411: yukikaze :2017/02/04(土) 21:05:46
よし、これを除いても、あと1話か2話で終了。題名は『長州征伐』
1861年8月。この時期、翌年に幕府が終焉を迎えると予想できたものは、この世には誰もいなかった。
仮にいた場合でも『痴人の妄想』で片付けられていたであろう。
徳川の統治能力に懐疑的になっている豊臣家や島津家なども、対外政策はまずまずで、長州らの暴走により攘夷勢力が事実上壊滅したことで、少なくとも対外問題は発生せず(時期的にも、列強が日本にちょっかい出すだけの余裕はないと判断していた)国内問題も、政治総裁職である松平春嶽が、まあ無難に行っていることからも、「まあ春嶽がいる間は幕府も大丈夫だろう」と考察していたのである。
事実、松平春嶽が進めようとしていた改革案を見れば、彼らがそう思うのも無理はなかった。
海外からの定期的なレポートを読んでいた春嶽は、現状の体制では産業革命による国力の増強がフルに生かし切れていないという判断から、体制の再構築を図っていた訳だが、彼の改革の骨子になったのが「改革をする意思も能力もない藩は、藩債務の棒引きと引き換えに、幕府直轄領に吸収」「大勢力且つ改革に成功している藩は積極的に幕政に登用」「改革をする意思も能力もあるのだが、経済的に厳しい藩は、幕府が援助」という代物であった。
春嶽にしてみれば「一気に中央集権国家を作るには反発が多すぎるのだから、どうせなら、
アメリカやプロイセンのように連邦国家にする事で、近代国家にするのが現実的。改革案は紀州の津田が提出し横井が修正した案(史実の紀州藩の藩政改革)を、全体に提示し、10年の期間を設けて成果を確認。その内容を見て、藩を存続させるか判断。判断者は、有能だが性格に難のある勝にでもさせるか」という気分だったようだが、この春嶽のプランの優れている所は「改革案が実施できない無能な藩は問答無用で取り潰すことで、行政単位のスリム化」「大商人達も『幕府が保証人になる』ということで改革案を支持する勢力になる」「有能な所は生き残るため、仮に反乱が起きても、彼らは幕府を支持する」ことで、時間は幾分かかるかもしれないが、近代化を成し遂げる体制づくりに成功する可能性は高かった点にあった。(実際、このプランを根回しで見せられた、豊臣家や島津家、伊達家や黒田家は、春嶽の構想に賛意を示している)
仮に、春嶽のプランが成立していれば、日本の政治体制は、ドイツ第二帝国の体制に極めて近い性質を持ったものになっていたであろう。
もっとも、水面下で動いていたこのプロジェクトは、幕閣に知れ渡ることになり、猛反発を受けることになる。
彼らにしてみれば、政治を司るのは徳川譜代の面々でなければならないのに、有力外様諸侯を政権運営に携わらせては、必然的に自分達の権限縮小になるのみならず、改革の能力がなければお家取り潰しという方針も、露骨なまでの外様優遇策と見えたのである。
後世『反動勢力』と纏められる彼らではあったが、同時に彼らは優秀な宮廷政治家でもあり、春嶽は彼らによって足元をすくわれることになる。
412: yukikaze :2017/02/04(土) 21:06:28
8月。京都で行われた小御所会議において、長州に対する処罰案及び今後の方針を発表しようとした松平春嶽は、その会議の冒頭、一橋慶喜から、突如政治総裁職の解任動議を出されることになる。
彼は「禁裏を守る理由で越前兵を出兵するよう命じたにもかかわらず、それを怠ったのは帝への不忠であり、そのような男に重職は務まらぬ」といってのけ、その怠慢の為にどれだけ帝に心痛を与え、徳川に不埒な思いを抱く公家どもを騒がせたかわからぬとまくしたてたのである。
