134: フォレストン :2017/04/02(日) 23:26:19
ガソリンの一滴は血の一滴
石油は文明において必要不可欠である。石油が無ければ車は動かせないし、電気も作れない。サンタモニカ会談後、世界は日英独の三ヶ国によって統治されることになったのであるが、勢力を維持発展させるには当然ながら石油の確保が至上命題であった。そのため、各陣営では石油を確保するのに血眼になっていくのである。
もっとも恵まれているであろう日本の場合、勢力圏内に需要を満たせるだけの出来るだけの油田が多数存在し、さらには中東諸国からの石油の輸入が可能になっていた。英国とドイツからすれば垂涎ものであるが、
夢幻会ではこれでもまだ足りないと考えており、さらなる油田開発を推し進めていた。
3つの陣営のなかで最も石油を欲していたのはドイツである。ドイツ本国では石炭は取れても石油は取れなかった。そのため、第2次大戦中は石炭を材料にした軍用燃料エアザッツを大量生産したのであるが、これは採算度外視であり、作れば作るほど赤字になるシロモノであった。無理をしてまでバクー油田に拘り、旧北米でも真っ先にテキサスの油田を確保したのは偏に石油確保のためであった。
英国は世界初の産業革命を成し遂げた国家であるが故に、国内に良質の石炭が大量に算出するが故に、鉄道や船舶、発電所などのインフラは石炭頼りであった。そのため、ドイツほど石油に飢えていたわけではなかったが、さすがにインフラの老朽化が激しく、動力近代化が必須であった。設備更新によって作られたインフラは当然石油専用であり、石油消費量は増大の一途であった。英国は、この時点ではあまり憂慮していなかった。勢力圏内の中東諸国から安定的に石油を輸入出来たからである。
しかし、中東が日英独の対立の場と化すと話は別である。幸いにして、日本は中東を日英独ではなく資本主義と共産主義の対決の場にしようと持ち掛け、ドイツとも交渉してくれたが、一歩間違えば中東諸国で戦争が起きる可能性もあるのである。石油の輸入を中東に頼り切ることは危険であった。
135: フォレストン :2017/04/02(日) 23:28:07
英国が石油を確保するために、手始めに行ったことはブリティッシュコロンビアの油田開発であった。旧ルイジアナ州沖には、旧北米の石油会社により海上石油プラットフォームが建設されており、それを接収して油田開発を継続したのである。開発が進み、産出量も順調に増えていったのであるが、そうなると黙ってられないのがテキサス共和国である。英国側に対抗するように海底油田の開発をはじめたのである。
『ここはブリティッシュコロンビアの領域だ。直ちに退去せよ!』
『うるさい、日本に尻尾を振る白人の裏切り者め!』
『警告に従わない場合は実力で排除する!』
海底油田の開発が進んでいくにつれて、海上では両陣営の衝突が頻繁に起きるようになった。テキサス共和国とブリティッシュコロンビアの国境は、旧州境であるサビーン川が適用されていたのであるが、領海は明確に定められていなかった。そのため、石油の争奪で互いの海上警備隊が激しい衝突を繰り返したのである。銃撃戦に発展することも日常茶飯事であり、お互いにヒートアップしていったのである。
「…本当にやるんですか?」
「なんだよ、怖気づいたのか?」
「そういうわけじゃないですが…」
「こんなのはビビらせたほうが勝ちなんだよ。戦艦を持ち出せば奴らは尻尾を巻いて逃げ出すさ」
ジェファーソン・デイヴィス型戦艦(旧ニューメキシコ型)2番艦『フランクリン・ブキャナン』の艦橋では、艦長と航海長が密談を交わしていた。テキサス海軍の象徴とも言える同戦艦であるが、1番艦のジェファーソン・デイヴィス以外は事実上の置物と化していた。人員も保守点検に最低限必要な人間のみであり、辛うじて動かすことが出来る程度なのであるが、それを利用しようと思いついたのが、フランクリン・ブキャナンの艦長であった。
フランクリン・ブキャナンの艦長は、間違いなく有能であった。テキサス海軍上層部に全く気取られることなく同志を集め、必要な物資をかき集めたのだから。ただ、不幸なことに彼は自らが行おうとしていることが、どのような事態を引き起こすのかを全く考慮していなかった。
