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684: yukikaze :2017/09/06(水) 23:38:51
ちなみに『ジュンガル・ハーン』国がロシアの代わりになった場合のifを

タタール再び――地果て海尽きるまで

タタール。
その名を聞いた瞬間、欧州の人間は恐怖に満ちた顔で須らく神に祈りをささげるという。
彼らにとって、タタールとは悪魔と同義語であり、彼らが馬蹄高らかに進軍するその様はまさしく悪魔の大軍団の侵略に他ならなかった。
もっとも、彼らの前で『タタール』などと言えば、彼らは無言でその無礼者を切り刻むだろう。
彼らは自らを『イェケ・モンゴル・ウルス』と高らかに呼称し、それ以外の呼び名を認めていないからだ。

さて、彼らが、かつてのモンゴル帝国に匹敵する領土を得たきっかけはなんであろう。
一部の歴史学者は『満州帝国によってモンゴルを追い出されたからだ』と言っているが、むろんこれは間違いではないが正確ではない。
大多数の歴史学者の主張である、『大北方戦争におけるピョートル大帝の敗死とその混乱』が最大の理由とも言える。

ナルヴァの戦いにおいて、督戦の為留まっていたピョートル大帝が、スウェーデン軍によって殺された後、ロシアの王位は長子のアレクセイが継ぐことになったが、幼少であった彼に権力はなく、これまでピョートルに押さえつけられていた貴族達の権力が復権することになる。
この事がロシアの中央集権化と近代化の芽を潰すことになるのだが、最終的に、大北方戦争でスウェーデンに敗北を喫したことで、政治的混乱が加速。
王の権力が形骸化する中、各地の貴族が勢力拡大を狙う戦国時代に突入する羽目になる。

こうした状況にほくそえんでいたのが、『ジュンガル・ハーン』国であった。
宿敵と言っていい満州帝国からモンゴルを奪われ、西へと逃亡した彼らであったが、有能な指導者であったガルダン・ハーンのもと、衰亡の一途をたどっていたカザフ・ハン国を制圧。ロシアが戦国時代に突入した時には、史実のカザフスタン及びウズベキスタン等を制圧しており、かつての隆盛を取り戻そうとしていた。
彼らにとって幸運だったのは、彼らの騎馬戦力は、戦国時代のロシアの各諸侯にとっては喉から手が出るほど欲しい屈強の傭兵であり、彼らが勢力を少しずつ伸ばしても尚、ロシアの諸侯にとっては問題視されなかったのである。
ロシアの諸侯にとっては、遠い未来の傭兵達の脅威よりも、目の前の諸侯の脅威が大事だからだ。

そして1760年。史実よりも幾分長かったが、ロマロフ王朝の男系が途絶えた事をきっかけに、各諸侯はそれぞれ傀儡の皇帝を立てたことで、ロシアの分裂は決定的になる。
ウクライナがポーランドやトルコによって分割されたのもこの頃であった。

こうしたロシアの大混乱に、ジュンガル・ハーン国第三代ハーンであるバトゥ・ハーンは、機が熟したとして、ロシアへの本格的攻勢を命じることになる。
かつて欧州を席巻した男と同じ名前を持つこのハーンは、正にその生まれ変わりと称されるがごとく知勇兼備に優れた王であったが、60年近く国力と軍備増強に努めたこともあって、またたくまに周辺領域を蹂躙。
最初はライバル達が消えていくことにほくそ笑んでいた諸侯達も、バトゥがまさしくかつての『タタールの頸木』であることを理解し、慌てて連合を組むも時すでに遅く、モスクワ近辺での決戦において、第二のワールシュタットを献上したことで、ロシアそのものが終焉を迎えることになった。
ロシア滅亡にかかった時間はおよそ10年。彼らはかつて自分達の支配に抗った末裔たちを許さないという意志を示すかのごとく、モスクワの地を業火の炎で彩り、牧草地に代えることで、完全に痕跡を抹消させている。

以後、バトゥはかつてチャガタイ・ハン国が首都と定めていたサライの地で『イェケ・モンゴル・ウルス』再興を宣言。
旧ロシア領の併合のみならず、度重なる紛争で国力が衰えていたポーランドやスウェーデンに対して攻勢を強めるなどして、ヨーロッパに『タタールの恐怖』を呼び起こすことになる。

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最終更新:2021年04月15日 11:13