554: yukikaze :2017/02/05(日) 18:19:11
今話できれいに終わろうと思ったけど、家茂公と御陵衛士の活躍が進みそうだったので2分割することに。題名は『大政奉還』

徳川家茂。
彼を知る人間がまず最初に発する言葉は決まって『気持ちの良い若者』であった。
性格は穏やかで素直。
身分の大小に関わらず丁寧な応対で決して偉ぶらない。
信を置いた人物に対しては全権を委任し、そしてそれをてこでも動かさない。
無論、その責任から逃れるようなこともしない。
性格に難のある勝海舟ですら、この将軍には心酔しており「上様の為なら命もいらねえ」と日記に書くほどであった。
幕府に対して冷やかになっていた豊臣慶秀や島津斉彬も、この将軍に対しては、臣下として最上の礼を尽し、孝明天皇もこの若き将軍に最後まで好意を抱き続けていた。

だが、惜しむらくは、彼は、経験不足で将軍になり、そしてその経験のなさを埋めるべく日夜寝食を惜しんで学び続けた結果、元々蒲柳の質であった状態を悪化させ、長州征伐が失敗に終わり、家臣達が「お体に障ります」と止めてなお、船で大坂まで出向き、疲れ切って帰ってきた将兵を懇ろに迎え入れ、詫びとお褒めの言葉を一人一人に発し、経済的に
破産状態になっている西国の大名達を助けるべく、大坂の商人達に文字通り頭を下げるなど(さしもの大商人達も、将軍が文字通り土下座をして、今回の戦役において西国諸藩が抱えた戦費の費用を幕府が肩代わりし、同時にその負債を海外交易の権利と引き換えに大幅に値引きしてもらうよう要請するという前代未聞の行動に、生きた心地もせずに一も二もなく受け入れている。彼らもまさか天下の大将軍が、部下の大名の為に商人に土下座するなど想像の範囲外であり、同時にこれを受け入れなかった場合、どんな目に合うか位の想像力は持ち合わせていたのだ)
心労と激務に悩まされた結果、とうとう、大坂城で倒れることになる。
驚き慌てた幕府上層部は、すぐさま家茂を医者に見せるが、医者の診察の結果、心労と激務によって体調はボロボロであり、余命も幾ばくも無いということが明らかになる。

555: yukikaze :2017/02/05(日) 18:19:44
この事態に、幕府の首脳部は心底頭を抱えていた。
仮に家茂が死去した場合、彼には子がいない為、徳川の一族から新将軍を迎えないといけないのだがこの場合、家格の面で候補に挙がるのが、一橋慶喜か田安慶頼というのが問題であった。
これまでも見たように、一橋は小知恵は回るが責任感がまるでなく、困難な局面に直面した場合すぐさま逃げ出すか責任を部下に押し付ける悪癖があり、かつての人望はとうに失せていた。
では田安はどうかというと、この人は一橋以上に阿呆であり、とてもではないが難局を任せるには不可能であった。
ならば清水家はどうかというと、ここの当主は一橋の弟であり、間違いなく一橋が介入するのは確実。
じゃあ御三家はというと、尾張は代変わりしたばかりで、当主の義宜はまだ4才。
紀州の徳川茂承は英明ではあったが、未だ18才であり、更に言えば紀州家の支流の出である為に、血筋という点からみれば、一橋に劣っていた。

つまりこの時期、人望のなさと責任感のなさを省けば、次期将軍に相応しいのは一橋慶喜であった。
それがわかっているからこそ、慶喜は土佐平定によりこれ幸いにと江戸へと戻り、色々と工作活動に勤しむことになるのだが、慶喜に振り回されてきた実務官僚にしてみれば「家茂様は我々に信を置いて下さるから頑張りがいもあるが、一橋の阿呆が公方になれば、責任押し付けられた挙句のトカゲの尻尾きりだぞ」と、お先真っ暗な気分であった。
そして何より、この気分は幕府の実務官僚だけでなく、有力諸藩の上層部はおろか、朝廷ですら共有する認識でもあった。
それだけ、安政の大獄以降の、一橋の信のなさには呆れかえっていたということではあるのだが、仮に一橋が将軍になり、馬鹿な行動をした瞬間、派手な内乱祭りになりかねないという事態を考えると、より一層気分が暗くなるものであった。

そんな中、病床にあった家茂は、老中に命じて、何人かの諸侯を呼ぶように命じていた。
老中にしてみれば「お願いですから寝ていてください」と止めたかっただろうが、死期を悟った彼は前よりも精力的に働いており、その鬼気迫る態度に、誰もが涙を流しながら従う状態であった。
無論、呼ばれた面々も、そんな男の最期の頼みを聞かない程薄情ではなかった。