彼は純粋な海軍士官ではなく、海軍予備員上がりであった。元々は民間船の船長であり、慢性的な人材不足に苦しむテキサス海軍が艦長に抜擢したのである。船乗りとしての腕は抜群ながら、典型的なテキサス人であり、悪く言えば脳筋であった。今回の件も英国をちょっと驚かす程度にしか考えていなかったのである。
結果的にフランクリン・ブキャナンの出撃は阻止された。その理由はお粗末そのものであり、前日に酒場で決起集会を盛大にやってしまった結果、計画が漏えいしてしまったのである。とはいえ、テキサス海軍が海兵隊を艦内に突入させたときには、気醸と暖気暖管、さらにタービンの試運転まで完了しており、いつでも出港出来る状態であった。タイミング的にはまさに間一髪であった。
テキサス海軍上層部は、この不始末を隠蔽しようとしたのであるが、戦艦1隻を巻き込んだ騒ぎを無かったことに出来るわけもなく、首謀者とその関係者、さらにテキサス海軍の高官が責任を取らされることになる。
136: フォレストン :2017/04/02(日) 23:29:42
中東からの依存脱却を目指して開発を進めたブリティッシュコロンビアの海底油田であるが、テキサス共和国に隣接する以上、安定供給を続けられるか不安視された。そのため、日本からの輸入が試みられたのであるが、価格と供給量の点で交渉は難航していた。とはいえ、日本の勢力圏内にある油田は現状では石油は余り気味であり、最終的に交渉は成立したのである。しかし、問題が無いわけではなかった。
日本からの石油を輸入するのに問題となるのは、航路であった。スエズ運河を手放した以上、喜望峰周りの航路を取らざるを得ないのであるが、距離的に数千キロものロスがあるために輸送費が馬鹿にならなかった。ロイズが保険の料率を大幅に引き上げた大西洋を航行する必要があるのでなおさらである。そこで検討されたのが北極海航路である。
北極海航路は、その名の如く北極海を利用する航路である。シベリア沖を航行してベーリング海峡から太平洋に至るルートであり、スエズ運河を経由するよりも距離が短くてすむ利点があった。
北極海を航行するのには相当な困難が伴うのであるが、建国当初のソ連は世界中から孤立しており、北極海航路を利用せざるを得なかった。そのため、必死に航路を開拓して北極海航路を開通させていたのである。とはいえ、大祖国戦争が勃発すると維持する余裕は無くなって放置されていたのであるが。
航路沿岸の港湾のうち、コラ半島のムルマンスク、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキー、日本海側のウラジオストクやナホトカなどは年中凍らない不凍港であり、緊急時の退避場所として、あるいは物流の中継地点としての活用が考えられた。もちろん、これらの港の利用には事前交渉が不可欠ではあったが、北極海航路の復活はソ連にとっても旨みのある話だったので、極秘裏に交渉が進められたのである。
採算ベースに乗せるためには、年間を通して航行する必要があった。そのためには砕氷能力のある船が望ましかった。砕氷船に船団を引率させることで輸送効率を上げようというのである。しかし、当時の英国は本格的な砕氷船を有しておらず、建造ノウハウも不足していた。一方でソ連側は、北極海航路を維持するために大量の砕氷船を運用していた。そのため、英国はソ連に砕氷船の設計を依頼したのである。
ソ連が設計した砕氷船(97P型砕氷艦相当)は、英国とソ連の造船所で建造されて北極海航路に投入された。少なくても5、6隻は建造されているのであるが、極秘に建造されていたために総数ははっきりしていない。ただ、はっきりしているのは、そのうちの1隻が、後の国際観測年の一環で行われた南極観測で英国の調査船として用いられたことだけである。
137: フォレストン :2017/04/02(日) 23:31:19
北極海航路を利用した日本からの石油輸入は、結局のところ満足な成果を出すことが出来なかった。最大の問題は、年間を通した安全な通行が難しかったことである。砕氷船を用いて航路を確保するのにも限度があったのである。
