908: ① :2017/02/15(水) 23:35:40
①です。これも征途×憂鬱世界のネタです。
これも離れた時にできてたものですが、同じようなネタはうっとおしいと思われるかな?と自粛したものです。
推敲もしておらず、理論立てが甘すぎるものですが…

ただ、征途世界の「日本人民航空」の航空路は空想するとロマン溢れるものですが…
実際はオホーツク沿岸にそんなに需要があるとは思わないので赤字航空会社かなと。
よろしければ読んでください。

日本人民航空の野望

 1969年、4月。ハバロフスクはまだ寒い時期であったが、一部はある意味熱気を帯びていた。
 熱を帯びていたのはハバロフスク空港。
 なぜ熱を帯びていたかというと、日本人民共和国の航空会社、日本人民航空が初の欧州便(豊原-ハバロフスク-モスクワ-東ベルリン-パリ)一番機が降立ち、遠く欧州へ飛び立つからだ。
 それだけなら別にたいしたことはないであろう、ソ連の衛星国の、しかも極東の片隅にある、たかが一つの国の航空会社が欧州へ乗り入れるだけのことである。
 ところが今日は違った。日本人民航空の一番機を待つ人は日本人が多かった。しかも敵であるはずの「日本国」の国民たちが大半だった。
 彼らはハバロフスクまで日本航空-アエロフロートの共同運航便でここに来ていた。事実、空港ビルの窓からは東京から彼らを運んできた、日本航空のマークが描かれた「Tu-114」が翼を休めている。
 大半はビジネス客である。欧州から祖国日本に外貨をもたらす為のモーレツサラリーマンたちであった。そして一番機を写す為に「南」のマスコミが大勢押しかけていた。そしてほんのごく一部の航空マニアも。
 なのになぜ分断国家の国民たちが敵である別の日本の航空会社を利用しようとするのか?
それは「時間」の為であった。
 日本国から欧州へ行くにはアンカレッジ経由の北回りか、シンガポール-カラチ等を経由し、やたらと時間がかかる南回りの航空路しかなかった。南の日本とソ連友好を謳って開設されたモスクワ便も、プロペラ機のTu-114ではシベリア航空路の利点はあまりなかった。
 それを狙ったように、日本人民航空はソ連の「忠実な」衛星国であることを利用してシベリア航空路を使う便、しかも最新鋭ソ連製ジェット航空機を就航させることによって、大幅な時間短縮を謳い、敵であるはずの日本国民を、乗客として奪おうとしたのである。
 そしてそれは日本民主主義人民共和国の「野望」の一部でしかなかったのである―

909: ① :2017/02/15(水) 23:36:27
 ―日本人民航空(創立時露語:ЯНa 英:NAL)は北海道戦争後に産声を上げた。
 目的は主に北海道北部と樺太を結ぶ航空会社である。
 本来なら軍が一元的に航空路を支配し運行したほうが、小さな日本民主主義人民共和国にとっては効率的だっただろう。
 しかし「赤い日本」のある航空関係者はそうは考えなかった。
 赤い日本は国土的には小さな国である。しかし周りを見渡すと航空路が未整備なシベリア一帯とオホーツク沿岸、カムチャッカ半島が控えている。
 それは偉大なる共産主義国家「ソ連」でももてあます未開な地域だ。これらの地域に航空路を伸ばすとすればよほどの困難だ。そこに彼は、そして「赤い日本」は活路を見出したのだ。自国の航空技術の未来と発展の余地を。
 当時、ソ連は日本民主主義人民共和国を信用していなかった。
 なにせ元の出自は「大日本帝国」である。軍事力や航空技術を与えたらろくな事にはならないと考えていた。
 しかし、彼らは北海道戦争でソ連に忠誠を近い、ソ連が第二次大戦で日本でなしえなかった「北海道占領」一歩手前までいった。
 人民陸軍はパットンの逆上陸でもよく持ちこたえ、留萌-釧路を維持した。海軍はアメリカ戦艦1隻を撃沈し、空軍は最新鋭機Mig-15をうまく使いこなした。
そこにソ連に忠実な赤い日本航空関係者がやってきた。
― 偉大なる共産主義国家を作るため、人民の為の民間航空会社と飛行機工場を日本民主主義人民共和国は必要と考えます。そしてそれは革命の祖国であるソ連極東部の発展にも寄与できると考えます―
と、とうとうと極東部の航空輸送路の考えを述べた。

 ソ連は少し考え、改めた。

 赤い日本人に彼らの技術と機材を与えれば極東の地はもう少しましになるのではないか?

 結果、赤い日本はソ連製の輸送機・飛行艇を与えられた。整備はもちろん、一部機体やエンジンの生産もできる、「ドイツ製」の機械も。
 こうして赤い日本は自分の翼を手に入れたのだ―

 それから20年、日本民主主義人民共和国の航空省のトップとなった彼は焦っていた。
 「来年だ…来年にはアレが投入される…なのに、このままではダメだ…」
 「彼」は豊原の航空省ビルで頭を抱え憂鬱だった。
 横に控える次官は(なんでこんなに焦っておられるのかな、長官は…)と思っていた。
 「赤いゲーリング」と異名をとる「彼」の功績は素晴らしかった。
 プロペラの輸送機と飛行艇で始まった「彼」の航空省、「赤い日本」は、今や努力のかいあって、配下の日本人民航空はシベリア・極東部に広く航空路を伸ばしてソ連のアエロフロートには必要不可欠な協力会社となっている。日本人民飛行機工場はミグ戦闘機のライセンス生産まで行えるようになっていた。

