809: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:40:13
我々は故郷を忘れない。
あの懐かしの、はるか遠くになってしまったルイジアナを。
思い出せ、屈辱のロスト・ルイジアナを。
西暦1901年 大日本帝国 行政要塞都市 安土
日本がフランスと繋がった世界。
転生者の集まりである
夢幻会は、今日も今日とて暗躍を続けていた。同盟国がフランスであろうとも、日本の国益を求める彼らの姿勢は変わっていなかった。転生者の中には2周目、即ち別の世界において日本で活動した経験を持つメンバーもおり、彼らの知識は1度目のメンバーのそれ以上に重宝されていた(※1)。
「ん?この曲は……」
この世界においては第二の母国語と化しているフランス語の歌。
しかし、その歌詞の内容を日本語で理解した時、前世で何度も聞いた曲と重なっていた。曲のリズムや全体の雰囲気そのものは記憶にあるものと違いはなかった。夢幻会内部では新人の彼は、史実より早くに生まれているこれに非常に違和感を覚えて、親しいメンバーにその由来を聞こうと考えた。
そして、彼は知った。
史実のネイティブアメリカンが味わったのと同じ悲劇が、アカディア大公国の先祖を襲っていたことを。
810: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:41:01
西暦1862年。
エイブラハム・リンカーン大統領が奴隷解放宣言を行い、南北戦争後の1864年にリンカーンが選挙公約の一環としてアメリカ合衆国憲法の改正を訴え、それを実現したことで解放の動きはアメリカ全土に拡大した。
南部と北部が敵対するきっかけの一つともいえる黒人奴隷制度は、アメリカ合衆国の根底に存在する非常に厄介な事情の一つだった。この奴隷解放宣言にしても、宣言を行った後にそれを実施に至らせるまでにかなり綱渡りな状況を何度か潜り抜けている。1862年における合衆国中間選挙ではうまく戦争の収束を図れないリンカーンへの支持の集まりが悪く、さらにアメリカ国内ではインフレの進行が進んでいたこともあって芳しくなかった。
とはいえ、1863年におけるゲティスバーグの戦いの勝利と、その際に行われたゲティスバーグ演説の効果もあって、1864年に実施された大統領選挙でリンカーンが勝利を収めることに成功。斯くして、自由と正義の国としての
アメリカはここに再発進を果たしたと言える。このように法の下の平等を訴えたアメリカであったが、アカディア大公国は冷ややかにアメリカ合衆国を見つめていた。
「勝手に奴隷にしていた黒人を、勝手な理由で解放するとは、何時の間にやらアメリカ人は人を裁ける人種となっていたようだ」
皮肉気に書かれたアカディア大公国の大公の日誌の一節が、アカディア大公国の、そして帝政フランスの態度を明確に表していた。
1799年から1802年まで行われたフレンチ・インディアン戦争以前から、アカディア大公国のアメリカに対する心象は悪いものであった。もとより、フランスとイギリスの関係は100年では効かない因縁の関係であるし、産業革命以来フランスがイギリスを引き離して発展を続け、文字通り『欧州の工場』となったことでイギリス側は技術的に後塵を拝す状態が続き、経済的にも技術的にも追いつけない状況に苛立ちを見せていた。それゆえに、貿易や外交においては険悪な状態が続いていた。
対立の要因は様々だ。
フランス革命戦争への被害を受けていたフランスもイギリスに悪感情を抱いていたし、フランス臣民であった移住者たちが他国の差別主義者たちによって被害を受けていたこともあるし、日本にならって信仰の自由を認めていたフランスに対してあの手この手で嫌がらせを仕掛けていたことなどもある。オランダやイギリスのように植民地を抱えていた国にとってはフランスが非白人への待遇を良いものとしていたことがきっかけで、独立運動が活発化しており、統治コストが跳ね上がっていたこともフランスへの心証を悪くしていた。
また、対仏貿易が長年赤字が続いていたことも、他国にとってはかなり痛かった(財布的に)。統治コスト上昇と合わせ、フランスは結構恨みを買っていたようである。
811: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:41:58
英仏両国間の感情が決定的になったのが、北米大陸をめぐるフレンチ・インディアン戦争であった。
この戦争において、イギリスは史実以上にえげつない手段をとったことが対英感情を、特にフランスに味方する住人の感情を悪化させていた。きっかけは、それまで領土を堅守していたフランスにたいしてイギリスは搦め手による攻略を試みたことに端を発する。人口が医療の発達や衛生環境の向上によって増えていたフランスは現地の自警団や植民地軍もかなり揃えられており、真っ向からのぶつかり合いになればイギリスが不利であったためだ。
