602: yukikaze :2017/01/25(水) 13:07:27
取りあえずできたで。題名は『龍馬』ですかねえ。

『志士』という言葉がある。
天下国家のため正しいと信じたことを、生命をかけて貫く人物像を示した言葉であり、史実の世界ではどちらかというと好意的に使われる事が多いのだが、この世界においては、世間一般では『ゴロツキ』と同義語にまで落ちぶれていた。
そしてそうなった理由はと言えば、

「どれもこれも水戸の老害が余計な事さえしなければ・・・」

と、坂本龍馬は、現在の苦境の要因に対して、罵詈雑言を浴びせずにはいられなかった。

現状を龍馬が嘆くのも無理はなかった。
龍馬自身はどちらかというと行動の人であり、出来うるなれば尊王攘夷の志士達を糾合しての一大決起という案に未練を残していたのだが、現実がそれを許さなかった。
何しろ尊王攘夷の志士として衆望を集めた筈の面子の悉くが鬼籍に入ってしまったのである。
何故か? それは井伊の安政の大獄もそうだが、それ以上に影響のあったのが、龍馬の罵倒の対象である、徳川斉昭の最晩年の狂気にあった。

安政の大獄が、水戸の浪士による井伊の暗殺で終了した時、幕府上層部が取ったのは、徳川斉昭の名誉回復及び政権への復帰であった。
後世の視点からみると、まさに大悪手と言っていい手段ではあったのだが、白昼堂々大老が暗殺されるなどという状況に直面すれば、幕府上層部が、井伊をトカゲの尻尾きりにして、事態の収拾に当たろうとするのも無理はなかった。誰だって自分の命は惜しいのだ。

だが、彼らはすぐに自分達の決定を後悔することになった。
そう。二度にわたり自分に対して屈辱を味あわせた幕府上層部に対する、斉昭の恨みは既に理性で抑えられる状況をとっくに超えていたのであった。
そして彼の苛烈すぎる報復は、井伊の安政の大獄がかわいく見えるレベルの代物であった。

まず、南紀派の中心人物達は、悉くが「神州を汚した大俗物」であるとして、悪ければ斬首、良くても永蟄居という処罰を受けることになる。
特に井伊家に対する処罰は凄まじく、長野主膳を始めとする井伊のブレーン達は、過酷な拷問を受けた後、一族郎党老若男女構わず獄門にされ、井伊家自体も問答無用で取り潰されている。
そのあまりの苛烈さに、諌めた老中の安藤信正は即日罷免され、将軍後見人でもあった徳川慶頼は、徳川姓を剥奪されたうえで、異母兄の松平春嶽に座敷牢に閉じ込めさせよと命じられている。
当時の常識からしても「水戸は狂ったか」と、完全に匙を投げられる状況であったが、この老人の暴走は留まるところを知らず、自分を嫌いきっていた大奥に対しては、問答無用で取り潰しを行い、権勢を振るっていた面子も、罪状を並びたてられた上での遠島、派手好きだった家茂の実母の実成院ですら、派手好きであったことが祟って「疫病神は出て行け」と、紀州に着の身着のままで追い出されるまでになっていた。
この時期の大奥で生き残っていたのは、それこそ天璋院とその御付の面子位で、それも「天璋院に仇なした場合、島津は黙っておらんぞ」という、島津の本気の恫喝に、他の幕府上層部が必死になってとりなした結果であった。

