151: フォレストン :2017/05/31(水) 14:11:19

驚異的な強度を持ち、かつ安価で作れるチート素材

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱パイクリート活用事情

英国人発明家のジェフリー・ナサニエル・パイク(Geoffrey Nathaniel Pyke)によって考案された、重量比14%の木材パルプ(おがくずや紙等)と86%の水を混ぜ合わせて凍らせた複合材料がパイクリートである。通常の氷と比べ、熱伝導率の低さによる低融解性、パルプを混ぜたことによる高強度、高靭性などの特性を持つチート素材である。

パイクリートがチート素材と言われる所以は、その強度にある。氷とコンクリート、パイクリートの強度は以下の通りである。

氷 コンクリート パイクリート
圧縮強度[MPa] 3.447   17.240   7.584
引張強度[MPa] 1.103   1.724   4.826
比重      0.91   2.5 0.98

圧縮強度は、コンクリートが優位であるが、引張強度ではパイクリートが勝っている。さらに比重は氷よりもやや重いとはいえ、1以下であるため単体で水に浮くほど軽いのである。問題は氷であるために常温下では溶けるリスクがあることであるが、0℃から溶け始める氷に対して、パイクリートの融点は15℃であり、寒冷地帯で使用するには問題にならなかった。

史実では、氷山空母というとんでも兵器の構造材として考案されたせいか、一時的に脚光を浴びたものの、戦後は歴史の陰に消えていった。しかし、憂鬱世界では未だに現役であり、多種多彩に活用されているのである。

152: フォレストン :2017/05/31(水) 14:12:22
前述のとおり、パイクリートは英国で発明された物であるが、鉄筋コンクリートを節約するための代替品としての性格が強かった。英国でパイクリートを活用したのは、ホームガード(Home Guard:郷土防衛隊)と英国海軍であった。じつは陸軍もパイクリートを活用しているのであるが、ソ連からの逆輸入という形なので、この件に関しては後述する。

ホームガードで運用されたパイクリートは以下の通りである。

  • パイクリート・パイク
  • 携帯用シールド
  • 陣地構築ブロック
  • パイクリート装甲

パイクリート・パイクは、ホームガード・パイクのパイクリート版である。史実と同様に、チャーチルの書簡を文字通りに受け止めてしまった陸軍省はホームガード・パイクを開発し、これを配備しようとしたのであるが、1941年6月からはじまったドイツの英国本土侵攻は、貴重な鉄資源を使うのを躊躇させるものであった。

折しも、この時期にパイクリートの売り込みがあったため、これ幸いとパイクリート製に置き換える計画を立てた。しかし、ホームガード・パイクでさえ、各地のホームガードから適切な武器を要求する声が上がり、士気の低下と議会の追及を招いているのに、氷の槍で戦うとはもってのほかということで少数生産で終わっている。

携帯用シールドは、30m先からの小銃弾(7.92x57mmモーゼル弾)に抗甚することが可能であり、設置された射撃用のガンポート(銃眼)を使用することで、陣地で立射、もしくは地面に置いて伏射が可能であった。パイクリート製なため軽量に済む反面、至近距離からのライフル弾の直撃に耐える必要上、分厚く嵩張ってしまう難点があった。しかし、実用に問題の無い範囲であり、スペックだけを見れば非常に優秀な支援機材であった。しかし、携帯用シールドも後述の理由で少数生産に終わっている。

陣地構築ブロックは、その名の如く陣地構築のためのパイクリート製ブロックである。〇ゴブロックのようにハメ込み式であり、ハンマーで叩きこんで組み上げれば即席で陣地が構築出来るシロモノである。その気になれば、どこまでも高く分厚い壁を作ることが可能であったが、やはり後述の理由で少数生産に終わっている。

