737 :ヒナヒナ:2012/01/17(火) 20:57:48
○国の名 ―幻の元素―


1945年のとある日、国内の新聞記事の一面に同じ記事が並んだ。

「新元素発見」
「帝国物理学会の大手柄」
「新元素・ジャパニウム」

それは新元素の発見を祝う記事だった。


年月は少し遡り1943年、
大日本帝国がアメリカ合衆国に打ち勝ち(傍から見れば自滅)、
メキシコに小さな太陽が沈んだころ。
夢幻会会合や総理官邸では戦後世界の統治に頭を抱えていたが、
日本国民は戦勝ムードに湧いていた。
実はこのとき、一部の物理学者たちもひそかに湧いていたのだった。

4月に行われた世界‘初’の実験の際にはもちろん物理学者たちが参加していた。
大々的に表に出るのは憚られる研究ではあったが、
彼ら(逆行者も含む)は日本物理学の粋を集め、
また、大蔵省からは物理学界としては大規模な開発資金を与えられながら、
核という新しい力を研究し、研究し尽くさんとしていた。

研究成果である核爆弾については国防上の問題から研究成果として、
学会に発表されなかったが、1945年にとある論文が発表された。
原子炉内で新たな元素が合成されたという内容であった。
これを持ってこの研究チームは原子番号95「Japanium」(元素記号Jp)と名づけた。
国の名を冠した元素の命名は日本物理学界たっての悲願だった。

もちろん、史実にはジャパニウムなる元素は存在しない。
元素番号95は「Americium」(原子記号Am)だった。
もちろん史実ではアメリカの水爆実験時に発見された元素で、
アメリカの名を冠している。
核実験時に発見されたため、ほとぼりが冷めてから原子炉内で発見として、
学会に報告されたものだ。
今回の発見は国こそ違えど史実をなぞっているとも言える。

ちなみに元素に国名をつける事は別に特別なことでもなく、
ドイツのラテン名を冠するゲルマニウムや、
ポーランド科学者が発見したポロニウム、
わかり難い所だとガリウム(ガリアはフランスのラテン語名)の他、多数存在する。



この報告を聞いて多くの日本人が快挙であると喜んだが、畳の上で涙を流した者がいた。病床でテレビを見ていた小川 正孝だ。
彼は幻の元素ニッポニウムの発見者であった。

小川は松山藩士の家に生まれながらも、父を早くに亡くし、
松山藩の奨学金を得ながら苦学を重ねて帝国大学に学んだ。
そして1908年、元素番号43ニッポニウムを発見したと学会に報告した。
しかし、研究体制の不備から正しく測定できず、とうとう取り消されてしまった。

彼はその元素を原子番号43としたが、実際にその物質は元素周期表上では一段下
(元素周期表上では同じ族のため性質が似ている)の75番の元素であったのだ。
その元素は後年、レニウムとして再発見される事になる。

明治当時は夢幻会もそこまで磐石な組織足りえず、手の伸ばせる範囲は狭かった。
鉄道整備に教育制度の改正、農地改革とやることは星の数ほどあった。
もちろん、技術力を重要視する夢幻会は各分野に予算を割り振ったが、
悲しいかな当時の日本の国力では満遍なく手を伸ばす事はできなかったのだ。
史実と同じくニッポニウムは否定され、日本の名を冠した元素は幻と消えた。

その後も小川は東北大学の総長を勤めるなど、日本科学界のために尽くしたが、
こればかりは何時までたっても心に沈み込んだまま苦い思いをしていたのだ。

やがて、昭和になり科学の世界にも戦争の足音が近づいてきた。
物理学者、特に放射性元素の研究をしていた学者が国から声を掛けられていた。
もちろん、これらは極秘に行われ偽装もされていたのだが、学会とは狭い世界。
同じようなテーマで研究していた学者らが、
方々の大学から引き抜かれれば、なんとなく気が付く。
そして彼らは、逆行者らの指導・誘導の結果、メキシコに夕日を生み出した。

科学者でありながら教育者でもあった小川は、物理学の戦争利用を苦々しく思っていた。
だが、彼がなし得なかったこと。
原素という普遍の物に対して国の名をつけるという成果を打ち立てた後輩達。
史実より長く生きた小川は、畳の上で彼らのインタビューを見ながら涙した。

それが自らの失敗から元素発見者の栄誉を逃したことへの悔し涙だったのか、
物理学の戦争への利用を想った悲しみの涙だったのか、
国の名を負った元素が新たに発見されたことへの喜びの涙だったのか……
それは遂に当人しか分からぬままだった。

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最終更新:2012年01月17日 21:40