372: 弥次郎 :2017/08/20(日) 19:50:22
「Si vis pacem, para bellum(汝、平和を欲さば備えよ)」
「南蛮は勢力の拮抗による安定と、ほんのわずかなほころびに端を発する混乱が繰り返されると推測される」
「国家安康に反せぬ限り、良い言葉だ」
日仏ゲート世界 日仏世界の宗教事情 -ガリカニズムの発展-
西暦1612年2月。ガリカン フランス統一国教会は長らく開催されていたオルレアン公会議の結果を公表した。
国内のキリスト教すべてが批准すべき条項を定め、国内の政治的な地位も含めた役目を定め、
国王の政治的な影響下に教会が全て納まるという異例の立場を表明したのである。
勿論、さしものフランスも教会の権限をいきなりはく奪するような真似はしなかった。
未だにキリスト教圏の国々が警戒の目をフランスへと向けている以上、いたずらに騒げば再び十字軍の危機である。
しかし、少なくともオルレアン近郷で主に日本からの来訪者やフランスの商人やギルドなどに対し犯罪を行っていたことから、
教会関係者であろうとも教会であろうとも捜査や取り調べに応じることが義務付けられていった。
無論、反発もあった。
フランス南部のギュイエンヌやラングドックを拠点とするユグノーの改革派はあくまでカトリックを従属させることを強く主張。
ここには積年の恨みつらみやサン・バルテルミの虐殺の恐怖がいまだに抜けていなかったことが慣例しているとされる。
1620年からおよそ10年間、主にフランス南部地方で各地で暴動や抗議活動が発生。イギリスやスペインさらにバチカンの勢力が
有形無形の形で暗躍したと推測され、ラ・ロシェルやベアルヌでは本格的な武装蜂起まで発生した。
これに対処したのが、すでに高齢の域に入り始めていたアンリ4世と、彼の息子であり後のルイ13世であった。
アンリ4世にとってみれば、この程度は計算の内に入っていたものであったという。この武装蜂起に関する逸話として、
武装蜂起勃発の知らせがアンリ4世へと届けられたとき、アンリ4世は命令書を前に既にペンを構えていたとされる。
ノータイムでサインがなされ、出動した国軍はこの暴動を速やかに鎮圧。正しく、ペンは剣よりも強しであった。
鎮圧後にはアンリ4世自らカトリック勢力に謝罪をするなどし、徐々にカトリックおよびユグノー側の勢力の取り込みに成功していく。
また、アンリ4世はカトリックの総本山たるバチカンと折衝に力を注いでいた。
少なくとも当時においてフランスの勢力というのは他国を無視しても問題ないものではなく、積極的な敵対は避ける方針であった。
ゲートの発生によって独自権限を得ているとはいえ、それはバチカンが容認している限りという限定的なカードなのだ。
よって、バチカンの機嫌を損ねない程度に自重する必要もあった。
373: 弥次郎 :2017/08/20(日) 19:51:58
さて、このガリカニズムは当初こそキリスト教の取りまとめ及びそれに伴う犯罪の抑止という面のみだったが、徐々にその質を変化させていった。
当初からバチカンの影響力から逃れようという意思があったのはほぼ間違いないとされるので、
ある意味順当な変化と言えるだろう。教会への捜査権や教会へ逃げ込んだ犯罪者の引き渡し、査察権、さらには、
日本大陸側の宗教関係者との会議への出席など、徐々に徐々にフランス王国は枷をはめ、鎖をまきつけたのである。
これは緩やかに、そして着実に進行し、バチカンの目を逃れ、あるいは何らかの根拠を以て行われていた。
アンリ4世の、そしてその意図を汲んだ歴代国王とその宰相たちとしては、王権による聖職者叙任権の掌握、
および史実におけるライシテの徹底が目標となっていた。あくまで宗教とは国民の結束や調和および道徳・倫理感の為であり、
国際的な地位の担保とその他の目的以外では、政治を担う王族に優越することがあってはならないというものである。
宗教に振り回された反動とも言えるかもしれない。あるいは、宗教を徹底的して政治的に利用することでそれを以て報復としたのかもしれない。
一説には、織田家が行った比叡山や伊勢長島勢力に対して飴と鞭の策と、現地住人の取り込み、学問による「現世利益」による宗教の無力などに、
アンリ4世が着目しフランス国内で通用するようにアレンジしたともされる。
事実、犯罪者の逮捕とオルレアンをはじめとした交易都市における犯罪の摘発率の上昇は確実に起こっていたし、
日本から輸入された諸々の技術や衛生環境の改善の技術は宗教よりはまともな効果をもたらしていた。
さらに、宗教の面から見ても日本大陸の宗教関係者との対話は極東の大陸国家にまで伸びていたキリスト教の資料や、
シルクロードによってもたらされ、保存されていた数々の物品に触れる契機となり、さらに「国家安康に反せぬ限り」という、
日本大陸においては布教の条件ともいえる要素がもたらされたのであった。事実、この「国家安康に反せぬ限り」という文言は、
ガリカニズムの守るべき条項として取り込まれているのが確認されている。
ガリカンにとっての転換点、あるいは権威の強化がなされたターニングポイントとなったのが、
ヨーロッパにおける宗教戦争のグランド・フィナーレともなった「三十年戦争」の勃発である。
勃発当時、フランスはどちらかといえばプロテスタント系の宗教色が強くでていた。勿論立場としてはカトリックなのであるが、
アンリ4世暗殺未遂によって比較的まともな部類のカトリック教徒がその後のオルレアン公会議において、