153: フォレストン :2017/05/31(水) 14:13:08
パイクリート装甲は、上述の陣地構築ブロックを車両に貼り付けただけのシロモノであるが、軽くて強度に優れるパイクリートによって耐弾性を維持しつつ、非力な民間車両を改造した即席装甲車でも機動力を損なわないと好評であった。

極端な例では、ソーニクロフト社製ターター6輪3t車を改造した移動トーチカがある。鉄資材を節約するためにコンクリートを装着して装甲にしたのであるが、あまりの重さに移動も満足に出来ない状態であった。これをパイクリート装甲に置き換えることで、名前負けしないだけの装甲と機動力を確保したのである。この車両は、バトル・オブ・ブリテン時にドイツの降下猟兵に対応するために空港に配備されていた。

軽量強靭で極めて安価なパイクリートであるが、ホームガードでは試験的に用いられるか、よくても少量生産されただけであった。その理由は以下の通りである。

  • 冷凍設備の不足。
  • 運用できる時期が限られる

パイクリートは氷であるため、作るには冷凍設備が必要である。しかし、英国内の冷凍倉庫は、そのほとんどが食糧備蓄のために使用されており、パイクリートを大量に作る余裕なんて無かったのである。結局のところ、冷凍倉庫の片隅で細々と作られることとなり、少数生産に終わってしまった。

パイクリートには、10月から4月までの運用制限があった。言うまでもなく、氷なので夏季には溶けてしまうおそれがあったためである。もっとも、巨大津波が原因と思われる異常気象と寒冷化のおかげで、実際のところは年中使えたのではあるが。

素手で扱いづらいというのも、パイクリートの難点の一つであった。扱うには手袋か持ち手部分に布を巻くなどする必要があるために現場の人間に嫌われたのである。

154: フォレストン :2017/05/31(水) 14:13:49
ホームガードとは違い、英国海軍では積極的にパイクリートを活用した。戦後の海軍では、ドイツの再度の侵攻に備えて上陸予想地点を封鎖することを計画していた。しかし、全ての海岸を機雷で封鎖することは不可能であった。仮に可能だとしても、敷設した機雷の処理が問題となるため、頭を悩ませていたのである。そこで注目したのがパイクリートである。

氷山障壁の名前で海軍に採用されたパイクリートは、小型な船舶がまともにぶつかると転覆しかねないほどの質量があり、これを大量にばら撒いておけば、上陸舟艇を沈めることも可能であった。最悪でも回避行動を強要することにより、揚陸作業を遅延させることを期待出来たのである。

氷山障壁は非常にローコストに数を揃えることが可能であったが、水際阻止作戦で活用するためには極めて短時間に大量敷設する必要があった。そこで海軍が目を付けたのが捕鯨母船であった。捕鯨母船は強力な冷凍設備を有しており、さらに船尾には鯨を引き上げるスリップウェーが装備されていた。つまり、海水とパルプを原料にして船内の冷凍設備でパイクリートを作って船尾から放り出せば良いのである。

後に行われたスカパフロー沖での実験では、ある程度の隻数があれば短時間で海岸の封鎖は可能という結論を海軍は出しており、有事の際に徴発出来る捕鯨母船のリストアップと、政府に働きかけて新規で建造される捕鯨母船に対して補助金を出して建造を奨励していた。当時の食糧難を解決するためもあって、戦後の英国では捕鯨が盛んになり、鯨料理が市民権を得ていくこととなるが、後に漁獲量の割り当てを巡って北欧諸国と摩擦が生じている。

155: フォレストン :2017/05/31(水) 14:15:08
捕鯨母船以外の敷設方法も研究された。捕鯨母船は非武装で足が遅いため、戦場で撃沈されるリスクが存在したからである。現実的な方法として以下の方法が提案され、英国海軍で実際に実験されている。

  • 駆逐艦による輸送
  • 海流に乗せて流す

駆逐艦による輸送は、一番確実な輸送手段であった。枢軸側のレーダー技術は、英国に後れを取っていたため、闇夜に紛れて甲板に載せた氷山障壁を投棄すればまず見つからなかった。難点としては、甲板に載せられる氷山障壁の量が少ないため、海岸を封鎖するには大量の駆逐艦が必要になる事である。