「まずは忙しい中時間を取ってもらい礼を言う」

青白い顔のまま、臣下に対して頭を下げる将軍の姿に、部屋にいた人間はざわめく。

「上様。どうか頭をお上げくださいませ」

悲鳴を上げるように、紀州藩主であり、家茂と最も馬が合っていた徳川茂承がそう進言するが、家茂は「気にするな」と言わんばかりの表情を浮かべて、手で彼を制する。

「見てのとおりのこの体じゃ。余の命数もあと少しじゃろう。だが将軍としての責務は果たさなければならぬ。すまぬが諸侯らの腹蔵なき意見を聞きたい」

そう言うと、家茂は、誰もが心中に思っていた事を告げる。

「余が死ねば、天下は乱れるか?」

その言葉に誰もが無言のままでいた。
本来ならば紀州や会津が「全員が一丸となって徳川家を盛り立てます」と音頭を取るべきであるのだが、家茂の言葉には、そういった言葉を許さぬ何かがあった。
ややあって、この中で最年長であり、外様の重鎮でもある島津斉彬がポツリとつぶやいた。

「なりましょうな。残念ながら・・・」

どこか寂しげな言葉に、反論しようとした松平容保は言葉を失い、豊臣慶秀は天を仰ぎ、当主代理としてきた徳川慶勝も無念の表情を浮かべていた。
そう。誰もが理解していたのだ。誰がなっても、あの一橋の阿呆が余計なことをしでかすと。

556: yukikaze :2017/02/05(日) 18:20:17
「一橋卿を誅殺してもか」
「一橋を誅しても、守旧派の者どもが足を引っ張りましょう。血筋で言えば我が弟ですが、あれは一橋以上の戯け。能力で言えば紀州殿ですが、血筋の問題で騒ぎ立てましょう。確実に近代化は遅れます」

一橋や守旧派に悩まされただけあって、松平春嶽の指摘には実感がこもっていた。

「越後中納言。海外に詳しいそなたに聞きたい。我らの猶予はどれだけある」
「せいぜいが5年でしょうな。それ以上だと、確実に列強が干渉してまいります。既にフランス公使ロッシュが精力的に動き回っておりますので、場合によってはイギリスとフランスの代理戦争になりかねません。そうなるとロシアも北海府を狙うでしょうな」

豊臣慶秀の予想に、誰もが溜息をつく。
この男の予想は外れた事がない。ここまで断言した以上は、可能性が極めて高いということだ。

「5年・・・それだけしかないのか・・・」
「我が国はまだ運がようござった。イギリスとフランスは、アロー号事件で清との間で戦争を行ったことで我が国に目を向ける余力がまだなく、ロシアはクリミアの地でイギリスとフランスに負けた事で国内問題で手一杯。アメリカは国内を二分する内戦が始まっており、異国が我が国に手を出す状況ではありませぬ。
もっとも・・・あと5年すれば外に目を向ける力を取り戻すでしょうから、その時内乱状態なれば・・・」
「異国の代理戦争か。どっちが勝っても悲惨じゃな」

春嶽は、自分の見通しの甘さに自嘲したい気分であった。
彼は幕府体制さえしっかりしていれば、多少の内乱ならばどうにでもなると思っていたのだが、どうやらそれは甘い考えであったようだ。

「上様が存命であるならば、越前候の改革案でも十分に対応可能であったでしょう。少なくとも上様が目を光らせている限り、改革が止まることはない。ですが・・・」

そう。幕府が近代国家の政治体制として生き残れる最後のチャンスは幕府自身が潰していた。
もはや幕府の命数は、家茂の命数と同じになってしまっていたのだ。

「もうどうしようもないというのか・・・何のために会津の兵は死んでいったのじゃ」

どん、と、畳を叩いて嘆く松平容保。
あの凄惨な禁門の変で、会津兵は「この戦に勝つ=幕府とお家の為」と信じ、死んでいったのに、そんな彼らに対して、主君たる自分はどの面下げてあの世でまみえろというのか。

「越後中納言。そなたに問おう。余は将軍として何を成せばよいか」
「死中に活有り。これ以外、日本国と徳川家を救う方策はありません」

誰もがその抽象的な回答に困惑する中、家茂は楽しそうに笑う。

「安房守と同じことを言うか。そなたも存外人が悪い」
「お戯れを。安房守よりは性格は良いですぞ。そうでなければここには参りませぬ」

穏やかな表情で受け答えする2人。
溜まりかねて真意を問おうとする茂承を手で制して、家茂は朗らかに告げる。

「政を帝に奉還する。諸侯らはそれに賛同し盛り立てる。幕府は滅びるが、幕府の役人たちは新政府に組み込まれ、適材適所に働くことになる。まあ不満を持ったり反乱を起こすものも出るかもしれぬが、それでもまだ充分に間に合う。思えば越後中納言の父祖が当家に行ったことよ。それを今度は当家が朝廷にするだけの事。
まこと、歴史は繰り返すわ」

