632: yukikaze :2017/02/06(月) 01:01:36
よしこれで幕末編終了。題名は『維新成る』

一橋慶喜がクーデターを起こした時、彼に果たして勝算はあったのかというと、はっきり言ってしまえばゼロであった。
確かに彼は事実上の首都である江戸を抑え、曲がりなりにも幕府旗本部隊のうち関東にいる部隊を指揮下に収めることができていた。
だが、所詮はそれだけでしかなかった。
何しろ彼の檄の下に集った諸侯は、ほんの数える程度であり、大多数が様子見かあるいは佐倉藩の堀田氏のように、「お生憎と一橋卿に従う謂れはない」と、幕下に加わることを拒絶する有様であった。
さしもの慶喜も、己のあまりもの不人気ぶりには愕然としたとされるが、彼にしてみれば家茂の大政奉還を認めてしまえば、悲願の征夷大将軍になることが永遠にかなわなくなってしまい誰からも相手にされずに朽ちていくだけである。
自分の父や、死んだ水戸の面々の事を考えるならば、とてもではないが容認できるものではなかった。
慶喜としては、幕府旗本衆に関東の要地を制圧させると共に、自分と懇意にしているフランスと同盟を結ぶことによって、状況の打開を図ろうとしていた。
この国でも最強の幕府旗本衆4万人と、フランスの実力があれば、まだ絶望していい時間ではない。
少なくとも慶喜や幕府上層部はそう思い込んでいた。

一方、江戸を反乱軍に抑えられた朝廷側は、すぐさま奪還の命令を下したのだが、ここで思わぬ躓きを喫してしまう。
それは何かというと、つい先日まで慶喜の手によって朝廷から追い出され、大政奉還と王政復古の大号令により赦免された中山忠光の存在であった。
長州征伐時に地獄の苦しみを得ていた彼は、長州から京都に舞い戻るや否や、長州と土佐の赦免を強く要請すると共に「逆賊どもは徹底的に皆殺しにするべきだ」と、強硬論を展開。
同じように復帰できていた三条や岩倉とともに、「徳川追討」を、求めたのである。
通常ならば「阿呆か己は?」と、一笑に付すべき類のものではあるのだが、厄介なのは彼が、現皇太子の生母の弟であり、宮中での発言力は決して無視できなかったことではあった。
そして厄介なのは、彼が長州征伐での長州側の実質的な指揮官である大村益次郎を連れてきており大村に戦略を描かせていた事から、少なくとも軍事的には粗のない堅実な作戦案であったことが、事態をややこしくしていた。
これにより、徳川に対して寛恕を願う諸侯グループと、徳川を討滅するべきだと主張する、過激派の公家と長州・土佐のグループとの間で言い争いが起き、しかも中山が勝手に長州側の面々を禁裏御所の守備に命じ、会津や御陵衛士達と一触即発状態になるなど、混乱が無視できない状態になっていた。
結局は、孝明天皇の勅勘によって中山忠光が閉門処分を受ける代わりに、長州と土佐が赦免されるという結果になるのだが、この時の感情のもつれは尾を引くことになり、維新後の不平士族の反乱という形で結実することになる。

633: yukikaze :2017/02/06(月) 01:02:06
さて、序盤の戦略面でのゴタゴタから、初動がやや遅れてしまった朝廷側であったが、実のところ致命的な遅れにはならなかった。
まあある意味当然なことで、反乱側についた面子が、幕府の強硬派の官僚や、知らない間に反乱軍に組み込まれていた幕府旗本衆を除けば、3万石クラスの関東の大名が数家程度であり、大多数が中立か朝廷より。
しかも病の床に伏している家茂が気力を振り絞って、朝廷への帰順を促す書簡を配布するに至って中立派の諸侯が、朝廷側への参加を表明する状況であった。
その為、朝廷側としては軍事面で圧倒できるのは事実なのであるが、豊臣慶秀を筆頭に、諸侯は力任せの殴り合いをするつもりなどさらさらなかった。
当たり前だ。彼らにしてみれば、大政奉還によって徳川幕府が滅んだ以上、後は朝廷と幕府を融合させることで、さっさと近代国家の枠組みを作る必要があったのである。
派手な内戦をやったはいいが、相手は戦下手の慶喜とはいえ、実戦部隊はこの国でも有数の練度を誇る幕府旗本隊である。それらが江戸で派手な市街戦を行うとあれば、どれだけの被害と回復までの予算に影響があるか計り知れないのである。
前なんとかとかいったが、長州の論客気取りの男が「焦土大いに結構。朝敵の住む町なんぞ灰にして塩撒いて不毛な土地にした方が遥かにマシだ」などと寝ぼけた事を言ったので即座に叩き出したが、はっきり言って大多数の人間は、長州や土佐の人間の憂さ晴らしの為なんぞに力を費やしてやる義理も義務もなかった。