発言権を大きく持てなかったことに由来し、外聞的には「プロテスタント系の影響が大きいカトリック」とみなされた。
元をたどればフランスに掣肘したいと暗躍したカトリック勢力が悪いのだが、兎も角そのように見られた。
また、ここで着目すべきことに、主にフランス南部に展開していたユグノーがこの時点で既に有名無実化、即ち、
事実上プロテスタント系へと吸収されていたのである。史実においてアンリ4世の暗殺後に亀裂が入ったフランス国内の宗教のパワーバランスは、
アンリ4世が暗殺から免れることでこの世界においては保たれ、さらにアンリ4世がその晩年において、
史実以上にギュイエンヌやラングドックのユグノー強硬派を無力化していたことで火種となりうるものが消えていたのである。
プロテスタント系(および少数ながらもカトリック系)への恭順や改宗がフォンテーヌブローの勅令を待たずして進行、
ユグノーの資産・人口・産業その他もろもろは、史実と異なり緩やかにフランスへと定着していった。
これによってスイスに時計産業が発展しなかったり、ジャン・アンリ・ユグタンのような資産家が国外流出しなかったり、
あるいはドイツにユグノーのフランス人が余り移住しなかったなどの影響があったが、ここでは些細なことでしかない。
374: 弥次郎 :2017/08/20(日) 19:52:59
話を戻そう。プロテスタント系とみなされたフランスではあるが、少なくとも政治的にはカトリックであった。
ユグノーの取り込みやそれに伴う国内の事情のすり合わせ、およびナントの勅令の改訂などに明け暮れていたフランスは、
お茶を濁しつつも国外情勢を引っ掻き回すべく史実同様に新教徒側で参戦。結論から言えば、史実とほぼ同じ経過をたどった。
違うところを強いて言うならば、当時のフランス国王ルイ13世および宰相リシュリューらは国内の宗教のバランスとりに注力し、
カトリックでありながらも新教徒を支援するという一見すると矛盾した政治的及び宗教的動きの帳尻を合わせという点だろうか。
アンリ4世の立場を踏襲しつつも、実際に起こっていた事態に対応したのはやはりというべきか良王アンリの影響とネームバリューのおかげであろう。
ともあれ、三十年戦争は1648年に「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とも呼ばれたヴェストファーレン条約の締結により終結。
多少の被害を受けつつもフランスは、そしてガリカンは宗教に端を発し、国家間の思惑もあって終結した戦争を乗り切ったのである。
もし、この戦争において宗教に任せた判断をしていたら。もし、権力と暴力による宗教問題の解決がなされていたら。
その末路は、分裂し、帝国としての形式を失った「神聖ローマ帝国だったもの」がその実態を以て証明していた。
戦争による国土の荒廃、正規兵・傭兵問わない現地調達及び略奪による支配体制のゆらぎとダメージ、
さらにチフス・ペスト・コレラの流行と小氷河期による飢餓と人口の減少。
意図的に広められた恐怖の口径の伝聞は、結果的にガリカンへの、ひいてはフランス王家への支持の拡大へとつながったのである。
余談ではあるが、織田幕府は、そして日本という国家はフランスを通じ国際法の端緒となるヴェストファーレン条約に触れ、
さらには自国とは比較にならないほど多数の国家が絡み合う、複雑な欧州情勢を知ることとなった。
これは織田幕府政権の樹立による平穏という微睡を打ち破り、各大名や幕府軍、さらには諜報や文化的にも影響を及ぼす事態となった。
ある意味、彼らは幸運であった。時代の最先端を目撃し、欧州での戦争は決して他人事ではないという意識を保てたのだから。
これを契機に織田幕府は各大名に課していた軍備制限を徐々に解除。さらに幕府主導となってゲートの向こう、
即ち欧州に対する諜報や外交網の拡大に力を入れていった。そう、いよいよを以て、日本は間接的ながらも国際社会へと進出しようと動き出したのである。
織田幕府にとっても、大名たちにとっても、幕府の樹立からおよそ30年という短くも長い安らぎの時間が終わったことを告げる鐘となったのであった。
375: 弥次郎 :2017/08/20(日) 19:53:33
以上、wiki転載はご自由に。
ガリカニズムが最初に迎えた山場、三十年戦争編でした。
三十年戦争が終結し、ガリカニズムは国内に徐々に浸透しつつありましたとさ、というお話です。
また、ガリカニズムの早期成立と政治的なアレコレの影響が既にこの時点から伏線となっていましたよと言ったところ。
ここからガリカニズムはより独自色を強めていくこととなります。
具体的には植民地の拡大と日本との交流の拡大、さらにフランス革命戦争における救援などによる、偏見等の撤去ですな。
フランスとその友好国のためのキリスト教へと変貌するのは、ここら辺からとなります。
また、幕府は欧州に間接的にせよ関わらなくちゃいけなくなりました。
これで「いつまでも変わらない安寧」という認識が「危険と表裏一体の安寧」へと変わっております。
史実ならば、江戸幕府の時代は、悪く言えば武力がさび付いてしまった時代でありますが、それが回避される形となります。
欧州の(政治的な)荒波にもまれるので、力は抜けなくなりますね。
今回もひゅうが氏の「日本大陸の三異教について」とにらめっこしながら書きました。
貴重な参考SSを書いていただいたひゅうが氏に、この場を借りてお礼申し上げます。
最終更新:2017年08月22日 10:31