輸送量を増やすために、艀に搭載して曳航することも考えられたが、艀に乗せた氷山障壁を投棄するのには手間がかかった。艀に積み込むのにも手間がかり現実的ではなかった。普通ならこの時点で計画が放棄されそうなものであるが、ネバーギブアップなのが英国紳士である。艀から投棄するのが大変なら、艀そのものを氷山障壁で作って目的地に着いたら爆砕すれば良いじゃない!的なノリで実際にパイクリート製の艀を作ってしまったのである。

パイクリート製の艀は、少ない爆薬で綺麗な形状に爆砕されるように構造に工夫が凝らされていた。駆逐艦に数珠繋ぎに曳航されたパイクリート艀は、目的海域に到着すると遠隔操作で爆破され、周囲を氷山障壁で封鎖することに成功したのである。

完璧なように思えるパイクリート艀による氷山障壁の敷設であるが、いくら溶けにくいパイクリート製とはいえ、駆逐艦で長距離を曳航すると溶けてしまうことが多かった。そこで、比較的近い海域に展開した捕鯨母船でパイクリート艀を作り、駆逐艦で曳航する手法が最終的に採用されたのである。

砂浜に漂流物が流れ着くことを利用したのが、海流に乗せて流す方法である。しかし、狙った場所と時間に流すには、海水温度その他の海洋情報の取得が必須となる。そのため、後に海洋観測艦が就役して英国本国のみならず、英連邦の沿岸海域の調査が行われた。そのときに取られた海洋データは、機雷戦や潜水艦戦のために役立てられることになる。

156: フォレストン :2017/05/31(水) 14:15:58
パイクリートは、英国だけでなくソ連や北欧でも使用された。特にソ連では、本家の英国以上にパイクリートの活用と応用発展が進んでいったのである。

ソ連に初めてパイクリートがもたらされたのは、1943年である。ソ連に対する技術援助の一環で、カヴェナンター巡航戦車とセットで極秘裏にソ連へ送られた。英国としては、あまり出すものを出したくないので、欠陥巡航戦車とパイクリートでお茶を濁したかったのであるが、この二つは英国の想像を超えてソ連側から絶賛された。

欠陥巡航戦車こと、カヴェナンター巡航戦車であるが、この戦車は英国陸軍の要求であった『できる限り車高を低くすること』を達成するために、車高を抑えられる水平対向エンジンが搭載されていた。しかし、エンジンの搭載スペースに余裕が無かったため、後部に搭載されたエンジンに対して、ラジエーターと冷却用吸気口が車体前部に搭載されるという特異なレイアウトになっていた。このラジエーター配置のため、配管が車内を通る事になり、稼働中は車内温度が40℃を超す事態を招いてしまい、英国の戦車兵からは『エンジンより先に乗員がオーバーヒートする悪夢のメカニズム』とまで酷評されていた。さらに救いの無いことに、エンジン自体も冷却不足という爆弾を抱えていたのである。

英国では散々な評価であったカヴェナンターであるが、極寒の地であるソ連では全く問題にならなかった。サウナとまで言われた室内は、暖房付き戦車としてソ連の戦車兵に大人気であり、外気温の低さ故にエンジンの冷却不足も露見しなかった。低い車高は被発見率を低減し、その機動力と相まって偵察任務に大活躍したのである。

157: フォレストン :2017/05/31(水) 14:16:41
ソ連でパイクリートが爆発的に普及したのには、開発者であるジェフリー・ナサニエル・パイクと、その彼に付き合わされたロシア人の影響が大きい。パイクは、バトル・オブ・ブリテン後にDMWD(Department of Miscellaneous Weapons Development:多種兵器研究開発部)で働いていたのであるが、パイクリートの第一人者としてソ連へ極秘裏に派遣されていたのである。

