22: yukikaze :2017/01/29(日) 21:27:00
ではいつもの投下します。今回の題名は『禁門の変』
1861年7月8日。
この日、幕末―いや、近代日本の命運に影響を与える事件が起きた。
『池田屋事件』。新撰組を始めとする、6組の治安維持部隊が、京都でテロ活動を行っていた『天誅組』のアジトと見られていた箇所を一斉に捜索。
激しい斬り合いの末に、『天誅組』を壊滅させることに成功する。
実質的な首魁であった中岡慎太郎、実働部隊の吉村寅太郎や相良総三、北添佶磨、岡田以蔵、大高又次郎等は悉く討ち取られ、スポンサーでもあった姉小路公知も捕縛されている。
この時、首魁でもあった坂本龍馬と真木和泉は、長州や土佐に出かけていて無事であったのだが、事件を知った両名は「だからさっさと動けと言ったんだ」と慨嘆したとされる。
彼らが嘆くのも無理はなかった。
何しろ彼らの計画は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる」という劣勢に陥りつつあった尊王攘夷運動の志士達を一気に官軍にさせるという代物だったからだ。
彼らにしてみれば、「攘夷の熱情に溢れた長州に動座すれば、帝も長州を始めとする攘夷支持者の熱意を嘉し、以て我らの正義が天下に示される」訳であり、そうすれば長州は当然として、今なお腰の重い土佐だけでなく、全国の勤皇の士が立つと考えたのである。
冷静に見てみれば「尊王を謳いながら、実質、天皇を良いように利用する気満々」なのだが、攘夷という熱意に動かされ、視野狭窄になっている彼らに理屈など通るはずがなかった。
そしてこの計画に、長州の強硬派が乗った事が事態をややこしくした。
『尊王攘夷』というイデオロギーは、朱子学や国学に馴染んだ面子にとっては、それほど違和感のない理論であり、アヘン戦争等の事例を出されれば、少なくとも反論することは難しかった。
無論、穏健派の面々は、島津や豊臣に近い考えを持っていたし「外交は幕府がやるもの」と判断していたのだが、そんな彼らですら「関ヶ原以来幕府の風下に立っていた毛利が、攘夷の先駆けになり、帝に激賞されることで幕府の風上に立てる」という真木の言葉に、切り崩される有様であった。
この現状に、穏健派の周布や桂は必死になって説得をするのだが、強硬派の意見は日を追うごとに激しさを増し、彼ら二人をして「晋作がおったら」と、松陰と周布の勧めで、英国に留学した高杉の不在を心の底から嘆く有様であった。(なお高杉は、事態を聞いて、伊藤や井上とともに帰国したがその途上で「俺がいれば」と、何度も悔やんだという)
そんな中起きたこの事件は、幕末の政治情勢において特大級の爆弾として炸裂することになる。
まずこの一件を最大級に利用したのが一橋慶喜であった。
彼は、この一件を帝に奏上すると共に、京都大火及び自身の拉致計画に激怒した孝明天皇のお墨付きを得て、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の地位を最大限に利用し、禁裏を守っていた長州及び土佐の軍兵を即座に締め出し、更に岩倉や三条と言った、幕府にとって目障りな公卿も一掃している。
これだけでも手際の良さが褒められるべきなのだが、更に彼は、近隣の譜代大名のみならず、島津や黒田、豊臣と言った大名の京にいる軍兵も、禁裏御守衛総督の権限をフルに使い、自らの指揮下に編入することを帝に奏請し、これを受理されている。
豊臣にしてみれば「勝手に決めんな」であったろうが、豊臣も天誅組の手によって、伏見屋敷の担当者が重傷を負うなどしていたため、「天誅組及びその裏で糸を引く長州から京都を防衛するため」という慶喜の理屈に反論することは出来なかったのである。
電光石火で朝廷を「親徳川派」で固め、更に言えば「正論と建前」をフルに使うことによって、政治的な借りを作ることなく、戦力を構築してのける。
一橋慶喜一世一代の政治的アートであり、この鮮やかな手並みによって、評価がダダ下がりであった彼の名望は一気に復活することになる。
長州藩と並んで名指しで批判を受けた土佐藩が、上層部がトカゲの尻尾きりとして、坂本龍馬と武市半平太を捕縛し、問答無用で処刑。土佐勤皇党に属する面々の大弾圧を始めた事で、事実上、攘夷勢力から脱落したのを見れば猶更であった。