910: ① :2017/02/15(水) 23:37:14
 なのに彼は焦っていた、それが次官にはわからなかった。確かに焦る理由は表面的にはきついものがある。
 米軍の手先である航空自衛隊はF4ファントムを、海上自衛隊は新型空母まで建造中だ。
 人民飛行機工場は更なる能力アップを求められるのは確実だ。
 そして何よりも彼が愛する日本人民航空の宿敵である「日本航空」は、B-747の導入を決め、日本人民航空がまだ参入が認められていないシベリア航空路に長距離型のDC-8-62型を投入しようとしていた。
  (それに対する長官の対応策は完璧なはず、他の指導者じゃ無理だろう…)
 次官は首をかしげた。
 人民飛行機工場は南の傀儡に対抗してMig23のライセンスを予定していた。
 「日本航空」のDC-8はおろかB-747への対応策はソ連から十分すぎるほどの対抗策を引き出していた。直接「南」には乗り入れが出来ないがハバロフスクを中継点としても、十分魅力的なものに南の連中には映るだろう。
 (なのに、何で長官はこんなに焦っているのだ?)
 次官には訳がわからず、目の前で「彼」は頭をかきむしっている。
「そうだ!」
突然、彼はまるで古代のギリシャ人が閃いたように顔を上げる。
そしてやにわに傍らの本棚に近寄ると一冊の本を取り出しぺらぺらとページを捲る。
「この理論しかないな…ヨシ!」
「彼」は本を勢いよく、パタンと閉じると、その本を小脇に抱え、
「<偉大なる指導者>に会いに行くぞ!」
と部屋を出て行く。慌てて次官が追いかける、「彼」の小脇に抱えられた本は

コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー
『俳優の仕事 第三部 俳優の役に対する仕事』

(なぜ?スタニスラフスキー?)

次官には皆目わからなかった。

911: ① :2017/02/15(水) 23:38:22
 ハバロフスク空港にロシア語、続いて日本語の案内放送が流れる
「日本人民航空007便パリ行きにご搭乗のお客様に申し上げます。まもなく日本人民航空007便パリ行きが到着いたします。なお、ここハバロフスク空港でしばし整備と補給を行いますので、もうしばらくお待ちくださいませ」
普通なら到着する時にこんな放送は流されない。
 しかし今日は日本人民航空の誇る一番機が到着するのだ。「南」の日本人に機体を見させるために宣伝として流されたものだった。

事実、「南」の日本人たちの目は滑走路に注がれた。

それは最初、小さな点でしかなかった。
やがて大きくなり、高い轟音をとどろかせてハバロフスク空港の滑走路に「南」の日本人達の目の前で見事なタッチダウンを決めると歓声が上がり、フラッシュがたかれた。

やがてタキシングして機体が停止すると、大きな尾翼に白地に赤い星が描かれた、その美しい機体に、「南」の日本人からため息が漏れた。

ツポレフ「Tu-144SЯ」

日本人民航空と日本人民飛行機工場が世界に誇る超音速旅客機。
開発本国のソ連でさえもまだ本格営業についていない最新鋭旅客機だった。

注1


「Tu-144SЯ」のハッチが開かれ中から客室乗務員が出てくると「南」の日本人からさらに大きな歓声が上がった。特にモーレツビジネスマンたちからだった。

日露混血の長身美人軍団。ハバロフスクの寒さにもかかわらず、明るいオレンジのラフなシャツに、太腿の露わな超ミニホットパンツ。そしてゴーゴーブーツ。
本来なら数年後のアメリカのサウス・ウエスト航空のスチュワーデスの制服。*注2
日本人民航空、というより「彼」の野望の結晶だった。

こんな制服は本来厳格な共産主義国家ではご法度である。粛清の対象になりかねなかった。
しかし「彼」は恐れず、「偉大なる指導者」に訴えたのだ。
 「共産主義国家におけるスチュワーデスは単なる労働者ではなく、社会主義リアリズムに基づいたリアリズム演劇でなければならない。よってその制服はスタニスラフスキー・システムの理論に共鳴したものであるべきだ!」
 正直言って極端に短いホットパンツがなぜスタニスラフスキー・システムに基づいたものなのか、「彼」だけにしかわからなかった。
 が、人民鉄道長官が制服を着たモデルの写真を振りかざし「スチュワーデスは資本主義国家に対し、その美しさをもって芸術的・戦闘的に労働しなければならない!」という、これまたよくわからない助け舟に、「偉大なる指導者」が勢いに飲まれて同意した結果だった。

 いずれにせよ、このハバロフスク空港で「南」の日本人たちはその「芸術的・戦闘的」労働に圧倒され勝利を収めたことは、大きな歓声が上がったことで証明されたといえる。

 その日の夕方、ニュースで「南」の日本人が歓声をあげるのを見た「彼」は、こうほくそ笑んだ。

「ふふふ…これでJALのミニにかつる!」*注3

「彼」と日本人民航空の野望はまだまだ途中である。

注1:英語式だとTu-144SJ 日本人民飛行機工場が一部機体製作という設定です。

 征途世界でもかなりきびしいとは思いますが

注2:参考画像サウス・ウェスト航空スチュワーデス 1975年

ttps://image.middle-edge.jp/medium/4fc95891abb9881bdd6451c139d71ad8.jpg?1469137229

注3 日本航空スチュワーデス 1970年

 ttp://www.nikkei.com/content/pic/20160131/96958A9F889DEBE4E7E7E2E6E6E2E0E4E2E3E0E2E3E49C88E082E2E2-DSXMZO9655054026012016NZ2P01-PN1-20.jpg

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最終更新:2017年02月20日 10:22