱吉であった。
彼は、貨幣改鋳による通貨量の増大を以て、事態の破局を防ごうとした。
これ自体は正統な解決策であり、何も問題はないはずであった。
問題となったのは銀相場であった。
当時は、江戸などの東国は金、京都大坂等の西国は銀が主な貨幣であったが、この貨幣改鋳に付随して、江戸の物価高を減らそうと、1:15までにしようとする幕府と、あくまで秀忠時代の決定を盾に取る上方商人たちの間で争いが激化。
そして本来ならばそれを取り持つ筈の豊臣家は、上方経済圏の立て直しに奔走している最中でとてもではないが余力がない状態であった。
そしてこの状況に、綱吉は文字通りキレた。
当時の当主が病没し、後継ぎが2歳であったことを理由に、「この未曽有の混乱時に要衝を任すことは困難」という名目で、豊臣家を越後長岡62万石に転封し、旧豊臣領を収公。
そして強制的にレートを1:15にするという荒業を叩き込んだのである。
先年の高田騒動と相まって、「流石にやりすぎでは」という声が、御三家などからも上がったのだが、「昔はともかく今の豊臣家は経済的混乱に無策」という実例を綱吉から突きつけられては何も言う事は出来なかった。確かに江戸での物価高は、彼らにとっても無視できないからだ。
更に姫路を治めていた池田家が、幼少を理由に鳥取に転封させられた先例を突きつけられた以上、もう誰も綱吉の決定を覆せるものはいなかった。
かくして豊臣家は、秀吉以来100年近く住み慣れた三ヶ国を手放し、越後に移動することになる。
この時、豊臣家はよほど腹が立っていたのか、当初予定された越後高田を「親藩が居城とした地にいるのは不敬であり、むしろ忠義を尽くしている牧野殿の長岡に居を構える」といい、幕府の斡旋を断っているのだが、その本音は「幕府のクソ野郎が。忠輝に光長と、家を滅ぼした連中が住んでいる所を居城に勧めるとか嫌がらせだろうが」であった。
そう。かつては『水魚の交わり』とも言われた豊臣と徳川の関係は、綱吉期を境に極端に冷却化してしまったのである。
関ヶ原以来、丹念に三ヶ国の開発を行い、表石高の3倍近い収益を上げていたのが、転封により62万石程度に抑え込まれたのである。怒るなという方が無理であったろう。
「で・・・今の有様という訳か」
「片桐家の一件も拙かったですね。且元殿はまだしも、弟の家系は豊臣家に対する報恩をあまり感じてはおりませんでしたし、しかも転封時に幕府からの朱印状持ちであることを上手く利用しての独立大名化ですから」
「半ば名誉職とはいえ筆頭家老が御家を見捨てて独立か。そりゃキレるわ」
「御親類家の小出家は黙って従ったのを見ると、余計目立ちますしねえ」
まあ流石に片桐家もこの時の一件が世間からの不評を買ったのを思い知らされたからか、その後関係修復に勤しんでいる訳だが、今現在に至ってもけんもほろろの状態である。
居城である尼崎を独立との代償に大和小泉に転封され、しかもその地が転封早々大火で焼け野原になった時、その火元が且元の菩提寺であったことを聞いた時は「東市正が祟りよ」と言う者多数であった。
(なお、豊臣家が転封して10年後、秀吉没後100年の日に、大坂城天守は落雷により焼失し、豊臣家や大坂の人間は『豊国大明神様の祟り』と噂し、さしもの綱吉も慌てて豊国社に寄進をしている。)
譜代格となっている脇坂家や水口加藤家と親しく付き合っているのを考えると、雲泥の差であった。
「取りあえず話戻すぞ。長岡に転封された豊臣家だが、それ以降も苦労しているんだよな」
「はい。信濃川の影響で度々洪水に悩まされています。小千谷が当家に組み込まれていますが、それも洪水の被害によって、天領であることへのメリットがないと判断されてのことのようですし」
「損切された訳か。しかも『自領の為でもある』として、信濃川のお手伝い普請への強制参加兼予算の持ち出し」
「おまけにその分水路計画は、技術的問題から無残な失敗。それ以降もたびたび手伝い普請に参加。おい・・・徳川に何か恨み買うようなことしたのか?」
「八代将軍選定問題で、尾張侯に近づいていたみたいです。それで暴れん坊将軍の不興を買い、ついでにいえば経済政策でも商業振興策が倹約令に喧嘩を売っているとみられたようで・・・」