史実のパイクは、アイデアが先行し過ぎる故に足元を見ない傾向が強く、そのことが非業の死に繋がったと思われる節が多分にある。憂鬱世界の彼もアイデアだけは豊富であったが、お世辞にも実用的なものとは言えなかった。しかし、質実剛健でリアリストなロシア人とタッグを組むことによって、パイクリートが異常に進化してしまったのである。

「こんなめんどくさいもんを付けろというのか!?」
「しょうがないだろう!こうでもしないとパイクリートを固定出来ないじゃないか!」
「直接貼り付ければいいだろう!」
「その手があったかぁぁぁぁ!?」

…こんな感じのやり取りが、以後もパイクとロシア人との間で繰り広げられることになるのである。

戦車用のパイクリート装甲にしても、パイクは戦車に取り付けるための実用性を無視した固定用の枠を考えていたのであるが、ロシアの戦車兵はシンプルに砲塔に貼り付けることを実行した。極寒の地であるので、パイクリートを砲塔に塗布して上からパイクリートブロックを押さえつければ、すぐに凍結して固着してしまうのである。数センチ程度の厚みでも銃弾ならストップ出来るパイクリートブロック装甲は、この時期のソ連戦車の砲塔だけでなく車体側面にもびっしり貼り付けられているのが、当時の写真で確認出来る。

158: フォレストン :2017/05/31(水) 14:18:01
パイクリート装甲は、タダ同然で作れるうえに簡単に取り付けることが可能であったが、着弾の衝撃で脱落しやすいのが難点であった。しかし、外れても簡単に付け直せるので1発のみ耐えられる装甲と考えれば問題にはならなかった。

銃弾程度なら比較的薄くても効果が期待出来るパイクリート装甲であったが、戦後に普及し始めた成形炸薬弾に対しては無力であった。そこで、厚みを増してスタンドオフを狂わせる手法が考案された。当初は、単純にパイクリート装甲を増圧したのであるが、装甲の隙間に成形炸薬弾が着弾すると脆いことが判明し、最終的に砲塔の上から被せる形になった。

最も生産されたT-44用の追加装甲では、正面は1m程度、左右は50cmほどの厚みがあり、これを砲塔の上から被せるとお椀型の形状となった。見た目からして砲塔が巨大化しており、とくに砲塔両側は車体からはみ出そうなくらいになっていた。追加装甲としては非常識なサイズであったが、パイクリートは水並みに軽いので数百kg程度の重量であった。上から被せるだけなので、クレーンなどなくても人手があれば問題無く装着出来た。

とんでもなく分厚いので、銃弾程度なら凹みすらつかず、砲弾でも小口径ならば余裕で食い止めるだけの強度があった。さすがに戦車砲弾相手だと割れるか砕けるかしたが、また装着すれば良いだけの話である。型さえあれば、いくらでも作れるのである。ちなみに、少々の割れ程度ならば、パイクリートを流し込めば外気温で凍結して簡単に補修出来た。

難点としては、砲塔の旋回に負担がかかることである。ソ連の戦車は、電動で砲塔を旋回させていたのであるが、旋回用モーターが非力なために増加装甲を装着すると、場合によっては1周旋回するのに3分ないし4分程度まで悪化した。これについては、モーターの出力を強化することで後に解決が図られることになる。

砲塔だけでなく、車体用の増加装甲も作られた。車体の上から被せる形状になっており、砲塔の旋回を阻害しない程度のスペースが確保されていた。特に左右のサイドスカート部分は分厚くなっており、左右で50cm程度の厚みがあった。当然、HEAT弾対策である。

追加装甲を全て装着すると、パイクリート製の戦車に見えるので、それを逆手にとったデコイも生産された。遠くから見たら判別不可能な程度の造形であり、さらに質の悪いことに金無垢ならぬ、パイクリート無垢な構造で、とんでもなく頑強なシロモノであった。増加装甲とは違い、重くて簡単に動かせないので、不要になった際の後始末に困るのが難点であった。型さえあれば簡単に作れるので、現場の判断で大量に作られることになり、ドイツ軍を混乱させることになる。