その言葉に、徳川の親族を筆頭に、諸侯達は愕然とした表情を浮かべる。
『大政奉還』徳川将軍自らが征夷大将軍職を返上し、政の実権を朝廷・・・いや、ここにいる諸侯達に譲り渡すというのだ。
東照大権現―いや、源頼朝以来、一時期を除いて連綿と続いていた『幕府』が、終わりを迎えるというのか。

557: yukikaze :2017/02/05(日) 18:20:50
「ついでに幕臣には、これからは名実ともに朝廷の臣として、軍事や行政に役立つよう命じておく。あやつらを路頭に迷わせるのは、主君として失格じゃからなあ」
「頑固者の水野や松平もその決意を受けては何も言いますまい。それに、1諸侯になっても徳川の名は残り申す。当主が優れていれば、日ノ本の舵を取ってくれましょう」
「『死中に活有り』まことその通りじゃな」

部屋の空気とは裏腹に、家茂と慶秀の間の空気は終始和やかであった。
そこには難問を解決できたことにホッとする男と、それを心から労う男の顔があった。

「越後中納言。まさかそなた・・・」
「勘違いをするな。紀伊殿。これは将軍家が自ら決めた事だ。少なくとも私の入れ知恵ではない」

さては越後中納言が唆したかと、片膝立てて凄む茂承に、慶秀は穏やかな表情で諭す。

「もう少し将軍家の器量を信じぬか。このお方は、本心から傅いても良いと思わせる大将軍ぞ。
その大将軍が悩みに悩んで見つけたのがこの答え。その意味と想いを汲み取らんか」

年齢とは裏腹にとても老成された声に、茂承も容保も肩を震わせて涙を流す。
そうだ。これほどの器量を持つ大将軍が、この決定を下すのにどれだけの無念を覚えていたか。
体が壮健であったなら、今少し早く生まれていたならば、恐らくは水戸にも井伊にも強権を振わせず、あっぱれ天下の大将軍として、この国を導いていたであろうに。

「紀州。会津中将。それに他の諸侯よ。愚かな余には、これ以上の解決策は持てなかったわ。
そなたらには苦労をかけるが、この国を頼むぞ」

全ての諸侯に出来ることは、ただ無言で平伏するだけであった。

1862年12月。
徳川家茂は、最後の力を振り絞って参内すると、孝明天皇に大政を奉還することを奏上する。
天皇はそれに反対し、強く慰留を求めるが、自身の余命が殆どないこと、後を継げる将軍がいないこと、これ以上の近代化の遅れは致命傷になりかねないことを述べた家茂の意思に遂に天皇も折れ、奏上を受諾することになる。
もっとも、天皇は「家茂が養生し、必ず国政に復帰すること」「徳川家を朝廷は大切にすることを確約」することで、家茂の想いに報いることになる。

ここに、250年近く続いた徳川幕府は終焉を迎えることになる。
だが、その歴史の流れに抗う者もいた。

1863年1月。一橋慶喜、幕府強硬派と組んで江戸城を占拠。徳川姓に改め、幕府存続を表明。
世に言う『元治の政変』の開始である。

558: yukikaze :2017/02/05(日) 18:27:17
これにて投下終了。
いやまあ史実でも大政奉還に従わなかった幕臣の方が多かったんだからそりゃあ強硬派が暴発しますわなと。

もっとも、史実では京都に向けて進撃した訳ですが、この時期では幕府海軍の主力は大坂に居て動けず(家茂が懇々と諭していた)、北海府は「何が起きているの?」で混乱中。(結果的に彼らは蚊帳の外です)
幕府旗本隊も、関東にいる連中は碌に情報を与えられなかったお蔭で、慶喜側につかざるを得ないのですが、豊臣や伊達、前田などの軍勢がどう動くか分からないために、事実上の遊兵化。

つまり、強硬派の面々は「家茂公が無理やり言わされたんだ」と、宣伝するも兵力問題やら何やらで江戸とその近辺を抑えるのが精いっぱいという状態です。

なお、長州と土佐の面々に馬鹿させようかとも思いましたが、どうにも碌なことにならんのが確定していますんで、彼らには明治の初めに不平士族の一団として、頑張ってもらうことにしました。

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最終更新:2017年02月10日 21:51