177: フォレストン :2017/07/24(月) 15:49:28
球を極める

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱ドイツコンピュータ事情2 改訂版


「前方の英仏巡洋艦より旗りゅう信号…貴艦隊の無事な航海を祈る、です!」
「マストに返礼旗を掲げろ、急げ!」
「ソーナーに感有り。右前方2500!」
「Uボートだ。こちらからは、絶対に手を出すなよ!」

バルト海を航行する日本艦隊は、英独仏の厳重な監視下に置かれていた。英国はともかくとして、ドイツやフランスは史実知識による先読みや謀略で痛い目に遭わされており、日本に対する不信は相当なモノであった。特にドイツは日本艦隊の予測進路にUボートを派遣するなど、その動向に常に目を光らせていたのである。

(やっぱり、こんな任務引き受けるんじゃなかった…!)

端から分かってはいたことであったが、今後の任務の困難さを想像すると思わず胃を押さえてしまう艦隊司令であった。

1939年12月初旬。
ヘルシンキ港沖に投錨した日本艦隊は、フィンランドを支援するために直ちに作戦行動に入った。先月の30日に、ソ連軍はフィンランドへの侵攻を開始していた。後に言う冬戦争である。

援芬派遣軍である日本艦隊は、重巡『妙高』、『足柄』、軽巡『最上』、軽空母『鳳翔』、航空工作艦『龍驤』に駆逐艦6隻を加えて構成されており、その中でも特異なのが龍驤であった。

航空工作艦とは聞きなれない艦種であるが、軽空母に準じる船体と艤装、さらに艦内には大量の補修部品とパーツの自作すら可能な工場が配置されており、文字通り航空機の工作艦であった。空母の格納庫では対応出来ない損傷や、重整備が必要な場合に重宝されており、稼働率を上げるのに一役買っていたのである。

178: フォレストン :2017/07/24(月) 15:50:58
ごく一部の人間しか知らないことであるが、龍驤はもう一つ別の任務を帯びていた。
入口を海軍陸戦隊が厳重に警備している格納庫の一角に、それは存在していた。

仕切られたスペースの奥には、奇怪なオブジェが置かれていた。7000個ものトランジスタを組み合わせて作ったトランジスタコンピュータである。CPU、レジスタ、クロック、表示回路その他全てがトランジスタと発光ダイオードで構成された8ビットマシンである。世界よりも30年は先行するオーパーツなシロモノであり、艦が沈む際には、最優先で爆破処理が命じられていた。

夢幻会では、1932年の第二次五ヵ年計画でトランジスタの開発に莫大な資金と人材を投入しており、その成果がトランジスタコンピュータであった。現段階でのトランジスタの歩留まりは悪く、真空管で作ったほうが安上がりであったが、史実を知る者達はトランジスタとその先を見据えて開発を進めていた。必要な資材と予算は青天井であったが、将来の萌えのために必要と分かっていたので、某大蔵の魔王も何も言わずに予算を確保したのである。

龍驤のもう一つの任務とは、トランジスタコンピュータの運用とノウハウの蓄積であった。最終的に史実のパソコンを目指すとはいえ、その過程では逆行者達が直接触れたことが無い過渡的なコンピュータを開発する必要があった。そのため、(逆行者達からすれば)大昔のコンピュータに対する理解と運用出来る人間を確保することが求められていたのである。キーボードとマウス操作しか知らない人間に、当時のスイッチだらけのコンピュータを理解しろというのは難題だったのである。

「この計算お願い出来るかね?」
「少々お待ちください」

やってきた壮年士官の提出した紙を受け取った電子計算機操作員(電子計算機オペレーター)は、手早くパラメータを入力、計算開始と共に各所に配置された発光ダイオードが怪しげに光る。数瞬後に機械式のカウンターが回転して計算結果を表示し、それを操作員が用紙に書き込む。

「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう。助かるよ」

あらゆる分野において、難解な計算というものは存在する。人力でやれば、ひたすら手間である計算を一瞬で確実に片づけてくれるトランジスタコンピュータは大いに重宝された。海軍だけでなく陸軍からの依頼も引き受けていたために、冬戦争が激化するにつれてオペレーターが忙しさで悲鳴をあげることになる。