特に冬季は、巨大津波後の異常気象による寒さで完全に封鎖されることが多々あり、たとえ航行出来ても万が一タンカーが流氷で損傷するなり沈没したりするようなことがあれば、海洋汚染は避けられなかった。かといって、その努力が全く無意味というわけではなかった。
北極海航路沿岸の港は、モスクワから遠すぎた。大祖国戦争のころはまだしも、現状半ば以上崩壊しているソ連は、北極海航路の利用が見込めないと知るとさっさと手を引いてしまったのである。ウラジオストクやナホトカは日本海沿岸という地理的特性ゆえに、日本への資源輸出の拠点となり得たが、ムルマンスクやペトロパブロフスク・カムチャツキーは、漁業ぐらいしか産業が無いのである。北極圏航路の利用が無ければ、いずれ立ち枯れてしまうのは明白であった。
そこに目を付けたのが、転んでもタダでは起きない英国である。北極海航路の航行は確かに難しかったが、最大の難所であるベーリング海峡を突破して太平洋に出ることを諦めれば、その途中にある各港への航路は比較的容易であった。
紳士の国の提案は、両都市と独自に貿易することであった。自分達に施しもせず物資や資源を西部に送るだけのモスクワに対する忠誠心なんぞ既に存在しないので、英国の提案を快諾した。かくして、英国は北極海沿岸に拠点を持つことに成功したのである。
138: フォレストン :2017/04/02(日) 23:32:43
ソ連とではなく、ムルマンスクとペトロパブロフスク・カムチャツキー両都市との独自貿易であるが、ルーブルの価値が暴落しているのでバーター取引で行われた。英国からは生活必需品や機械部品を、帰りは水産物や缶詰などの加工品を積んでいたのである。
貿易規模は年々大きくなっていったのであるが、両都市の政治機構は完全に買収されていたので、モスクワへの報告は全て握りつぶされて発覚することは無かった。市民からすれば、英国との貿易は生きるために必須であり、わざわざ遠いモスクワにまで言上する物好きはいなかった。
モスクワからしてみれば、北極海航路の使えない港湾都市など現状ではただの辺境であり、日本との貿易に腐心していたために気付けなかったのである。国防上の大問題でもあるのだが、そんなことを考えている余裕が無いくらいにソ連は追い詰められていたのである。
日本が東西の経済格差でソ連崩壊を画策する一方、英国は現状を憂慮する『良識あるロシア人』に国家の統一を維持したまま現状を打破する方法を吹き込んでいた。しかし、英国側の計画が失敗して東西で分裂した場合に備えた工作も進めており、北極海航路沿岸都市の拠点化はその一つであった。これらの都市は、ソ連崩壊後に英国主導で都市国家として独立させるつもりであったが、最悪でも英国の影響力を維持出来れば問題無かった。どちらに転ぶにせよ、将来的に北極海航路が値千金の価値を見出すことになることを、円卓の面々は確信していたのである。
139: フォレストン :2017/04/02(日) 23:33:54
輸入に頼るだけではなく有事の際に備えて、国内で自給出来る石炭から石油を作ることも試みられた。これには、炭鉱労働者の雇用を確保するため意味合いも含まれていた。鉱山を一度廃鉱にしてしまうと、再開には多大な時間が必要になるからである。もちろん、炭坑の労働組合の圧力もあった。
代替燃料を作るくらいなら、旧来の石炭で稼働するインフラを保全して有事に備えるべきとの意見もあったのであるが、効率の悪さから却下された。特にウェールズ炭は、燃焼カロリーが非常に高いのであるが、着火が難しいので石油インフラに慣れた人間からは敬遠されがちだったのである。
石炭を液化する手段はいくつか存在するが、英国で採用されたのは低温乾留法による石炭液化であった。低温乾留法は、製鉄に用いるコークス製造より低い温度で熱することにより、揮発性物質と不揮発性物質に分ける方法であり、低温で乾留するほうがタール分の収集量が多くなる特長があった。