豊臣や島津、更には会津ですら「お前は禁裏に籠って何もしていねーだろ。これが会津中将が言ったのならまだ話は分かるけどよ」と、相変わらずの厚顔さに呆れ果てていたのだが、更に春嶽のブレーンである横井小楠が、天誅組に襲われた際に後ろを見せて逃げた事を、彼が本来の所属している肥後藩で問題視されていることを持ち出して、それもまた政治問題化するなど、本来の意図とはまるで性格の違う会議にしてのけたのである。
あまりの幼稚さに、豊臣慶秀は呆れ果て、島津斉彬は「またいつもの駄々が始まった」と、うんざりした表情を浮かべていたのだが、あまりに幼稚な挑発の連続に、遂に春嶽も腹を立てて退出をしてしまったことで、幕府の命運は音を立てて崩れてしまうことになる。
春嶽の退出を受けた慶喜は「もはやこれ以上議論を重ねる必要なし。将軍後見職として上様に成り代わり春嶽を解任する」と宣言。その乱暴なやり口に、流石に慶秀や松平容保が批判の声を上げるが「総裁職の解任事項は幕府の職権である」と言ってのけ、老中や若年寄といった面々も賛同するに及んで、慌てて怒鳴り込んだ春嶽をよそに、解任動議が成立することになる。
このあまりに乱暴な手口こそ、外様雄藩をして「この男が将軍になったら終わりだ」と確信させたとされるが彼らのその確信をさらに補強させたのが、長州問題への慶喜の解決案であった。
慶喜から出た解決策は強硬であった。
彼は、藩主父子の切腹から始まり、家老達の斬首、長州藩のみならず支藩も「長州藩の暴挙を防がなかった」として改易処分にすると発表。(支藩については、長州攻略に大功を上げれば赦免という但し書き付)
せいぜいが「藩主父子の隠居」「毛利領の半分は幕府に収公」「家老達は切腹」位の処罰と思っていた外様諸侯達は「こやつ正気か・・・?」という気分に陥っていた。
しかも、慶喜の独演会は続き「長州攻略は幕府軍及び譜代大名主体の総兵力15万人」「長州の暴挙を中国道で防がなかった浅野家と池田家は、今回の出兵費用を全額負担すること。他の軍役に参加しない中国道の外様大名も同じ」「同じく宇和島伊達家と蜂須賀家は、讃岐松平家を総大将とする土佐平定軍に参陣し、汚名を晴らすこと」を矢継ぎ早に通達し、その場にいた浅野家と池田家の藩主が卒倒する羽目になった。
(なお、黒田家も「石高の割に軍役不足」として、軍費負担を命ぜられたが、黒田長溥が「ならば武名で汚名を晴らそう」と、軍役負担不足を逆手にとって、軍事活動をする代わりに軍費負担要求を躱している。なお、浅野と池田も同じように述べたが、慶喜から「兵は足りている」と一蹴された)
彼がこのような強硬策に出たのは、先の戦において、彼だけが武勲を得られなかったことへの嫉妬心や、長州の軍事力が事実上壊滅しているため、あっさりと長州制圧ができると算盤をはじいたからではあるが、確かに額面だけを見ればその通りであった。
幕府軍の総兵力は15万。しかも山陽道・山陰道・関門海峡の3方向から攻めるという状況に対し、長州勢は総兵力はどれだけ頑張っても5千名足らずである。
桶狭間のような奇襲攻撃で総大将を討ち取ろうにも、慶喜は本陣である大坂城を出るつもりは更々なく彼にとっては、大多数が武器が旧式であっても全く問題はないと考えていた。
慶喜にしてみれば、この戦の勝利によって、武功を上げると共に、譜代大名からの支持を確固たるものにして病気がちな家茂の後継者として、悲願の将軍職に手を伸ばせる状況に持っていきたいわけで、だからこそ自分の地位を危うくし且つ仲が冷え切っている豊臣氏を筆頭とした外様雄藩だけでなく、天皇から絶大な信頼を得ている松平容保すらこの戦からは外している。
かくして、家茂の意向を無視してまで進めることになる長州征伐であったが、彼にとってまことに不幸なことに、事態は彼の思惑通りには進まなかった。
413: yukikaze :2017/02/04(土) 21:07:01
まず一つ目の誤算は、彼のこの強硬策は、長州藩全体を一致団結させる要因になった。
仮に慶喜が穏健策を取れば、長州藩は藩存続と引き換えに屈したかもしれないが、ここまでの強硬策を取った以上、占領政策も過酷なものになると誰もが予想したのだ。