179: フォレストン :2017/07/24(月) 15:51:51
冬戦争においてフル稼働したトランジスタコンピュータであるが、機械的な信頼性には全く問題は無かった。しかし、それ以外の点で問題が発生していた。それは、実際に運用するオペレーター側からの要望であり、つまりはソフトウェア、運用面での問題であった。

オペレーター側の要望は、入力装置と表示機能の改善であった。トランジスタコンピュータの数値入力は、テンキーで行うのであるが、少量ならともかく大量の計算を捌くとなると、入力し辛いというのである。電卓に慣れている逆行者ならともかく、この時代の人間は、機械式計算機(タイガー計算機等)に慣れているため、桁ごとに独立したテンキーのほうが扱いやすかった。そのため、以後のトランジスタコンピュータの入力装置は、各桁を独立させた仕様となり、この傾向はオペレーションシステムが発達するまで続くことになる。

表示機能は、数値の入力と計算結果の出力に使われるのであるが、トランジスタコンピュータでは機械式のカウンターが使われていた。数値を入力するとモーターによって回転する電動式であったが、入力してから回転が終わるまでにタイムラグが発生した。数値入力が終わってもカウンターの回転が終わらないと計算開始されない仕様となっており、計算が終わっても完全に表示し切るまでに多少の時間がかかるわけで、大量の計算を捌く妨げとなっていたのである。

この問題に関しては、アナログで機械式な数字カウンターでは対応は不可能であり、新たな数字表示デバイスが開発された。いわゆる7セグメント表示式の発光ダイオードである。低電圧で駆動するうえに構造的には半導体そのものであり、トランジスタの製造設備が流用出来ることから、デジタルカウンターとして軍内部で急速に普及していくことになる。

日本は、トランジスタコンピュータに満足せずにコンピュータの開発を続けていった。トランジスタの歩留まり向上、トランジスタ単体の小型化と集積化。世界が日本の所業を知ることになるのは、5年後の1945年7月のことである。

180: フォレストン :2017/07/24(月) 15:52:40
1945年の『トランジスタ・ショック』以降、ドイツではコンピュータの開発が急ピッチで進められていた。コンピュータの開発には論理回路を構成出来るスイッチング素子が必要であるが、トランジスタが無いドイツでは真空管しか選択肢は存在しなかった。

伍長閣下の肝いりもあってか、予算と資材、さらに人材まで遠慮なく投下された結果、1945年末には、コンラート・ツーゼによるZuse Z4が完成した。Z4は、電気機械式計算機Z3のスイッチング素子を真空管に置き換えただけのものであったが、Z3の1000倍以上の計算速度で完璧に動作した。

ツーゼの開発したZシリーズは、最初から内部構造が2進数になっていた。そのため、真空管に置き換えるのがたやすく、信頼性も確保することに成功していた。以後、ドイツのコンピュータはZ4を基準に開発されることとなり、1947年には史実EDVAC相当の真空管コンピュータを作り上げることに成功している。ここらへんは、枢軸筆頭国の底力というものであろう。

ドイツ版EDVACは、プログラム内蔵式であり、ツーゼが開発した高水準プログラミング言語プランカルキュールが本格的に実装されたコンピュータであった。実装されたプランカルキュールは、代入文、サブルーチン、条件文、ループ、浮動小数点演算、配列、階層構造を持つ構造体、アサート、例外処理、目的指向型実行などのような当時としては先進的な機能が実装されていた。そのため、難解な機械語を使わずとも複雑なプログラミングを簡単に行うことが可能であった。

プログラムの変更によって多種多様な計算を実行することが可能であったため、本来の軍用に止まらず民間用途でも大いに活用された。単純なプログラミング言語としての完成度も高く、以後、欧州のプログラミング言語はプランカルキュールをベースとして発展していくことになる。

情報統制と某宣伝相の手腕の賜物ではあるが、ドイツ版EDVACは、欧州社会にコンピュータの有意性とそれを開発したドイツの先進性を示したという意味で記念碑的な存在となった。当時の欧州で実働する唯一のコンピュータであり、ドイツは欧州の盟主としての面目を大いに施したのである。