低温乾留法によって得られた低乾タールは水素添加法の原料になると共に、低乾タールをさらに蒸留することで揮発油、ディーゼル油、パラフィン、ピッチ、タールコークスの製造が可能であった。低温乾留法は、工業化が他の手法と比較して最も容易であったが、石油収得率は石油の2割未満に過ぎず、採算ベースに乗せるのは無理があった。石炭液化は、あくまでも緊急用であるので端から採算は無視されていたが、コストを下げられるならそれに越したことはなかった。そこで、日本から技術導入を図ることになったのである。
140: フォレストン :2017/04/02(日) 23:35:12
日本も英国と同じく島国であり、海上封鎖されたときにエネルギーを自給するべく石炭液化が研究されていた。日米戦が早期に集結してしまったために、陽の目を見ることが無かったのであるが、研究そのものは逆行者たちの奮闘によりかなりのレベルまで進んでいたのである。
日本側から提供された石炭液化技術は、史実のフィッシャー・トロプシュ法(以下FT法)の改良版であった。FT法は効率は優れているのであるが、反応にコバルト系触媒を必要とした。コバルトはレアメタルの一種であり、コストを押し上げる原因となった。しかし、日本では独自の研究の結果、より安価で反応が強い鉄系の触媒を開発することに成功しており、これが英国に提供されたのである。もちろん、無償では無かったが。
FT法を採用した石炭液化のテストプラントは問題無く稼働し、技術的に問題無いことが実証されたのであるが、現状では安価に石油を輸入出来るために、より大規模な製造施設は設計のみで実際に建造されることは無かった。しかし、時を経て南アフリカ連邦にて大規模な石炭液化プラントが建設されることになった際に、過去の図面が参考にされることになるのである。
このように、英国は四方八方手を尽くして石油の安定供給を試みたのであるが、どれも決定打に欠けるものであった。しかし、思いもよらないことで思いもよらない場所から石油を入手することになるのである。
141: フォレストン :2017/04/02(日) 23:36:30
1945年8月。
ロンドン中心部から南へ50キロほど離れた場所にあるガトウィック空港周辺を封鎖して超重爆弾グランドスラムのテストが行われようとしていた。
ガトウィックの名は19世紀までこの地にあった荘園の名前に由来するもので、13世紀半ばまでその歴史を遡ることができる。1890年に荘園は競馬場に作り変えられ、第一次世界大戦中にはグランドナショナルを数回実施された場所でもある。空港周辺は田園地帯と競馬場があるのみで、機密保持が容易であることからが今回のテスト場所に選ばれたのである。
トールボーイの拡大版であるグランドスラムは開発は完了していたものの、テストは未だ行われていなかった。計画では1942年末にテストする予定だったのであるが、ドイツとの停戦が実現したために無期限延期されていたのである。
今回、急きょテストすることになったのは、先月の日本政府の発表によって存在が明らかになったY型戦艦に対抗するためのデータ取得のためであった。トールボーイの実験結果から、威力はある程度算出出来るのであるが、実際やってみないと分からないことも多々あるのである。
今回の実験はDMWD(Department of Miscellaneous Weapons Development:多種兵器研究開発部)の要請によって実施されており、開発者のバーンズ・ウォリス卿やその他の研究員がデータ取りのために配置についていた。さらに上空には空撮のための偵察機が待機しており、彼らは実験の瞬間を今か今かと待ち構えていたのである。
142: フォレストン :2017/04/02(日) 23:37:48
やがて、ガトウィック空港から飛び立ったのは、アブロ ランカスター B.1スペシャルであった。この機体は、グランドスラムを運用するために改造された機体であり、ベースとなったランカスターと比べると、前部及び後部の各動力機銃座並びに爆弾倉の扉を撤去する改造を施されていた。なお、爆弾扉まで撤去されたのは、大きすぎて収納しきらないからである。ランカスターの長大な爆弾庫に収まりきらないくらいグランドスラムは巨大な爆弾なのである。