この時期、占領下にある水戸の苛政が伝わっていた事もあって(もっとも大幅に誇張されたものであり、長州側が意図的に流していたという説も根強い)、藩士だけではなく、領民達までもが戦に参加するという状況になる。
二つ目の誤算は、トーマス・ブレーク・グラバーの存在であった。
後に日英の外交問題にまで発展することになるが、彼は長州側が武器を求めていることに着目し、比較的旧式な兵器を在庫一掃セールとして、かなりの金額で売却をしている。
勿論、この行為は幕府の逆鱗に触れることになり、英国側も「またジャーディン・マセソンか」と頭を抱えつつ、グラバーの国外退去を命じたのだが(幕府側は「反乱者への武器供与であるため、財産没収の上死罪」を求めていたが、マセソン商会に詫びを入れさせる(金銭含む)ことで決着した)
既に荷は長州側が受け取っており、ゲベール銃とその弾薬が数多くいきわたることになった。
そして三つ目の誤算が、大村益次郎であった。
この幕末において「天才的な戦術家」である大村は、正面切っての決戦を端から放棄し、徹底的なゲリラ戦による消耗戦を基本的な骨子にしていた。
彼は「幕府軍は大軍だが、兵站が続かない。我々は連中が根を上げるまで、弱い所を叩いて失血死させればいい。奴らをアリジゴクに引きずり込む事こそ勝利のカギだ」と、作戦会議で言い放ち、消耗戦を成功させるために、山口と萩を幕府軍に渡すことすら許容範囲としていた。
流石にこの意見には異論も数多かったが、大村の「ではどうやって戦います。まともに戦っては勝てませんよ。あの見栄っ張りの一橋ですから、山口と萩を抑えたら、どれだけ損害が出ても見栄で維持しようと馬鹿をします。ナポレオンと同じですよ。それだけの覚悟がないならば、さっさと降伏して奴隷になればよろしい」の言葉に、周布や桂が懸命に反対派を説得することによって承認されることになる。
余談だが、長州征伐での軍功から、本来ならば明治政府の軍高官として活躍してもおかしくない大村が、最初の一時期を除いては、名ばかりの名誉職で冷遇されてしまったのは、彼の「馬鹿には我慢できない」という性格が、他藩のみならず、自藩の長州の面々からすら嫌われていた事と、確かに彼は戦術家としては天才なのではあるが、それはあくまで「軍事」にとどまっており、「軍事は政治に隷属する」という基本原則を等閑視していた事に、明治政府の上層部が見切りを
つけた事が大きい。
後に豊臣慶秀が「大村は天才だが、あの男は組織体制も自分にとって最適な環境になるように形成しようとする。天才がトップでなければ機能できない組織なぞ、すぐに機能不全を起こすガラスのような組織だ。何の価値もない」と評したように、皮肉にも彼は、自分が馬鹿にしたナポレオンと同じ間違いを犯そうとし、結果的にノーを突きつけられたのである。
閑話休題。
9月に意気揚々と大坂を出陣し、10月末には碌な抵抗もなく萩と山口を相次いで制圧した幕府軍であったが、ここからが彼らの地獄の始まりであった。
彼らは逃亡した毛利父子や家老達の探索を行うと同時に、防長二ヶ国の統治に乗り出そうとするのだが、長州側はありとあらゆる公文書を持ち出してしまい、領内の把握にも事欠く有様であった。
しかも、長州側は少人数(それでも数十名単位だが)でのゲリラ戦を発動し、池田家や浅野家から運ばれる小荷駄を襲撃。個々の被害は僅少ではあったが、それが積もり積もることで悲鳴を上げた両家の懇請により、幕府軍が小荷駄の護衛を受け持ち、しばらくは成果を上げるものの、それに油断した部隊の一つが、長州軍の待ち伏せによって全滅させられたことで、幕府側も今の戦場がまるで勝手の違う戦場であることをようやく理解することになる。
414: yukikaze :2017/02/04(土) 21:07:40