159: フォレストン :2017/05/31(水) 14:18:43
英国で開発されたパイクリート製の陣地構築用ブロックは、ソ連でも大量に使用された。コンクリートと比べて、タダ同然で作れて、施工も早いとくれば使わない手は無かった。PAKフロントを構築するための資材として膨大な量が使用されたのである。

なお、陣地構築用ブロックの強度に半信半疑だったソ連陸軍では、実際の強度を確認するために戦車砲をパイクリート壁に撃ち込む試験を行っているのであるが、遠距離からの射撃ではビクともしなかった。さすがに近距離から撃ち込まれれば大破孔を生じるが、パイクリートを流し込めば外気温ですぐに凍結して強度的に問題は無かった。この試験結果に驚喜したのは言うまでもない。

元より、ロシア民族は要塞建築に秀でた民族である。そんな彼らが、資材を気にせずに本気で要塞を作るとどうなるか。考えるだに恐ろしい悪夢である。パイクリートというチート素材がソ連にもたらされたことにより、PAKフロントや要塞が飛躍的に強化されていったのである。

英国では、ただブロックを組むだけであったが、更に上から凍結していないパイクリートをぶっかけるのが、ソ連式である。ブロックを多重に組んで、上からパイクリートをぶっかけて凍結させれば、一体化して分厚く強度に優れた壁が簡単に作れるのである。

パイクリートブロックの供給さえ間に合えば、あとはお得意の人海戦術でブロックを組むことが出来た。PAKフロントで数メートル、要塞クラスともなると10m厚のパイクリート壁となり、戦車砲どころか艦砲射撃にすら対応していたのである。

160: フォレストン :2017/05/31(水) 14:19:48
ソ連に派遣されていた英国の陸軍武官によって、この状況を把握した英軍では、パイクリートを再評価し、本土防衛計画に組み込んだ。ただ、英国がソ連流を全て取り込んだというわけではなく、英国面も加味されてはいたが。

ソ連では、その極寒故にパイクリートは一度作れば半永久的に使用可能であったが、英国では不可能であった。それを逆手に取って、一時的な使用に用途を限定したのである。一時的に封鎖し、事が終われば簡単に排除出来る点でパイクリートは英国陸軍に評価されたのである。

前述しているが、英国でパイクリートを通年で使用するのは不可能であった。簡単に溶けないにしても、やがては溶けてしまう。この問題を解決するために、冷却パイプを張巡らせて冷却するアイデアが実用化されたのである。

英国陸軍が実用化したパイクリート壁は、内部に麻製のホースが張巡らされており、その内部を0℃以下に冷やされた不凍液が循環していた。パイクリートを維持するために動力が必要なのが難点であったが、英国でもオールシーズンでパイクリートの運用が可能になったのである。

英国の海岸は切り立った断崖が多く、上陸出来るルートは限られていた。そこを一時的にパイクリート壁で封鎖出来れば、上陸作戦において有力な阻害手段に成り得るのである。そのため、上陸予想地点の海岸に、巨大なパイクリート壁を作る計画が立てられたのである。

計画では、壁の高さは20m、厚さも10mはあり、戦車砲程度では簡単に破壊出来なかった。弱点は、背後に設置された循環ポンプであるが、何らかの手段で破壊されたとしても簡単には溶けないため、数日は足止めが可能と試算されていた。チャーチルラインの一角を形成する対戦車陣地にも用いられ、基礎部分の一部を除いて数m厚のパイクリート壁で構成されていた。

ちなみに、パイクリート壁の構築には、コンクリート養生のノウハウが転用されており、機材もミキサー車やコンクリートポンプ車がそのまま使用されていた。そのため、有事の際には英国のセメント業者は陸軍の指揮下に入ることになっていた。