よって、朝廷側の戦略としては、反乱軍の説得並びに切り崩しによる自壊であった。
勿論彼らを追い込むために、東海道、中山道、北陸道、奥州街道などから、それぞれ、尾張と紀伊及び薩摩を主力とした東海道軍、越前を主軸に筑前とようやく重い腰を上げた佐賀を主力とした中山道軍、豊臣と前田を主軸にした北陸道軍、最後に仙台と会津が主力になった奥州軍が、順次江戸へと進発すると共に、制海権確保の為に、海軍総督である勝海舟自らが主力艦隊を率いて、江戸湾への封鎖を行っている。(もっとも、勝の判断から、武器弾薬はともかく、生活品は臨検の対象外として江戸へと回航させている。これに大村などは大批判しているが、勝は「おめえさんら。何の罪もない
江戸の町の人達を飢え死にさせたいのかい。10万人近く飢えや病気で死なせる決断して、まだ殺したりねえのかい」と、強烈な皮肉を突きつけて、責任を取って辞任。以後は、旧幕臣の中であぶれた者達の世話を生涯かけて行うと共に、徳川宗家の為に尽力し続けることになる)

このように、反乱軍は関東を出るどころではなく、とにかく4方向からの攻勢を防衛ラインを築きつつ防ぎ、北海府の幕府最強の「振武隊」やフランスからの援軍が来るのを待つという希望的観測に則った戦略を立てざるを得ない状況に追い込まれていた。
明確に反旗を翻した佐倉藩や川越藩と言った面々にすら討伐軍を送る状況になっていなかった(これは、幕府軍の主力部隊が、高崎や小田原、水戸、甲府に置かれたことで、総予備部隊である江戸の2個連隊を動かすだけの余裕がどこにもなかったことによる。なお、慶喜は兵力を増やそうと大々的に徴兵を行ったが、実際には浮浪者や博徒、各藩で契約されていた中間が多く、その練度や規律は『極めて劣悪』であり、即座に解体されている)ことをみても、彼らがどれだけ追いつめられていたのかわかるものだが、そんな彼らに絶望を与えたのが、一月は持つと見なされていた箱根の防衛ラインが一日も持たずに突破された報告であった。

634: yukikaze :2017/02/06(月) 01:02:38
無論、防衛ラインが予想よりも早く崩壊したこともショックであったが、それ以上にショックだったのが、突破された理由が、前将軍の家茂が、数人の護衛を連れただけで、箱根を守っていた幕府軍の陣営に赴き、懇々と投降を説得したのである。
幕府軍は「家茂は豊臣などに捉えられ、無理やり従わされていた」と聞かされていたために、家茂が切々と訴える道理に、今更ながらに自分達が騙されていた事や、家茂がどんな思いで奉還したかを理解するに及んで、全軍が家茂に対して投降すると共に、他の防衛線で守りを固めている同僚達に真実を告げるべく連絡を出したのである。
家茂の護衛として、特に孝明天皇の勅名でついていた御陵衛士達の面々は、今更ながらに家茂の威徳に頭を垂れ、「この若者が壮健であったら徳川は安泰だったものを・・・」と、陰で涙を流したというが、自らの寿命を削りながら、沿道の住民の慰撫に惜しまない、この家茂の姿は、正しく天下の大将軍であった。
そして事実を知った他の戦線の面々も、家茂に対して降伏。家茂の指示の元、周辺地域の慰撫と江戸への先導を果たすことになる。(なお、彼らに対しては決して侮辱するようなことがあってはならぬと勅命が下されていた事で、降伏による騒乱は殆ど起きることはなかった)