そこで、フランスを介さずにフランスと協力関係にある現地住民勢力に接触して、密かに病気を撒いたのだ。
史実でも逸話として語られる、ペストのついた毛布や衣服をばらまいたのだ。さらに、『正体不明』の襲撃者がそういった現地住民の集落を強襲し、現地のヌーベルフランスの統治機関を混乱させた。混乱している隙間を縫うようにしてネイティブアメリカンの勢力を恐喝、フランスとの協力関係を絶つように迫った。1749年末にフランス領アメリカにおいて交渉役を務めていたピエール=ジョゼフ・セロロン・ド・ブランヴィユは現地住人との折衝がうまくいかなくなり始めている背景に、イギリスの圧力があるとの見解を日記に記録している。というのも、彼はマイアミ族などの長老との話し合いの中で長い付き合いになるフランス人をあからさまに避ける動きを見て取ったためだった。彼もマイアミ族との付き合いを維持しようとしたのだが、返事はにべもなかった。
ここで、イギリスはペストなどの流行り病の原因がフランスであると吹聴して回った。
あらぬ噂を流してフランスへの心証を悪化させ、時には武力で根切りをするなど、なりふり構わぬ策をとってフランスをアメリカ大陸において孤立させていった。こうしてフランスと現地勢力の協力体制に楔を打ち込み、それでもフランスに協力しようとする勢力があらかた片付いたことを確認したイギリスは正規軍を再編して遊撃戦をフランスへとしかけた。
つまり、現地調達と焦土戦を行いながらフランス領の国境をうろうろし、敵に見つかったと見るや撤退する戦術だった。
ゲリラ的に行われたこれらの戦術は動きが鈍い正規軍には捉えられず、かといって現地住人だけの自警団だけで抵抗するには強すぎるという厄介な特性を持っていた。これにはさすがのフランス軍も手を焼いた。建前的にはフランスを襲っているのは
何処の国家にも属さぬ武装集団であるとの見解を示し、話を聞かないイギリスが裏で手を回しているのは明白。
しかし、それは外交では簡単に解決できない。そもそもイギリスが耳を傾けない限り、外交で解決しうる問題ではなかったためだ。
これらの戦場以外での戦闘は、北米におけるフランスの立場を急速に悪くしていった。確かにフランスの影響力は簡単には無視できないレベルであるが、決して致命的ではない。これにはスペインなども乗っかる形でフランスへの圧力を強めた。
812: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:43:44
諸外国の介入を嫌ったフランスは北米ルイジアナの放棄を決意。元々ペストや感染症が蔓延していた地域はあまりにも広く、ばら撒いていたイギリスでさえその被害の広がりに手を焼いてすらいた。対策は打ててもペストの根本的な解決が不可能であったため、放棄するしかなかった。こうして、後の『ロスト・ルイジアナ』と呼ばれる空白の時間が北米には生まれた。
移住と並行して行われた現地軍によるフランス植民地への攻撃は苛烈そのものであり、後にフレンチ・インディアン戦争と呼ばれた一連の戦争はフランス革命戦争の焼き直しとなったのだが、それでも畑や開発された町が荒れ果てるなど、大きな被害をもたらした。
戦争から逃れるようにフランス系住人たちは大規模な移住を開始した。より西へ。病気や敵対者の少ない土地を求めた。
幸い、日本からの北米開拓団が西海岸に到達して開拓を開始しており、概ねロッキー以西の土地を領有していた。
言うまでもなく日本が北米開拓を行ったのは将来的なアメリカ成立の阻止を目論んだためだ。西海岸にはカリフォルニアをはじめとしたゴールドラッシュの土地もあり、将来的には環太平洋経済圏を抑えることにもつながるために注目していたのだ。
幸い、外洋航行技術の蓄積は既に十分であり、日本からはかなりの移住者が北米へとたどり着いていた。
この日本領北米植民地に逃げ込んだフランス系住人たちはそのまま現地に定住。他の欧州列強から迫害されていた多くの人々を巻き込みながら形成されたのが、現在のアカディア大公国であった。
パリ条約によって嘗てのルイジアナを売却し、ロッキー以西を領土として確定させたことで、漸く他国の追及は収まった。
他国はフランスから勝利をもぎ取ったことに満足を得ていた。被害は大きかったものの、北米の彼方へとフランスの勢力を駆逐することには成功した。
勿論、フランスはこの屈辱を忘れておらず、後のナポレオン戦争においてかなりの仕返しをしていた。
皮肉にもフランスに対して戦略的勝利をおさめたこのフレンチ・インディアン戦争の勃発がフランスの容赦というものを捨てさせる契機となっていた。
813: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:44:26