パイクリート壁を作る際には、生コン打設と同じく型枠を作ってパイクリートを流し込む。生コンとの違いは、型枠の中に冷却パイプを入れるくらいである。ある程度のパイクリートを型枠に流し込み、凍結を確認したらさらに上からパイクリートを流しこんで凍結。これを繰り返して巨大なパイクリート壁を作っていき、上まで行きついたら型枠を撤去して、さらに上からパイクリートをぶっかけて凍結させるのであるが、液体窒素を吹き付けることで急速冷凍することにより、施工期間を短縮することも可能であった。

161: フォレストン :2017/05/31(水) 14:20:37
元は軍用目的で開発されたパイクリートであるが、ソ連では民間でも広く使用された。軍から横流しされたと思われるパイクリートで作られた家を目撃したパイクが、住宅建築用に最適化されたパイクリートブロックを考案したのである。

パーツの形状を必要最低限にしつつ、アイデア次第でどんな家でも作れるのが特長であり、その気になれば2階建ての建築も可能であった。なお、実際の住み心地であるが、普通の家と遜色無かったようである。建築する家の規模にもよるが、その気になれば一日で組み上げることも可能であり、ドイツとの激戦で壊滅した旧スターリングラード(現ヴォルゴグラード)には、雨後の筍のごとくパイクリートハウスが建設された。これらは、都市の再開発計画により、順次取り壊されていったのであるが、半世紀以上経った現在でも現存している。

パイクリートハウスのノウハウは、英国を経由してカナダにも伝わった。居住性の高いパイクリートハウスは、イヌイット達に歓迎されたのである。

一年の内のほとんどを、雪と氷に閉ざされたツンドラ地帯で生活するイヌイット達の、暮らしの知恵から生み出された住居形態が、イグルーである。雪や氷はふんだんにあるため、どこでも作ることができ、移動しながらの生活が容易な利点があったが、湿度が高く長期居住には適さない欠点もあった。そのため、圧雪ブロックのイグルーでの居住は一時的なものであり、放棄されたイグルーをのちに通りかかった別人が流用するというケースもあった。

イグルーとは違い、パイクリートハウスは長期居住も問題無かった。さすがにイグルーほど簡単に建設出来なかったが、イグルーに居住しつつ、少しずつパーツを組んで完成させて移住するというケースが戦後になってから一般化していくのである。

イヌイット達の作るパイクリートハウスは、基本的に小さくシンプルなものが多かったが、少しずつ増設していった結果、一般的な家屋と遜色無い広さにまで拡張されたケースもある。そういった家屋には、一時的ではなく恒常的に居住することが多かった。このことがイヌイットの定住化を促進させることになり、カナダ政府の方針と相まって、急速にイヌイットが定住化していくことになる。

イヌイット定住化により、戸籍が作りやすくなり、税金の徴収がしやすくなるメリットがあった。言うなれば、イヌイットのカナダ人化である。イヌイットを国民として扱うことで、イヌイット居住地域の領有権を確定したのである。税収も上がり、領土も広がるわけで、カナダ政府としては一石二鳥であった。

162: フォレストン :2017/05/31(水) 14:21:17
北欧諸国でもパイクリートは活用された。当時、日本の黙認下で極秘裏に進められていた英国とソ連の交流は、中立の立場である北欧諸国を介して行われていた。英国から技術と人材が、ソ連側からは主に資源が北欧を経由して渡っていったのである。

北欧は、さながらシルクロードの中継地点といったところであり、特にフィンランドには多くの英国人とソ連人が滞在していた。彼らがパイクリートブロックを北欧に持ち込んだ結果、北欧でも独自の進化を遂げたのである。