181: フォレストン :2017/07/24(月) 15:53:43
戦後しばらくの間は、テキサス共和国からの輸入に頼っていたドイツであったが、旧アメリカ人技術者を招聘して本国で量産体制が整うと猛烈な勢いで真空管を生産した。軍用民間問わず、真空管は引く手あまたであり、生産しただけ消費されていったのである。上述のドイツ版EDVACも、6000本の真空管と12000個のダイオードが使用されており、それらは全てドイツ本国で生産した真空管で賄われた。

ドイツのマイスター的職人技術と旧アメリカ仕込みの大量生産技術が組み合わさったことにより、真空管の大量生産と小型高性能化を両立することに成功し、年を追うごとに真空管は小型化され、大量生産によってコストダウンを実現したのである。

部品実装技術が進歩したのもこのころである。当時のドイツでは、真空管等の電子部品は筐体に固定するものであり、配線は被膜された銅線で空中配線するものであった。しかし、真空管の小型化と多数の部品実装が必要となると筐体に直付けではスペースが不足したために基板に部品実装したのである。あくまでも部品を固定する板であって、配線は未だに空中線なので基板と言えるかは微妙ではあったが。

しかし、それらの小型管を真空管コンピュータに適用すれば良いかというとそうはいかなかった。真空管は小型化すると寿命が短くなる弊害があり、それは多数の真空管を同時に使用する真空管式コンピュータでは容認出来るものではなかったのである。

ダウンサイジングの別アプローチとして、コンピュータでの使用に特化した真空管の開発も進められた。一つのガラス管内に二つの三極管を封入した形式の真空管で、史実では双三極管と言われる複合管である。論理回路用には最低でも三極管が必要であるが、二値論理を扱う分には四極以上は必要無かった。そこで、三極管二本分を一本のガラス管に封入して、スペースの節約を図ったのである。

双三極管は優れた性能を発揮し、ドイツで作られる全ての真空管式コンピュータに搭載されるまでになる。しかし、小型化にはやはり限界があった。そのため、当時のドイツではコンピュータの性能向上とサイズアップは同義とされ、ハードよりもソフトウェアに重きを置いていたのである

真空管は構造的にカソードからプレートに向かい熱電子を放出することで増幅動作を行う。しかし、この熱電子の総量は製造時に決定されているので、永遠に使い続けることは不可能である。熱電子の総量は材質が同じであれば、大きさによって左右されるので、小型化すれば低寿命になるのは必然であった。世界に冠たるドイツの真空管技術であっても物理法則を超えることは不可能だったのである。

182: フォレストン :2017/07/24(月) 15:55:01
1947年。
トランジスタが機密解除された日本では、トランジスタを用いた製品が市場に出回り始めていた。従来の真空管式ラジオよりも、小型高性能なトランジスタラジオをソニーが発売したのを皮切りに、続々と新製品が発売されていたのである。市販されている以上当然のことであるが、それらの製品は英国とドイツの大使館の関係者も入手可能であった。

当時のドイツのコンピュータ技術は、相変わらず真空管であった。フィラメント素材や製造工程、さらには運用上の工夫などにより、真空管の寿命を延ばしていたが、コンピュータ用真空管の性能向上は限界に達していた。そのようなときに、トランジスタの現物が手に入ったのである。関係者の期待は大きかった。

「…いったい、どの部分がトランジスタとやらなんだ?」
「この基板にくっついているどれかだと思うのだが…」

しかし、現実は非情であった。英国に比べてトランジスタに関する情報収集が上手くいっていないドイツは、トランジスタの現物を見てもさっぱり理解出来なかったのである。

この点、特許庁に日参してトランジスタ関連技術を調べ上げている英国と対照的であった。ドイツ側は知る由も無かったが、既に英国では実験室レベルではあるが、点接触型トランジスタの作製に成功していたのである。もっとも、点接触型トランジスタは振動に弱く性能が安定しないため、面接触型トランジスタの開発が急がれていた。

ともあれ、現地で解析出来ないのであれば、より設備と人材の整った本国へ移送する必要があった。在ドイツ大使館関係者は、外交特権を用いて製品を国外へ持ち出したのである。

日本の公安当局は、事前にこの動きを察知はしていたものの行動を起こさなかった。当時の日本は、ICの実用化に目途が付き、LSIの開発に本腰を入れようとしていたため、トランジスタはさして重要なものでは無かったのである。

