292: 弥次郎 :2017/09/06(水) 18:45:25


日仏ゲート世界 日仏世界の宗教事情 -ガリカニズムの完成 あるいは、フランス帝国連邦の誕生-





ガリカンの発展は、それまでのカトリックの教義もプロテスタントの教義も許容しながらのものだった。
異端というものを許容した、というべきだろうか。それとも、大きなカテゴリの中に取り込みながらの発展というべきか。
いずれにせよ、ガリカンはその勃興段階において、嘗て欧州で異端とされ、日本大陸へと逃げ延びた景教などと交流しながら誕生したため、自らの内に自然と「異端」「異教」を暗黙裡に受け入れていたのである。少なくとも、最初から望んでのことではないかもしれない。
全ての人間が許容したとは限らなかっただろう。如何にキリスト教の権威が揺らごうとも、精神的・倫理的な主柱を失う、あるいは揺らぐことを恐れるのは人としての本能であったのだから。しかし、教義や宗派という垣根を超えて行動するガリカンという元締めが誕生したことで、フランス国内の宗教は急速に争いを鎮静化させていった。
宗教界の主流派は他宗教への攻撃を緩めざるを得ず、日本大陸の宗教、それこそ神道 仏教 キリスト教諸派を受け入れるしかなかったのだ。

しかし、それも十年、二十年と世代をまたいで続けば、それは単なる「実行」から「習慣」へと変化する。
少し前まで異端とされていた宗派の人間が自分の近くに暮らすという状況が続いても、やがて「慣れ」が生まれる。
人間というのは、「習慣」と「慣れ」に支配されている動物だ。最初こそ権力による促しという面があれども、やがては慣れてしまい、習慣となり、気にしなくなるものである。隣人が日曜日に教会に行き、自分が時に聖堂に行くとしても、それはわざわざ咎めるほどでもなくなる。

ゲートの発生も、これに大きく後押ししていた。
オルレアンなど日本との交流が著しかった地域では、既に自国文化と他国の文化の入り混じり、かなり寛容になっていた。
その他の地域でも、日本から輸入され始めた上下水道や個室トイレ、浴槽などは衛生環境を向上させており、実利という説得力を以て「他の文化を受け入れる」という概念を定着させていた。厳密に言えば、ヨーロッパの源流たるローマではやっていたことも含まれていたので、完全な輸入というよりは日本の手を借りて復興させたのだがそれは割愛。
ともあれ、宗教に依存せずに社会的な規律や規範、そして生活するために必要な要素をを維持する仕組みが出来たのである。

こうして、フランスはその宗教の在り方を徐々に変化させ、定着させた。
異端、異端と攻撃するよりも、王国から排除されないように静かに息をひそめ、場合によっては敵と和解する事を選んだ。
それは「敵を赦す」あるいは「敵も愛する」という、キリスト教の原点に回帰する行為でもあった。ユグノーが結局プロテスタントやカトリックへと帰属し始めたのも、アンリ4世の働きかけによって状況が変わったことに加え、宗教側に寛容さが生まれたことも関わっていたのだ。
斯くして、ガリカンはフランスに新しい理性を吹き込んだのである。

この寛容さは、随所随所でフランスを助け、同時に苦しめることになる。
アメリカ大陸への入植、東南アジア地域及びオセアニアへの進出、アフリカへの進出など、絶対王政期の輝かしい栄光は、現地勢力との寛容な接触を以て順調に進んだのである。それに日本が介在したことも一要因ではあるが、植民地が生まれ、時代を経てフランス王国の一地方にまで成長できたのは現地に溶け込みながらもフランスというアイデンティティーを保った結果に他ならない。