北欧諸国におけるパイクリートの活用であるが、戦車の増加装甲に使用された点はソ連と同じであるが、パイクリートの板をボルト止めしているのが特徴である。そのため、当時の北欧諸国の戦車にはボルト留め用のネジ穴を確認することが出来る。複合装甲が実用化されると戦車用の増加装甲としては廃れていくのであるが、装甲車や輸送トラックなどのソフトスキン向けには現在でも現役である。

北欧諸国の軍備は日本の強い影響下のため、パイクリートは軍用としてはあまり普及しなかった。例外として、フィンランドのマンネルヘイム線がある。戦後になってから大幅に強化されたマンネルヘイム線には、塹壕や地形を使った障害物に加えて、パイクリートで構築された対戦車陣地が多重に張り巡らされている。ここを守るのは、メイドインジャパンな装備に身を包み、日本陸軍の冬戦教(冬季戦技教育団)とも演習を繰り返している精鋭たちである。史実では、『重武装したマンネルハイム線』という伝説が流布していたが、この世界では比喩でなく火力と防御力で敵を圧殺する必殺の要塞線と化していたのである。

163: フォレストン :2017/05/31(水) 14:22:12
軍用では振るわなかったものの、民間では活用されるケースが多かった。一例を挙げると、エアドームにパイクリートを吹き付けて凍らせてパイクリートドームを作り、イベントやその他様々な用途に使用されている。その他にも強度があるので雪像の土台に使用されたりしている。

特に、スウェーデンでは鉄の代替品としてパイクリート船が本格的に研究された。パイクリート船は強度的に問題は無いのであるが、航行すると海水との摩擦熱で溶けるのが早くなることが既に判明していた。恒常的に使用するためには、この問題を解決する必要があった。

長年の研究の結果、冷却パイプをそのものを構造材にして、パイクリートを吹き付けて凍結させる方法が開発された。技術的には英国のパイクリート壁の同類であり、船体を維持するために動力が必要という難点が存在したが、厳冬期ならば動力を切っても問題は無かった。

船体が破損しても、エンジンさえ動いていれば、パイクリートを流し込むことで簡単に補修が可能であり、銃撃に対して驚異的な抗堪性があった。長年の研究の結果、技術的には完成したものの、経済性の問題で現在に至るまで大々的には採用されてはいない。しかし、運航コスト次第では陽の目を見る可能性があるという。

パイクリートだけでなく、北欧諸国に英国とソ連から持ち込まれた物や概念は多かった。そのため、当時の北欧は良くも悪くも英国とソ連の影響を受けていたのである。日本が北欧、特にフィンランドに梃入れをしたのは、戦前からの数少ない友好国であることに加え、英国面とソ連面(特に英国面)に染まるのを防ぐことが目的だったと言われているが、真相は闇の中である。

164: フォレストン :2017/05/31(水) 14:22:58
パイクリートをソ連に布教したジェフリー・ナサニエル・パイクであるが、その多大なる功績によりソ連では英雄の如く扱いであった。ソ連上層部からの覚えもめでたく、モスクワ大学の名誉博士号まで授与されてご満悦であった。調子に乗ってしまった彼は、パイクリート工学なる怪しげな学問も開発してしまったのである。

パイクリート工学は、水とパルプの比率や、パルプ繊維の長さや形状からくるパイクリートの強度や施工時間に関する学問であり、ソ連が崩壊した現在でも研究が続けられている学問である。水を浸した新聞紙を建材に貼り付けて凍結させることにより防弾性を獲得したり、水に浸したトイレットペーパーを重ねて凍結させることで刃物を作るのも、パイクリート工学の研究の最中に得られた知見である。

パイクリート工学の第一人者として、モスクワ大学の教授の座を手に入れたパイクは、そのままソ連に帰化して思う存分に研究に没頭した。彼の巧妙かつ型破りな発明の数々は、実現が困難なものばかりであったが、リアリストなロシア人の助言かつ修正(物理)によって、『地に足のついた英国面』として恐れられることになるのである。

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最終更新:2017年09月10日 16:35