730 :ヒナヒナ:2012/01/05(木) 23:23:55
とある農水省課長の憂鬱


195×年 農水省

「技術を篤農家の聞取りをまとめて、来週試験場に提示しろ!」
「はい……課長、日曜日って何でしたっけ?」
「お前は、月曜までに素案もってこい。」
「今週中にセンサスをまとめるとか死ぬ。」
「あと外務省とも調整をつけて置け。」
「睡眠時間を……」

濁った目をしたスーツ姿の男達がデスクにかじりついてワープロを打ち、
決済を受けるためにスタンプラリー(決済印を各上司に貰い歩く)を実施し、
書類を持って部屋を行き来する。
農水省の庁舎では、戦時の軍部かと思うほど活気付いていた。
日本の農業の舵取りを行う彼らにとっては今が戦時なのだ。

加速度的に増えてきている農薬の、適正な使用方法の指導
米やジャガイモの基幹品種が開発されれば作型の策定
過度に都会に流れる人手を農家に繋ぎとめるための政策
それでも人手が足りないため、機械導入に向けた区画整理と農道整備
外務省と連携した国外農業改良への梃入れ
和食離れを防ぐために教育庁と連携して食育の推進
農業機械購入補助の資金の手配などなど……

どれもが今やらなければならない案件だった。
逆行者である課長としては、
自給率がカロリーベースで40%という史実日本は悪夢だった。
数値が低く出やすい統計法であるカロリーベース値で危機感を煽ってなお、
平成の日本政府はまったくアクションを起こさないどころか、
日本農業にとって致命的ともいえるTPPを認証する始末だった。

国家として、ある意味農業を諦めていた史実日本のようにはできない。
何故なら大日本帝国は今や列強筆頭。
致命的な弱みを国外に見せるわけにはいかない。
食糧を自給できない国(植民地を含めて)になれば、外交は不利になる。
異常気象のたびに飢饉が起こり、餓死者がでる国では、国としての信用を失う。
農水省ではこの見えない戦争を、「緑の戦争」とひそかに呼んでいた。

731 :ヒナヒナ:2012/01/05(木) 23:24:55

もちろん、すべての食料を国内で賄うことは物理的に不可能である。
日本列島は農業気候的にはそれなりに恵まれていたが、
増え続ける人口を養うには農業可能地が小さすぎた。
日本ではこれ以上農地を増やす事は難しいので、とりあえずは農地保護政策を推進した。
農地税率の保障と農業放棄地への課税。農家への保障制度の充実。
それでも伸び続ける食料需要の所為で、農水省は安心できないでいた。

「最近カリフォルニア共和国で稲の供給が増えています。外務省からの情報です。」
「日系法人が増えている所為か?」
「ええ、それもありますが、カリフォルニアでは邦人が増えた影響で、
旧米国人の間でも日本食が広がり、米の消費が伸びている模様です。
まあもともと米作地帯で農家もノウハウを持っているので増産も楽なのでしょう。」
「あの地域は晴天率が良いから炭酸同化率も高い。生産効率は日本より良いだろう。
良食味米は難しいかも知れんが、アジアが不作であったときの予備として使える。」
「水不足が無きゃ、本当にいい土地なのですけどね。」

ほぼ属国化している半島、中国沿岸地域は混乱が続き既に食料を持ち出せる状態ではない。
その点カリフォルニアは有望であった。
ある程度の生活水準を持っているので政情が安定すれば工業製品が売れる。
(ただし今は武器の需要が高かった)
その対価として、日本は農産物を買い取れる。

ただカリフォルニア共和国には現在、難民が押し寄せていた。
特にナチスドイツ支配下での苛烈な統治から逃れるために、
最低限の人権は保障されるカリフォルニア地域に詰め寄せていた。
食料が消費され、カリフォルニア政府が輸出にまわす分の食料が目減りしていた。
こればかりは、軍や外交の力に頼るしかない。