24: yukikaze :2017/01/29(日) 21:28:23
もっとも、慶喜が褒められるのはここまでであった。
これは彼の性格と言ってもいいのだが、事態が順調に進んだ時に、彼は必ずと言っていいほど楽観的な見通しをしがちになり、最悪のケースを予想から外してしまう悪癖があった。
更に悪いことに、最悪のケースになった時に、彼は事態の悪化を留めるよりも、如何に自分が責任から逃れるか乃至は責任を誰かに押し付けるかを重要視してしまい、事態を加速度的に悪化させがちであった。
それこそ、かつては彼を担いでいた西国雄藩や松平春嶽が、事実上彼を見離した要因になるのだが、この事態においても、彼のこの悪癖は真価を発揮することになる。
彼の躓きの始めは、長州藩の行動を読み誤った事であった。
彼は、土佐藩の自壊を見た事で、長州藩も同じような目に合うと予想していたのだが、実情は逆であった。
考えてみれば当たり前であるが、京都大火及び天皇拉致を計画した組織のスポンサーであったことがばれた以上、恭順した所で待っているのは改易なのである。
ここで慶喜が「強硬派を断罪すれば毛利家は安泰」と確約すればまた話は違ったであろうが、慶喜はそう言ったフォローを全くしておらず、「どうせ土佐と同じになるだろう」としか考えていなかった。
結果的に、長州藩は椋梨藤太を始めとする恭順派を電光石火で粛清すると、藩論を一致させて、兵を挙げることに決したのである。
無論、周布や桂のように「幕府の言いなりになるのは問題外だが、こちらから攻めるのではなくまず守りを固めるべきだ」という意見もあったが、長州に亡命していた真木や中山忠光が「古今、受け身に立った側が最終的に勝った試しなし。関ヶ原と同じ過ちを繰り返すか」という意見に、来島らの強硬派が大いに賛同したことで、外国船の砲撃計画を一時取り止めてまで、全力での京都奪還を決定する。
進発する長州の軍勢の総数は国元の守りを除いても、総兵力1万2千名の大軍であった。
次の慶喜の躓きは、味方側の兵力が予想以上に集まらない事であった。
京都にいた会津兵1,500、豊臣兵200、島津兵200、肥後兵150、筑前兵150等はともかく、慶喜が主力として期待していた越前兵は、動員の展開能力が遅かったのと、危機感のなさで先発隊の1,000名すらまだ京都に着陣しておらず、藤堂勢もまた同じ。彦根も自分の父が壊滅的な打撃を与えてしまったのが災いして、300名程度送るのがやっとであった。
つまり、慶喜が万単位で集結できると思っていた兵力は、自分の直属兵である300や、彦根領収公の為に一時的に派遣されていた幕府の1個連隊を併せても、6,000名程度と、長州藩の半分という有様であった。
この事態に驚き慌てた慶喜は、越前藩を叱責すると共に、早急に兵を送るように指示。
併せて、浅野氏や宇和島伊達氏に急使を送り、「逆賊長州を打て」と、命令を下すのだが、事態の急変に対応は後手後手に回ってしまい、更に土佐勤皇党の生き残りが、土佐でテロ活動を起こしている者以外は、長州の軍勢に加わるに至って、慶喜は完全にパニック状態に陥っていた。
こうした慶喜の状況とは裏腹に、実戦部隊を実質指揮する松平容保は、ある意味達観していた。
既に彼は現有兵力で京都を防衛しないといけない覚悟を固めており、幕府軍の連隊指揮官等と「如何にして京都を防衛するか」ということに注力していた。
容保にしてみれば、洛中に入られた場合の被害は甚大なものになるという点や、彼我の兵力差が広がっていることから、山崎の地に先に陣取り、敵軍の足止めを徹底する間に、味方の援軍到着を待っての反撃計画を策定し、幕府旗本隊や他の藩もその計画に賛意を示している。
確かに現時点においては、こちらの数が少ないものの、時間が立てばたつほどこちらが有利になるのである。
諸藩の担当者は、容保の堅実と言っていい作戦案に従い、迎撃準備に入ったのだが、ここで慶喜が、朝廷内で俄かに巻き起こった「長州藩に穏便な態度を示すことで戦を避ける」意見に振り回されてしまい、結果的に幕府軍の山崎侵出をする前に、長州藩が山崎に陣取るという状況になっている。
25: yukikaze :2017/01/29(日) 21:30:46
会津一の豪の者として知られ、明治維新後も陸軍の幹部として活躍をした佐川官兵衛は、この時の日記で「一橋公は負ける為にお知恵を絞っておられる」と、皮肉っているが、ここまで状況が悪化したならば市街戦による時間稼ぎを行う以外どうにももならない状況であった。