293: 弥次郎 :2017/09/06(水) 18:46:19

一方で、ガリカンが浸透したとはいえ、宗教がらみの事件が消えたというわけではない。
むしろガリカンとそれを管轄する王政府が遺恨の無いように各宗派そして宗教間のトラブルの解決に乗り出さねばならなくなった。
本国から離れた植民地では、ガリカンの目から逃れたということで好き勝手に振る舞う人間が生まれて犯罪を起こすケースや日本との交流を行う中で謂われなき優越感を裏切られ暴走するというケースもあったし、ガリカン内部でのトラブルも発生している。

弁護するならば、フランス王国王政府と国王を中心としているとはいえ、この時点では未だにガリカンは絶対性というものを有しておらず、隅々まで行き届いた管理というものが出来ているとはいえなかった。ここには技術的な問題も絡んでいる。
また当時はよほどのケースが無ければ学問に触れる機会が乏しかったことも偏見や風聞の排除に時間と労力をかける原因であった。

しかし、総じてこれらの経験は、社会的な影響を及ぼしつつも宗教の世俗化を推し進めるに十分な働きをなしたと言える。
植民地ごとの宗教問題を管轄するガリカンの支部のような組織が成立し、犯罪者の処罰や遠隔地における業務のやり方などが成立。
また、日本のキリスト教の主流派、即ちネストリウス派キリスト教との和解の成立、さらに旧天草及び長崎などに残り続けていた
少数のカトリック教徒との和解などが行われ、将来的に拡大すると思われた禍根を取り除くことに成功した。


そして、時間は少々飛んでフランスを中心とする動乱がある程度落ち着いた1793年1月。
史実においてルイ16世が処刑された日に、その儀式は行われた。即ち、戴冠式である。
ルイ16世が「これまでの王としての務めを終えた」と宣言してその王冠を下し、同時に「全てのフランス国民の名において」ルイ16世が皇帝として自ら戴冠したことにより、立憲君主制のフランス帝国が誕生したのである。
同時に、戴冠式に訪れていた各植民地の代表たちが、皇帝に対してフランス帝国の一員となることを、後に発行される予定となっていたフランス帝国憲法の原本へとサインし、さらに宗教・宗派ごとの方法で宣誓することによりフランス皇帝および帝国に対する忠誠を誓った。これによってフランス帝国連邦が成立。
そしてその場においてバチカンからの出席者は、祝辞を述べるにとどまり、その光景を眺めているだけであった。
奇しくも、その光景は皇帝として自ら戴冠したナポレオンのそれを速めたかのようなものであった。

当時のフランス王国、否、フランス帝国は干渉を目論んだ欧州各国の軍勢をほぼ叩き出した状態にあり、史実より早くに成立した第一次対フランス大同盟を構成する各国との間で落としどころを探り合い、講和が間もなくまとまるという状況であった。

国内へと侵攻を目論んだ軍を蹴散らし、その勢いで外征をするかと思われたフランスは、急速に国境沿いを固めるにとどまった。
というのも、ルイ16世が国内における革命勢力の炙り出しおよび復興が優先するように指示を出し、フランスへと派遣されていた織田幕府救援軍が長期的な軍事行動を続けることに懸念を示したことが理由とされる。
既に3年余りの派兵を続けており、単なる戦闘のみならず復興や医療行為にも従事することで、織田幕府軍は少なくはない疲弊を得ていた。
流石の幕府軍も、心情としては報復戦争へと参加することに異論こそ無い物の、流石にそこまで行うのは政治的には無理があり、フランスにしても日本へ借りを作り過ぎてはいけないのではという懸念の声があったことも後押ししている。

他の理由を強いてあげるとするならば、正規軍人としての訓練を重ねていない市民や、軍人として訓練を受けているとはいえ、数を揃えることを優先し、戦後の後始末を考えれば些か厄介すぎる事情を抱えての戦争を長く続けることに懸念を抱いたためもある。