ドイツ本国へ持ち帰られたトランジスタは、直ちに詳細な調査が行われた。
その結果、判明したのは以下の点であった。

  • 黒い塊がトランジスタであること。
  • トランジスタが増幅作用を持っており、3極真空管と同様の働きをしていること。

ドイツの技術を総動員してもこの程度しか分からなかったのである。肝心のトランジスタの構造や作動原理などはさっぱりであった。球(真空管)しか知らないドイツ人技術者に石(トランジスタ)を理解しろというのは無理難題だったのである。

183: フォレストン :2017/07/24(月) 15:55:54
ちなみに、ドイツ本国に送られたのはトランジスタ時計であった。大まかな構造であるが、トランジスタ発振回路と時分秒に対応したカウンタと7segデコーダー、最終的に数字を表示する蛍光表示管(VFD)で構成されており、合計で700個近いトランジスタが使用されていた。

トランジスタ時計は、永久磁石がついたテンプ(または振り子)を駆動コイルの磁力で駆動し、駆動コイルに流す電流の制御に発電コイルとトランジスタを利用している。一連の動作は以下の通りとなる。

1.駆動コイルに電流を流すと磁力線ができて永久磁石が反発され、テンプがひげゼンマイを巻く方向に回る(最初は電流が流れず、レバー等でテンプに動きを与える必要がある時計もある)。

2.テンプの回転で永久磁石が動き、電磁誘導の働きにより発電コイルに電気が起きてトランジスタが駆動コイルに電流を流し続ける。

3.永久磁石が発電コイルから出ると発電コイルに電気が起きなくなり、駆動コイルの電流が止まる。

4.テンプがひげゼンマイの力で元に戻る際、発電コイルには逆向きの電気が起きるので、トランジスタは駆動コイルに電気を通さない。

手順1~4の一連の動きでクロックを形成して、その信号(電流)をモーターに伝えて針をドライブするのがトランジスタ時計である。それゆえにアナログ時計が基本であり、このようなデジタル時計は異端であったが、これには当時の日本の事情も絡んでいた。

トランジスタの機密解除が行われ、経団連傘下の一般企業でも自由にトランジスタを使用することが出来るようになったものの、ソニー等のごく一部の例外を除けば、当時の日本のメーカーの中にトランジスタの真価を理解出来る者はほとんどいなかったのである。

その結果、とりあえず真空管をトランジスタに置き換えてみました的な製品になったり、新技術を無理矢理使って付加価値を高めました的な製品が市場に出回ることになってしまったのである。件のトランジスタ時計もそのようなシロモノであり、お値段は車が買えるほどの実に高価な製品と成り果てていた。こんなシロモノを見定めて本国へ送ってしまった在ドイツ大使館関係者は、(物理的に)首切りされる寸前であったが、結果的に真空管の技術的ブレイクスルーを達成するきっかけとなったので、辛うじて首はつながったようである。

184: フォレストン :2017/07/24(月) 15:57:19
ドイツ本国におけるトランジスタの解析は、ほとんど進んでいなかったのであるが、別の技術が注目されていた。数字を表示する蛍光表示管である。蛍光表示管が真空管の一種であることは既に判明しており、実験により増幅作用も確認されていた。日本では、高級感のあるデジタルカウンターとして普及し始めた蛍光表示管を、ドイツでは真空管に代わる新たなスイッチング素子として注目したのである。

蛍光表示管は、電子管の一種であるため、やはり寿命は存在する。原因はフィラメント状カソードの劣化によるものであるが、平均的な故障間隔として8~10万時間、設計に配慮すれば30万時間以上とすることも可能であり、これはもう寿命が無いと言っているも同然であった。

真空管の一種で構造も簡単な蛍光表示管は、直ちにリバースエンジニアリングされて生産が開始された。真空管に比べて大幅な小型化、省スペース化が可能で、しかも省電力で長寿命。あっというまに既存の真空管を駆逐していったのである。

ドイツでプリンタ基板が実用化されたのもこのころである。トランジスタ時計に使用されていたプリンタ基板をリバースエンジニアリングしたものであるが、空中線が必要無くなったために、高密度な部品実装が可能となり、ダウンサイジングに大いに貢献した。