そんな超重爆弾のターゲットであるが、畑のど真ん中にドラム缶で篝火が焚かれており、そのドラム缶の下に巨大な鋼の塊が置かれていた。篝火は上空からの視認用であり、鋼の塊は縦横数m程の大きさの甲板鋼板を2枚重ねにしたものであった。
鋼板はネルソン型戦艦の甲板装甲であった。日本側の発表を信じるのならば、Y型戦艦は18インチ砲の直撃に耐えうる防御を施されているとのことであるが、英国海軍ではそれ以上の防御が施されている可能性が高いと考えていた。
仮に16インチ砲を3連装4基12門積んだとしても、中速戦艦ならば基準排水量で6万tがせいぜいである。しかし、Y型戦艦は基準排水量85000tである。たとえ、18インチ砲対応防御を施されているとしても、重すぎるとの判断からであった。実際のところ、Y型戦艦は高速発揮のために全長が長くとられており、そこに対18インチ砲防御装甲と多重のダメコン、さらにミサイル防御にも対応したためにあれだけの排水量となったのであるが、そのことを英国が掴むのは後になってからのことである。
現時点でY型戦艦の真のスペックを知る由も無い英国海軍は、ネルソン型の甲板装甲を2枚まとめて撃ち抜くだけの破壊力が無いと致命傷を負わせるのは難しいと判断していた。どのみちネルソン型はスクラップにするのであるから、再利用出来るならばそれに越したことは無いのである。
「…高度22000フィートです!」
「よし、爆撃手。準備はどうだ?」
「いつでもOKです!」
22000フィート(約6700m)まで上昇したB.1スペシャルは高度を維持。爆撃手は遥か眼下のターゲットに狙いを定めていた。
「進路よし、距離…3、2、1、投下!」
爆撃手がボタンを押すと、新型爆弾が機体から投下された。10トンもの重量物が機体から離れることにより機体がバランスを崩してして失速しそうになるのを機長が必死に押さえつける。
143: フォレストン :2017/04/02(日) 23:39:02
投下されたグランドスラムは、弾体後部のフィンによってライフルのように回転しながら、あっという間に音速を突破して地表に到達。風に流されたのか、ターゲットからわずかに逸れてしまい、直撃こそしなかったものの、地面の抵抗をものともせずに地下30mまで到達して炸裂した。
地下で炸裂したグランドスラムは、局所的な地殻変動を誘発させた。その結果、地表では建物が倒壊する程の激しい揺れが生じ、地下では未だ発見されずに眠っていたものを目覚めさせたのである。
「おい、皆無事か?!」
「なんとか。それにしても屋外で良かったです。建物の中にいたら危なかったですよ」
「まったくだ。想定はしていたが、ここまで揺れるとはなぁ…」
地下で炸裂したグランドスラムは、人が立ってられないほどの揺れを発生させて周辺の建物を倒壊させた。年中、災害に襲われているといっても過言ではない極東のチート島国とは違って、英国には地震も台風も存在しないのである。引き起こされた局所的な震災レベルの揺れに耐えられるはずもなかった。幸い、DMWDの研究員たちは外で観測をしていたので、人的な被害は無かったのではあるが。
「…ところで、あれは何だと思う?」
「何だって言われても…どう見てもあれは…」
「「あれだよなぁ…」」
ようやく起き上がった研究員たちが目にした光景は、数十メートルもの巨大クレーターの中心から豪快に噴き出す黒くて刺激臭のする液体であった。
144: フォレストン :2017/04/02(日) 23:40:05
「この報告は事実なのか!?」
「信じられませんが事実のようです。現地では、かのブラック・ジャイアントのごとく石油が噴出しているとか…」
「神はまだこの国を見捨ててはいなかったか…!」
「何は無くとも詳細な調査が必要だろう。現状はどうなっている?」
「現在、専門家を現地に派遣しています。詳細はもうしばらくお待ちください」
グランドスラムの投下実験から数時間後。円卓が緊急招集されていた。最初は何事かと訝しんでいた円卓のメンバーも、事の次第を知ると驚喜したのである。
「…この情報が外部に漏れる可能性は?」
「投下実験前に該当区域は軍によって完全に封鎖、住民も退去させているのでまず漏れることは無いかと」
「とりあえずは一安心、といったところですな」