全員が思わず天を仰いだ。
これはもう本当に最初の思惑通り、公家になっていた方が楽だったなと。
つくづくあの時、嶋田さんが秀頼として憑依していてくれれば、よかったのに・・・
「それで今の反幕感情の増大か・・・」
「元々豊家は源平藤橘に並ぶ家柄であり、朝廷に忠義する事こそが本道という意見が出る土壌ありますし」
「そして新潟港の没収で決定的になったと」
74: yukikaze :2017/01/18(水) 23:42:24
松平定信政権時のロシア船来航は、幕府にとっても喫近の課題であった。
何しろこの時期の北海府は、一大農業生産拠点となっており、また開拓や造船による木材の枯渇に伴い新たに石炭の需要が増加していたことも受けて、幕府にとってはまさに「豊穣の地」であった。
そしてそうであるが故に、ロシア船の来航の増大は「ロシアによる北海府侵略では」という疑念を抱かせ北海府に臨戦態勢を取らせると共に、通商関係を結んでいたオランダ(長崎)や清(神戸)、更には細々とではあったが通商関係が途切れていなかったイギリス(平戸)からの海外情報を取り寄せるなどして海外情報を貪欲に集めることになった。
そして調査の結果、ロシア側が現時点において北海府に攻め込む可能性は低いものの、彼らの南下政策が極めて執念深いこと、そして自らの利益の為には国際条約など平然と破る無法者であることが判明し、併せて、現在の幕府の軍事力では、ロシアの本腰を入れた攻勢では、北海府失陥の可能性が高いという結果を突きつけられることになった。
幕府にとって幸いだったのが、松平定信は、経済センスは低かったものの、責任感と現実を見る目だけは持っており、同報告書を握りつぶすことなく、和戦の構えで対応。
結果的にプチャーチンとの間に「日露修好通商条約」が結ばれ、貿易港として新潟港が指定され(ロシアは函館を望んでいたが、北海府をロシアに見せることは断固として拒絶され、代わりに「日本海側で江戸にも近い」新潟港を交易地として指定される)併せて、樺太や千島も詳細な地理誌等が完備されているという事実の前に、日本領として確定することになる。
これだけ見れば日本側大勝利なのであるが、豊臣家は天然の良港である新潟港を剥奪され(これは北海府に出陣を命じたものの、軍の動き等が悪く、定信たちが求める期間までに展開ができず、更に士気もあまり高くないなど、幕府の怒りを買ったため)、新潟と直江津2つの港からの収益に頼っていた豊臣家の財政は悪化することになる。(一応幕府からも、越後の天領を代替として与えてはいたが、悉くが山地であり、新潟港から得ていた収益と比べると雀の涙である)
勿論、豊臣家の怒りは、この一件で決定的になり、松平定信が失脚し、幕府がこれまでの褒美として従来の極官であった正三位権大納言左近衛中将を、特例として従二位大納言左近衛中将(位階的には尾張及び紀伊徳川家より上。従来は、尾張・紀伊よりは下で水戸より上)にまでしたことにも「恩ぎせがましいわ。そもそも豊臣家の極官は太閤殿下の時に太政大臣、そうでなくても右大臣であらせられるわ」と、けんもほろろの心境であったとされる。
「で・・・幕府はうちを危険視していると」
「そりゃああの当時から200年以上たっていますから、蓋世の英雄である秀吉の末裔という権威に執念・・・というか怨念による殖産興業政策やって藩の財政立て直して、軍備については幕府とほぼ互角の装備を持っていて、とどめに表面上はともかく奥底では幕府への憎悪が煮えたぎっている家を幕府がお気楽に考えているはずありませんし」
そう。この時期の豊臣家は、国力差こそは厳然としてあったものの、工業部門や軍事装備等においては幕府と互角レベルの雄藩であった。
江戸時代初期の夢幻会の軍制改革等で、『火器の強化により最終的には散兵戦術を主とすることになる』という意識が根付いていた事から、豊臣家は火力の向上に熱心に取り組んでいたのだが、1780年代には北海府防衛の為に戦力を供出させられたことを受けてゲベール銃が独自に開発され、(これには幕府も一切文句をつけられなかった。それだけロシアの脅威が深刻視されたのである)その命中精度の悪さから改良に継ぐ改良が施された後、1800年代にはとうとうスプリングフィールドM1861にまで到達し、砲に至っては、銃の経験をフィードバックさせまくった結果、この時期には四斤野砲や四斤山砲(口径は90mm)を正式に配備し、一部にはド・バンジュ90mm砲類似品まで配備しようとしていた。