アジア以外での大事な米の産地ではあるので、稲作については梃入れもしているし、
緑の革命(まだそんな名前は付いていないが)のためにカリフォルニアに設置した、
国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)で、
周辺の友好州では小麦、トウモロコシの農業生産を強化していた。
ある程度政情が安定すれば農業生産地としても良い付き合いが出来そうだった。

732 :ヒナヒナ:2012/01/05(木) 23:25:33

「予算があれば、複数同時進行で調査や事業ができるのに。軍部の金食い虫め……」
「そういうな。軍が国を守って、農業者や農業技術者を無傷で返してくれたから、
我々も真っ当に仕事が出来るのだ。軍に農業者を取られっぱなしの国は悲惨だぞ。」
「ソ連とかソ連とかソ連ですね。」
「ドイツもだな。しかし、ソ連を思うと、わが国の指導者層がまともなのは救いだ。」

ちなみに夢幻会上層部の中で、農水省の一番の理解者はなんと辻だった。
予算の鬼、大蔵省の魔王などと揶揄されることの多い辻だが、
ことに各省庁の中堅からは信頼されていた。
(辻と直接交渉する上層部にとっては、やはり胃痛の種だった)
必要な所にはどんなことをしても予算をひねり出して付けるし、
予算の足りない分は精神力で(ry などと言わないため、
予算が本当に執行されるのか……といった余計な心配が無く職務に邁進できたのだ。
もちろん、予算はギリギリに絞られるので、常に過労状態ではあったが。

「東北地方も農地の整備がだいぶ進みましたし、総研様さまですね。」
「国内農業でも大変なのに、今度は国外も手を出すのか。睡眠時間が減るな。」
「うちは不夜城と化していますからね。もっとも何処の省庁も大体同じですが。」
「来月には国会で事務次官が答弁に立つからな。資料も用意しないと。」
「面倒ですね。目先しか見えない近視眼議員どもが。」

そんな背景をそれぞれが脳裏に描きながら、農水省の会議が進められた。
すでに農業政策は農水省だけでなく国家事業になりつつあったのだ。
それは国会議員らが口出ししてくるということであり、
一部の職員は苦い顔をしたが、課長らはそれについてよい兆候であると考えていた。
三大欲の一つに直結する食料事情について無関心であるより、よっぽどいい。

「それはいいとして、次は北米で農業指導ですか。仕事量ガガガ……。」
「まだ、旧米国人は字が読めるだけいいだろ。資料作って配布という手段が使える。」
「ああ、東南アジアでは上層部が漫画資料(もやし○ん風)を作って配布して、
やっと何とかなりましたからね。学がないと農業も出来ない時代になるなんて。」
「……。(夢幻会のやつらあれだけは嫌だって言ったのに農水省の黒歴史を作りやがって)」
「しかし、米国の穀倉地帯があれば、もうちょっと楽できたかもしれませんね。」
「北米の穀倉地帯は中東部だぞ。ロッキー山脈の向こう側だ。
あんな広大な地域を確保するなんて言ったら、陸軍が反乱起こすんじゃないか?」

課長は課内では自分にしか通じない皮肉を言って頬を歪める。
史実では大陸確保にハッスルしていた陸軍が、
主に上層部にいる逆行者の所為で大陸嫌いになっていたのだから。

それはともかく、旧米国は適地適作で大規模農業を営める国だった。
適した地で適した産業だけを行っていれば、ほとんど自給できてしまうのだ。
それは農業に限らないから性質が悪い。

まったく米帝様はこれだから……などと呟きながら、
課長は部下達の報告をまとめて、次々と指示を出してゆく。
手早く終えないと今日も徹夜になってしまう。
もっとも、すでに午前様は確定していたが。


米国の傘下というぬるま湯に浸っていた史実日本と違って、
列強筆頭として一つ一つに重責が伴う世界だ。
その中を泳ぎきるためには軍事だけでない力がいる。
ここで自分達が戦後世界の基礎を作り違える訳には行かないのだ。

今しばらくは、軍人達が主役の時代であるが、
それが終われば、彼ら閣僚や民間が主役の時代が来るのだから。


(了)

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最終更新:2012年01月11日 21:52