当然ながら、この恩恵をドイツのコンピュータも受けていた。コンピュータ用に双3極管と同様の働きをする多桁管が開発され、従来の真空管コンピュータの性能はそのままに、大幅なダウンサイジングと省電力化、さらに球切れ無しの長時間連続運転が可能になった。結果として、コンピュータ単体のコストダウンが進み、大学の研究室や民間企業でも導入出来る価格となったのである。

1950年代中ごろに登場した、これらのコンピュータ群は、プログラム内蔵式であり、ソフトを入れ替えれば多種多様な計算をこなすことが可能な画期的なシロモノであった。しかし、先んじて発売された日本の『万能電算機』(史実システム360)に比べると大きく性能が劣るため、欧州大陸とその植民地で使われるにとどまっている。

185: フォレストン :2017/07/24(月) 15:58:13
ドイツで開発された最大の蛍光表示管コンピュータは、ドイツ版SAGEシステム(Semi-Automatic Ground Environment:半自動式防空管制組織)である。1950年代終盤から運用が開始されたシステムであり、膨大な数の蛍光表示管が使用されていた。

ドイツ版SAGEで使用される蛍光表示管は、専用に設計されたものであった。30万時間以上の耐用時間が保証されており、史実における予防保守という名の毎日の真空管交換は不要であった。定期点検だけで事足りるようになったため、真空管の信頼性の低さをカバーするためにシステムを二重化する必要性もなくなったのである。加えて、蛍光表示管は真空管に比べると電力消費が非常に小さいために、システム全体が必要とする消費電力も激減した。その結果、製造コストだけでなく、ランニングコストも劇的に低減化された。

ドイツは1950年終盤から国内にSAGEサイトを整備していった。それらは史実と同じく窓の無いコンクリートビルのような外観ではあったが、システムが小型化されたために、せいぜい3階建てくらいの小さなものであった。

SAGEサイトは多くの追跡基地と接続されており、通常の電話回線で接続されたテレタイプシステムで目撃報告を送受信した。報告はオペレータが所定の形式に従って入力したもので、それをSAGEコンピュータが収集してブラウン管上にアイコンとして表示するようになっていた。

センターのオペレータはディスプレイ上のアイコンをライトガン(ライトペンのようなもの)で選択し、追跡基地から報告された追加情報を表示させることが出来た。各センターは150人までのオペレータが作業可能であった。

ドイツ版SAGEは、ドイツの防空能力を飛躍的に跳ね上げたのであるが、そのころになると日本は既に弾道ミサイルを実戦配備しており、想定していた富嶽による核爆撃は意味の無いものと化してしまっていた。なお、同様のシステムは英国も整備しており、パラメトロンコンピュータで構成したシステムを1950年代初頭に稼働させている。英国空軍は、バトル・オブ・ブリテンで味わった屈辱を忘れてはいなかったのである。

ちなみに、極東のチート島国であるが、1945年末に史実のバッジシステム(自動警戒管制組織)を稼働させている。このシステムは順次改良が加えられ、20世紀末にはジャッジシステム(自動警戒管制システム)に換装されることになる。

186: フォレストン :2017/07/24(月) 15:58:55
蛍光表示管のメリットは、真空管製造のノウハウを生かせることである。微細加工技術を生かして超小型な多桁管が開発されて実装された。1960年代になると、ガラス基板とフロントガラスのサンドイッチ構造による薄型蛍光表示管も実用化されて、さらなる小型化と集積化が可能となった。ドイツ製コンピュータの中身を見れば、びっしりと蛍光表示管が配置されて、眩しいくらいに中が明るいのが見て取れる。これは英国や日本のコンピュータには無い特徴である。

ドイツでは、蛍光表示管コンピュータだけでなく、トランジスタの開発も進められていた。しかし、日本との接点が少ないドイツでは、トランジスタの開発はなかなか進まず、最後まで蛍光表示管コンピュータを使うことになる。

蛍光表示管が現役であるならば、その親戚である真空管もまた現役であった。真空管技術を極めたドイツでは、電波発振用に超高出管が開発され、様々な用途に使用された。一例を挙げると、戦闘機用のレーダーがある。ドイツ機に搭載されたレーダーは異常なほどの高出力であり、スクランブルしてきた英軍のECMに打ち勝つほどであったという。

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最終更新:2017年09月10日 16:30