勿論、幕府も北方防衛等の観点から、豊臣家の兵器技術を積極的に取り入れ、北海府においては、幕府最強と言っていい「振武隊」(総兵力12,000人)が、北方防衛で目を光らせており、江戸の「御親兵衆」(大番組と書院番組が松平定信の改革で発展解消したもの。総兵力は全力を出せば4万人近く、文字通り幕府の切り札的存在である。なお「旗本八万騎」時代と比べると落ちているように見えるが、実際には史実慶応3年時の「旗本の軍役は停止。ただし軍役金は徴収。士官達は旗本の実力主義」の決定を先取りしているため、実質には大幅強化している。勿論、財政面の負担も相応であったが)と並んで、今なお幕府戦力がこの国では最大最強となっているが。
75: yukikaze :2017/01/18(水) 23:43:00
「しかしまあ・・・歴史を変えた俺達が言うのもなんだが、変わりすぎてね?」
「まあなあ・・・幕末って言っても、俺達の知っている幕末とは違うよなあ・・・」
部屋の中の人間は一様に苦笑いをする。
何しろこの時代、史実で言う所の『鎖国』がないのである。
勿論、日本人の海外渡航が自由にできた訳でもなく、外国交易についても、指定の貿易港で、幕府が許諾した商人達による朱印船貿易か、海外からの交易ができる位ではあるが、それでも史実を知る人間からすれば、格段の差であった。
少なくとも海外の情報源が複数発生するのである。
幕府上層部が馬鹿でない限りは、史実よりもまだマシな対応は可能であった。
あくまで「馬鹿でない限りは」の但し書き付ではあるが。
「豊臣家の努力と、ロシアの影響のお蔭で、産業革命が1820年代から始まっているとか、史実からすれば感涙ものだろ」
「おまけに蒸気機関の外輪輸送船とか。まあその建造理由が「家斉が個人的嗜好で北海府や大坂で豪遊する為に、急いでいきたい」という我儘というのが・・・」
「そういうな。少なくとも蒸気船の概念作っていた真野さんの苦労は報われたんだ」
「真野さんが乾いた笑いを浮かべていたのはそのためかい」
「それに幕府としても、有事の際に北海府に援軍送るんだったら、陸路より船の方が大量輸送できるしな。少なくとも幕府水軍の連中は、そこら辺も見込んで金を獲得しているな」
「軍事的要因と将軍の嗜好ですか。そりゃ幕府の財政官僚も太刀打ちできませんわ」
半ばヤケクソのように笑う一同。
連中が散在している時に、豊臣家がどんな思いで藩財政や軍備を立て直したと思っているのか。
はっきり言ってしまえば、ここにいる面々は既に徳川幕府には見切りをつけていた。
自分のことしか考えない盟主など、存在価値すらないからだ。
「話戻すぞ。まずは今回の英国の貿易自由化要求と将軍継嗣問題だ。ペリーが馬鹿やらかしてくれたお蔭で、国際法を盾にとって米国の要求潰せたのは幸運だったが、英国は馬鹿じゃないからな。
あいつら舐めていると大火傷するぞ」
「こちらもそれなりに近代化していますので、向こうも無茶な要求していないのは有難いですが、アヘン戦争で清国を破った実績は大きいですからねえ。老中の阿部はなんとか漸減的な拡大に留めたいようですが」
「当然だろ。今はまだ指定の貿易港に留まっているから、法の運用も問題なく起きているが、藩の大半は「国際法? 何それおいしいの? 何でそんなもの順守せんといかんの」状態だぞ。
そんな中で自由貿易解禁してみろ。普通に領事裁判権押し付けてくるぞ」
「幕府としては、貿易指定港を平戸から横浜に替えることと、貿易港に限っての交易制限量撤廃を軸にするそうなのですが、水戸や彦根が」
「そんなに自派で将軍職獲得して権力握りたいのかよ、あのアホどもは」
誰かが吐き捨てるように言ってのける。
13代将軍家定の体は就任当初から思わしくなく、将軍継嗣問題で揺れに揺れていた。
現在、候補と上がっているのが、水戸藩主徳川斉昭の息子で一橋家に養子に行った慶喜。
もう一人が紀州藩主の徳川慶福である。