幕府側は、毛利父子を筆頭に懸賞金をかけると共に、15万の軍勢を10隊程に分け、虱潰しにゲリラを殲滅する方針に切り替え、ゲリラの半数を討ち取る(そこには家老の周布も入っていた)など戦果を挙げてもいたのだが、その代償として農村に被害を生じさせたことから各地で農民一揆が頻発。いつ果てるともなく続く治安維持活動に、当初は戦意過多であった譜代大名の面々も厭戦気分が漂い、また衛生面の悪化からくる疫病の蔓延(特に猛威を振るったのがコレラ)
が、占領軍を直撃することで、彼らの戦意は木端微塵に吹き飛ぶことになる。
更にそれに止めを刺したのが、度重なる戦費調達による重税と疫病蔓延から、池田家や浅野家の領内において大規模な一揆が発生。両家から「これ以上の戦費負担は不可能。それでもやれというのなら取り潰しでも何でもしろ。こっちも腹をくくった」と、半ば開き直りに近い絶縁状が幕府に叩きつけられることになる。
それ以降はもう「さっさと撤兵させろ。それが駄目だというのなら、せめて萩からは撤収して、下関~山口ルートで補給線を形成しろ」という現地の意見に対して、あくまで政治的成功に固執する慶喜の不同意のせめぎ合いになっていた。
慶喜も無策という訳ではなく、食糧問題については、幕府海軍を利用して北海府から運びよせる等手を尽しもしたのだが、10万人以上の大軍を養い続けるというのがとてつもない労力を必要とする事実に気づかされた瞬間、彼はいつもの「責任を誰かに負わせる」方向に能力を発揮させることになり、遠征軍はこの無責任な状況によって、瓦解寸前になっていた。
結果的に、比較的順調に進んでいた土佐の収公が完了したことによって、慶喜は「土佐の逆徒は制圧できた。長州は今少しかかるだろうが、将軍家の病がおもわしくないことから、自分は江戸で政務に専念し、征長については、老中の小笠原に引き継ぐことにする」と、宣言するやさっさと軍艦で江戸に戻ってしまうことになる。
責任を押し付けられた小笠原長行は、今更ながらに一橋慶喜の無責任さに臍を噛んだとされるが、現時点においては、譜代の戦意など欠片もなく、自壊するのがオチであったことから、独断で幕府軍の撤兵を決定。
ただし、長州軍の逆撃を防ぐために、インフラを徹底的に破壊することで、結果的に無事に幕府軍を撤退させることに成功している。
もっとも、1年近い戦役で受けた被害を考えると、幕府側にとっては何の益もない戦であり領内が荒廃し、個人としてはともかく、政治勢力として力を振るうには弱体化してしまった長州藩と同様「しなくてもよい戦」であったと言える。
かくして長州征伐の事実的な失敗により、幕府の権威は大きく損なわれることになる。
そして幕府の最期を示すかのごとく、1862年10月。病を押して大坂に向かい、帰ってきた将兵を懇ろに労っていた家茂が、その心労と激務から倒れ、余命いくばくもない状態に陥るのである。
415: yukikaze :2017/02/04(土) 21:20:56
投下終了。治安維持任務っていつの時代も大変だよねってお話。
何気に今回の一件で、浅野家と池田家を筆頭に、中国諸藩の外様大名が経済的に死亡するという悲惨な目にあいます。
当然幕府に対する恨みは増大しますが、同時にこの一件を引き起こした長州への視線も厳しく、正直、長州は欧州留学組がテクラノートとして活躍できるのが関の山かと。
慶喜のやらかしに「幾ら何でもヘイトやろこれ」と思われるかもしれませんが第二次長州征伐で「家茂公の弔い合戦や」と、意気揚々と兵士の格好をして戦う気満々だったのが、小倉城陥落で「やっぱやめた」と、大事な所で責任から逃げる悪癖がありますんで、これでもかなりマイルドにした方です。
大村さんも「えげつねえ」と思われるかもしれませんが、この人はこの人で徹底的な軍事的合理主義者で、ゲリラ戦でどれだけ被害が出ようとも、勝つと判断すれば平然ととるだろうなあと。
ちなみに長州側の被害は疫病での被害も合わせれば、割と真面目に10万人クラスで戦病死しています。
最終更新:2017年02月10日 21:46