「そうだな。油田発見がフェイクであれば、そのまま隠蔽すれば問題無い。で、あるならば…」
「この油田が本物であると仮定して、今後の対応を話し合う必要がありますな」
「うむ、そのために集まってもらったのだ。大いに意見を出してもらいたい」
円卓のメンバーが最初に心配したことは、油田の発見の真偽よりも情報が独り歩きすることであった。油田の発見は朗報ではあるが、実態が判明していない状態で無責任に噂が広まっては、いかなる事態が引き起こされるか分かったものではないのである。
145: フォレストン :2017/04/02(日) 23:41:10
「埋蔵量は1000億バレルと試算される…か」
「現時点で採掘出来るのは10億バレル程度ですが、今後増える公算が高いとのことです」
「10億バレルでも巨大油田クラスだというのに、さらに増えるというのか。まさに神の恩寵だな…」
グランドスラム投下実験から1週間後。調査隊からの報告を受けた円卓の面々は唸っていた。判明した油田の規模は想像以上だったのである。
一般的な油田規模の目安として、埋蔵量5000万バレル以上を大油田、5億バレル以上を巨大油田、50億バレル以上を超巨大油田と呼んでいるのであるが、ガトウィック油田(仮称)は埋蔵量だけならば超巨大油田であった。
埋蔵量はあくまでも試算あり、条件によって増減するものである。また、埋蔵されている全ての石油を採掘出来るとも限らない。1000億バレルの埋蔵量はあくまでも試算であり、10億バレルという数字は、現時点で確実に採掘出来る現実的な数字であった。それだけでも破格であるし、今後増える可能性も高いとあれば、英国のエネルギー政策を根本的に変えかねないシロモノである。その扱いには慎重を期す必要があった。
「…ところで、この油田の扱いですが」
「やはり公表すべきであろう。フェイクでないのは判明したことであるし」
「どのみち、隠蔽するのは限界です。マスコミからの問い合わせも殺到しています」
「問い合わせどころか、現地にはそれらしき人間が侵入を試みようとしています。無論、全て叩きだしていますが」
「マスコミ共にすっぱ抜かれるよりも、こちらから発表したほうが良いと思われます」
「大々的に発表すれば、国民の意気も上がりますし、浮ついた連邦諸国も落ち着くでしょう」
円卓の判断は、油田の存在を世間に公表することで一致していた。あれだけの規模の油田を物理的に隠し通すのは不可能である。それならば、大々的に公開したほうがメリットが大きいと判断したのである。
146: フォレストン :2017/04/02(日) 23:42:24
1945年8月下旬。
英国南部に巨大油田が発見されたとの報が世界中に発信され、各国から驚きを持って迎えられた。なお、日本にだけは先んじて伝えており、表向きの反応は平穏であった。もっとも、日本の真の黒幕である夢幻会の反応はそれどころではなく、控えめに言っても混乱していたが。
ガトウィックは、史実の2015年に大規模な油田が発見された地である。しかし、逆行者たちの大半は20世紀末か21世紀初頭からの逆行であり、この油田の存在を知っている人間がいなかったのである。このことが、夢幻会の動きを、ひいては日本側の行動を慎重にさせてしまい、方々から疑惑の目を向けられることになる。
ガトウィック油田の発見により、英国は産油国となった。油田の開発には金がかかるものであるが、日本との共同開発にすることで、これを解決した。日本の企業を参加させたのは市場の開放の名目だけではなく、安全保障も兼ねているのは言うまでもないことである。
英国産の原油は、国内のエネルギー事情を好転させただけでなく、北欧や連邦諸国に輸出されて莫大な利益をもたらした。その利益はインド失陥を補って余りあるものであった。さらに、日本への輸出も検討され、北極海航路が再度脚光を浴びることになったが、最終的に実現したのはソ連崩壊後のことである。
日本は北極海航路を通年で使用するために、原子力砕氷船『むつ』を建造し、ムルマンスク、ペトロパブロフスク・カムチャツキー、釧路、ウラジオストク、ナホトカが北極海航路沿岸の港として発展していくことになる。
最終更新:2017年09月10日 16:44