603: yukikaze :2017/01/25(水) 13:08:42
もっとも、ここまで書いた内容も、水戸の粛正に比べればまだ穏当なものと言えた。
斉昭自身が最も憎悪を抱いていたのは、自分の藩において自分を裏切った面子にほかならず、斉昭自身復帰した最初の言葉が「明智や陶のような当家の賊臣共は、一片の肉片すら残さず滅してくれるわ」だったのだから、その恨みの程がうかがい知れるものである。
そしてこうした状況を受ければ、幕府に恭順していた面子も覚悟を決めざるを得ず(何しろ、この老人が一度復帰した時の苛烈な報復を覚えている面々が多いのだ)、諸生党の面々は蜂起するや否や、水戸城に籠城して、決死の覚悟で防戦に努めると共に、斉昭の与党である天狗党の粛清を行っている。
この報に激怒した斉昭は、ただちに水戸藩の軍勢を集めるが、水戸城を抑えられているのと、安政の大獄等で斉昭派が大打撃を受けていることが祟って、兵力は思うように集まらず、業を煮やした斉昭は「藩兵が役に立たぬのなら、草莽の志士達がおるわ」と、全国の尊王攘夷の浪士たちに向けて檄文を掲げ、「尊王攘夷を果たすために、まずは異国に同心する愚者どもを討滅する。草莽の志士達よ、須らく我が旗に参集し、以て攘夷の第一歩を成さん」という呼びかけに、各地の生き残りの志士達が集結し、最終的には数千人近い規模にまで膨れ上がっている。
これに気をよくした斉昭は、彼らを『尽忠報国の士』と讃え、水戸藩に仕官させることを即決し、水戸城に攻め入り、2か月に渡る攻城戦の末、諸生党を壊滅させている。

だが、この出来事は、斉昭の一生においても最悪事として記録されることになる。
苛烈なる城攻めもそうだが、その後の陰惨なる残党狩りに使われたのはこの志士達であり、志士達も攘夷大名の雄である斉昭の覚えを得る為や、幕臣として攘夷ができるという未来に目が眩んだものも多く結果、「諸生党の生き残りをかくまったという嫌疑」だけで、村を焼打ちにしたり、周辺の諸藩の領内に立ち入るや、「諸事改め」と称して、高圧的な態度で臨検するだけならまだマシで、酷いものにおいては「諸生党を匿った」というでっち上げで、略奪の限りを尽くした挙句、激怒して捕縛しようとした藩の役人が斬り殺されるという事態すら頻発するようになっていた。
この事態を憂えた武田耕雲斎が、決死の覚悟で諫言をするが、すでに斉昭の耳には入らず、武田は諌死。
そして最後の歯止めも消えた事で、水戸は完全に浪士たちによる地獄へと変貌していた。

この地獄が終わるのは斉昭が死んでからであるが、それまでに受けた被害への周辺諸藩の怒りは凄まじく、幕府に対して連名で「水戸に巣食う盗賊たちの殲滅を求める」と申請。
そして斉昭の粛正に恨みを持っていた面々が動いた結果、遂に幕府軍(総予備で旗本一個連隊有り)が、老中の指揮のもと出陣し、数の優劣差もあって、浪士の面々を悉く殲滅するまでになっていた。
この軍勢の中には、旧南紀派も数多く含まれており、当然、彼らの報復は凄まじいものであったのだが、彼らの口から、浪士たちの水戸藩における所業が大きく宣伝されるに及んで、彼らの評判は地の底にまで下落することになっていた。
何しろ「尽忠報国」を叫んでいた面々が、酒色に溺れ、賂の多寡で判決を決めるなど、むちゃくちゃな政を行っていれば、誰だって愛想を尽かす。
当時の水戸藩主が「もはや藩の存立は不可なり」と、自主的に藩を返上しようとしたのも、主要な家臣団は壊滅してしまい、農村も疲弊し、おまけに内乱での住民対立が酷くなった状況を考えれば、藩の存立など考えるだけ無駄であると判断するのも無理はなかった。

結果的には「徳川親藩であるが故に」ということで、捨扶持を与えられることで家名だけは存続し、数少ない生き残った面子は、ちゃっかりこの騒動から足抜け出来ていた一橋慶喜が自分の家臣団として再編したりもしていたのだが、この時点で政治勢力としての水戸藩並びに尊王攘夷の志士は消滅したに等しかった。

そしてそれが、龍馬の行動を縛ることになった。
既に志士達が政治勢力としては消滅したことによって、武市半平太による「全藩あげての攘夷路線統一」でなければどうにもならないという意見に真実味をもたらせることになったからだ。
「組織の力を以て事に当たらなければ何にもならん」という武市の主張には、さしもの龍馬ですら反論することはできず、彼は今なお土佐藩士という立場のままで、各藩への折衝を行っている。

