527: yukikaze :2017/09/03(日) 14:00:11
ではちょっとした歴史改編をw
ひゅうが氏様の韃靼を利用させてもらいます。
1 明の北伐により元王朝はモンゴルに撤退。
2 北元第二代ハーンであるアユルシリダラは、満州地域防衛の為、皇族を派遣。
3 明の北伐に対し、半島からの兵糧確保により満州防衛成功。ただし半島民から恨みを買う。
4 北元でクーデター発生。フビライ系断絶。満州にいた皇族はただちに正統なる北元を名乗る。
5 以後、北元は、アリクブカ系が牛耳った北元と、半島での反乱に悩まされる事に(勿論、明の策謀です)
6 エセン・ハーンの登場により、明の韃靼(満州では元と呼んでいたが)対策変化。融和策に切り替えられる。
7 北元、妥協策として対外文書で『韃靼』を使う代わりに、明との間に有利な通商条約締結。稼いだ時間で半島に
の再編成(この時点で、半島民族の強制移住による離散が確立)
8 以後、1600年までは、明の行動を視野にいれつつ、内政重視政策を取る。
なお、これだけ時間がかかったのが、北方への領土拡張に体力取られたため。
9 豊臣秀吉の台湾征討などにより明に乱れが生じるも、元の悲願であるモンゴル攻略を望む
声が強く、しかも史実よりもリンダン・ハーンが長生きしたことで、身動きが取れず。
10 結果的に「どちらが元の正統か」で対立が解消できなかったことで、韃靼は中原侵攻の機会を
逃し、実権も徐々にエホナラ氏に奪われていくことに。
11 明王朝が滅び、呉三桂が『清』を建国するのと同時期に、『韃靼』はエホナラ氏出身のホンタイジへの
禅譲により『満州国』が成立。ここに『清』『満州』『元(リンダンの王朝が継続)』の鼎立状態に。
12 徳川幕府は、南海州(旧台湾)の関係から、清との関係が悪く、必然的に『満州』との交流が活発。
満州も有能な皇帝が続いたことによって、実利的な外交が続くことになる。
歴史改編としては
1 明による満州制圧戦が、北元側の兵糧の確保により失敗(史実では北元の兵糧不足で降伏)
2 明の『夷を以て夷を制する』政策によって、満州の北元がギリギリ生き残る。
3 明の滅亡において、エホナラ氏による簒奪やら何やらで南征の時間が奪われる。
4 史実の清の優秀な皇帝達によって、有力な騎馬民族国家として再構築される。
5 清との関係から『敵の敵は味方』理論で、満州と徳川との関係は良好。
581: ひゅうが :2017/09/03(日) 22:57:02
yukikaze氏のネタを支援してみることにしました。
仮称:韃靼帝国演義 プロローグ
――西暦1945(元統739)年8月15日
夏である。
天は高い。
文殊菩薩を音写した名前を持つこの大地から見上げるそれは、抜けるようなというには今少し足りない青さをたたえていた。
これが2000公里(キロメートル)も内陸のホロンバイルといわれる土地に入ったのならば、父祖たちが見上げた何らかの意思すら感じさせる目もくらむような深淵がそこにあるのであるが。
古の騎馬民族達はそうした「天(テングリ)」を吹き渡る時として無情なる風の動きを感じることができたという。
あるいは、それこそがこの遊星最大の平地――要するに草地とその上の天とで構成される単純極まりながらもそれゆえに複雑極まりない人間模様を展開する場所において生き残るための必須条件であるのかもしれなかった。
「中原を追われ500年。今や天、再び元に至るというやつかな?」
「やめてくださいよ。あの黄色い大地を統べたことがいかに帝国を弱めたのかご存じでしょうに。」
長城線、そう呼ばれる場所から南を睥睨していた男たちがいる。
一人は、龍袍(ロン・パオ)と呼ばれる軍衣を騎兵装束の上から羽織るように肩にかけている。
ちょうど西洋騎兵、ことにユサールと呼ばれる騎兵集団と同様である。
200年ばかり前の軍制改革以来、彼らはそうした出で立ちを導入していたのだった。
もっとももう一人をはじめ、この長城線に控えた男達は大半が濃緑色に簡素なボタンどめの野戦服である。
近代戦に少なからず巻き込まれていたこの国の軍隊は実利主義者であった。
派手派手しい臙脂色の軍衣で白馬にまたがり、上都へと進軍する乾隆帝のような時代は30年も前に終わっていたのだった。
今では、近衛兵の式典くらいでしかお目にかかる機会すらないはずである。
だが、その例外は長城線の上にある。
友邦として共に「大」の字を冠するところの島嶼国家と同様、この騎馬民族国家では皇族は終身現役の軍人を兼ねている。
というよりも、そうでなければおかしいのだ。
なにしろ彼らは馬を駆り草原を駆ける民族だ。そうでなければ民族などといわずに、大海にも似た草原と天の間に消え去っていったことだろう。
そう。
なんといったか――
「風の前の塵に同じ、というやつだよ。」
「平家物語、冒頭ですか。」
日本留学経験を有する副官に向けて、満州帝国皇太子たる愛新覚羅溥傑は頷いてみせた。
「そう。春はもう過ぎ去った。まだ夢に酔っているような寝ぼけた輩は――」
消え去るのみだよ。
そう続けた瞬間だった。
背後からぱっと一斉にカメラのフラッシュのような閃光が前方に走るのを長城線の全員が感じた。
指揮官のもとに控える態度をとっていた兵士が叫んだ。
「砲兵、撃ち方はじめました。」
師団、とも軍団、ともいわない。
なにしろこの南方国境防衛用 全周囲要塞線の後方には20公里(キロメートル)にわたって大小10万門を数える火砲が控えているのだ。
そして、かの欧州大戦後に建造されたフランス国の同業者に範をとったこの要塞線本体はそれ以上の武装の集合体である。
1億5000万を数える人口を有する中堅国家としてはやや重たい仕事であったのだが、それは40年という歳月が解決していた。
かの第一次極東戦争において祖国とその同盟国はその重みをイヤと言うほど味わっていたのだった。
ゆえに、2度目の世界大戦においてその存在意義に疑問符がつけられつつも工事は継続された。
かつての万里の長城の南方で繰り返された動乱、そして再びの極東戦争においてその存在意義は十分に発揮されたといえよう。
「さぁて、紅巾党。」
今や共産革命によって深紅に染め上げられた中華の大地への恐怖を込めた異称を述べた溥傑は、文字通り地を埋め尽くし、鳴り物や太鼓、何よりもその数でもって天地を圧する集団に向けて、かつての光諸大帝が神坂に臨んだ際のように託宣を下した。
「この大地は中華のものに非ず。去れ。」
のちに、第2次極東戦争と称される大規模地域紛争は、こうして始まった。
最終更新:2017年09月06日 15:07