こうして振り返れば、アカディア大公国が東に成立したアメリカ合衆国に対して良い感情を抱くはずもない。
本国から独立しようが、嘗ての簒奪者であることに何ら変わりはない。しかし、リンカーン大統領は進めたのはそのアカディア大公国との関係改善であった。リンカーン大統領の手記によればだが、彼が弁護士として活動する中でアカディア大公国を訪れる機会があり、その時にアメリカのあるべき姿を見て取ったと言う。平等な市民、法の元の統治、自由。君主を定めるか定めていないかの差こそあれ、移民による統一された国家。しかし、その成立はイギリスによる支配を嫌ったアメリカと、遠方にありながらも本国とのつながりを維持し続けたアカディア大公国の差があった。
本国への帰属意識の強さが、アカディア大公国にはあったのだ。
事実、大公にはブルボン家から人が呼ばれてアカディア大公家が作られ、ブルボン宗家の代行として統治にあたっていた。
税収も現地で一括して管理し、アカディア大公国という市場を本国の企業や資本家へと提供していった。
前述のようにゴールドラッシュによって一大経済圏となっていたことで西海岸は日仏両国にとっても重要な土地となりつつあった。
よって本国と植民地であるアカディア大公国の関係は良好であった。
だが、アメリカ合衆国首脳部はそうした背景を抜きにしても付き合いを持ちたかった。
言うまでもないことだが、アカディア大公国 日本大陸 インドシナ・フランセーズ ハワイ アウストラリウス大公国から構築される環太平洋経済圏は、アメリカからすれば眼前で見せつけられながら食べられている極上の料理そのもの。
世界に流通する金や銀、鉱物資源の多くを占め、さらに太平洋の海洋資源をほしいままにするのは日本とフランスのみが赦された特権だった。リンカーンとしても、アカディア大公国との関係を経済的にも強めることでインフレの進行を抑え、さらにアカディア大公国とフランスの資本をアメリカ国内に生まれる元奴隷たちのコロニーへと呼び込みたいとも考えていた。
アメリカの領土は広大である。しかし、今後解放される奴隷たちによって分割されていくことが確実だ。
それだけ将来的な分け前は減っていくことになる。加えて南部地域において経済的な問題があった。奴隷を血液のようにして労働力や兵士として自身の維持のために費やしてきた南部地域がいきなり奴隷を解放すれば、経済的な貧血に陥る。
南部の州を説得する材料(※2)としては悪いものではなかった。
814: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:46:00
だが、現実というのは非情であった。
黒人奴隷がその身分から解放されたのちに取ったのは、西方へと移住していくか、彼らが独自に構築したコミュニティの中で生活していくことだった。そして国内に残った元黒人奴隷たちも、国内に残って自由を謳歌するとしても、根深い黒人差別に長らく苦しむことになった。
そして、アカディア大公国から積極的な交流に関しての提案に対してにべもない返答が帰って来た。
アカディア大公国の国民は、ルイジアナを放棄せざるを得ない状況に追い込んだ他国を決して許してなどいなかった。
その国からの移住者からなるアメリカもまた同罪であった。追い立てられるように西方へと逃げ、ようやく得た安息の地にずけずけ乗り込んでくるなど、冗談ではなかった。アメリカは、嘗ての簒奪者の後継なのだ。過激な意見では軍事侵攻で嘗てのルイジアナを取り戻してしまえ、というものさえあったのだからどれほど嫌われていたのかは語るまでもない。
ついでに言えば、アカディア大公国の住人と、そこへと移住した元奴隷の黒人たちや白人たちの間でトラブルが続いていたこともアメリカ合衆国側の立場を悪くしていた。言うまでもないが、アメリカとアカディア大公国の制度や意識には差がある。
そして、国民における知識や啓蒙度合いにも著しい差が存在する。フランスでは義務教育に近い形で教育制度が普及していた。
しかし、移住してきた人々は、多くがそれを持ち合わせていない。現地の法や制度を理解するだけの下地が出来ていない。
そうなれば、経済的な格差が生まれ、トラブルが生まれ、犯罪へと走ることが多くなる。たしかにアメリカ合衆国は黒人たちに対して自由を与えた。しかし、それは奴隷としての生き方から解放されたことと引き換えに、それまで依存していたのとは違う生き方を求められるということなのだ。マズローの欲求5段階説に基づけば、奴隷は自己実現はおろか尊厳欲求や社会的欲求をろくに満たされずに生きてきた。下手をすれば安全欲求さえ満たされていなかったかもしれない。そんな彼らにいきなり自由をくれてやったところで、何ら意味を成すものではない。