結果的に3月1日には、江戸の総予備部隊も、一橋家の目付役を、簀巻きにして江戸城に放り出した後家茂に帰順し、同時期には、徳川茂承の説得の元、北海府の幕府軍も、家茂及び朝廷への忠誠を誓ったことで、反乱軍の命運は完全に尽きることになる。
慶喜が最後の頼みにしていたフランスも、反乱が起きた時点では両天秤にかけたものの、慶喜の勢力が僅少であることを受けて、さっさと朝廷に情報を流すことで恩を売ることに決定し、掌で踊らされている始末であった。

万策尽きた慶喜は、いつもの癖を発揮しだし、「自分は朝廷に弓引くつもりはなかった」と、上野寛永寺に籠って謹慎をすることで、何とか今回もやり過ごそうと画策するのだが、既に彼の行動パターンを見抜いている強硬派の面々は、法体で逃げた慶喜を即座に拘束し「あなたがここを出るときは死体になる時だけだ」と、寛永寺にある蔵に縛り付けると代々の将軍が眠るこの地を死に場所とする決意をすることになる。
様々な問題はあったが、彼らもまた武士であり、2日間の激戦の末、強硬派の面々は、上野の東照宮前で割腹して果てることになり、政変は終了することになる。
なお、慶喜とその近臣は、陥落直前に保護されるが、そのあまりの醜態振りは、「こんな阿呆が一時は将軍候補とは世も末だ」と、幕臣達に嘆かれることになり、「斬るのも刀の穢れだ」と誰もがまともに相手をする気をなくしている。
その為、反乱の首謀者であるにもかかわらず、慶喜は命は救われたのだが、彼は、徳川の氏族から抹殺され、水戸での永蟄居においても、赦免どころか経済的に手助けする人間すら事欠く有様であった。
彼は、明治10年に生涯を終えることになるのだが、墓も小さなものでしかなく、しかも網でおおわれるなど、死してなお罪人として過ごす羽目になる。

最後に、徳川家茂について語ろう。
彼は、この政変の終結を見届けた後、崩れ落ちるように倒れ、3月15日に江戸城にて生涯を終えることになる。この時、全軍の総大将格であった豊臣慶秀及び参謀長であった西郷隆盛は、直ちに全軍に喪を出すと共に、江戸の町にも歌舞音曲の停止、並びに増上寺で営まれる法要に、幕臣のみならず、江戸の人間も参列することを許可している。
江戸の町民たちが、自分達が戦渦に巻き込まれぬよう努力した若者を思慕していた事を理解していたが故の行動であったが、この時の情けに満ちた行動が、幕臣や関東の徳川領の人間の慰撫に繋がったとされている。
家茂の葬儀はしめやかに行われていたが、葬儀終了後、彼を護衛していた近藤勇他五名の御陵衛士の隊長陣が腹を斬って殉死している。
彼らの遺書には揃って「上様の死出の馬前に御伴仕る」と、のみ書いていたのだが、家茂に私淑していた彼らにとっては、家茂の死去に殉死をするのは至極当然のことであった。

増上寺にある家茂の墓には、彼の墓石を守るように、今でも6つの墓が、左右に控え続けている。

635: yukikaze :2017/02/06(月) 01:13:40
投下終了。ネタスレながら結構続いたなあ。

政変があっさり終了していますが、そりゃまあ、江戸城の強硬派はともかく実働部隊は、禁門の変以降の慶喜の無能さに辟易していますんで、実働部隊が崩れればもうどうにもなりませんし。
この期に及んでやらかすかと思う慶喜ですが、この人の腰の定まらなさは定評があって、江戸城明け渡し時でも色々と釘刺されたりしています。
いやもうね。史実に近い事書けば書くほど「ヘイト」に見えるってどういう事よと。

家茂の責任感は幾分誇張気味かなとは思いましたが、史実のエピを見るとかなりの家来想いであったのは事実でして、近藤達も、京都から江戸までずっと付き合っていれば、「天下の将軍様にここまで気を使われるとは」と、感激するかなと。近藤も結構、この手の感動屋ではありますし。

これにより、史実よりも早く維新は完成し、しかも幕府の開明的な官僚層は温存され、精強な軍も手つかずで残っていますので、皮肉にも『公武合体』がなしえるという状況になっています。
家茂の遺言と、慶秀の進言によって、版籍奉還を徳川と豊臣が実行したことにより、他の諸侯もそれに追随し、近代国家の形成が急ピッチで進むことになります。

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最終更新:2017年02月10日 21:57