604: yukikaze :2017/01/25(水) 13:09:35
「半平太の意見は分かるが・・・しかし、歯がゆい」

長州藩との会談の内容を思い出しながら、龍馬は顔を歪める。
土佐藩と同様、尊王攘夷派が政権を握っていた長州藩は「君側の奸である薩摩や越後を排除し、帝に攘夷の大号令を発してもらうことこそ、尊王の道である」と藩論をほぼ統一させ、龍馬に対して「土佐藩はこの義挙に加わるのか否か」と、問い詰める有様であった。
無論、龍馬としてはこの義挙に一も二もなく賛同しており、彼らの面前で、武市に対して「この尊王の義挙に加わらぬは、不忠の極みなり」と、激烈な言葉で決起を促した書状を作成し、更に長州代表に対し「もし仮に土佐が動かぬのならば、この不肖坂本は、藩を抜け、一草莽の剣士として長州の義挙に加わり、戦場で華々しく死ぬものなり」と、啖呵を切り、長州側から「土佐の坂本さんの赤心を疑った我らが恥ずかしい」と、大いに見直されることになるのだが、武市の良く言えば慎重、悪く言えば考えすぎて決断できない性格を知っている龍馬にしてみれば、先程の書状ですら土佐が動くかは望み薄であった。

「とにかく今は動くべきなんじゃ。動かねば始まらん。薩摩や越後のバカどもはアヘン戦争やアロー号事件を見ても危機感を覚えん連中だし、幕府はそれに引きずられるだけの腰砕けじゃ。儂らが動くことで、この国を清国の二の舞にさせないようにせんといかんのじゃ」

清国の状況を聞くたびに、龍馬の焦燥感は強くなる一方であった。
彼の根底にあるのは「洋夷は信用ならん」という、欧米への不信感であった。
金の為ならば御禁制のアヘンを売りとばし、清国がそれに抗議するや、いちゃもんをつけての戦争。
そしてなすすべもなく敗れた清国は、国土を蚕食されつつあるのが現状であった。
もし仮に、越後や薩摩のように「和親」を目的にするならば、何故麻薬なんぞを売りつける、それこそ礼に則って付き合うのが筋じゃろうがというのが、坂本や「攘夷」を叫ぶ面々の主張であり、そしてそれはある種の正しさを持っていることがこの問題をややこしいことにしていた。
(ちなみにアヘン戦争については、幕府もかなりの不快感を持っており、平戸のイギリス館長に対して、イギリス本国政府からの事情の説明を求めると共に、内容いかんによってはイギリスとの通商廃止を求めることもありえると通達している。この一件は、イギリス本国でも野党の格好の攻撃材料になり、イギリス首相は、「アヘン貿易は民間貿易によるものであり、政府は関知していない。イギリスが清と戦争をしたのはアヘンの没収を認めたのに対し、清国側はアヘンと無関係の一般イギリス人を虐殺しようと行動したためである」と、嘘ではないが事実を正確には記していない(イギリス側は「アヘンを持ちこんだら死刑」という清の誓約書にサインをしておらず、道義的には完全にクロである)答弁を行い、幕府に対しても、あくまで非があるのは清国側であり、日本には絶対に迷惑をかけないという確約状を出している。彼らがここまで気を使ったのは、日本が綿製品の良い取引相手であったことと、ナポレオン戦争時に、イギリス側の立場にたって、ナポレオンの大陸封鎖令を無視し(これにはフランスと国交を樹立していなかったという側面もある)、オランダとイギリスの仲介をするなど、友好的な関係が続いていた事もあった)
その為、坂本にしてみれば「和親」という言葉に騙されている越後や薩摩は『愚物』でしかなく、「攻め込まれたら戦うなんて悠長なことをいうよりも、信用できん異国なんぞ追い出せ」というのは当然であった。