黒人差別が色濃く残り続けたこともあり、嘗てリンカーンが夢見たすべての人種が等しく生きて、政治に参加していけるアメリカの成立は、リンカーンが史実同様に暗殺されてから、さらに100年以上が経過してスティーブン・キングによる運動が展開され、漸くアメリカ国民の意識が変わるまで待たねばならなかった。いや、KKKなどの人種差別組織が西海岸を除く地域で活動していることを考えれば、根本解決はしていないというべきだろう。
アメリカ合衆国政府は望んでいても、その意志と民意が必ずしも合致するわけではないという事実を、リンカーン大統領へと突きつける結果となった。
815: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:46:40
そして、アカディア大公国の住人は失われた遠い故郷を、フランス領ルイジアナを想い続けた。
帰りたい、けれど、帰れない。彼らは故郷から離れて、道なき道を進むしかなかった。
カントリー・ロード、仏題:Route de campagne(※3)は、そうしたやるせない彼らの感情を謳う歌として、アレンジや脚色を咥えられながらも、アカディア大公国を代表する歌として残り続けたのだった。
アカディア大公国の首都である史実サクラメント、現ラヴィル・デ・サクラの一角の酒場では、日本酒やウィスキー、ワインなどを取りそろえている。夕方から夜にかけて多くの大人たちが集まる。既にフランスにおいては飲酒許可証の発行を受けなければ飲酒が許可されていないために、必然的に集まるのは大人と認められた18歳以上の人々ばかりだ。
そして、酒場に集まるミュージシャンたちが毎日のように奏でるのがRoute de campagneであった。
史実におけるカントリーロードである。ギターで、時にはアカペラで、時には弦楽器や笛などを用いて演奏されるそれらは、決まって店じまいが近づいた真夜中にリクエストされることが多い。
そして今日もまた、アカディア大公国のどこかでその歌が歌われる。
もはや帰れない、遠い遠い故郷を想う人々によって。
※1:
憂鬱本編や他の日本大陸世界を経験したメンバーもいた。
経験値の差が大きく、知識だけではない技術や知見を持っていた。
※2:経済的な損失の補てんが可能になあるかもしれないという点において南部の州をうまく交渉で気を引くことができた。
西海岸という市場に南部の特産を販売することでかなりの利益が見込まれていた。奴隷制は確かに禁じられたが労働力としては低賃金労働者という抜け道が存在したことも大きい。
※3:
史実におけるカントリー・ロード(故郷に帰りたい)。どうやら夢幻会メンバーのミュージシャンが移住を行ったアカディア大公国の住人の間に広めていたようである。その歌詞の内容をフランス語に意訳しており、フランス人の琴線に触れるものだったようである。
816: 弥次郎 :2016/05/29(日) 21:47:38
以上となります。wiki転載はご自由に。
今回はフレンチ・インディアン戦争の顛末についてお送りしました。
少々無理やりな感じが否めませんね……まあ、北米のゴールドラッシュの地を知っている日本なら開拓団を送り込んでいてもおかしくなくないのでありではないかと思いました。
このあと、日本は史実アラスカへも開拓団を送り込み、環太平洋圏をほぼ抑えます。
流石にメキシコなどは無理かもしれませんが、太平洋への出口を実質抑えたことで日本はシーパワー国家として安泰でしょうな。
そして今作において登場したRoute de campagne、史実においてはカントリー・ロードと呼ばれるフォークソングは史実において1971年に発表されています。しかし、恐らくルイジアナを捨てざるを得なかったフランス系住人の心情を語るのに最もふさわしいのはこの曲ではないかと思います。題名に関してはグーグル先生などの直訳を借りました。
アカディア大公国の住人たちとしてはアメリカ合衆国は結構感情的な対立関係にあります。黒人を差別するわ、ルイジアナを奪うわ、あらぬ汚名を着せられるわで散々です。おそらく政治的にはハト派が少なめのタカ派多めでしょうな。
国土への執着心に関しても封建貴族も混じっている+ルイジアナ失陥のトラウマからかなり強めです。
こういった国が西側にあることで、アメリカも西を意識せざるを得ない状況にあります。
まあ、タカ派の人間も多くが気が付いているのですが、もはやかつてのルイジアナは復活できないんですよね。
征服し返したところで、そこは既にアメリカ合衆国となっているのですから。ただ、それでもやるせない感情を何とかしたいと思うわけです。望郷の念は、どうにもしがたいですしねぇ…
イギリスを外道にしましたが、イギリス紳士の皆様にはどうか許していただきたいです…
この話の都合上、どうしても悪役が必要になってしまいました。
次の話はルイ・ナポレオンを主人公としましょうかね…
といっても、史実通り彼が生まれてくるかも妖しいので、おそらく同じ名前の別実人となりかねませんね
最終更新:2017年09月10日 09:45