(なお、豊臣家代表は会津藩に対し「洛中の人間を避難させることで、せめて彼らの生命安全だけは確保しましょう」と進言し、会津藩もそれに賛同したのだが「下手に避難命令を出せば、洛内の混乱及び兵員数の減少、公家達の喧しさが増すので、町民たちの自主避難以外認めない」という慶喜の回答を受け、「そっちの方が余計混乱するわ」と、吐き捨てられることになる。なお、慶喜は敢えて混乱させることで時間稼ぎをさせる意図があったとされるが、むしろ「混乱に紛れて、帝と共に近江に脱出する予定であった」というのが通説になっている)
このように、適切な防衛ライン構築に失敗した幕府軍であるが、長州側も負けず劣らずグダグダであった。
ある種悲壮な決意のもとで出陣した彼らであったが、朝廷内に残っていた数少ない長州派の公卿や尊王攘夷に同情的な面子からの情報により、幕府側の軍勢が予想よりもはるかに少ないことが判明。
更に、土佐勤皇党の生き残りや、西国にいた尊王攘夷派の面々が三々五々馳せ参じるにあたって、総兵力が1万5千名にまで膨れ上がったのである。
この事態に、来島又兵衛や真木和泉は「今こそ好機。一気に洛中に攻め込むべし」と気炎を上げ、嵯峨と山崎を抑えた事で、最高潮に達していた。
一方、この軍勢を率いていた強硬派3家老や、久坂といった旧松下村塾の過激派面々は「我らの武威により徳川は怯え、朝廷も軟化している。いまこそ朝廷に我らを認めてもらう好機である」と、武力占領を差し控え、交渉による妥結を模索していた。
後世の眼から見れば「いまさら何を」とも思われるが、長州軍の布陣に伴い、京都の混乱は最高潮に達しており、公卿からは公然と「松平容保の罷免と長州藩への赦免」が取りざたされ、その情報が逐一長州側に伝わっていた事で、彼らの中で「交渉で優位を勝ち取れるならそれでいいじゃないか」という想いが強くなっていたのであった。
無論そこには「この戦では勝てるだろうが、幕府軍が本気で攻めてきた場合、こちらも大きな痛手を受けるのは明白なのだから、帝の勅命で赦免及び禁軍扱いになった方が、後々を考えるとはるかに有利」という、政治的判断が働いていたのだが、この意見に、名目上の総大将である毛利定広や中山忠光も色気を出してしまい、開戦直前という時点で、長州の首脳部の意見が分裂するという、最悪の展開になったのである。
この状況に来島は激怒し「今、目の前で勝てる状況になっているのに、手をこまねくとは、貴様らは毛利の御家を滅ぼす気か」と、本陣での軍議で吠えたのだが、評論は一致せず、業を煮やした来島は「ならば儂が口火を切るわ」と、本軍に独断で、嵯峨から京の都に進撃を開始することになる。
当人が豪語するだけあって、来島の勢いは凄まじかった。
先鋒部隊3千人を率いた来島は、自ら先頭にたって突撃し、それを見た来島選りすぐりの強硬派及び土佐勤皇党の生き残りたちは、防壁を作っていた淀藩の兵を鎧袖一触で蹴散らすと、御所近辺まで進軍。
朔平門を守っていた会津の主力勢と血で血を洗う大激闘を繰り広げることになる。
来島や土佐勤皇党にしてみれば、恨み骨髄の会津兵だけあって、その闘志は凄まじいもので、慶長の試し合戦そのものかのように、戦列歩兵での一斉射撃を敢行し、数の差もあって会津を押しに押している。
しかしながら、即席ではあるがコンクリートで作ったバリケードに身を隠しつつ射撃する会津兵に対し大通りを進撃する来島勢は遮蔽物が碌になく、しかも全力での突進を、会津藩の砲兵隊を率いていた山本覚馬の独断での砲撃で文字通り吹き飛ばされたことで、突進力を完全になくすことになる。
焦りを見せた又兵衛は「この上は、例え死体の山を作ろうとも、御所に討ち入らん」と、損害無視の覚悟で命を下したが、その目立つ姿を山川浩に狙撃され戦死。
一瞬の指揮系統の空白を見逃さなかった佐川官兵衛による逆撃により、攻勢は完全に失敗することになる。
一方、来島の独断での攻勢により、もはや交渉による事態終結は断たれたことを理解した長州藩の主力は毛利定広を守る3千人を総予備とし、残り9千名を3家老で3等分し、御所を囲むように進撃を開始する。
これは、彼らが一番危惧したのが、慶喜達が天皇を連れて関東に逃げ出すことであり、彼らは何としても天皇を確保する必要が生じたのであった。