前者は水戸は当然のことながら、尾張や越前の親藩、そして外様の雄藩が推しており、後者は、井伊を筆頭とする譜代大名と大奥が推していた。
そしてどちらも自分の派閥を増やすために、一般受けのする政策を語り、形振り構わない策を使っていた。
「一橋派は島津と黒田、そして越前に尾張。南紀派は脇坂と加藤、それに土井と酒井が、うちを自派にいれようと工作かけてきています。まあ水戸と彦根は我を張っていますが」
「張らせておけ。あの両家と会津・桑名なんぞに好き好んで付き合えるか」
何しろこの4家には、豊臣家も因縁があるのである。
豊臣にしてみれば「誰が好き好んで頭を下げるか」という意志が強く、黒田や土井などは「豊臣を味方に付ければこの問題はすぐにケリがつくものを、全くあいつらは・・・」と、自派のボスたちの半ば子供じみた状態に頭を痛めていた。
76: yukikaze :2017/01/18(水) 23:43:40
「もっとも、どちらかを選べとなると慶福になるか」
「だろうな。あの口だけ番長なんか選んでみろ。場をかき回すだけかき回した挙句、他人に責任おわせて自分は安全圏に逃げるのがオチだぞ」
史実での慶喜の振る舞いを思い出したのか、言った人間はゲンナリとする。
何しろ「自分が主導権握らないと嫌」「でも責任は絶対に負いたくない」「派手なことをぶち上げるが、やばくなると途端に腰砕け」という、3流政治家としか言えない行動を連発し、越前や薩摩、土佐といった有力な後援者たちが全員見限ったほどの男である。
「家康の再来?」 バカを言うな。あんな阿呆が再来だったら、権現様は化けて出てくるだろう。
「いっその事、井伊と水戸を噛みあわせて共倒れにさせるか? 西国雄藩も、薩摩は史実と違って斉彬が早期に藩主になっているが、資金不足の影響で改革が早期実行の割にスローペースだし、長州は改革には成功したが、そのお蔭で色々な勢力が暗躍しだして、藩論が乱れつつある。
土佐も以下同文だし、史実と同様なのは佐賀藩位だ。政治勢力としては今一歩迫力に劣る」
ふむ・・・と、皆が押し黙る。
確かにそれは一つの策ではあった。
井伊と水戸が共倒れになった場合、まず一橋派は核となる存在がなくなるために瓦解するだろうし、南紀派も譜代筆頭の失脚によって、政治勢力としては力を失う。
そうした状況で、阿部と組んで徳川慶福を奉戴。その上で諸藩の緩やかな合議体制に持っていけば戊辰戦争も起こらず、体制変換がなしえる道も開けては来る。
「まずは阿部を支えて、両派を抑えるか」
「下手に神輿扱いされて藩の力を落としても碌なことにはならん」
「とにかく嶋田さん・・・じゃなかった、殿様には頑張ってもらうか」
「この前本気で慟哭していたが、もう諦めてもらおう」
にこやかに締める夢幻会メンバー。
だが彼らは知らなかった。この決定を下した時に、老中の阿部が心労により急死し、南紀派の首領である井伊直弼が史実よりも早く大老に就任したことを。
77: yukikaze :2017/01/18(水) 23:59:54
これにて投下終了。時代的にはペリー来航した後の2年後。1855年位です。
史実との違いは本文と併せて以下のとおりですね。
1 北海道が開拓完了で、幕府の重要な食糧供給基地になっています。
2 史実よりも貿易枠が拡大しているので、これも幕府の重要な資金源。
3 定信時代のロシア危機により、幕府の軍事力は史実以上の強化完了。
4 一方、西国雄藩は史実レベルかやや劣るレベル(特に薩摩。理由は資金不足)
5 ペリーは幕府の軍事力を知らず、江戸湾測量など挑発的行為をしたことが理由で
国際法違反として交渉拒絶され、諸外国にも通達される有様。大恥をかいたアメリカ大統領は
ペリーを更迭し、日本との国交交渉でいらん妥協をされる羽目に。
6 1820年ごろから産業革命開始。日本の国力は史実よりも高くなっているが、幕府直轄地や豊臣家
西国雄藩はともかく、大多数は旧態依然の所も多く、国力への反映にロスがある。
7 なお貿易問題では「漸進的な拡大策」が幕府中枢の意見。西国雄藩は「貿易港拡大でのパイの恩恵を」
水戸藩と譜代は「祖法のとおり現状維持」だが、本音では西国雄藩と同じであり、朝廷へのポーズでしかない。
最終更新:2017年02月09日 22:27