605: yukikaze :2017/01/25(水) 13:10:15
もっとも、坂本は気付いていなかったが、この時代の攘夷論者の一大欠点は「思想ありきで行動し、手段や結果を充分に考えていない」点にあった。
彼らは「異国の排除」を目論んでいたが、それを実行した後については「永遠にそれを続ければいい」程度しか考えておらず、具体的な中身等については全くのゼロであった。
当然のことながら、越後や薩摩からは「書生論」「責任感が全くないバカ程極論を吐く」と、相手にされず、吉田松陰も「海外の横暴は許される事ではなく、それに日本は屈してはならない。だが海外の技術力は我が国よりも優れている部分はあり、彼らの力の源泉はそこにある。彼らの技術力が高いのは、優れたものを他国に売らなければならないという自由貿易競争によるものであり、仮に国を閉ざした場合、我が国はその競争に後れを取ることになり、技術的な差が広がる可能性が高い」と、安易な鎖国論を戒める書状を、かつての塾生に送っている。(なお、上層部の周布に対して「異国の知識も学ばせてこそ、我が国の知識はさらに発展する」という意見書を送り、周布も史実の長州ファイブだけでなく、高杉や山縣、山田、品川と言った面々を送っている。
なお松陰は、吉田稔麿を名指しで望んでいたが、過激派を抑えられるのが桂と吉田であったことから、吉田は残ることになる)
ここら辺は「欧米への警戒感」を持ちつつも、手段・結果まで見据えているか否かの違いとも言えるが、この手の強硬論は、叫べば叫ぶほど先鋭化され、構成員が過激化するのも事実であり、この場合でも例外ではなかった。

「まずは、奸賊達を土佐の人間が討たんといかん。福太郎も賛同する筈じゃ」

同志である中岡の性格を思い浮かべながら、龍馬は一人ごちる。
土佐藩の人間が京都で義挙を行えば行うほど、腰の重い半平太も覚悟を決めるであろうし、長州藩に残っている土佐への不信も完全に消えるであろう。

「土佐勤皇党から身分の低い連中を選抜し、併せて畿内の志士の生き残りを糾合。長州も利がある以上は予算を出すことに異存はあるまいし、場合によっては向こうも人員を出す。これで土長同盟が動き出す」

そう言って、翌朝、深夜までかけて纏め上げた構想を、同志に披露する龍馬。
勿論、中岡や吉村と言った面子が、その構想に賛同こそすれ否定することはなかった。

「どうせなら名をつけてはどうじゃ。そちらの方がしまりがある」

中岡のこのセリフに、龍馬はそうじゃのうと考えていると、吉村が「これはどうじゃろう」と提案をする。

「ほう。成程いい名じゃ」
「うむ。名は体を表すというからの。寅太郎は学があるわ」

よほど気に入ったのだろう。龍馬と中岡はしきりに満足の意を示し続けていた。

「『天誅組』この義挙を行うのに最もふさわしい名ではないか」

後に、新撰組との激闘によって壊滅するまで、幕末京都をテロによって恐怖のどん底に陥れることになり、明治維新時に、土佐藩が、越後に亡命していた後藤象二郎と板垣退助以外は全くと言っていいほど重用されない原因となる組織の誕生であった。

606: yukikaze :2017/01/25(水) 13:22:21
これにて投下終了。

もはや歴史の変更により、多くの人間が人生狂わされることになります。

水戸藩の凄惨な内戦ですが、これは前述もしましたが、史実の天狗党事件以降の水戸藩を見れば、この位の粛正が容易に起きると予想されてしまいます。
実際、史実でも、水戸藩出身で、新政府の要人にほとんどいないのは、この凄惨な内戦で、主要メンバーが悉く殺され、残っていたのは3流以下。
本来ならば、幕末の政治勢力の一角として、ある程度は考慮されていないといけない水戸がまるで考慮されていないのも無理ないんですわ。

恐らく賛否両論あるであろう坂本の扱いですが、この時期だとこうならざるを得ないです。
彼が開国論に転換したのは、勝に会ってからであり、この時点では勝に会っておらず長州との関係を深めている以上、過激な攘夷志士のままです。
そして、ネゴシエーターとしての才と、一応組織作りも出来ているということ、更には土佐勤皇党でも有力者であることを考えると「土佐の藩論を攘夷に固める」ことに、龍馬なりに行動すると判断しました。(この人が行動力あることは誰にも否定できないです)

この世界の龍馬は「勝に出会わなかった場合」のifルートと思っていただければと思います。
まあ最大の被害を受けるのが土佐になるのですが・・・

反論を藩論に修正

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最終更新:2017年02月10日 20:16