295: 弥次郎 :2017/09/06(水) 18:46:59

ともあれ、史実と異なりフランス改革/革命への干渉を目論んだ欧州各国と日仏の同盟の戦争は1792年には既に沈静化。
細々とした戦闘を除けば、ようやくフランスに平穏というものが訪れていた。
この戴冠式と、それに続くフランス帝国及びフランス帝国連邦の成立と、フランス帝国憲法の発布は、そんな戦争によって疾風怒濤の如く乱れた流れに一つの区切りをもたらすためのものであり、欧州への公式発表であった。
この、キリスト教そして教皇の聖別を形式的以外には抜きにした帝位への即位は欧州各国への混乱を生んだものの、「革命勢力が王権を覆す」という大多数の欧州の国にとっては恐るべき事態が回避され、残る戦闘も大義を失うものとなった。

既に各地の戦闘で散々な目に合った各国は被害の事も鑑みて、飛びつくように講和に応じた。
勿論、フランスにしてみれば力を蓄えた後にぶん殴って仕返しをするつもり満々であったのだが、そこは大人の対応ということにしておいた。侵略者を階級や宗派を超えて一致団結して戦ったという事実が、既にフランスにとっては大きい収穫だったのだ。国内の団結が、これにより高まったのである。

当然、ガリカンもこの表向きとしては帝政、実態として立憲君主制への転身を果たしつつあったフランスの影響を受けた。
ほぼ同時期に結ばれたコンコルダートにより、バチカンはフランス国内における宗教の取りまとめをガリカンへと一任し、拘束力こそ持たないもののガリカンはバチカンの意向にも配慮するという形で、フランスは、ガリカンは名実ともに宗教的な独立を勝ち取ることに成功した。ゲート開通以来長らくフランスが重ねてきた努力が、ついに報われたのである。

ガリカンは憲法において公的機関、政治からは一定の距離を置きつつも連携し得る組織ということで「フランス宗教院」という形へと転身。
各宗教および各宗派の代表による折衝の場としての機能を残し、同時に、フランス国内における宗教活動の一切を取り仕切ることとなった。
ただし、憲法施行から10年から20年程度はフランス皇帝であるルイ16世を首班とする旧フランス王国王政府が業務を支えるという条件が付いていた。
さしものフランスも、いきなり一切合切を完成したばかりの帝国議会および編成が進んでいた帝国政府に任せるつもりはなかった。
これは何もガリカンに限ったことではなく、フランス帝国政府の組織においても同様であったことをここに述べておく。

こうして行政機能を旧フランス王国王政府からフランス帝国政府へと移管は30年、おおよそ、ルイ16世の生涯の後半とルイ17世、史実においては夭折したルイ=ジョゼフ・ド・フランスが、その帝位を引き継いでからの前半を使って成し遂げられた。
この間、帝国憲法および行政機構に関して喧々諤々の議論が交わされ、いくつもの修正や改訂が行われることとなる。
そうして、本当の意味でフランス帝国連邦はその産声を上げることとなる。

296: 弥次郎 :2017/09/06(水) 18:47:37
以上。wiki転載はご自由に。
駆け足ですが、フランス帝国連邦成立と、フランス宗教院として完成を見たガリカンの顛末をば。
改めてみると、「なんだこの史実への皮肉の連発……」という仕上がり。
血みどろと混乱が続いて何とか完成したフランス革命が、何ともスマートに終わってしまった…
書いてある分にはスマートですが、実際は結構事件とかトラブルがあったので帳尻は取れている…かな?
流石に一個一個書いてくと追いつけなくなりますので、そこら辺のさじ加減が大変ですね。

ともあれ、これで現代までのタイムラインは、ライシテとか1900年代の政教分離などを除けば終わった…はず。
あとはフランスの人たちが日本大陸に残るローマの産物を見たりとか、日本の人がフランスを見た時のあれこれとかですかね?

またもやでありますが、「日本大陸の三異教について」を書いてくださったひゅうが氏にお礼申し上げます。
日本大陸に十字教関連の聖遺物とかあると非常に厄いネタが出来て面白いかもしれないですね
その手のネタというか議論があったようななかったような…

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2018年02月28日 21:22