しかしながら、来島の暴発によって動いた彼らは、来島の動きに合わせる為に、行軍を早めざるを得ず結果的に諸隊の連携がバラバラになってしまうことになる。
26: yukikaze :2017/01/29(日) 21:31:32
福原越後率いる伏見攻略の軍勢は、その中ではまだマシであった。
彼らは首尾よく伏見に攻め入ることができ、乱の終了後も、敵部隊が少なかったこともあって、可能な限りの戦力を保持したまま撤退に成功している。
だが、それ以外の軍勢は悲惨の一言であった。
まず、益田親施の軍勢は、二条城から出陣した幕府旗本部隊に迎え撃たれることになる。
益田の軍勢も弱兵という訳ではないのだが、この国でも高度な練度と装備を持つ幕府軍は、戦列歩兵主体の益田勢に対して、散兵戦術と臼砲を多用することで、彼らを効率的に叩いている。
そして損害の増大に顔色を変える益田に対し、旧新撰組を始めとする御陵衛士6隊(京都大火を未然に防いだことで、孝明天皇から直々に与えられた名前。新撰組や見廻組は、組織はそのままで、御陵衛士を名乗ることになる)が、後方及び側面から銃撃を開始することで、完全に壊乱することになる。
もっとも、国司信濃の軍勢に比べれば益田勢はまだマシであった。
来島の後詰として進撃した彼は、来島の討死を聞いて、自らの責任を痛感。
来島勢の敗兵を収容すると、「又兵衛の弔い合戦」と叫び、宜秋門に向けて突入を開始する。
国司率いる長州勢も、益田に引けを取らない精鋭ぞろいであり、彼らは怒りに胸を焦がしながら隊列をきれいに揃えつつ進撃をしていたのだが、これが益田勢以上に仇になっている。
宜秋門を守っていたのは、豊臣、島津、黒田の3家500名足らずであったのだが、鎧袖一触で蹴散らそうと射撃開始準備に入った国司勢に待っていたのは、豊臣勢が京に持ち込んでいたガトリング砲10門による殺しの間であった。
この豊臣家が持ち込んだ最新鋭兵器は、後に起きる数多の戦場で繰り広げられた魁といえるものを現出し、薩摩兵を指揮していた海江田信義、筑前兵を指揮していた月形洗蔵(西洋に留学したことで安易な攘夷行動では何の解決にもならないことを痛感し、豊臣の富国強兵論に賛同している)が「長篠の戦いを見た後の、織田・徳川の豪傑たちの気分は皆こうであったろうか・・・」と、呆然とする程のショックを与えているのだが、ガトリング砲の音が鳴りやんだ時、そこにあったのは「かつて長州兵であった者」の残骸にすぎなかった。
ガトリング砲複数による掃射と臼砲による間接砲撃により、国司勢は10分も立たずに戦闘能力を失い撤退をすることになる。なお、その中には国司の姿はない。
ここに至り、毛利勢は敗北を認めざるを得ず、京都からの撤退を決定。
未だ戦い足りない幕府旗本部隊からの追撃により被害を拡大させつつ、長州へと逃走することになる。
ここにおいて、尊王攘夷の雄藩であった長州は、その主力軍の壊滅と、朝廷に弓を引いたという政治的に最大のマイナスを受けることになり、賭けに完全に失敗することになる。
もっとも、事態がこれで終息することはなく、更なる混乱が待ち構えることになる。
27: yukikaze :2017/01/29(日) 21:39:21
投下終了。
日露や第一次大戦で現出した地獄が、京の都でも起きることに。
長州側の練度が高かったことが大いに災いになりました。
練度が低い軍勢なら、最初の攻撃で戦意喪失して、壊乱する代わりに数が多い為に逃げ延びる兵も多かったのでしょうが。
近代兵器の凄まじさを思い知ることになった薩摩や筑前の指揮官はこの状況に本気で頭を悩ませることになります。
彼らが「こうした兵器に対してどのように対抗するか」という観点から近代日本軍の重火力主義が生まれる要因になります。
まあ表面上の戦果だけで有頂天になるのもいるのですが・・・誰とは言いませんが。
もっとも、今回の一件は、会津ですら半ば見限る要因になっており、事実、会津は来島勢を撃退したとはいえ、3割近い打撃を受けた事で、これ以降の出兵を拒否しています。
(豊臣や幕府旗本達も会津の奮戦を見て、「それは当然」と見なしています)
現時点においては、幕府の勝利なのですが、残念ながら屋台骨がきしんできました。
次回で、幕府は最大級のミスを犯すことになります。
最終更新:2017年02月10日 21:19